「とどまらないイエスの孤独な祈り」 ルカによる福音書22章39~46節
弟子たちとの最後の食事を終えた夜が更けたころ、イエスと弟子たちが「いつものように、いつも行かれるオリーブ山」に行かれたと言うのです。 「これがあなたがたのために与えられるわたしのからだである。 これはあなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約である。」と言われて、これから起こる十字架の出来事を語られた直後です。 同時に、「12弟子の中のユダもペトロもこれからご自身を裏切ることになる。」とまで預言された直後での「イエスの祈りの姿」です。 イエスがいつものオリーブ山で父なる神に最後の祈りをささげる前に、ついてきた弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい。」と言われたのです。 そしてご自身は、「石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいて、『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。 しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。』」と祈られたのです。 このイエスの祈りの姿と祈りの言葉をマタイやマルコではもっと赤裸々に、「わたしは死ぬばかりに悲しい。 できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 この杯を、わたしから取りのけてください。」と、神の前にひとり立たされて泣かざるを得ない人間を代表しているかのように弱々しく祈る姿を映し出すのです。 そのイエスの祈りの姿を憚ることなく弟子たちに見せ、その祈りの言葉を弟子たちに聞かせているかのように描くのです。 「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」と弟子たちに語るぐらい、この世の霊はあなたがたをイエスご自身に対する不信と絶望へと引きずり込もうとしている。 祈りによって神の霊が働き、神との交わりが保たれなければ、この世の霊との戦いに敗れてしまう。 だから、「誘惑に陥らないように祈りなさい。」と言われ、ご自身の赤裸々な祈りの姿を見せ、祈りの言葉を直接聴かせることを望まれたのではないでしょうか。
この「杯」とは、神の裁きという人間の犯した誤った歩みに対する神の怒りでしょう。 肉体の苦しみに止まらず、神に見捨てられ神の裁きに身を委ねる魂の苦しみです。 私たち人間には本当の苦しみを知ることのできない神の裁きの宣告を受ける苦しみです。 イエスご自身に突き付けられたままの「杯」、父なる神の沈黙のままの「杯」です。 自らの力によって立ち上がろうとする思い上がった信仰から、神ご自身がその御心をもってこの身に立ち上がってくださいと祈り願う信仰へと整えられていく備えの「杯」です。 一方で、すべての神の民の救いのためにそうせざるを得ない、共に苦しんでおられる父なる神の痛みの「杯」なのです。 「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈ることができたその時こそ、神のみ心を悟り知り得た時でしょう。 ルカは、マタイとマルコとは異なり、裏切ったユダが知り尽くしている「いつものように行く、いつもの場所であるオリーブ山で」、イエスはその杯の時を静かに待っていた。 祈り終え戻ってきた時に、「弟子たちは悲しみの果てに眠り込んでいた。」 「すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。」と言うのです。 弟子たちもまた不安と恐れに苦しんで疲れて眠りに落ちていたのでしょう。 ご自身の十字架の後、地上の務めを委ねていくことになる弟子たちにイエスは憐れんで、最後に「祈ること」を教えられた。 イエスですら避けることのできないこの世の霊との戦いであった。 解決や糸口も与えられず、すべての人に裏切られ、孤独に祈り続け、誰からも理解もされない中、自らの杯に赴くことができたのは父なる神の力添えがあったからだとルカは語るのです。 「石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて祈られた」、「自分の務めである杯をじっと待っておられた」イエスの祈りの姿をルカは語るのです。
「神の言葉を食べ、語りなさい」 エゼキエル書2章8節~3章3節
