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「復活の目が開かれる」 ルカによる福音書24章13~35節

2017-04-09

 当時の主イエスの十字架のもとには、様々な人々がいました。 しかし、決して忘れてはならないのは、イエスの十字架の姿を見ることができなかった人たちがいるということです。 自分たちの望みを置き、このお方こそはと期待していたそのイエスが、よりによってローマの処刑により、その命が奪われてしまうことになった。 このお方こそ、エルサレムに入られたなら、いよいよ神の大いなる力によって、私たちをローマの支配から完全に解放してくださるに違いないと信じていたのにです。 ルカは、望みが打ち砕かれて、傷心の心持ちで自分たちの村へ帰って行く途中の二人の弟子の姿を描いています。 そこへ、見ず知らずの旅人が、この二人に近づいて来て、一緒に歩き始めた。 そして、歩きながら、「やり取りしているその話は何のことですか。」と声をかけて尋ねてきた。 その旅人に、二人の弟子は、「ナザレのイエスのことです。 この方は、行いにも言葉にも力があった。 私たちはこの人に望みをかけていた。 その人が十字架にかけられてしまった。 死んでもう三日が経ってしまった。 仲間の婦人たちが墓に行ったが遺体は見つからなかった。 他の弟子たちも駆けつけて捜したが、遺体は見つからなかった。」と、二人の弟子は過去にこだわったのです。 今日で三日が経っているのに、何も起こらない、事態は変わらない。 イエスに置いていた自分たちの信頼と抱いていた期待は裏切られたままであるとこの旅人に訴えたのです。 
 落胆している二人の弟子に声をかけたのは、よみがえられたイエスです。 彼らに追いついて来て、一緒に歩いて、落胆し悲しんで途方に暮れているその理由を本人たちに語らせようと、「何のことですか。」と迫ったのは、よみがえられたイエスです。 ルカは、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」と表現します。 よみがえられたイエスがどのような形で私たちに現れてくださるのかは、神の側の選びです。 その働きかけを受ける側の私たちが決められることではありません。 ここまですれば、必ずよみがえられたイエスに出会うことができるというものではありません。 過去に縛られて、一歩もそこから出てこようとしない私たちが、よみがえられたイエスに出会うためには、イエスの側から追いついて来られ、一緒に歩いて、尋ねられ、それに私たちが応えるところから始まります。 「何もかも希望を失ってしまった。 ところが、イエスの遺体を見つけずに戻ってきた仲間の婦人たちが、神の使いに『イエスは生きておられる』と告げられた」と、二人の弟子は言うのです。 ここから流れが変わります。 目が遮られ、よみがえられたイエスを見ることも、分かることもなかった弟子たちに、「物分かりが悪く、心が鈍く、聖書が語ることを信じ、待ち続けることのできない」弟子たちに、よみがえられたイエスが聖書の説き明かしを始められたのです。 「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 私は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている。 聖書にそう書かれている。 よみがえられたイエスは、弟子たちの抱く自分に都合のよいメシア像を砕きます。 自分に都合のよい望みを砕きます。 聖書に記されている通りになるように、なぜ待つことができないのかとみ言葉の説き明かしをされたのです。 この旅人の言葉に何かを感じ取った二人の弟子は、自分たちの家に泊まるようにとその旅人を無理に引き止めます。 その家で、よみがえられたイエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになったのです。 パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂くのはその家の主人がすることです。 無理に引き止められて、その家に泊まったイエスが、そのことをなさったのです。 二人の弟子は、その旅人を自分たちの家の主人として受け入れた時に、「すると、二人の目が開かれて、イエスだと分かった」とルカは言っているのです。 二人の弟子たちは、時を移さず出発して、エルサレムに再び戻ったとあります。 心を打ち砕かれて故郷に逃れて帰って来た彼らが、復活の主に出会い喜び勇んで、再び危険なエルサレムに帰って行ったのです。 



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