「途中で 早く 和解しなさい」マタイによる福音書 5章21~26節 エフェソの信徒への手紙2章14~18節
たった一人で神の前に立つことを覚悟して、自らの血と体をささげてくださった主イエス。 神との関係がまったく断ち切れていた私たちを、十字架によってふたたび神と結びつけてくださった主イエス。 その神との一方的な仲直りをしてくださった、神との和解をもたらしてくださった主イエスが、隣人との仲直りを求めておられます。 イエスは、だれにでも分かる「あなたは殺してはならない」という戒めを持ち出して語られます。 この戒めには、前文がちゃんとついています。 「わたしがあなたを導き出した神である。」 だから、そのようなことをあなたがするはずがないと断言されているのです。 私たちには、導き出され救われた喜びが先にある。 その恵みのうえに私たちは立っている。 このような神との関係は、また隣人との間の関係においても切っても切れない関係にあると、イエスはみもとに集められた弟子たちに迫ります。 「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て供え物を献げなさい」と言います。 そことは、神のみ前に立って、礼拝をささげるところです。 赦されて、救い出されて、神と和解させていただくところです。 しかし、それだけではない。 神から与えられた一方的な仲直りは、必ず、兄弟との仲直りに向かって行く。 神から与えられた平和は、兄弟との平和を造り出して行くと、イエスは言っているのです。 なぜなら、そこには、真の供え物としてイエスがすでに献げられている。 真の祭司として、イエスが執り成しの祈りをささげてくださっている。 その場所こそ、真の神殿、真の礼拝の場なのです。 神の平和、神との和解、そして兄弟との和解が実現されるところが、神のみ前に立つところです。 聖書に書かれています。 「キリストは、私たちの平和であります。」 「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・双方を御自分において、一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、・・・敵意を滅ぼされました。」 「このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」 イエスを通して、父よと呼ぶ時にはじめて、私たちは兄弟姉妹として交わることができるのです。 誰ひとり、神の前に立つ資格のない者です。 私たちの間の仲直りは、神のみ前にもっていかなければ実現することができません。 私たちは、その神のみ前に立つ「礼拝」をささげることを大切にしたい。 そして、イエス・キリストの十字架のみもとで、「赦され合いたい」と願います。
[fblikesend]「復活の主に目が開かれる」 ルカによる福音書 24章13~35節
冒頭に書かれている「ちょうどその日」とは、仲間の女性たちから「墓が空になっている」と伝えられた日、イエスが復活された日曜日、まさに2000年前の今朝のイースターの日の出来事でした。 二人のイエスの弟子は、先生と仰いできたイエスが殺されて、悲しみに暮れている。 失望の中にある。 動揺している。 イエスは、そのような人に近づいて、一緒に歩いて、語りかけてくださるのです。 イエスとともに生活をしていた二人の弟子は、不思議なことにイエスが分からない。 イエスご自身が、もう一度、説き明かしてくださったのに分からない。 彼らはむしろ、その本人であるイエスに向かってつぶやくのです。 「イエスは、行いにも言葉にも力のあるお方であった。 このイエスに望みをかけていた。 このお方こそと期待してついて行った。 それなのに、十字架につけられて殺されてしまった。 今や、遺体さえどこに行ったのか分からなくなってしまった。」と、過去に嘆くのです。 彼らは、過去に囚われて、過去に生きているのです。 今、歩み寄って来てくださっているイエスに、目を遮られて気がつかないのです。 残念ながら、目が開かれていない時には、そのイエスの姿が見えないのです。 そのような「物分かりが悪く、心が鈍い」二人の弟子に、イエスは彼らが目指す村にまでついて行ってくださったのです。 目指す村に着いた時に、彼らに変化が起こります。 二人の弟子に変化が起きたのは、そのイエスを強引に引き止めた時です。 イエスと一緒に泊った家の食事の席についた時です。 イエスを、招き入れて、その食事の主人にイエスを置いた時です。 ユダヤの食事では、家の主人がパンを手に取って、神に感謝の祈りをささげ、パンを裂いて一人一人に手渡します。 イエスが、食事の主人となってパンを彼らにお与えになったその時です。 二人の目が開かれたのです。 イエスを主人とする食卓を囲む交わりの中で初めて、彼らはイエスを見出したのです。 その彼らは、イエスが「道で話しておられる時、また聖書を説明してくださった時、心が燃えたではないか」と思い起こします。 過去に囚われ、過去に生きていた時のイエスの出会いのことが、あざやかに新しくよみがえっているのです。 イエスを主人としてともに歩んで行く、新しい生き方へと踏み出して行った時です。 彼らは「時を移さず出発して」もとのエルサレムに戻って、喜んで起こった出来事を語ったのです。 私たち教会の過去の歩みもまた、無駄な事は何ひとつありません。 イエスが近づいてきて、祈りの種をいっぱい蒔いて、祈りの芽を育ててくださったからです。 私たちの教会が、新しい歩みを始める為です。 よみがえりの新しい命をいただいて、「時を移さず出発して」喜びを、この地で伝える為です。 私たちの目指す村ではなく、先を急いでおられたイエスの後に従って行くのです。
