秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「選ばれるという神の恵み」 ルカによる福音書1章26~38節

2012-12-16

 祭司であるザカリアにヨハネの誕生を告げた同じ天の使いが、「ナザレというガリラヤの町」に住む「ダビデ家のヨセフのいいなずけであるおとめ」の所に神から遣わされます。 天の使いの最初の挨拶は「おめでとう。 恵まれた方。」でした。 「喜びなさい。 大きな喜びを頂いた者よ。」という響きのある語りかけです。 その喜びの理由は「主がともにおられる」からであると、マリアに告げます。 モーセの場合も、イエスの弟子たちも同じように、「主がともにおられる」と励まされ、送り出されました。 聖書は一貫して、主がともにおられることが私たちの喜びであり、恵みであると伝えます。 この天の使いの不意の語りかけに、マリアは戸惑い考え込んでしまいます。 そんなマリアの様子を見て、天の使いは「マリア、恐れることはない。」 なぜなら、もうすでにあなたは「神から恵みをいただいた」からだと言うのです。 問題は、その恵みの中味であります。 「あなたは身ごもって男の子を産む。」 しかも、「イエスと名付けなさい」と名前まで決められています。 確かにマリアはヨセフと婚約はしていたけれど、一緒に住んで結婚生活をしていたわけではありません。 ましてや子どもの名をつけるのは親の権利です。 マリアは、このことだけでも自分の身に、これから起こる筈のないことが起きるという、とんでもない出来事の予告であったのです。 更に天の使いは、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」、神がその子に「ダビデの王座をくださる」、その子は「永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と言うのです。 そんなことよりもマリアの戸惑いと不安の思いは「あなたは身ごもって男の子を産む」という一点にかかっています。 ですから、マリアは「どうしてそんなことがありえましょうか。 わたしは男の人を知りませんのに。」と尋ねるのです。 マリアは、これから湧き起こってくる人々の中傷や非難も頭をよぎったでしょう。 ですから、天の使いに説明を求めたのです。 そのマリアの問いに対する神の答えが「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。 だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」というものでした。 神の霊がマリアに降る。 神の力がマリアを包むと言われたのです。 更に、親戚であった年老いたエリサベトに、諦めていた子どもが与えられたしるしを知らされます。 そのしるしとともに、「神にできないことは何一つない」と告げられます。 マリアは実際に親戚のエリサベトを訪ね、「主は、今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださった」という、一人の年老いた女性の信仰に接します。 そして、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」というエリサベトの証しにも接します。 いつの間にかマリアの問いは、「イスラエルの預言が実現する、ダビデの王座を継ぐ、偉大な人物になる」というような子を宿す資格は自分になどない。 「どうして、そんなことがありえましょうか」という問いに変えられていきます。 マリアに訪れた最初のクリスマスは、一方的な神の働きでした。 この神の語りかけとエリサベトの信仰によって、何かが解決する特別な糸口が見つかったわけではありません。 しかし、マリアは、神が語りかけ、用いてくださろうとしていることを知りました。 そのことが恵みであり、喜びであることも悟りました。 人々の非難や中傷を身に受けても、「神がともにおられる」という約束に自らを委ね、「神にできないことはない」というみことばに立ち上がることができました。 その答えが「わたしは主のはしためです。 お言葉通り、この身に成りますように。」という信仰です。 マリアは特別な女性であったのでしょうか。 名も知れない小さな町のおとめです。 神がともにいてくださったことを、生涯を通して証しをした人物です。 私たちもまた、神の前にこのクリスマスをひとりひとりが迎えます。 この神の選びが神の導きであり、恵みであると受け止めることができた時に、神の祝福と神への喜びの賛美が待っています。



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