私たちと同じからだを背負ってこの世の生涯を送られた主イエスは、この世の霊の誘惑に遭われた際に、挑みかかってきたこの世の霊に「人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と書いてあると答えられました。 イスラエルの40年もの間荒れ野をさまよった出来事を記した申命記のみ言葉(8:3)を引用し、私たち人間は苦難の中の歩みであるからこそ、神の口から出るみ言葉に生かされて生きる存在であることを答えられたのでした。 旧約聖書の時代に選ばれて召された預言者エゼキエルに主なる神が語られたみ言葉に触れて、主なる神のみ心に迫りたいと願います。 詩編119編では、「神のみ言葉」を、命を得させるもの、希望を与えるもの、歩む道を照らす光、あるがままに主なる神のみ心を悟り知らせるものと賛美しています。 ヨハネ福音書では、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 わたしたちはその栄光を見た。 それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(1:14)と、イエス・キリストそのものが神のみ言葉であると信仰告白しています。 「神のみ言葉」はその解釈が大切なのではない。 み言葉の命に触れ、そのみ言葉に立って生かされ、そのみ言葉に立ち続けること、み言葉そのものであるイエス・キリストを仰いで共に生きることが大切なのです。 エゼキエルは紀元前597年にユダの王とともに、イスラエルからバビロンの地へ敗戦国の囚人としてすべてを剥奪され、強制的に移住させられた人物です。 このバビロン捕囚が起こされた5年後です。 突然、エゼキエルは祭司の立場から今度は預言者として立ち上げさせられる直接の呼びかけを受けた箇所が、今朝の聖書箇所です。 主なる神が、「自分の足で立て。 わたしはあなたに命じる。」と語り始めたとき、「霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。 そして、語りかける者にわたしは耳を傾けさせられた。」と言います。 主なる神のご用のために立ち上がる者を、ご自身が霊とみ言葉を授け整えられたということです。 「わたしがあなたに語ることを聞きなさい。 あなたは反逆の家のように背いてはならない。」と、イスラエルの民の今の状態をエゼキエルに神は伝えるのです。 そして、「あなたは、口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。 あなたの目の前にあるものを食べなさい。」と言われる。 「あなたの目の前にあるもの」とは、差し伸べられている手にある巻物、表にも裏にも文字が示されていた巻物です。 イスラエルの民の哀しみと呻きと嘆きの詰まったものです。 巻物を食べるだけでなく、「行ってイスラエルの家に語りなさい。」と言われるのです。 エゼキエルは食べ始めるどころか、噛み砕いて、飲み込み、それを胃袋に入れる。 ありのままの現実をそのまま受け入れ、腹に落とすまでに食べ尽せと言われる。 「恥知らずで、強情な人々のもとに遣わされて」、主なる神への信頼と希望を失わないようにとエゼキエルに語らせるのです。 「神のみ言葉」こそ、呼びかけられた者に新しい創造をもたらすもの、神の強い意志と願いとご愛が込められたものです。 それを腹の底に落ちるまでに食べ尽し味わい知ることを、主なる神はエゼキエルに求められたのです。 呼びかけられた者は、聞く者が聞き入れようが拒もうが語らなければならない。 立ち上げられた者は、神のみ言葉の預言者であることを証ししなければならないのです。 一人一人の預言者を通して、「神のみ言葉」はこの秋田の地まで語り継がれてきたのです。 たとえ神を認めることができないような悲惨な状況にあったとしても、この世の人たちと一緒になって「神はどこにおられるのか」と共鳴するのではなく、父なる神のご愛と力が、主イエスによってこの世に覆われている、神の恵みのもとにあると語り続けるのです。
[fblikesend]「育てられていく神の民」 マルコによる福音書4章13~20節
ペンテコステ(聖霊降臨日)を迎え、弟子たち「一同が一つとなって集まっているところ」に、「聖霊が一人一人の上にとどまった」。 すると弟子たちが「聖霊に満たされ、霊が語らせるままにいろいろな言葉をそれぞれが語り出した」と言います。 「宣教する教会の誕生日」、イエスの福音の宣教開始の号砲が神の働きによって鳴り響いた出来事ではなかったかと思わされるのです。 弟子たちは何も分かっていないこの世に向かって、イエス・キリストを自分自身の言葉によって宣べ伝える力と勇気、ふさわしい言葉が与えられて直ちに働き始めた。 イエスが処刑されたエルサレムの町の中、宗教的にも精神的にも伝統的にもユダヤの支配の中、武力的にも政治的にもローマの支配のもとにある中、そのような社会に向けて恐れることなく、人がまるで変ったかのように語り始めた。 何の計画も準備もなく、組織も体制もなく、資金も援助もなく、まとまった教えや理解があったわけでもなく、聖霊が一人一人に降ったその瞬間から「宣教する群れ」となっていった。 弟子たちの思いや都合や状況に全く関係なく、神の業が始まった。 