秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「呼び集め、授け、遣わすお方」、  ルカによる福音書9章1~6節

2016-07-17

 イエスは、十二人の弟子を選び、呼び集められました。 この十二人を選ぶために、父なる神のみ心を尋ね、夜を徹した祈りをささげています。 それほど重大な決断であったのです。 なぜでしょうか。 イエスは大勢の群衆をご覧になって、「飼い主のいない羊のような有様」を深く憐れみ、たとえ話やみ言葉を語り神の国を宣べ伝えたのです。 また、病いをいやし、奇跡を起こし、ご自身のみ業をもって神の国を宣べ伝えたのです。 この地上での務めを受け継ぐ者として、徹夜の祈りをもって選んで、委ねるための決断であったのでした。 この弟子たちは、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とイエスに声をかけられた人たちでした。 「恐れることはない。 今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われて、網を捨てて、舟を陸に引き上げて、すべてを捨ててイエスに従った人たちでした。 「飼い主のいない羊のような有様」を憐れまれた群衆に向けて遣わすために、この十二人を選び出し、呼び集められたのです。 イエスのみ業を受け継ぐために、そして隣人の救いへと目を移すためそば近く置かれたのです。 その彼らにイエスは、「悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能」をお授けになったというのです。 「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞え、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」 このような有様を創り出すことのできる「力と権能」を選ばれた弟子たちに授けられたのです。 イエスご自身が語られたようにと、語ることのできる「言葉」が授けられた。 イエスご自身が行われたようにと、行うことのできる「力と権能」が授けられたのです。 これは、選ばれた弟子たちを通してイエスご自身が働かれるためでした。 この「言葉」と「力と権能」が、最初の教会の礎として与えられたのです。 私たちが特別なものを持つようになるということではありません。 私たちの小さな器を通して、主が働いてくださるということです。 
 そのイエスが、神の国を宣べ伝えるために弟子たちを遣わすにあたり、「何も持って行ってはならない」と言うのです。神の宣教の業のために、「杖も袋もパンも金も持って行ってはならない。」 これはいったいどういうことでしょうか。 イエスは、持って行く必要がない。 必要なものは与えられる。 「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 空の鳥をよく見なさい。 種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。 だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」と言われています。 イエスと同じように生きるために、このイエスの足跡に従おうとする者を呼び集め、信頼するお方は父なる神だけであると「何も持って行ってはならない」と言われたのです。 こうして備えられた弟子たちは、「出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至る所で福音を告げ知らせ、病気を癒した」と記されています。 私たちは遣わされて行くときに、何も持たされないで、何もできないで呆然とすることがあります。 しかし、主イエスは何も持たないで遣わされることに意味があると言います。 なぜなら、そこによみがえられたイエスが働いておられるからです。 イエスが寄り添っておられるからです。 「何も持って行ってはならない」というイエスのみ言葉が響きます。 「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、今もなお父なる神だけに信頼して叫び続けてくださっているイエスが、誰も担うことのできない私たちの痛み、苦しみ、悲しみを背負い、引き受けてくださって、遣わされたそこに寄り添って働いてくださっているのです。



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