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「御子から注がれた油」 ヨハネの手紙一 2章26節~3章3節

2017-05-14

 この手紙が送られた群れ、教会の中には、深刻な問題があったことが伺われます。 最初のころの教会ができあがる際には、その群れの交わりから起こる対立によって争いがあったことが知られています。 しかし、もっとも深刻なことは、イエスをどのような者であるとするのかという信仰理解の根本的な違いであったようです。 この決定的な違いによって、この群れから離れていった人たちがいた。 教会の分裂という苦い経験を味わってしまった。 しかし、このヨハネの手紙は、問題が深刻であればあるほど、「教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」 信仰の理解に違いがあればあるほど、イエス・キリストの内にとどまり、そのもとに立ち帰りなさい。 人間の知恵を捨てて、人間の工夫や努力を捨てて、ただ神のみ声に、み言葉に聴いていく。 耳を傾けていく。 そのように、イエス・キリストという信仰の原点、土台に繰り返し戻っていくようにと勧めています。 残念ながら、「あなたがたを惑わせようとしている者たち」がいた。 イエスを人間としか認めない者たちがいた。 しかし、あなたがたは既にみ言葉を聞いている。 最初からおられ、変わることなくおられるお方を、あなたがたは既に知っている。 イエス・キリストの名によって、あなたがたは罪を赦されて既に救われている『神の子たち』である。 「いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。 この油が万事について教えます。 だから教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」と訴えているのです。 「御子から注がれた油」とは何でしょうか。 父なる神が約束してくださったよきもの、聖霊です。 人が求めて祈れば、必ず与えられると約束された賜物です。 よみがえられたイエス・キリストとの交わりを保つ力です。 助け主、慰め主です。 神の国とこの世のものとを見極める真実の目です。 キリストの内にとどまるとは、このキリストの霊を私たちの内に信仰によって受け入れて、キリストとの交わりにとどまり続けるということです。 このことを、イエスは分かりやすく『ぶどうの木と枝』のたとえをもって語っています。 「わたしにつながっていなさい。 わたしもあなたがたにつながっている。 ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。 人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と語っておられます。 聖書に記されている教えにいくら私たちがしがみついたとしても、ほんの少しのことで私たちは揺らぎます。 私たちのしがみつく力など、たかが知れています。 しかし、このヨハネたちと同じように、神が何をされようとしておられるのか、神がどのように導いてくださろうとしているのか、逃げないで思い切って神のみ前に立って、そして堂々と神に向って問いかけて、神の答えを辛抱強く信じて待ち続けた者だけが、そして、この神のみ言葉にすがるように聴いていこうと、神との交わりを保ち続けて行こうと祈り求めた者だけが味わうことのできる恵みの体験、この事実がヨハネたちを支えたのではないでしょうか。 信じて従ってみて、待っているところで初めて、神がじっとご覧になっていてくださったと気づかされる。 一緒に重荷を担ってくださって、愛し続けてくださっていた事実に私たちは気づかされます。 これがヨハネたちを支えている本当の土台、信仰の原点です。 「そうすれば」、御子に注がれた霊によって、「御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがなくなる。 確信をもつことができるようになる。 今、既にあなたがたは神の子である。 御子が現れるとき、御子に似た者となる。 私たちの内には、そのような力も種も輝きもありません。 人を赦すことも、受け入れることも、愛することもできません。 しかし、私たちの内に種が蒔かれて、キリストの霊を宿らせることによって私たちは変えられるのです。 この望みに、私たちは生きています。



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