人間の計画や決断ではなく、神ご自身がイエス・キリストの福音を告げ知らせようとしているとしか言いようがないのです。 宣教するのは、神ご自身です。 その為に神は聖霊を注いで、力や知恵を与え、ご自身のみ心を私たち神の民を用いて果たされていくのです。 神によって「強いられた恵み」でしょう。 ペンテコステこそ、「神の民として育てられていく教会」、「新たに造り変えられて一つにされていく教会」の始まりではなかったかと思うのです。 ある日突然注がれた「聖霊」に、イエスが譬えで語られた「蒔かれた種」が私には重なってくるのです。 私たちは「蒔かれた種」を受け取って、その隠されている神のみ言葉の中にある神の命の鼓動を、実感として果たして受け取っているでしょうか。 受け取ったなら、新しい命の芽生えという祝福の約束を見出しているでしょうか。 もし、この隠されていたみ言葉の中にある神の命の鼓動を、自分自身の命の鼓動として受け取り、晒されている厳しい現実の世に生きていくことができるとするなら、どんなに幸いなことかと思わされるのです。
蒔かれた場所によって、その種が奪い去られたり、根が張らなかったり、邪魔されて実がならなかったりする。 あるいは、豊かに実がなり神の祝福に満たされる。 「蒔かれた種」には、必ず実が成る、成長する命が秘められている。 神のみ言葉には、人を造り変え育て上げる命がみなぎっている。 その種は、あらゆるところに蒔かれている。 神の言葉は、弟子たちにも、周りの人々にも、私たちにも、この世のあらゆる人たちのところにすでに語られている。 神のみ言葉は、私たちひとりひとりに受け入れられるのを待っているのです。 ペンテコステの日に、イエスの弟子たちは何の用意もなく突然受け取って新しく「種を蒔く人」となると、弟子たちの祝福の約束を「蒔かれた種の譬え」ではなく、「種を蒔く人の譬え」として語っておられるのです。 更にイエスは、「種を蒔く人の譬え」に、「ともし火の譬え」と「秤の譬え」を付け加えています。 ともし火は、周りを照らすためではないか。 隠れているものであらわにならないものはない。 神の言葉であるイエスの福音は密かに語られるものではない。 だから、「聞く耳のある者は聞きなさい。 何を聞いているかに注意しなさい。」と言います。 福音の言葉も、私たちのものさしで小さく聞くなら小さく与えられる。 しかし、大きな期待をもって祈り願うなら、考えもつかない実りにあずかることになる。 神の秤に沿うよう、注がれる聖霊を求め祈りましょう。 「種を蒔く人」の祝福が、私たちには恵みとして約束されているのです。
「感謝、愛されている者として」 イザヤ書 41章 10節
「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。 たじろぐな、わたしはあなたの神。 勢いを与えてあなたを助
け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」
これは、預言者イザヤによる神の民イスラエルへの解放と救いの言葉です。 彼らは選ばれた民としての使命を果たすことができませんでした。 なぜなら彼らは律法を誤解し行いによって義とされることを求め、神に従うことができなかったからです。
発達心理学の礎を築いたエリク・H・エリクソンは「心理社会的発達理論」を提唱し、自我の発達を8段階に区分しました。 その中で、1歳から3歳までの3段階の基本となる発達段階に「基本的信頼」が人生において重要な役割を果たすと考えました。 「基本的信頼」とは、「自分が生まれてきたこの世界は安全で信じていい。自分は居ていい」という自信を与える信頼感です。 特に1歳半までにそれが培われるというのです。 エリクソンによると、この基本的信頼が得られなかった子どもは、その後の発達段階になんらかの支障をきたすと語っています。 エリクソン的に言えば、イスラエルの民に欠けていたのはその「基本的信頼」だったのかも知れません。 彼らは、互いに愛し愛されるために与えられた律法を誤解し、それを守らなければ自分たちは神様に愛されないと思い込んでしまったのです。 それはとても悲しいことで、子どもが親に対して「良い子でないと、愛してもらえない」と思い込むのと一緒です。 しかし、実際には神は彼らを深く愛し、導き守る神であったことをこのイザヤ書のみならず、いたるところで聖書は証ししています。
教会が世に伝え、分かち合うのは、「神の愛」です。 そして、その愛が見える形となって来られたのがイエス・キリストです。 ヨハネは「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。」(1ヨハネ4:10)と証言しました。 だからこそ大切なことは、その愛に信頼すること、私たちを行いによってではなく、恵みによって救ってくださる神の愛によって生きることなのです。 私たちは、旧約のイスラエルの民のように愛されるため義とされるために生きるのではなく、既に赦され愛されている者として恵みによって歩むのです。
