秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「神の恵みによる成長」   ルカによる福音書2章39~52節  

2013-06-16

 イエスの父と母は、「祭りの慣習に従って」、エルサレムの都に少年イエスを連れて上ったのです。 ところが、その祭りが終わって帰り始めた時、イエスがいないことにその両親が気づいたのです。 慌てて捜し始めたけれど見つからなかった。 その少年イエスは、両親がまさかそんなところにいるとは思いもしなかった所、神殿の境内にいたのです。 それだけではない。 そこで両親が見た光景は、学者たちと話をしたり、質問したりしているイエスの姿でした。 そのイエスの受け応えを聞いて、周りにいた学者たちが驚いているのです。 両親は、自分の子供はそばについてくる筈であると思ったから、神殿の境内に留まったイエスに驚いたのです。 学者たちは、イエスが子供であると思ったから、律法を知り聖書を解釈するイエスに驚いたのです。 しかし、イエスはすでに、両親や学者たちとは異なる世界に生きていたのです。 母マリアは、「なぜこんなことをしてくれたのです」とイエスを叱ります。 しかし、イエスは「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と答えます。 この答えに、イエスの言葉の意味が両親には分からなかった。 イエスが神の恵みに包まれてすでに真の父の家にいたことに、気がつかなかったのです。 これは、エルサレムでの過越しの祭りの時の出来事でした。 イエスの生涯の最後に味わったのも、過越しの祭りの時でした。 少年と言えども、イエスはすでに救いのご計画の新しい時を刻み始めています。 両親は、そのイエスに気づかず、なおも自分の子として見ていた。 ただユダヤの慣習に従って、イエスをエルサレムの祭りに連れて行った。 イエスは、決して、マリアが母であり、ヨセフが父であることを否定しません。 ヨセフとマリアの子でありながら、自分には「真の父がいる」と言っているのです。 イエスは、ガリラヤのナザレであろうと、エルサレムの神殿の中であろうと、「わたしの父の家にいるのは当たり前である」と言っているのです。 このイエスが、たくましく育ち、背丈も伸び、神を知る知恵に満ちて、「神の恵みに包まれて」、「神と人とに愛されて」成長されたのです。 一人の幼子となって、私たちと同じ有様で、同じ悩みを神のものとして味わってくださった。 神の恵みに包まれたイエスが、この世に降りて来てくださったのです。 私たちの所に、罪人の友として降りて来てくださったのです。 ともにいてくださるこのイエスの豊かな恵みの中に、私たちはあるのです。 時として、この両親のように、イエスを見失うことがないでしょうか。 私たちの都合のよいイエスに、ひょっとして閉じ込めてはいないでしょうか。 イエスがいないことが分かったなら、捜し回り、尋ねて行かねばなりません。 日々の慣習に流されて、祭りの騒ぎに惑わされてイエスを見失ってはなりません。 このお方に、私たちの救い、恵みの源があるのです。



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