「神にすべて差し出す礼拝」 マルコによる福音書12章38~44節
「律法学者を非難する」という段落と「やもめの献金」という段落が続けて記されています。 いよいよ十字架に架けられる直前のイエスに、律法学者たちは様々な論争をしかけるのです。 そのような論争に終止符を打つかのようにイエスは、この何気ない二つの小さな段落をもって論争の根本的な問題を浮き彫りにして語り終え、もはや論争ではなく裁判、処刑、殺害の十字架の現実へ進むのです。 今まで群衆や律法学者たちに向けて語られていたところから一変して、イエスは愛する「弟子たちを呼び寄せて」、「律法学者たちの姿」と「一人のやもめの姿」を対比させて語るのです。 「律法学者たちの姿」とは、人に認められること、尊重されること、敬われることを目に見える形で受け取ることを望んでいる姿、立ち振る舞いです。 内側のものを覆い隠すかのように外側のものを取り繕うとする。 神との交わりが形だけに終始し、真の礼拝や賛美や祈りにつながらない。 そのことによって周りの神の民とのつながりさえも損なわれてしまう。 これこそ、私たちの現実の姿なのではないでしょうか。 人の心の内側と外側は密接につながっている。 心の中にあるものが外に向かって溢れ出てくる。 心の中にいったい何が宿って、その人の心を支配しているのかをイエスはじっとご覧になって鋭く見抜いておられるのです。 この賽銭箱を前にした「一人のやもめの姿、立ち振る舞い」から、その心の中から満ち溢れ出てきているものこそ、神への信頼と感謝である、真の礼拝であるとイエスは見て取ったのです。 これから父なる神の前に自らの命を差し出す決断をして、エルサレムに歩んで来られた「イエスご自身の姿」が、この「一人のやもめの姿」に折り重なって目に留まったのではないでしょうか。
同じような光景をマルコによる福音書(14:3-9)は語っています。 イエスが多くの人々と一緒に夕食についていた時です。 一人の女性が、「純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺をもってきて、それをその場で壊し、その香油をイエスの頭に注ぎかけた」と言います。 「ナルドの香油」とは、当時の一年分の賃金に匹敵する価値があったと言われています。 「なぜ、こんなに高価な香油を無駄遣いしたのか」と叱責する席についていた人々にイエスは、「するままにさせておきなさい。 わたしに良いことをしてくれたのだ。 わたしはいつも一緒にいるわけではない。 この人はできる限りのことをした。 前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれたのだ。」と言われるのです。 イエス自ら進んでこれから受けられようとしている「十字架の痛み、死」に与る時がくる。 イエスはこの一人の女性が「この時、このところ」でしかできないことをこの私にしてくれたと、その苦しみを共に味わおうとする女性の姿をそのまま受け取っておられるのです。 イエスは、ご自身の存在を父なる神のみ心の前にすべて差し出そうとしておられる姿を、「一人の貧しいやもめの姿」の前に愛する弟子たちを呼び寄せ示しておられる。 神の前にすべてを差し出して、感謝と賛美と喜びの真の礼拝をささげるようにと招いておられるのです。 私たちがご一緒にささげている礼拝は、今日限りの唯一の礼拝であるはずです。 ずっとイエスが見つめておられる礼拝です。 これから十字架につこうと決心しておられるイエスに、できる限りのすべてのもの、「一人のやもめ」は持っているわずかな価値のレプトン銅貨二枚、一人の女性は石膏の壺に入った高価な香油をそれぞれにふさわしくすべてを真の礼拝としてささげたのです。 私たちに注いでくださる賜物、恵みこそ、神に感謝と賛美と喜びをささげるためのものです。 神の救いのご計画のために豊かに用いられるためのものです。 私たちは「一人の貧しいやもめ」のごとく、真の礼拝に招かれているのです。
「わたしを強くしてくださる方」 テモテへの手紙一1章12~17節
エフェソの教会の様々な課題に悩みつつ取り組む若き指導者テモテに対し、パウロはこの励ましの牧会書簡で、「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。」と、自分自身の強い思いを語ります。 旧約聖書に記されているアブラハムやモーセに対する神の召命、預言者イザヤ、エレミヤ、エゼキエルに対する神の召命の出来事を考えてみてください。 神に選ばれ、不意に呼びかけられ、自らの弱さを突きつけられ迫られる。 神の求める務めを与えられ、神が遣わされるところに遣わされる。 恐れ戸惑うところに、神の約束と保証の言葉が告げられる。 神が共におられることをその生涯において実感させられる。 見た目には決して恵まれた生涯とは思えないけれども、主なる神と共に歩んだという喜びと感謝に満ち足りた地上の生涯を彼らは満ち足りて終えているのです。 ペトロに代表される使徒たちの生涯もまた同じように、イエス・キリストに選ばれ、呼びかけられ、迫られ、新しくつくり変えられてイエスによって授けられた使命を感謝と喜びをもって歩み通したのです。 