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「知らぬままに起こされる施し」 マタイによる福音書6章1~4節

2020-11-22

 当時のユダヤの社会では、日常生活のうえで施しをすること、祈りをすること、断食をすることは、とても大事な宗教的な、社会的な行為でした。 イエスはこの「施し」の振る舞いを、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。 偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」と、慈善行為とは区別して神に向けて行う行為として戒めておられます。 私たちがこの「施し」という行いを考えた場合、普通は何かを人に与えることだと理解します。 しかし、もしこの与えられたものに対価が支払われるなら、ここで言う「施し」にはならないでしょう。 そうは言うものの、私たちが行う「施し」には何らかのお返しあるいは感謝やお礼の言葉を期待しているのが実情でしょう。 もしかしたら、「施し」自体が「施し」のお返しになっていることさえあります。 イエスは「施し」をあくまでも神に向けての行いとして、「人目につかないように、人の目を避けるように、人に知らせないように」、「施し」をしなさい。 それは「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」からだと言うのです。 その時、「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と、不思議なみ言葉を語られたのです。
 この箇所の原文を直訳すると、「左の手は、右の手のすることを知ってはならない。」となります。 「右の手」とは、「施し」をする側のことでしょう。 「左の手」とは、「施し」という行いを見る側のことになるでしょう。 「施し」をする側の行いを、「施し」を見ている側に悟られてはならない。 知られてはならないということになるでしょう。 果たして、このイエスのみ言葉がそのような理解に留まるのでしょうか。 そもそも「右の手」も「左の手」も、同じ一人の人間の意志にしたがって動いているはずです。 車の運転のように、「右の手」も「左の手」も無意識のうちに自動的に動く時もあるでしょう。 そう思えば、このイエスのみ言葉は、私たちの意志に関わらず「施し」がなされるように、「施し」自体が自然と果たされていくようにと聞こえてきます。 そういう意味では、「見てもらおうとして施しをしないように注意しなさい」というより、「施しを与える側の人の意志に関係なく行える」ことを、はるかに徹底的に求めていることになります。 イエスは「終わりの日」のことをこのように譬えています。 「すべての国の民を私の前に集める。 それから、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分ける。 羊を右に、山羊を左に置く。 その右側に置かれた民に言う。 わたしの父に祝福された人たち、用意されている神の国を受け継ぎなさい。 あなたたちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに尋ねてきてくれたからだと言う。 すると、右側の民はこう答える。 主よ、いつわたしたちは、飢えているのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸であられるのを見てお着せしたでしょうか。 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうかと言う。 するとイエスは、はっきり言っておく。 わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と、これが神の国の風景だとイエスは言います。 神に祝福される人たちとは、「施し」をした覚えがないと言う人たちである。 その「知らずにした施し、気づいていない施し」をイエスは、「わたしにしてくれたこと」であると、その「終わりの日」に父なる神が報いてくださると言うのです。



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