北海道に犯罪や非行に走った子どもたちを受け入れている「家庭学校」という施設があります。 そこで昔、谷昌恒という先生がおられ、子どもたちに「私たちの心の中には相反する二つの思いがあります。 一つは、『よし、やってみよう!』と思う心と、そんな気持ちに水を差すような『どうせやっても無駄だ』と思う心です。 しかし、イエスさまは、私たちが『もうだめだ。どうしようもない』と考えてしまっている状況の先におられるのだ。 だからあきらめないで、チャレンジしてみよう」と、希望を与え、励ましていたといいます。 先ほど「基本的信頼が得られなかった子どもは、その後の発達段階になんらかの支障をきたす」とありましたが、エリクソンは、たとえそうであったとしても少年・青年期、そして大人になってもそれを補うに余りある人間関係が与えられることによって、人は「基本的信頼」を取り戻せると補足しています。
私たちもまた、人を救いに導き、積極的な生き方へと導く神の愛を信じ伝え、既に愛されている者として歩んでまいりたいものです。
(大富キリスト教会 小田衞牧師)
「思いを超えた神の恵み」 使徒言行録3章1~10節 (大久保教会石垣副牧師)
エルサレム神殿に入る門は三つあり、その一つは装飾が美しく、人々から「美しい門」と呼ばれた。 その門前には毎日、午後三時になると、生まれつき足の不自由な男が運ばれてきた。 この男が求めるのはいつも、行き交う人々からのわずかな金銭であった。
「彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。」(3:3)
ペトロとヨハネ、この二人は思いがけず、この男によって、神殿に入ることを遮られてしまった。 男はわずかな金銭を求めたにすぎなかったが、「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい』と言った。」(3:4)
「彼をじっと見て」、「わたしたちを見なさい」と、「見る」ことが二度繰り返されている。 この時の「見る」という言葉は、しっかりと見る、きちんと見るという言葉である。 彼らは互いに、しっかりと見つめ合うことになった。
この男の、長い物乞いの生活の中で、「じっと見られ」たり「見なさい」と言われたことがあったろうか。 男が見つめ、施しを期待して待っていると、二人は思いがけない言葉を彼に投げかけた。 「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
この男は、「いや、わたしは立てない。 できるわけないじゃないですか」と断ることもできたはずであったが、男はペトロが求めるままに従った。 ペトロが、男の右手を取って彼を立ち上がらせたとき、この男にとって全く別の人生が始まった。
これは、ペトロが働きかけたペトロの業ではない。 男が逆らわずに立ち上がったように、ペトロ自身も疑わず、神の命ずるままに、主の名を呼んだのである。 これは、復活の主がなせる働きであった。 そのとき、男の病んでいた足はいやされ、新しい命に生きる者とされた。 復活の主への信仰とその力、その希望をペトロが伝えた。 その男は、これを受け取るだけであったが、男の口からは賛美の言葉が生まれてきた。
「イエス・キリストのみ名によって」とは、直接的には「イエス・キリストの命令によって」という事である。 「イエス・キリストの命令」はいつも、聴く私たちにとって、実行不可能に思えることが多いのではないか。 わたしは、秋田教会の礼拝で、どのみ言葉を取り次がせていただこうかと祈り求めてきたが、その中で与えられたのが、使徒言行録3章の出来事であった。 「イエス・キリストのみ名によって」取り組んだ、この度の秋田教会の出来事が、皆様の思いを超えた恵みをもたらしたと伺ったとき、使徒言行録のこの出来事が、この秋田で起きたと、そのように導かれてきた。 これは、この出来事を知らされた、周囲のわたしたちにとって、大きな励ましとなっている。
教会と保育を取り巻く状況は、どこも厳しいものがある中にあっても、周囲の方々の目は、絶えずこの集いと働きに注がれてきた。 そこから、今、託された事業を、新しい思いで立ち上げるように導いたのは、やはり神であった。
秋田バプテスト教会と、ひかり幼稚園が「キリストの名によって立ち上がり、歩いた」ことは、復活の主への信仰とその力を得て、できたことであった。 これからの歩みが、一層、主の栄光を表すと信じる。
(3:6) 「ペトロは言った。 『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。 ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』」
「み言葉をもって語られる神」 創世記15章1~21節
