「神の備え」 使徒言行録 1章6~11節
過越しの祭りを終えて、エルサレムから戻っていたガリラヤで、弟子たちはそれぞれに40日にわたって復活されたイエスに出会いました。 「お前もあの男の弟子のひとりではないのか」と問われて、「違う、わたしはあの人を知らない」と三度否定したペトロにも。 「あの方の手に釘の跡を見なければ、わたしは信じない。 この指を釘跡に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と疑ったトマスにも。 また、自分の身にふりかかってくる恐れから、十字架のもとから離れてしまったすべての弟子たちにも、よみがえられたイエスは再び出会ってくださいました。 そして、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束のものを待ちなさい。」と、イエスは命じられたのです。 「エルサレム」とは、彼らにとってイエスと同じように捕らえられてもおかしくない危険な場所です。 そこに、イエスは「戻りなさい。 あなたがたは間もなく聖霊を受けることになるから、待ちなさい。」と命じられたのです。
いよいよ、自分たちのイスラエルの国が再び回復される時が来る。 そう期待したから、弟子たちは「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」とイエスに尋ねたのです。 しかし、イエスは「父が権威をもってお定めになった時は、あなたがたの知るところではない」と諌めます。 そして、「あなたがたのうえに聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。 エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と告げ、イエスは天に上げられました。 雲に覆われて、弟子たちには見えなくなりました。 呆然としている弟子たちに、「いつまで、天を見上げているのか。 あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、同じ有様で、またおいでになる。」と、神のみことばが伝えられたのでした。 これは、いったいどういうことでしょうか。 弟子たちは地上に取り残されてもよいように、40日にもわたって復活の主イエスに養われました。 そして、直々に「エルサレムにとどまりなさい。 父がお約束になった賜物、聖霊が降るまで待ちなさい。」という『イエスの命令』をいただきました。 そして、「あなたがたは聖霊という力を受ける。 地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」という確かな『イエスの約束』が与えられました。 イエスのいないこの地上を、父なる神から与えられる『聖霊』と、復活の主イエスの語られた『命令と約束』をもって、あなたがたは生きることになる。 そのために、神が準備されたのであると弟子たちは知らされたのでした。
イエスが天に上げられる、再び降りて来られる、この間を私たちは生きる。 イエスが語り残された『命令と約束』を握りしめて、『聖霊』に導かれて私たちは生きる。 その始まりが、ここに記されているのです。 最初の弟子たちの群れは、先ず、「集められること」から出発しました。 次に「待つこと」を求められました。 そして、「祈ること」を求められました。 そこに、父なる神の賜物、『聖霊』が降ったのです。 よみがえりの主イエス・キリストのからだである群れがつくり上げられたのです。 イスラエルの国を立て直すという形ではなく、イエスを裏切った、イエスを疑った、イエスを信じることのできなかった私たちを「イエスの生きた証人」とする形で、神の国をつくり上げると言われたのです。 神の宣教の業の力の根源は、このよみがえりの主に生かされているという「イエスの証人」となることです。 父なる神によって与えられる「聖霊」に満たされて、礼拝と祈りと賛美をささげることです。 見た目に囚われず、この最初の教会の群れの姿に私たちは立ちたいと願います。