秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「とどまらないイエスの孤独な祈り」 ルカによる福音書22章39~46節

2023-06-11

 弟子たちとの最後の食事を終えた夜が更けたころ、イエスと弟子たちが「いつものように、いつも行かれるオリーブ山」に行かれたと言うのです。 「これがあなたがたのために与えられるわたしのからだである。 これはあなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約である。」と言われて、これから起こる十字架の出来事を語られた直後です。 同時に、「12弟子の中のユダもペトロもこれからご自身を裏切ることになる。」とまで預言された直後での「イエスの祈りの姿」です。 イエスがいつものオリーブ山で父なる神に最後の祈りをささげる前に、ついてきた弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい。」と言われたのです。 そしてご自身は、「石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいて、『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。 しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。』」と祈られたのです。 このイエスの祈りの姿と祈りの言葉をマタイやマルコではもっと赤裸々に、「わたしは死ぬばかりに悲しい。 できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 この杯を、わたしから取りのけてください。」と、神の前にひとり立たされて泣かざるを得ない人間を代表しているかのように弱々しく祈る姿を映し出すのです。 そのイエスの祈りの姿を憚ることなく弟子たちに見せ、その祈りの言葉を弟子たちに聞かせているかのように描くのです。 「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」と弟子たちに語るぐらい、この世の霊はあなたがたをイエスご自身に対する不信と絶望へと引きずり込もうとしている。 祈りによって神の霊が働き、神との交わりが保たれなければ、この世の霊との戦いに敗れてしまう。 だから、「誘惑に陥らないように祈りなさい。」と言われ、ご自身の赤裸々な祈りの姿を見せ、祈りの言葉を直接聴かせることを望まれたのではないでしょうか。 
 この「杯」とは、神の裁きという人間の犯した誤った歩みに対する神の怒りでしょう。 肉体の苦しみに止まらず、神に見捨てられ神の裁きに身を委ねる魂の苦しみです。 私たち人間には本当の苦しみを知ることのできない神の裁きの宣告を受ける苦しみです。 イエスご自身に突き付けられたままの「杯」、父なる神の沈黙のままの「杯」です。 自らの力によって立ち上がろうとする思い上がった信仰から、神ご自身がその御心をもってこの身に立ち上がってくださいと祈り願う信仰へと整えられていく備えの「杯」です。 一方で、すべての神の民の救いのためにそうせざるを得ない、共に苦しんでおられる父なる神の痛みの「杯」なのです。 「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈ることができたその時こそ、神のみ心を悟り知り得た時でしょう。 ルカは、マタイとマルコとは異なり、裏切ったユダが知り尽くしている「いつものように行く、いつもの場所であるオリーブ山で」、イエスはその杯の時を静かに待っていた。 祈り終え戻ってきた時に、「弟子たちは悲しみの果てに眠り込んでいた。」 「すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。」と言うのです。 弟子たちもまた不安と恐れに苦しんで疲れて眠りに落ちていたのでしょう。 ご自身の十字架の後、地上の務めを委ねていくことになる弟子たちにイエスは憐れんで、最後に「祈ること」を教えられた。 イエスですら避けることのできないこの世の霊との戦いであった。 解決や糸口も与えられず、すべての人に裏切られ、孤独に祈り続け、誰からも理解もされない中、自らの杯に赴くことができたのは父なる神の力添えがあったからだとルカは語るのです。 「石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて祈られた」、「自分の務めである杯をじっと待っておられた」イエスの祈りの姿をルカは語るのです。



バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元