わずか4章しかないルツ記には、小さな家庭の中に起こされる様々な出来事、子どもの誕生、飢饉、移住、夫の死別、子どもの結婚、子どもの死別、人の出会いなどが記されています。 それがどのようなものであれ、神のみ言葉によって果たされていく現実を受け取っていく。 人間の知恵に溺れることなく神に委ね、目の前に起こる現実の意味を知らされるまで待つ。 これからどうなるのだろうと、未だつかみ取ることのできない現実を背負いながら歩むことの大切さを知らされるのです。 聖書箇所の冒頭に「これらの後で」とあります。 アブラムが戦いに大勝利して、多くの戦利品を手にし人々の賞賛の嵐の中でということです。 そうした中なぜか不安を抱くアブラムに、「主の言葉が幻の中で臨んだ」とあります。 「恐れるな。 わたしはあなたの盾である。 あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」と呼びかけます。 アブラムは恐れる必要はないし、恐れてはならない。 主ご自身がアブラムを守る。 戦いの勝利は、アブラムの勇気や決断の結果でも、知恵や力によるものでもない。 主ご自身こそが、アブラムに対する報いであると語りかけるのです。 私たちは、主なる神を求めるより主なる神によって与えられる報いや恵みの内容にこだわってしまう。 主なる神は、ご自身に目を向けよと言われる。 しかし、アブラムは、「わたしに何をくださると言うのですか。 わたしには子供がありません。 今のままでは、家の使用人である者に家を継がせることになるのです。」と、しるしを神に訴えるのです。 神への不満でもあり、神の約束に対する疑いでもあるアブラムの心の破れです。 主なる神は、「そうではなく、あなたから生まれる者が後を継ぐ。 天を仰ぎなさい。 星を数えてみなさい。 あなたの子孫はこの星のようになる。」と言われるのです。 目に見える現実にしか目を向けていないアブラムの目を、「外に、天に」向けさせ、神が語られた約束を信じる信仰へとアブラムを導き出すのです。 万物の造り主がだれであるのか、子どものいない老夫婦に子どもを与えることもできるお方であることを、アブラムを覆っている「疑い、迷い、諦め」のひとつひとつを取り除いていこうとされるのです。 「わたしはあなたをここまで導き出した主である。」と、この世界を創り出した主であると同時に、あなた個人の生涯にも働く存在であることを宣言されたのです。 そして、奇妙な準備をするようにとアブラムに告げます。 契約の当事者が裂かれた動物の間を通り、その契約に違反した場合には切り裂かれてもよいと承認する当時の契約の手続きです。 ところが、17節に記されているように、「二つに切り裂かれた動物の間を、神ご自身だけが『煙を吐く炉と燃える松明』の姿を取って通り過ぎたのです。 契約の一方の当事者である主ご自身だけが、裂かれた動物の間を通り、自ら約束された契約の責任を一切負うと一方的に宣言されたのです。 主なる神は、その恵みを一方的に自らをかけて約束し、誓われるお方です。 私たちのいかなる契約違反をも問わず、赦して、自ら背負ってくださるのです。 神の祝福を疑い、不満を表明し、抗議するまでする神のみ言葉を離れたアブラム自身の姿を見つめ直す「試みの時」です。 私たちは勝手な自分のものさしに惑わされ、目に見える安心を求め不安を増幅させます。 神の備え、神の恵みの約束の言葉が常に、私たち人間の歩みに先立つのです。 神が先んじて歩まれ、準備して、私たちと共に歩んでくださるのです。 言い換えれば、神のみ言葉によって現実を、神ご自身に対する信頼によって受け取っていく恵みがすでに備えられているのです。 この神のみ言葉に委ね、自分を遥かに超えた神の大きな望みの内に生きていくことです。
[fblikesend]「今も生きているキリストの生涯」 マルコによる福音書8章31~38節
創世記4章には、最初の家族の誕生と言うべきアダムとエバの間に生まれた兄弟カインとアベルの間におきた出来事が記されています。 兄カインは家の土地を与る土を耕す農民となった。 弟アベルは家の周辺を任され羊を飼う者となった。 それぞれが忠実に働き、神に精いっぱいの献げ物をささげたと言います。 ところが、なぜか「主は弟アベルとその献げ物に目を留められたが、兄カインとその献げ物に目を留められなかった。 兄カインは激しく怒って顔を伏せた。」と言います。 「主なる神が目を留める」とはその人を祝福されるということです。「顔を伏せる」とは主なる神の前から立ち去る、隠れるということです。 神にもはや見放された。 その腹いせが神に向かわず、弟アベルに向かう。 神は、「どうして怒るのか。 どうして顔を伏せるのか。」と、家族と神と共に生きるために顔を上げるよう呼びかける。 主なる神は決してカインを見捨てておられないが、カインの目にはそうは映らない。 カインの心の中に湧いてくる闇の力がその目と心を曇らせて、自分のものさしだけで自分の不幸を嘆き、ついに弟アベルを襲って殺すという取り返しのつかない過ちを起こしてしまうのです。 