パウロもまた同じように、主イエスに「忠実な者と見なして務めに就かせてくださったこと」、以前のパウロが犯した過ちが赦されて「憐れみを受けたこと」、「わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられたこと」を感謝するのです。 以前のパウロは、「神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。」と自戒しているように、律法をないがしろにするキリスト者を徹底的に迫害したのです。 「わたしは、その罪人の中で最たる者です」とまでパウロは吐露しています。 そのパウロがイエスに選ばれ、呼びかけられ、自らの罪深さを迫られ、霊の目が開かれ、イエス・キリストに仕える使徒とされた。 お陰で、ユダヤ人たちからは裏切者呼ばわりされ、キリスト者からは恐れられる生涯を送ることになったのです。 自らの過ちに気づかされたことだけでなく、憐れみを受けてそれを赦されたこと、赦されただけでなく忠実な者と見なされイエス・キリストに仕える務めに就かせていただいたことを、「わたしを強くしてくださった」と表現するのです。 パウロが熱心に求めたからでも、涙を流して悔い改めたからでもなく、自分で自分を強くしたのではなく、イエス・キリストによって呼びかけられ、憐れみを受け、無条件のご愛によって呼び寄せられたからです。 ここにパウロの喜びの感謝と喜びの源があるのです。 主イエスが強くしてくださっているのに、逆らって自分をつまらない者、弱い者と扱ってはならない。 むしろ、自分の弱さを知り尽くすように、そのうえでイエス・キリストによって強くされた自分を大切にするようにと願っておられるのです。 そのような者がイエス・キリストによって強くされたという自覚のうえに立って、イエス・キリストに仕える者として生かされるようにと招いておられるのです。 16節に、「わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」とあります。 パウロを強くしてくださった同じ主イエスが、テモテをも強くしてくださる。 それは、大事な神の務めを果たすためである。 神とのつながりを保つようにと、礼拝を感謝と喜びをもってささげている私たちすべてを強くしてくださるためなのです。 「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(2:4)とパウロは言います。 あふれるほど与えられている恵みを伝えていくこと、そのために与えられている信仰、注がれている神のご愛、憐れみなのです。 私たちの地上の歩みは、この信仰とご愛と憐みに支えられて、神の務めのために生かされているのです。
[fblikesend]「とうてい信じられない事」 使徒言行録13章26~41節
使徒パウロが異邦人宣教の出発点でもあった、記録されている最初の説教として、「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。」と語り始めます。 「神を畏れる方々」とは、ユダヤ教に改宗した異邦人たちのことです。 最初の段16節から25節で、イスラエルの民のうえに起こされた歴史的な出来事はすべて神のご計画に基づくもの、イエス・キリストの出現のための準備であったと先ず語ります。 神がイスラエルの民を選び出し、エジプトから解放し、約束の地と統一国家を与えたように、今や、このイエス・キリストによってローマ帝国から解放されることに止まらず、イエス・キリストによってすべての人たちが今まで縛られていた地上の力から解放されるために、「この救いの言葉はわたしたちに送られました。」と26節から37節にかけてパウロは宣教の核心へと展開するのです。 「エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、命の導き手であるはずのイエスを拒み死刑に定めたのです。 死に当たる理由は何も見いだせないイエスを十字架に架け、殺したのです。」 「しかし、神はそのイエスを死者の中から復活させてくださったのです。 幾日にもわたって復活させられたイエスの姿を、一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に現わされました。 彼らこそが今や、その復活されたイエスの証人となっています。」 そのために、「わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせているのです。 神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。」と力強く語ります。 「だから、兄弟たち、知っていただきたい」と、パウロの宣教の核心、信仰の神髄に38節から41節において迫ります。 「あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、イエスの名と教えと業を信じる者は皆、義とされる、罪の赦しが宣言される。」と言うのです。 「義とされる」とは、解放される、赦される、神の前に正しい者とされるという意味です。 