「神の物語を生きる」 マタイによる福音書24章32~35節
イエスの弟子たちが、通りすがりに「生まれつき目の見えない人」を見かけて、イエスに尋ねました。 「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。 本人ですか。 それとも、両親ですか。」 心の痛む、弟子たちの質問です。 この質問に、イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。 神の業がこの人に現れるためである。」と答えられました。 この意味を、これから起こる神の業が教えてくれる。 これから現れ出る将来の神の業に委ねるべきである。 今、この人の身の上に起きているこの出来事の意味は、これからこの人の上に現れる神の業が教えてくれると、イエスは言うのです。
この神の業が現れることについて、「いちじくの木から教えを学びなさい」と、今日の箇所でイエスは言います。 「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。」 未だ夏の気配がない時であったとしても、いちじくの木のわずかな変化で、夏の収穫の刈り入れの近いことが分かる「しるし」が与えられる。 この地上の世界には、必ず、収穫の刈り入れという「終わりの日」がいずれ来る。 神の国が完成する「終わりの日」が来る。 イエスは、このことを弟子たちに「いちじくの木のたとえ」を用いて告げられたのでした。 ですから、いちじくの木の「しるし」を見つめながら、この「終わりの日」を待ち望みながら生きることを、イエスは「目を覚ましていなさい」と表現されておられるのです。 イエスは、「終わりの日」を知り、見つめることを求めておられます。 イエスが十字架に架けられて、死んでよみがえられたのは、「終わりの日」の前触れです。 この復活こそ、「終わりの日」に起こる出来事の先取りであり、「終わりの日」の始まりです。 「終わりの日」は滅びではない、神の国が完成される祝福である。 「終わりの日」を見つめながら、今を生きることを求めておられるのです。
これらイエスの預言されたすべてのことが起こるまで、この時代は終わらない。 私が預言することを見たなら、私はすでに戸口に近づいている。 終わりの日、最後の刈り入れの時が戸口に近づいていると悟りなさいと言います。 見えるものに惑わされて、神の業を見失ってはならない。 答えが与えられないままでも、神の業を問い続ける。 このことに耐えられず、今、自分が持ち合わせている知識や常識に逃げて、安易に答えを出してはならないのです。 外見ではまったく同じ生活をしているように見えても、この「終わりの日」を見つめて生きる者は違う。 この「終わりの日」を、この世の滅びとしてではなく、神の祝福として受け取ることのできる者は違うのです。 あなたがたは、十字架と復活の救いの事実から、再び主が来られる日、神の国が完成される「終わりの日」までの間を生きることになる。 「終わりの日」を、希望として待ち望んで生きる。 今は、「終わりの日」の始まりをあなたがたは生きている。 ですから、「天地は滅びるが、わたしの言葉は滅びない。」と、イエスは約束してくださったのです。 私たちの中には、滅びないものなど何も持ち合わせていません。 「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」と語る主イエスが宿ってくださいます。 このお方の「天地は滅びるが、わたしの言葉は滅びない」という約束を、「終わりの日」の始まりを生きる私たちの土台としたい。 聖書は、私たちの小さな生涯、物語を超えて、壮大な神ご自身の計画、物語を語ってくださっています。 この朽ちないみことばに聴きながら、信じて、希望をもって歩んでゆきたい。