そのカインに主なる神は、「何ということをしたのか。 お前はさすらう者となる。」と宣告するとともに、そのカインを守る「しるし」を付けられたと言うのです。 神はカインが犯した過ちを赦しておられるのではなく、過ちを犯したカインを赦し「しるし」を与えてご自身のもとへ招いておられるのです。 カインは「さすらう者」として、神に守られながら試みの中に置かれるのです。 そこから新たに造り変えられるために、神より「しるし」が与えられたと言うのです。 今の私たちに与えられている「イエス・キリストの十字架の死と復活」の出来事こそ、創世記の言う「しるし」なのではないかと思わされるのです。 イエスが弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と尋ねた時です。 ペトロは「あなたは、メシアです」と答えたと言います。 イエスは御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒め、十字架の苦しみと死、復活の出来事が自分の身に必ず起こるべきことになっていると語られたのはどうしてでしょうか。 ペトロの言うメシアとは、再びダビデの時代のように栄える王国を造るお方、「解放者としてのメシア」です。 神から遣わされたメシアをローマによって処刑させてはならないと、イエスをわきへお連れしていさめ始めたと言います。 人間の最善の振る舞いとしてイエスを人間に従わせようとしたペトロを、決して突き放すのではなく、イエスを諫めて自分に従わせようとしたペトロをご自身の後に従うようにと厳しい言葉をもって命じられたのです。 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」とすべての弟子たちを招かれたのです。 「自分を捨てる」とは、イエスと共にあるという自分を受け入れなさい、イエスに委ねなさいということです。 「自分の十字架を背負う」とは、イエスでしか負うことのできない罪の赦しの十字架以外に、救いの約束の道はない。 それは、神が与えてくださらなければ手に入れることのできない新しい命です。 それを自分のためにではなく、神のために用いられなさい。 そうすれば、新しい命に生きることになると約束されたのです。 「わたしに従いなさい」とは、岐路に立たされた一瞬のことではない。 この世の真っ只中でイエスに従うことを最後まで貫き通しなさいということです。 聖霊が降って以降、「あなたは、メシアです」というペトロの信仰告白が整えられていったように、私たちもまたそれぞれにふさわしく成熟し、整えられていくのです。
[fblikesend]「キリストを新しく着る」 マタイによる福音書12章43~45節
今朝の「汚れた霊が戻ってくる」という聖書箇所が、どうして宣教題「キリストを新しく着る」に結びつくのかと不思議に思われた方も多いのではないでしょうか。 イエスが語られたこの短いみ言葉は、「しるしを見せてください」と迫った「律法学者とファリサイ派の人々」に向けて語られたみ言葉です。 彼らは、自分たちこそ神の救いにあずかるに最もふさわしい者であると自負していた人々です。 神の子である「しるし」など示せるはずがないと、イエスを訴える口実を得ようと迫った人々です。 イエスは、彼らの求める「しるし」を拒んだのではなく、彼らの心の中にあるものを拒まれたのです。 その思いが、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる。 預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」というみ言葉になったのです。 「預言者ヨナのしるし」とは、神の命令に背いたヨナが悔い改めて、そのことを告白して海に放り出されたけれども、三日三晩巨大な魚の腹の中にいて災難を免れた。 再び神の招きが臨んだヨナが、もう一度神の命じられたところに遣わされて、人々に神の警告を語るのです。 人々は単なる聴衆としてではなく、そのヨナを通して語られた神のみ言葉を受け入れて神のもとに立ち帰ったのでした。 「しるし」という目に見えるものを求めるのではなく、神のみ言葉を受け入れ神ご自身に触れる情熱に至る信仰を、イエスは「律法学者とファリサイ派の人々」に求められたのです。 イエス・キリストご自身である肉となった神のみ言葉の他に、この世で「しるし」を求めてはならないとイエスは訴えておられるのです。 「汚れた霊」は一度は出て行くけれども、また戻ってくると言います。 戻ってみると居心地が良いので、前いた時よりも悪いほかの霊をいっぱい引き連れて住み着くと言うのです。 様々な人生経験を経るたびに自分自身が積み上げてきたものに誇りをもってしまったのかもしれない。 様々な病気や貧しさや苦難によって「汚れた霊」がその弱さにつけ込んできたのかもしれません。 