「イエスとの出会い」 ルカによる福音書2章8~20節
ルカによる福音書が記す最初のクリスマスは、ローマ皇帝が命じる住民登録の命令によって、大騒ぎとなっているその最中に訪れたと言います。 だれも注目していないユダヤのベツレヘムというダビデの町で、泊まるところなく「飼い葉桶に布にくるまれて寝かされていた」ひとりの乳飲み子の誕生として訪れたとあります。 私たちが「救い主」として賛美するそのお方の誕生は、皇帝の命令に翻弄され、その騒々しさのなかで、粗末に置かれたひとりの赤ん坊として起こされたのです。 きらびやかなところでも、誰が見ても圧倒されるような荘厳な厳粛なところでもなければ、ひとかけらのこの世の威厳もないところで、イエスはこの世に遣わされたのです。 そのありふれた乳飲み子であるイエスの誕生を、神は「野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたち」を目に留められ、知らせたとあります。 羊飼いの仕事は、昼夜を分かたず羊の世話をする過酷なものでした。 人々からは卑しい仕事であると思われていたのでしょう。 そのような軽んじられていた、小さな存在であった羊飼いたちに、「恐れるな。 今日、大きな喜びを告げる。 ダビデの町で主メシアが生まれた。 『布にくるまれて飼い葉桶に寝かされている乳飲み子』がそれである。 これが、あなたがたへのしるしである。」と告げられたのです。 9節に、「この知らせを聞いた羊飼いたちは、主の栄光が周りを照らしたので非常に恐れた。」 13節には、「羊飼いたちに語り終えた神の使いに、天の大軍が加わって、『いと高きところには栄光、神にあれ。』と賛美したとあります。 聖書は、このクリスマスの出来事を神の栄光が現れ出るためであった。 神の栄光のためであったと、神の側のことを中心に語っているように思います。 神の側から見れば、その創り主を忘れて自分勝手な道を歩んでいる。 創り主を必要としないで自分が神のようにふるまっている。 力もない、知恵もない、小さな存在であるにもかかわらず、自分たちが造った権威に酔いしれて生きている。 このような私たちの姿こそ、「神の悲しみ」でしょう。 そのことに未だに気づいていない。 自分の本当の姿を見ようともしない。 逃げ隠れする私たちがいることが、「神の痛み」でしょう。 しかし、この神の前に失われたものと思われていた私たちが、方向転換し、ひと度、神のもとへ戻ってくるなら、神にとってこれ以上の「神の喜び」はないのではないでしょうか。 ですから、私たちが神を求める以上に、私たちを神が捜し求めてくださっている。 戻ってくるようにと、私たちを招いておられるのです。 神はご自身を離れてしまっている本当の恐ろしさを知っておられるから、放っておくことができないお方です。 私たちひとりひとりの過ちを赦して元に戻すために、イエスをこの世に遣わしたのです。 ルカは、このイエスの誕生の出来事を、初めに「神の栄光が周りを照らした。」 その終わりに、「栄光、神にあれ」という賛美が響いたと証言しているのです。 神がそこに顕れ出て、その神の力が溢れ出て、だれの目にも神の権威が明らかとなるそのところには、神を賛美する声が響く。 そのことを、ルカは、「神の栄光が周りを照らす。 それを仰いだ者が賛美している。」と書き記したのでしょう。 イエスの誕生という神の栄光が顕れ、羊飼いたちがいつものように夜通し羊の群れの番をしているそのところを照らした。 羊飼いたちが、神の起こされた業を見ようではないかと立ち上がった。 神の栄光を仰いだ者たちが声を挙げて賛美したと書き記しているのです。 イエスの誕生は、放っておくことのできない神の栄光のためです。 それと同時に、私たちが救い出されるためになされた神の業です。 私たちの救いは、私たちの側の熱心さや努力ではなく、神の栄光、神の必要のために、神ご自身が働いてくださっているも神の業です。