パウロがこれから生涯掲げ続ける「信仰による義」、行いや儀式や理解による義ではなく、ただ受け入れ、信頼して共にイエス・キリストに結ばれて歩んで行こうとする者に与えられる「救いの言葉」、これが福音の本質であると語ります。 パウロ自身がいかに熱心であっても、律法を全うすることはできませんでした。 自ら感じる罪の重さは増し加わるばかりでした。 しかし、イエスと出会い、その呼びかけに応え、受け入れざるを得なくされたとき初めて、罪の赦しというものを味わったのです。 今まで守ることばかりに熱心であった律法から、パウロは解放されたのです。 神の前に義と認められるのは、律法を守ることではなく、解放者、救い主としてのイエスを信じることであったと悟ったのでした。 イスラエルの民のような歴史的出来事を持たない私たちですが、自分自身の短い生涯で味わった神の恵み、救いの恵みを味わっているので絶望する必要はありません。 私たちは信じながら疑っており、疑いながら信じています。 疑いに取り囲まれても、私たちは自分の閉じられた狭い世界の枠の中に閉じこもる必要もないのです。 イエス・キリストの十字架と復活が私たちの信仰の対象となるには、どうしてもこの「救われた、赦された」という自分自身の人生における実体験を必要とします。 そういう意味では、聖書の言う「復活」とは、この地上の世界で神によって生かされるという生き方を自ら引き受けるという決断を指し示しているのかもしれません。 預言者ハバククの言う「とうてい信じられない事」とは、地上の死で終わらない、「イエスによって義とされること」を神の救いの約束として語っているのかもしれません。
[fblikesend]「捨てた命から得る新しい命」 マタイによる福音書16章21~28節
「このときから、イエスは」とあります。 イエスと弟子たちが、宣教活動に邁進していたガリラヤ地方を一旦離れて、北の異邦の地であるフィリポ・カイサリア地方に退いたときでした。 イエスはしみじみと、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」と尋ね、弟子たちが「人々は、様々に言っている」と答えると、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と尋ねられたと言います。 弟子たちを代表してペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたと言う。 イエスは休息のためでも、監視を免れるためでもなく、エルサレムに向かう旅を歩み始める決意をされた「とき」、弟子たちが曲がりなりにも、イエスに対する信仰告白を語り始めた「ころ」、「御自分がエルサレムで、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている。」と初めて打ち明け始められたのです。 この受難の予告は、三度繰り返されたと言います。 いよいよ、父なる神の御心に従う決意をされたイエスが、エルサレムに向けて歩み始められた際に語られた「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」というみ言葉を味わい直したいと願います。 ペトロの描くメシアは、イスラエルの国を守る「解放者としての栄光のメシア」でした。 イエスご自身の描くメシアは、神のご計画で必ず起こることになっていると父なる神に委ね切るメシア、黙して耐え忍ぶ「苦難の僕としてのメシア」であったのです。 「わたしは、エルサレムに行って多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている。」と、初めて弟子たちに打ち明け始められたのです。 ペトロは、「とんでもないことです。 そんなことがあってはなりません。」と耳を疑った。 もしそうであるなら、そのような危険なところにイエスを行かせてはならないとペトロは強く意思表明をするのです。 人間として最善のふるまいであると思わされていることが、実は神のご計画を妨げてしまうことが多々あるのです。 「あなたはわたしの邪魔をする者。 神のことを思わず、人間のこと、自分のことを思っている。」 だから、私の後ろに引き下がって、私がそうしているように父なる神の思いに目と心を向けよと、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と、愛するペトロを招いて諭しておられるのです。 「自分を捨てる」とは、自分にとって「あってはならないことだ」と、こよなくイエスを愛する人間的な愛に振り回されているペトロに向けて、振り回されている「自分」を捨てなさい。 自分を第一義に捉えようとする、神とのつながりを失っている「自分」を捨てなさい。 主なる神との命の源とつながる本来の自分を取り戻し、そこから「わたしに従ってついてきなさい。」と言われているのです。 命の源につながる「自分」を失って、自分自身のためだけに目を奪われる者はその命を失う。 しかし、神に支えられて生かされていることに気づく者は、その命を得ると言われるのです。 「自分の十字架を背負って」とは、犠牲や忍耐や重荷を言うのではなく、イエスに従っていこうとする者に対する招きの言葉です。 この世の力が大手をふって支配している受け入れ難い世界において、神の命の源に連なる神の民の命に組み合わせられ、授けられている地上の命を生かされていく。 イエスの十字架に与って、赦され、解放され、地上の命の終わりに縛られることなく、神の邪魔をする力に取り囲まれながらも歩んでいくことができるようになる。 その「復活への道」が備えられているとイエスは招いてくださっているのです。 「自分の十字架」とは、この地上で味わう、イエス・キリストの十字架の恵みに共に満たされて生かされている「証し」そのものなのではないでしょうか。