それらの弱さこそ、「神の業が現れ出るためである」とイエスは断言します。 そのために神の武具、「真理の帯、正義の胸当て、平和の福音を告げる履物、信仰の盾、救いの兜・・・・」を身につけなさいと聖書は言います。 それらはすべて防御用の武具ばかりです。 それほどまでに「汚れた霊」との戦いは困難なものです。 聖書が身につけなさいと語る唯一の攻撃用の武器とは、「霊の剣、神のみ言葉」だけです。 私たちの悔い改めが一時点だけのものとなってはならない。 新しく従って行こうとするその決断が瞬間のものになってはならないのです。 そのための主イエスの十字架の死と復活が、「最後のしるし」として呼びかけられたのです。 パウロはこのことを自身の体験から、「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。 滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨てなさい。 心の底から新たにされなさい。」と言うのです。 問題は、その次が大切である。 「神にかたどって造られた新しい人を身に着けなさい。」(エフェソ4:24)とパウロは言うのです。 「キリストを着る」とまでパウロは表現しています。 「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている。 そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。 あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つです。」と言います。 真理として見える姿となってくださったイエス・キリスト、神のみ言葉そのものとして呼びかけてくださったイエス・キリストを身につけるまでに内に宿す、従ってみるということです。
[fblikesend]「キリストのからだなる教会の成熟」 エフェソの信徒への手紙4章1~16節
「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」とパウロは言います。 この三つの言い方は、いったいどういうことでしょうか。 最初の「すべてのものの上にあるお方」とは、すべてのものの父である唯一の神です。 創造主なる神、絶対的存在である。 すべてを越えておられる神、「私たちすべての神」ということになるのでしょう。 私たち人間は偶然としか思えないものに取り囲まれています。 しかし、そこには神の必然がある。 神のみ心が果たされている。 神のご計画に私たちが用いられているとパウロは言うのです。 その次に書かれている「すべてのものを通して働いておられるお方」とは、「降りて来られた神」です。 私たちの側近くまでおられて、生活の隅々にまで人間となってくださった神、キリストであるとパウロは言うのです。 地上に降って来て、天に昇って行かれて、ご自身の賜物を地上の私たちに分け与えられたと言うのです。 そして、最後に書かれている「すべてのものの内におられるお方」とは、私たちの内に宿られる神です。 すべての人びとの心の内にあって働いておられる復活されたキリスト、神の霊です。 パウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。 キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)と告白しています。 私たち一人一人の心の内に働く、私たちの日常生活の中にまで働く「私たち一人一人の神」なのです。
「わたしたち一人一人に恵みと賜物が与えられるために」、また、「わたしたち一人一人がすべてのものに満たされるために」、「すべてのものの上にあるお方」が「すべてのものを通して働くお方」として、「すべてのものの内におられるお方」としてキリストをこの世に遣わしてくださったのです。 この地上にある私たちの群れ、教会の頭として、このお方が与えられたのです。 「すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(1:22-23) 「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(2:22)とまで語ります。 ですからパウロは、「体は一つ、霊は一つ、希望は一つ、主は一人、信仰は一つ、バプテスマは一つ」と言うのです。 このキリストに結び合わされることによって整えられていく。 それぞれ職務、賜物を与えられて、奉仕の業に適した者とされ整えられていく。 一つのものとなっていく。 この地上において、キリストの体が建て上げられ、キリストご自身が、キリストの霊があらゆるものの中に満ちていく。 これが「すべてのものの上にあるお方」、父なる神のこの世における最終目的なのではないでしょうか。 