[fblikesend]「ユダヤ人の王」 ヨハネによる福音書 18章38b~19章16a節
地方総督は、ローマ帝国から派遣されているその地方の最高の支配者でした。 なるべく争いや問題が起きないようにすることが仕事でした。 祭司長たちに操られたユダヤ人たちに訴えられたイエスに、地方総督ピラトはどうしても死刑にするまでの罪を認めることができません。 ローマの兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、ユダヤ人の王、万歳と言って、平手で打つのです。 総督ピラトは、痛めつけられ、嘲り笑われて、辱めを受けているこのような力のない者が、ユダヤの国を救い出すようなローマに対する罪を犯す筈がない、その哀れな姿を人々の前にさらそうとしたのです。 ローマ兵がかぶせた茨の冠と紫の服をつけたままのイエスをユダヤの人々にさらして、あなたがたが訴えた者は、「見よ、このような男だ」と見せしめたのです。 「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 軽蔑され、人々に見捨てられる」と預言された通りです。 ピラトは、「お前を釈放する権限も、十字架につける権限もわたしにあることを知らないのか」と、イエスに迫ります。 しかし、イエスは「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」と応じます。 イエスは、ピラトに「自分が持っていると思っている権限は、人間によって与えられたものである。 消えてなくなるものである。 私があなたに従っているのは、あなたの権威ではない。 神のみこころに従っている。 神のご計画が実現するために、あなたが持っていると思っている権限を用いようとしているだけである。」と語っているのです。 イエスは、ユダヤの人々の怒りが自分の方に向かってくることを恐れたピラトのように、「自分を守る者たち」、「自分を王とする者たち」によって裁かれました。 ユダヤの人々も、祭司長たちも、イエスを亡き者とするためにローマの権威にすがりました。 イエスは、自分たちを守るために「皇帝を王とする者たち」、「皇帝を友とする者たち」によって裁かれました。 私たちは、この平手で打たれ、鞭うたれ、嘲られたイエスの姿に、それでも私たちを「赦している神の愛」を思い起こしたい。 それでもなお、私たちに期待し「招いておられる神のご真実」を思い起こしたいのです。 神は、この哀れな「ユダヤ人の王」を、すべての人類の救い主、真の王とされたのです。 「この男を見ろ」と蔑んだピラトの言葉を、「この救い主を見よ」という信仰の言葉に、復活の事実によって変えてくださったのです。 イエスは、ピラトに引きずり出されたのではありません。 進んで自らを差し出して、私たちの前に「茨の冠をかぶり、紫の服をつけて」現れてくださったのです。 父なる神のみ前に立って、私たちを救い出すためです。 この「ユダヤ人の王」が受けた懲らしめと傷によって、私たちに平和と癒しが与えられたのです。 私たちは、この救い主とともに歩んでいるのです。
[fblikesend]「大祭司の屋敷の中庭」 ヨハネによる福音書 18章15~27節
ペトロは、捕らえられたイエスの動向が気になって仕方がなかった。 あれだけイエスが逃げなさいと言われたのに、ペトロはのこのこと、捕らえられたイエスのもとに近寄って行きます。 大祭司の知り合いであったもう一人の弟子を利用して、やっと入った「大祭司の屋敷の中庭の門の中」でした。 イエスの後を追ってやっと入った所でペトロが行ったことは、大祭司の下役や僕たちと一緒になって、炭火の火にあたっていたことです。 黙って彼らの一員として炭火にあたり、イエスの成り行きを見に行った傍観者です。 ところが、黙っていたら分からないと思っていたペトロに、不意に声がかかります。 「あなたも、あの人の弟子のひとりではありませんか」という門番の女中のひと言です。 更に、一緒に炭火にあたっていた僕や下役からも声がかかります。 「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」 ペトロは、更に窮地に追い込まれます。 そこに、ペトロが片方の耳を切り落とした人の身内がいたのです。 「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか」と迫られたのです。 ペトロは、イエスを完全に否定する以外に生きる道はありません。 ペトロは、炭火にあたって気をゆるしている所で、「イエスを知らない」と三度否定し、自分の本当の姿をさらしてしまったのです。
