秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「十字架のキリストに結ばれて」   コロサイの信徒への手紙2章6~15節  

2014-04-06

初代の教会の人たちは、週の初めの日を「主の復活した日」として礼拝をささげました。 毎週、この日に集まって礼拝したのは、この主の復活を祝ったからです。 すべての主の日の礼拝が、復活を記念する礼拝であったのです。 イエスの「十字架」は間違いなく、当時の支配者であったローマの国家権力によって、ひとりの人間イエスを死罪にしたという事実であったでしょう。 イエスに従って来た人たちにとっては、こんなはずではなかった。 この事実を受け止めたくない。 この事実をひっくり返すぐらいの大きな力を望んだことでしょう。 しかし、イエスの十字架という死刑は、そのままでは終わらなかったということです。 イエスが息を引き取られる最後まで見届けた、その死刑を執行する側にあったローマの百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言葉を漏らす。 死んだはずのイエスが、よみがえって弟子たちの前に現れる。 聖霊が弟子たちに降って、このイエスの死こそが自分たちの弱さ、醜さを贖うために払われた貴重な代価であったことを後に知らされる。 人間の死をもって大きな力を持っていると見せかけていたこの世の霊をも乗り越える存在を、この地上で弟子たちは初めて知ることになったのです。 ところが月日が流れ、人々はイエスの十字架が分からなくなってきた。 このコロサイの教会にも問題が起こるようになってきた。 神の前に救われるべき道は、この十字架にかけられたイエス・キリストの死とよみがえりという事実以外にはないはずであるのに、コロサイの教会の人たちはイエス・キリスト以外の知恵や知識に頼って神のもとへ行こうとしたのです。 パウロはそのような人たちに勧めます。 「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい」、「キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい」と勧めます。 
 私たちの信仰の出発点を思い起こしてください。 理由は分からなかったけれども、キリストを受け入れて出発しました。 理屈ではない、これからキリストに従って行こうと決断したことでした。 ただ、神の愛によって道が備えられた。 その道を、キリストがそのみこころに従って、一緒に歩いて切り開いてくださった。 その道を歩んでいる私たちを遣わされた聖霊が導いてくださった。 私たちは、ただ感謝して受け取るだけです。 パウロは、選び取った道を「キリストに結ばれて歩みなさい」 「キリストの言葉に耳を傾けて、教えられたとおりに歩みなさい」 「キリストに根を下ろして歩みなさい」と勧めます。 聖書は、「キリストの内には、満ち溢れる神性が余すことなく、見える形をとって宿っている」「あなたがたは、キリストにおいてそれが満たされる」と言います。 私たちの証しの姿を、キリストに結ばれた姿、キリストに根を下ろした姿として公然と示してくださると言っているのです。 イースターは、キリストと共にある私の「死と新しい命」の事実です。 イエス・キリストに満ち溢れている神が、私たちの姿を通して現れてくださるのです。  



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