働いておられるのは、教会という体の頭としてのキリストご自身です。 このキリストに堅く結ばれることによって、私たちは整えられていく。 「キリストに対する信仰と知識において一つのものとなっていく。 成熟した人間となっていく。 キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する。」と言うのです。 パウロは最後に、「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。 キリストの愛によって造り上げられてゆくのです。」と言います。 イエスが愛した愛とは、私たち人間が持ち合わせていない神によって注がれた神の愛です。 ただ憐れみだけによって、キリストに結び合わされて、分に応じて働いて体全体を成長させて、キリストによって注がれる愛によって、教会という体全体は造り上げられてゆくとパウロは宣言します。
「復活の主、キリストの愛」 ローマの信徒への手紙 8章31~39節
マルコによる福音書は、復活したイエスの姿自体を一切描いていません。 それどころか、イエスが復活したという事実そのものがだれにも告げられないままに、唐突に終わっているのです。 週の初めの日朝早く、3人の婦人たちが死者の装いを整えるために、悲しみを憶えながらイエスの遺体を求めて墓に出かけてきたと言います。 ところが、婦人たちは思い描いていた光景とはまるで違う驚きの出来事を目の当たりにします。 自分たちの力では動かしがたいと心配していた墓の石がわきへ転がしてあった。 墓の中にいた人物が、「驚くことはない。 あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。 さあ行って、弟子たちとペトロにこのことを告げなさい。 あの方は予て『復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く』と言われていたとおり、そこでお目にかかれる。 あなたがたは、イエスの遺体をお納めしていた墓の中をよく御覧なさい。」と言うのです。 余りの突然の出来事により、婦人たちは「震え上がり、正気を失った。 余りの恐ろしさに、墓を出て逃げ去った。」と言います。 それほど、イエスの復活は弟子たちにとって衝撃的な出来事であったのです。 この事実を突きつけられた婦人たちは、イエスのもとを離れてしまっていた弟子たちと全く同じように、逃げ去るように復活の主イエスのもとを離れ去ったのでした。 この十字架に架けられ死んだイエスが「復活」という新しい道を歩み始めた出来事こそ、「私たちと全く同じ死ぬべきからだを背負わされて、この世の誘惑も受けるしこの世を恐れることも悲しむことも知らされて、神との交わりを制限されたイエスご自身の、人間としてこの世を歩み通した愛の業である。」と語るパウロは、自らの体験の中でこの「復活」の新しい生き方を味わったのでした。 そのパウロが、「だれが、わたしたちに敵対できますか。 だれが、神に選ばれた者たちを訴えることができるでしょう。 だれが、わたしたちを罪に定めることができましょう。 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」と訴えます。 「神が選んだのであるなら、神が味方であるなら、人を正しく裁くことができるのは神なのであるから」とその理由を述べています。 その理由の中に、「わたしたちすべてのために、その御子さえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」 「復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる。」という言葉を付け加えるのです。 私たちすべての過ちを背負って、神の裁きを替わって受けて贖ってくださった。 復活という生き方、新しい道を切り開いて、自らその道を歩んでくださった。 そこに留まることなく、「復活されたイエスが父なる神のもとで、すべての権威と力を与えられて、私たちすべてのために聖霊を注ぎ出し、励まし、慰め、執り成し続けてくださっている」とパウロは言うのです。 逃げ去った弟子たちも、一言も復活の事実を告げ知らせなかった婦人たちも、確信をもってイエスに敵対していた昔のパウロ自身のためにも、「復活」はすべての人のために一貫して働いてくださるイエス・キリストのご愛と痛みの業であると言うのです。 イエスは神の子であるから、このような道を歩むことができたのではありません。 過ちだらけのこの世においても、イエスは祈りを通して神との交わりが途絶えなかった、み言葉に聴き神のみ心に忠実であったから、神のご愛が注がれてイエスの身に現れ出たのです。 このキリストに現れ出た神の愛は、キリストに結ばれて生きる者には必ず現れ出るのです。
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