[fblikesend]「神の選び」 エレミヤ書1章4~10節
エレミヤは「祭司ヒルキヤの子」と言います。 預言者の務めの難しさを身に染みて知っていただろうし、属国として生きて行かなければならない弱小国ゆえの悲観的な現実も味わったでしょう。 そのエレミヤに、「わたしはあなたを、諸国民の預言者として立てた」という主の言葉が不意に臨んだと言います。 この主の言葉にエレミヤはしり込みをし、「わたしは語る言葉を知りません。 わたしは若者に過ぎません。」と即座に返答するのです。 自分には、命じられた務めを果たすのに、弱さや欠けを正直に申し出たのです。 エレミヤの心からの拒絶であったのです。 このエレミヤの抵抗に主は、「あなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。 母の胎から生まれる前に、あなたを聖別した。」と呼びかけるのです。 エレミヤがどのような性格であるとか、これまで何をしてきたのかとか、今どのような思いで過ごしているのかに一切関係なく、主御自身のみ心を果たす為に用いられる器として定められていたという宣告です。 不意に、直接介入された神の宣言でした。 聖書はこれを「エレミヤの召命」と言います。 エレミヤは自分自身についてのことよりも、むしろ、異教の神々に偶像礼拝をしている民、神の呼びかけに聞こうともしない民を決して神は見捨ててはおられない。 その為には、だれかが預言者となって一国の王や指導者たちに意見を述べ伝える務めを果たさなければならないのではないかと気づかされたのではないでしょうか。 それほど大切な働きを果たしうる存在など、この世にはいない。 神ご自身が準備され、それにふさわしくない存在をもつくり変えて遣わす。 これから起こる出来事は神の働きによるもので、神が選び用いられる者こそがそれにふさわしい者になると悟ったのではないかと思わされるのです。 「神による召命」とは、絶望としか思えない厳しい現実の中で、嘆きもためらいも吹き飛ばすほどの主なる神の強い宣告によって、神の器にふさわしく新たに変えられていくということでしょう。 その「務め」とは、「行って、わたしが命じることをすべて語れ。」というものでした。 そのために、「主は手を伸ばして、エレミヤの口に触れ、見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。」と言われたのです。 「預言者」とは、神の言葉を直接預かる者ということです。 人間の限界の中で語られる言葉に、聖霊の働きによって神との出会い、主イエスとの出会いによる味わいを知って語るなら、神の言葉の出来事になる。 拙い人間の言葉が神のご愛に触れ味わった時に、導かれ語られるなら神の言葉になると信じます。 主なる神は、「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す。」と約束されます。 「恐れるな。 わたしが共にいる」という「インマヌエル」の約束こそ、旧約聖書、新約聖書すべてを貫く神の約束です。 もうひとつの約束は、「諸国民、諸王国に対する権威を委ねる。」というものでした。 その理由は、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊するために」と言います。 「北からの災いが襲いかかる」という神の働きのことです。 これは人々を罰し、裁くためではありません。 「建て、植えるために」と言い、悔い改めて、目覚めて、気づいて、新しい歩みをするためです。 神はすべての人々を、本来そのために授けられたはずの命を取り戻すために、イエスを十字架に架け、エルサレムとユダ王国を破壊せざるを得なかったのです。 エレミヤは、服従するしかない所に立たされたのです。 神への抵抗を砕かれたからです。 神が強いて服従させ、エレミヤに語りかけ、整えさせ、戸惑いやためらいを克服させられたからです。 神に服従する者にこそ、神の言葉が預けられ、神の働きを目の当たりにすることができるのです。 あらかじめ神に定められた存在とされているところに、人間の尊厳があるのです。
[fblikesend]「神の備えと人間の備え」 出エジプト記14章5~18節
