「わたしを憐れんでください」 マルコによる福音書10章46~52節
三年もの間、主イエスはガリラヤで様々な癒しの業を現わし、教えを宣べ伝えていました。 その評判はユダヤ全土に拡がり、イエスがエルサレムに向かう決断をされて旅立たれた時には、大勢の群衆がついてきたほどでした。 そのイエスに従った弟子たちの気持ちも高揚していたのでしょう。 十二弟子のうちの側近であったヤコブとヨハネが思わず口にしてしまいました。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 そう言われたイエスは、「何をしてほしいのか」と語りかけます。 その言葉に引き出された露骨なふたりの弟子の願い、「栄光をお受けになるとき、わたしどものひとりをあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 このことを聞いた、他の十人の弟子たちは腹を立て始めたとあります。 そのような弟子たちや群衆を引き連れて、エルサレムを目の前にしたエリコの町を出て行こうとしたその時でした。 イエスは、ひとりの人物に「立ち止まられた」のです。
福音書は、その人物を「道端に座っていたバルティマイという盲人の物乞い」であったと紹介しています。 彼は目が見えないために、エリコの町の中に入れてもらえなかったのです。 ただ人々の憐れみにすがって生活をしなければならなかったのです。 しかし、彼は聞くことができたのです。 分かっていたのです。 律法学者たちや祭司長たちが分からなかったことを、彼は分かっていたのです。 イエスがメシアであると信じていたのです。 ですから、「ナザレのイエスだ」という人々の声を聞いて、居ても立ってもおれなかったのでしょう。 「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」と叫んだのです。 イエスについて来た多くの人々が、彼を叱りつけて黙らせようとします。 バルティマイは叫び続けることを止めませんでした。 だれが何と言おうと叫び続ける祈りは、イエスのもとに届きます。 エルサレムに向けて「なおも道を進める主イエス」が、立ち止まってくださったのです。 人々には、物乞いの声にしか聞えなかったその叫びが、苦しむ者、悲しむ者、病める者、貧しい者の友としてこの世に来られたイエスには、救いを求める祈りに聞えたのです。 「あの男を呼んで来なさい」、このイエスの言葉がバルティマイの人生を変えたのです。 「安心しなさい。 立ちなさい。 イエスがあなたをお呼びだ。」と人々によって聞かされたバルティマイは、踊り上がって、上着を脱ぎ捨てて、イエスのもとに行ったのです。 ひょっとしたら、その上着は物乞いのために広げて用いる上着であったのかもしれない。その唯一の持ち物と言ってよいものを投げ捨てて、自分の過去に決別して、イエスのもとに彼は行ったのです。 その時です。 イエスは、あの二人の弟子に尋ねた「何をしてほしいのか」と語りかけたのでした。 二人の弟子は、自分のために願い求めました。 しかし、「先生、目が見えるようになりたいのです。」というバルティマイの願い求めに、イエスは「行きなさい。 あなたの信仰があなたを救った。」と言われたのです。 そして、福音書は「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」とあります。 イエスが家に帰りなさいと言われたのに、バルティマイはそのイエスに従ってエルサレムにまで向ったのでした。 彼はイエスに従うために、「目が見えるようになりたい」と願い求めたのです。 彼が見えるようになって最初に見たものは、主イエスの姿でした。 そのイエスに従って行ったエルサレムで見たものは、主イエスの十字架の姿でした。 イエスは彼に何の癒しの業も行っていません。 ただ、「あなたの信仰があなたを救った」と、体の癒しを越えた真の癒しが成し遂げられたと言われたのです。 「わたしを憐れんでください。 目が見えるようになりたいのです。」 この祈りにイエスは、どのような時にも立ち止まってくださるのです。