秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「イエス・キリストを宿す」 ルカによる福音書1章5~25節

2012-12-09

 バプテスマのヨハネが死をもってイエス・キリストを指し示したように、名もない多くの人々によって味われた苦しみと悲しみと喜びと感謝によって、私たちのところへこのクリスマスの喜びが届けられていることを覚えます。 この世のすべての出来事がイエス・キリストという一人の存在を指し示している。 すべての人がこのイエス・キリストの救いの業に向けて用いられている。 この壮大な神の救いの歴史が、このイエス・キリストの誕生を通して明らかにされている。 このことに目が開かれていない所にこそ、私たちの大きな務めがあります。 年老いて子どものいなかったザカリアに、「あなたの願いは聞き入れられた。 あなたの妻は男の子を産む」と、突然、天の使いの声がかかります。 ザカリアは、長年、このことを祈り続けてきました。 しかし、心の中では自分たちにはその力はない。 もはや子どもは生まれないと諦めていた。 ですから、敬虔な祭司で、神の前に正しい人で神の掟と定めをすべて守り、非のうちどころのなかったザカリアが、突然の天の使いの喜びの知らせを受け入れることができなかったのです。 私たちは、確かに神の言葉を耳で聞いています。 確かに神に祈っています。 しかし、私たちは、目に見えるもの、耳で聞くことのできるもの、頭で理解できるものに合わせて神の言葉を聞こうとします。 神に願いは訴えているが、神に本当の信頼を置いていない。 神を自分の理性によって測り、小さなものにしてしまっている。 ザカリアは「あなたの願いは聞き入れられた」と言われたのに、不安と恐れによって「そんなことはない」と思わず口にしてしまいました。 すると神はザカリアに、口が利けなくなる沈黙を与えます。 ザカリアに与えられた沈黙は、「時がくれば必ず実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と神は言います。 これは、ザカリアの不信仰に対する神の懲らしめでしょうか。 違います。 神は、人間のもつ弱さや愚かさ、その限界を百も承知です。 神は全てをご覧になって、この年老いた夫婦に更なる祝福を与えようとして、心から神に従うことができるようになるまで沈黙を与えられたのです。 ついに、妻エリサベトは「主は今こそ、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」と確信し、告白することができました。 夫ザカリアも、口が利けないままで、字を書く板に神に告げられたように「この子の名はヨハネ」と書いて、精いっぱいの悔い改めの告白をした時に、口が開き、舌がほどけ「これは我らの神の憐れみの心による」と神を賛美したのです。 神の救いの業は、必ず果たされます。 すべては、神の側で準備されていることであります。 すべては神の賜物として起こる出来事であります。 ですから、わたしたちにとっては、突然であり、不思議であり、不安に陥って当たり前なのです。 しかし、この老夫婦のように、私たちが大きな神の救いの業に目が開かれた時初めて、不安の中にあっても、動揺の中にあっても、神の前にひざまづいて確信をもって神に従うことができるのです。 神は私たち一人一人を用いて業を起こそうとされます。 神が選んだ一人一人を用いて、神の救いの歴史を成し遂げようとされます。 人間の弱さや愚かさをのり越えて、救いの業をその一人一人の人間を通して成し遂げようとされる神の意思の中にあることです。 一人一人の人間の悔い改めと服従をじっと待って、成し遂げようとされる神の忍耐と愛であります。 この老夫婦だけの話ではありません。 すべての人が、この神の祝福によって創造された者である筈です。 私たちもまた、この務めを担っています。 私たちに与えられた神の賜物、神のみことば、イエス・キリストの証言を私たちの中に宿し、信仰の日常生活において神の救いの業に目を開かせていただきましょう。 



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