主がモーセという人物を選び、用いて、「イスラエルの人々はエジプトから意気揚々と出て行った。 主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた。」と言いますから、この出来事は神の働きであったと記されているのです。 今朝の箇所もまた、「主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので」とあります。 エジプト王ファラオは心変わりをして、労役から解放してエジプトから去らせてしまったイスラエルの人たちを取り戻すため、自らの軍勢、戦車をすべて動員し後を追い、海辺に宿営していたイスラエルの人たちに追いついたと言う。 海を前にし、背後に襲いかかろうとするエジプト軍に挟まれたイスラエルの人たちの姿です。 「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。 荒れ野で死なせるためですか。」とモーセに呟くのです。 モーセはこの抗議に動じず、「今日、あなたたちのために行われる主の救いを見るから、主があなたたちのために戦われているから、恐れてはならない。 落ち着きなさい。 これから起こることをよく見なさい。 静かにしなさい。」と答えるのです。 主はモーセに、「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べよ」と示し、「あなたがただけでなく、襲いかかるエジプト人が、わたしが主であることを知るようになる」と語るのです。 神の周到な備えと、全く無防備でその場限りの呟きと嘆きに終始する人間の姿が浮き彫りになります。 人間の備えや願いが一切合切吹き飛んだところでこそ、神が用意されている「恵み」に気づかされる。 神のご愛と憐みに満たされ、神の子としてもう一つの世界に生きる者として変えられていくのです。 イエスはマルコによる福音書(13:24-31)で、終末のしるしから「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、多くの人を惑わす。 戦争や騒ぎやうわさが流れる。 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。 しかし、そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 あなたがたは惑わされてはいけない。 自分のことに気をつけなさい。 逃げなさい。 福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。 あなたがたはこれらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。 天地は滅びるが、わたしの言葉は滅びない。」と語られています。 イエスは、立派で美しいエルサレムの神殿を見て感動している弟子たちに、その神殿が崩壊することを預言し、涙を流されるのです。 「滅びる」とは、過ぎ去ることです。 喜びもつらいことも、幸いも悲しみも過ぎ去っていく。 「わたしの言葉、神の言葉」は過ぎ去らないと言われる。 私たちは神によって創られ生かされている存在であるから「尊厳」があるのです。 イエスによって表わされた神のご愛に満たされなければならないのです。 マザーテレサは、道端に倒れている人の姿に隠されたイエスの姿、込められた神のご愛を見たと語ります。 イスラエルの人たちは40年もの間、どのような思いで約束の地を目指して荒れ野を漂い歩いたのでしょうか。 エジプトを出た最初の一陣の大半は、亡くなったのではないか。 人々を導いてきたモーセでさえも、約束の地に入ることは叶わなかった。 約束の地に入ることが神の祝福、救いであるとするなら、この出来事は空しいことであったのだろうか。 救いの約束とは、今、神に用いられて生かされていること、現実の厳しさの中においても「神と共にいる、神が共に戦ってくださっている」ことを事実として味わい知ることではないでしょうか。 選ばれて用いられる、隠されたみ心に身を委ねる、示されたしるしに希望と確信を得、それに応えてみるところに、神の働きが必ず起こされるのです。
[fblikesend]「ありえないところに現れる神」 マルコによる福音書7章24~30節
「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。」とあります。 「そこ」とは、イスラエルのガリラヤ地方です。 「イエスは、ガリラヤ地方を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」と記されているように、イエスの宣教の中心はガリラヤ地方でした。 イエスはガリラヤを立ち去って、異邦人の町へ出て行かれたということです。 イエスの宣教の外にあった異邦人の町に出向いたのは、イエスにとって特別な時であったのでしょう。 イエスは12人の弟子たちを派遣するにあたり、「異邦人の道に行ってはならない。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」と言われるぐらい、イエスの宣教はイスラエルの人々向けでした。 