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「立ち帰って、生きよ」   エゼキエル書 18章30~32節  

2014-01-12

イスラエル民族が偶像礼拝に浸り切り、自分たちの正しさだけを旗印に、同盟国を頼りに争いに陥り、国の滅亡、占領国への移送へと向かった時代に、神のことばを語り続けた預言者がエゼキエルでした。 神殿を失い、祭司としての職を失い、妻をも失い、民族の痛みを背負いながら、また個人の痛みを背負いながら、生涯、囚われの地で神のみことばを語り続けた人物でした。 神は、エゼキエルを通して「わたしは生きている」と語ります。 「すべての命はわたしのものである」。 しかし、その命の正反対のところには「死」があると言います。 罪を犯した者が死ぬ、「死」の責任はその罪にある。 しかし、「わたしは、罪を犯して死んでいく人を喜ばない」 自分の犯したすべての過ちから離れるなら、「必ず、生きる。 死ぬことはない。」と神は言われたのです。 これが、イエス・キリストがお生まれになる遥か何百年も前に、預言者エゼキエルを通して語られた言葉です。 
 しかし、人々は、散々悪い事をした後で、悔い改めたからといって赦されるのは不当である。 そんな神の正しさは、納得ができないと主張します。 父のもとから自分勝手に飛び出して行った「放蕩息子の弟」を、もろ手を挙げて再び迎え入れた父親を、「正しい兄」はどうしても納得できません。 自分は、我慢をして父のもとを離れず、父に忠実に仕えてきたではありませんか。 弟はしたい放題をして、困ったから帰って来ただけではありませんか。 そんな弟の過去をすべて赦し、受け入れている「父親の道は正しくない」と主張したのです。 
 しかし、神の言う正しさは道徳の正しさではありません。 神は、「どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 お前たちは立ち帰って、生きよ」と言われているのです。 比較の問題ではない。 だれひとりとして切り捨てられてはならない。 「すべての命はわたしのものである」と神は言われているのです。 神は、自分の正しさによってはだれ一人として救われる事などないとしても、何としても救おうとされているのです。 滅んでしまわなければならない私たちを救うために、悔い改めという道を備えられたのです。 神の目にある正しさとは、この悔い改めにある正しさだけが覚えられているのです。 神はエゼキエルに、「新しい心と新しい霊を授ける」と約束されました。 神は、その「新しい心と新しい霊」を受け取りなさいと言っているのです。 これを与えようとしておられる神の方向に向き直して、受け取るということが「悔い改め」です。 そのために備えられたものが、イエス・キリストの十字架でした。 神は、どのような罪を私たちが犯したのかを問題にはされていないのです。 すべての者が神のもとから離れてしまっているという「死」に至る病を負っている。 その赦しのためのイエス・キリストの十字架の「死」であるのです。 



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