秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「神のもとから出る知恵」 マタイによる福音書11章7~19節

2015-06-14

 バプテスマのヨハネは、領主ヘロデの不道徳を批判したために牢に捕らえられていました。 ヨハネは、「悔い改めにふさわしい実を結べ。 天の国は近づいた。 わたしの後からくる方は、わたしより優れておられる。 わたしは、その履物をお脱がせする値打もない。」と言い、主イエスの先駆者の声に徹しました。 獄中で聞くイエスの評判は、盲人や病人を癒し、神の恵みを語り、人々を励ます姿でありました。 しかし、「救い主とは、人の罪を裁き、神の支配をはっきりと示すために来られるのではないか。」と、このイエスに不安を覚えたのです。 ですから、ヨハネもまた、イスラエルの人々と同じように主イエスにつまずいたのです。 「あなたは、わたしの言う救い主でしょうか。」 自分の身の解放を願うのでなく、自分の使命に徹するヨハネの姿を主イエスはご覧になったのです。 ですから、「ヨハネは、イエスご自身がもたらす新しい天の国を語る最後の預言者である。 生まれて来た人間のなかで、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れなかった。」とまで、イエスは評価されたのです。 
 ところが、このような評価を得たヨハネよりも、これから始まる「天の国に属するもっとも小さな者」の方が偉大であるとイエスは言うのです。 主イエスによってもたらされる神の恵みの大きさは、今まで律法や預言者によって語られてきた世界のものとは違う。 その世界が始まろうとしているのに、「悪霊にとりつかれている。 大食漢で大酒飲みだ。 徴税人や罪人の仲間だ。」と、イスラエルの人々はヨハネもイエスも拒んだのです。 これが、目の前の姿だけで判断する人間の知恵の限界です。 イスラエルの群衆からは、律法を守ることができない人は、悪い人であるとさげすまれた。 イスラエルの指導者からは、律法を守ることができない人は、神の前に罪人であると裁かれたのです。 そのような悪い人、罪人が、律法を守れないままで、そのままの姿で、イエスが告げる神の恵みの新しい国に招かれている。 それも罪が赦されて救われると言う。 そういうことなど、認めることなどできない。 イスラエルの群衆も、指導者たちも、イエスが招き入れている新しい国につまずいたのです。 バプテスマのヨハネですらも、救い主が来ると人の罪がすべて裁かれて、世界は一変すると考えていた。 しかし、評判から聞くイエスは、罪人を裁くより、むしろ罪人を招いていると、イエスにつまずいたのです。 イエスは、目の見えない人を見えるようにしたから、また足の不自由な人を歩けるようにしたから、救い主になったのではありません。 律法を守ることのできない人、罪人とさげすまれている人と一緒に食事をしたから、救い主になったのでもありません。 人から罪人とされていた人々が、そのままの姿で父なる神に迎え入れられるようにと十字架のうえでその裁きの前に身を委ねてくださったからです。 裁かれる者と同じように裁かれて、徴税人や罪人の仲間になってくださったからです。 二人の罪人の十字架の間にはさまれて、その十字架のうえで「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。」と、とりなしの祈りをささげてくださったからです。 そして、父なる神によって、新しい霊に生きる存在としてよみがえってくださって、今も生きて働いてくださっているからです。 「神のもとから出てくる神の知恵の正しさは、その働きによって証明される。」と言います。 私たちが分かろうが分かるまいが、この神の知恵に委ねていきたい。 見える姿に一喜一憂するのでなく、この恵みと希望に目を注いでいきたい。 神のもとから出てくる神の知恵に身を委ねていきたい。 神の知恵の働きによって、その確かさ、正しさを知るようになると聖書は言っています。 イエス・キリストこそ、私たちにとって神の知恵です。



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