イエスの語る福音を受け入れることのなかったユダヤ教の会堂、からだの癒しは求めるがそれが叶うとイエスのもとを離れていく群衆、 奇跡の力を見る為ならついてくるが神の御心を尋ね求めようとせず、形だけの律法を守るイスラエルの人々の姿を目の当たりにして、ご自身の宣教の難しさに直面し、主なる神との交わりを回復するため、その御心を尋ね求め祈るため、宣教の主戦場から一旦身を引かれたのです。 その宣教の枠外にあったところで、イエスは一人の女性と思いがけず出会うのです。 この女性は、「汚れた霊に取りつかれた幼い娘をもつ人、最初からイエスの足もとにひれ伏している人、ギリシャ人でシリア・フェニキア生まれの人」と紹介されています。 その人物がいきなり、「娘から悪霊を追い出してください」とイエスに祈り願うのです。 憐れな幼い娘の姿に耐えかねて訴える悲痛な母親の叫びです。 この素朴な「祈り」から、主イエスの前に進み出た女性の内面の戦い、そして主イエスとの対話が始まります。 この叫びに、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。 子供のパンを取って、小犬にやってはいけない。」とイエスは答えるのです。 「子供たち」とはイスラエルの人たちのことです。 「子犬」とは異邦人たちのことです。 イスラエルの人たちは、異邦人を「犬」と称し「汚れたもの」として忌み嫌っていたのです。 「パン」とは、主なる神から注がれる恵みです。 イエスは母親の訴えを避けているかのように聞こえますが、イエスは異邦人に対し恵みを拒んでいるのではなく、その恵みの注がれる順序について語られているのではないでしょうか。 「まず」と語り始め、「犬」ではなく、家の飼い犬のように「子犬」と語っています。 母親は、「主よ、しかし、食卓の下の小犬でも、子供のパン屑はいただきます。」と言います。 「主よ」とは、「あなたこそ、イスラエルの民の救いのために主なる神に遣わされてきたお方です。 まず、イスラエルの民に恵みが注がれるのは、あなたの言われる通りです。」という信仰告白でしょう。 「しかし、その恵みはこぼれ落ちるほどまでに満たされるはず、こぼれ落ちる恵みを私たち親子もまたいただくことを赦していただきたい。」と訴えるのです。 今までの「ただ娘を助けてください」から「娘とともに、この私をも助けてください」という祈りに変えられた瞬間です。 これから注がれる神の恵みがどれほど大きいものであるかを、異邦の地でイエスは思いがけず聞いたのです。 イエスはこの信仰を受けて、「それほど言うなら、よろしい。 家に帰りなさい。」と言われたのです。 神ご自身が果たされる救いのご計画のために引き起こされた、祈りと信仰の出会いでした。 恵みに与った者が果たすべき「祈り」があります。 恵みの外と思われるようなところにこそ、恵みなど関係ないと思っている人たちに替わって祈りによって執り成すことができる。 「祈る人」と「祈られる人」が一緒に恵みに与ることが、思いがけない所にこそできるのです。
[fblikesend]「来年、実がなるかも」 ルカによる福音書13章6~9節
何人かのガリラヤ人たちが、「ガリラヤからエルサレム神殿に訪れた巡礼団をピラトの兵士たちが殺し、彼らが贖いとして献げようとした犠牲の動物の血に彼らの流した血が混ぜられた。」と言い、「殺されたガリラヤ人たちが災難に遭ったのは、他のどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからか。」とイエスに訴えるのです。 同様に、「シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいたほかの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。」と、災難や事故についてもイエスに訴えるのです。 エルサレムにある水道工事のために立てられた「シロアムの塔」とは、ピラトがその工事費用に充てるためにエルサレム神殿のお金を流用した塔のことです。 ローマに対して協力したから天罰が下ったのではないかと、彼らは問いかけるのです。 イエスはこれらの問いかけに「決してそうではない。」と、そのような因果応報の思いを強く否定します。 「悔い改めなければ」ということばを用いて、神に対する向き合い方、神の前に立って生きる生き方を一新するようにとガリラヤ人たちに強く求め、今朝の箇所の「実のならないいちじくの木」のたとえを語られたのでした。 「いちじくの木」とは特別の使命を与えられた神の民、「ぶどう園の主人」とは神さまで、「ぶどう園の世話をしていた園丁」とは主イエスであると思われます。 「ぶどう園の主人」は、「もう三年もの間、このいちじくの木に実っている実を探しに来ていた」、大いに期待し楽しみに何度も足を運んだ。 ところが一度も実が成らず、「切り倒せ」と言います。 バプテスマのヨハネが、「蝮の子ら、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。 斧はすでに木の根元に置かれている。」と激しくこの「悔い改め」を迫ったことを思い起こします。 「悔い改めなければ滅びる」とは、「悔い改めれば滅びない」ということです。 「悔い改め」とは、この世においては「神なる存在」を唯一指し示される主イエスに出会い、受け入れること。 主イエスの執り成しと祈りによって、神のものへと変えられていくこと。 この再生のための猶予と機会が与えられること。 この証しを、それぞれに与えられた生涯の中で味わうということではないでしょうか。 その「ぶどう園の世話をしていた園丁」である主イエスが、「今年もこのままにしておいてください。 木の周りを掘って、肥しをやってみます。 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。」と父なる神に執り成してくださっているのです。 切り倒される猶予が与えられ、神のもとから注がれる新しい肥料が与えられる機会を得る。 今まで縛られていた向きを変え、再生の機会が与えられ、神の裁きの彼方にある神の恵みに生きる新しい力、命が与えられると言うのです。 主イエスは、エルサレム神殿の崩壊を予告し、泣いておられます。 最後の晩餐でもペトロに、「あなたは今日、三度わたしを知らないと言うだろう。 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないよう祈った。」と言われています。 主イエスはエルサレムの都が滅ぶことも、ペトロや弟子たちがご自身を裏切って逃げてしまうことも望んではおられない、耐えられない、「実のならないいちじくの木」を前にして困っておられるのです。 私たちはこの「裁き」と「赦し」の只中に命を与えられ、生かされています。 自らの罪深さを受け入れて、ありのままの姿を神の前に差し出して神の憐れみにすがり、恵みと執り成しを受け入れ、新しい道を歩んでいくよう園丁なる主イエスが促してくださっているのです。 この裁きと赦しの中に、私たちは揺れ動きますが、この両方を併せ持つ群れでありたい、神なるものを追い求めながら、神の憐れみに安らぐ群れでありたいと願います。
[fblikesend]「クリスマスまでとクリスマスから」 ルカによる福音書2章22~35節
イエス・キリストの誕生が、「紀元前」と「紀元後」に西暦を分けています。 古い神の契約である旧約聖書の時代と、新しい神の契約である新約聖書の時代に二分しています。 この古い時代と新しい時代を結ぶ結び目に、イエス・キリストの誕生の事実の証人として登場する年老いた預言者シメオンの生涯に目に留めたい。 イエスの両親は「モーセの律法に定められたとおり」、幼子イエスを献げるためにエルサレム神殿に連れて行きます。 「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。」と、「正しい人。 待ち望んでいた人。 聖霊がとどまっていた人。」として紹介されています。 律法を落ち度なく守って生活した人、終わりの日に到来すると言われていたメシアを信仰によって待ち望んでいた人、生きている間に救い主メシアに出会うと聖霊によって約束されていた人ということでしょう。 「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない。」とは、「生きている間に主が遣わすメシアに会うことになっている」ということでしょう。 思い巡らし悩みながらも、神の呼びかけに従って歩み始めたイエスの両親と、死ぬまでには必ず主が遣わされるメシアに会うと聖霊によって約束された年老いた預言者との出会いです。 シメオンはマリアが抱いている幼子を一目見るや否や、「その子を腕に抱き、神をたたえた。」と言います。 生きている間に救い主に出会うことのできた喜び、 神が聖霊を通して約束してくださったことを、御言葉どおり成し遂げてくださった神への信頼の賛美しているのでしょうか、私のような所にまで届けてくださった神の憐れみによる救いの現実に対する感謝しているのでしょうか。 シメオンは思わず、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」と言うのです。 長い間の祈りが、今、ここに聞き入れられた。 神が語られていた約束が、今、ここから始まった。 長い間託されていた預言者の務めを果たし終えた平安に満たされ、慰められたのではないでしょうか。 自分の腕の中の幼子に触れて、実感して、約束を確かに果たしてくださったと、安堵と神の安息に満たされて神に賛美して、遠大な神の力と変わることのない神の御心の確かさの恵みを感じ取って「この目であなたの救いを見た。」と証言しているのです。 イスラエルの枠に留まらず「万民のために整えてくださった救い」を「呼びかけるしるし」であると宣言するのです。 シメオンが語ったこのことにイエスの両親は驚きますが、シメオンはお構いなく「この子は、イスラエルの多くの人々を倒したり、立ち上がらせたりするために定められている。 反対を受けるしるしとして定められている。」と、人を倒すものにもなるし、立ち上がらせるものにもなる「躓きのしるし」となる、イエスの十字架の預言として「反対のしるし」ともなると語るのです。 いかなる苦しみ、悲しみも、このイエスと共に生涯を送ること、神にも仕え、人にも仕え、神によって選ばれ用いられた者であるなら神の恵みであると、イエスの両親にも希望をもって見届けるようにと遺言のようにマリアに語るのです。 「クリスマスまで」は、神ご自身が計画され、準備され、成し遂げられた「神の恵み」が先行する。 私たちはただ感謝して受け入れるだけでした。 「クリスマスから」後は、与えられたイエス・キリストにどのように応えて従っていくのか。 「先行する神の恵み」を十分味わった私たちが、今度は「信仰による応答」を果たしていくのです。 クリスマスの今日こそ、その第一歩なのではないでしょうか。 シメオンは若いイエスの両親に、最後の渾身の宣教と祈りを、感謝と喜びに満たされて「クリスマスから」後のシメオンとして賛美の歌を語り伝えたのです。
[fblikesend]「言をもって語りかける神」 ヨハネによる福音書1章9~18節
ヨハネによる福音書は、クリスマスの意味を端的に、「言(イエス・キリスト)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 わたしたちはその栄光を見た。 それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 言(イエス・キリスト)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と言います。 この信仰告白は、ユダヤ教会から追放される、ローマ帝国の庇護からも除外される厳しい迫害に見舞われていたヨハネの共同体の群れの間で歌われていた賛歌であると言われています。 キリストの福音が告げ知らされた新約聖書の時代に入って間もないキリスト者たちの信仰の告白を、このような表現でもって重なり合わせていたのでしょう。 ヘブライ人の手紙が語るように、「旧約聖書の時代の人々は信仰によって、神の選び、神の呼びかけ、神の招きに応えて、そのみ言葉に従って動き出した。 この地上での不安定な生活を迫られても、また本当にみ言葉どおりになるのかどうかも皆目分からない状態であっても、信仰によって耐えることができた。 考えもつかない様々な力を与えられて数え切れないほどの恵みが与えられ、神によって守られた存在であった。」と言うのです。 いったい彼らの目指した約束の地とは、地上のカナンという名の土地のことでしょうか。 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。 約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげた。」と言いますから、そうは思えないのです。 彼らの待ち望んでいた「約束の地」とは、神が設計し建設された堅固な土台をもつ都、彼らに備えられていた「神の都」のことでしょう。 この長い間の旧約聖書の時代に育まれてきた備えがあって、新約聖書の時代を迎えているのです。 「神はこの終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブライ1:3)と言っています。 このヨハネによる福音書は、イエス・キリストを「言」と表現し、「イエス・キリストは、初めから神と共にあった。 万物はイエス・キリストによって成った。 イエス・キリストの内にある命が、人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いているが、暗闇は光を理解しなかった。」と言います。 ここで、イエス・キリストは父なる神と同じ神のご性質をもつ者である。 同時に、私たちの歴史の事実として人間のご性質をも担ってくださったと宣言しているのです。 神が人となって私たちのところに遣わされたことが、クリスマスの本質です。 暗闇の中においても、光として神が共におられるという喜びが語られているのに、暗闇がその光を理解しなかったというヨハネの共同体の群れの悲痛な叫びです。 父なる神によって注がれた「光」を受け入れるのか拒むのかによって、二分されると言う。 このイエス・キリストという「光」を受け入れた者は神の子となる資格が与えられる、このことが神の創造の目的であり、イエス・キリストを遣わした目的であると語るのです。 最後に、ヨハネの共同体の群れは、「わたしたちは皆、イエス・キリストの満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 この恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 父のふところにいる独り子である神、イエス・キリストが父なる神を示されたのである。」と信仰告白しています。 最初のクリスマスから、12使徒から、ヨハネの共同体の群れから、キリストの福音は告げ知らされてきました。 神に選ばれ、招かれた者の人格を通して福音は宣教されていくのです。 私たちが見る、聞く、触れる、味わうことのできる存在、「言」が肉となって、「光」となってくださったことが神の恵みです。
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