一方、イエスは、時の権力者である大祭司の前で縛られ、尋問を受け、その下役の一人に、平手で打たれ、蔑まれています。 この世の権威の前では、イエスの姿は無力です。 まさに、イエスが、この世の権威に裁かれているのです。 しかし、イエスは、毅然として揺るぎません。 祈りによって「自ら飲むべき杯」として、選び取っていたからです。 ご自身の身に何が起こるのか、すでに知っておられたからです。 ペトロは、三度「違う」と打ち消して、イエスを見捨て自分をささげることができなかった。 しかし、イエスは、この世の権威の裁きの前に、自らを進んでささげられたのです。 イエスは、復活の後、大失敗をしたこのペトロに現れてくださった。 三度「違う」と打ち消したペトロの傷を癒すかのように、三度「わたしを愛しているか」と尋ねてくださった。 ペトロはこの時、完全にこの傷が癒され、「わたしが愛していることを、イエスが知っていてくださっている」と確信を得たのです。 このイエスの愛に支えられて、ペトロは新しい宣教の務めが与えられたのです。 このペトロの愚かさと弱さが用いられている。 そこに、イエスの赦しがある。 新しく命を与え、変えて生かすよみがえりの力がある。 イエスのみことばが、ペトロの愚かさと弱さのうえに実現しているのです。 「大祭司の屋敷の中庭で恐れていた者」こそが赦されて、イエスに招かれて、新しくイエスの「後について来る者」と変えられていくのです。 私たちは、この恵みの中にあるのです。
「イエスの願いと私たちの願い」 マタイによる福音書 20章20~28節
「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来た」と書かれています。 いったい、どのような時であったのでしょうか。 母親は、イエスのもとにひれ伏して、何かを願おうとします。 「何が望みか」と問うイエスに導き出されて、一人の母親の心の奥底にある本当の願いが、一気に噴き出してきます。 ゼベダイの息子とは、ヨハネとヤコブです。 12使徒のなかでもペトロと並んでもっともイエスに近い存在です。 その母も、二人の息子と同じように、すべてを捨ててガリラヤからイエスに従って、このエルサレムへの夢膨らむ旅をともに歩んできたのです。 その母が二人の息子のために、イエスに向かって「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっっしゃってください。」と訴えたのです。 思わず飛び出した偽らざる、一人の母親の切実な願いです。 しかし、この母親の言葉が噴き出した時は、イエスご自身が「侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられる」と、わざわざ12使徒を呼び寄せて、ご自身の十字架の苦しみの前に立たせた時でした。 イエスと同じように、神の栄光に与かる者は、イエスの右と左に並んで苦難の中に立つ者であると、イエスが語った時でした。 確かに、この母は自分のこととしては語ってはいない。 しかし、息子たちを用いた、自分たちが栄光の座に着こうする自己主張です。 イエスは、ご自身と並んで自分の十字架を負う者である事を弟子たちに願った。 母は、イエスの右と左に座る晴れがましい息子たちの姿を願った。 イエスの願いとは大きくかけ離れた、母の願いでした。 イエスは、その母の言葉を聞いて、「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。」と、息子たちにも告げます。 あなたがたは、山の上の景色は見ようとするが、山のふもとの景色を見ようとしない。 父なる神によって復活させられる栄光の姿には、その苦難からこそ生み出される十字架の傷跡と痛みがある。 イエスの苦難と栄光の姿は一つである。 ですから、イエスは「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と、問い返したのです。 自分の十字架は、自分で負っていきますという決意や決断や勇気で負えるものではありません。 イエスがそうであったように、父なる神を信じ、日々祈り、神との交わりを絶やさないことによってはじめて、背負って行くことのできるものです。 「飲むことができます」と無邪気に答えた二人の息子に、イエスはお叱りになることも、否定されることもありませんでした。 「あなたがたは、わたしの杯を飲むことになる」、「わたしと同じ父なる神の栄光に与かる者になる」と約束されました。 イエスと弟子たちは、エルサレムの都に向かって行く同じ道を歩みながら、実は全く異なる道を歩んでいたのです。 イエスは、偉くなりたい者は、ご自身と同じように皆に仕えなさい。 一番上になりたい者は、皆の僕になりなさいと言います。 単なる道徳や教えではありません。 イエスの姿、生涯そのものです。 その究極の姿が、イエスの十字架のうえの死の姿です。
[fblikesend]「イエスの苦しみと栄光」 ルカによる福音書 9章28~36節
イエスは、「この話をしてから」ペトロとヨハネとヤコブを連れて、「祈るために山に登られ」ました。 ルカは、イエスが何か重要な決断をする時には「イエスの祈る姿」を強調します。 イエスは、ご自分が「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」ことを、初めて予告します。 エルサレムに凱旋するイエスの姿を思い浮かべながらついてきた弟子たちには信じられない事柄を話し、それでも、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたのです。 そのことを話し終えてから、イエスはペトロとヨハネとヤコブを連れて、山に祈るために登られたのです。 その山で、ペトロたちは不思議な光景を見ました。 イエスが祈っているうちに、その顔の様子が変わった。 来ている衣服が真っ白に輝いた。 これからイエスがエルサレムで成し遂げようとしていることを、モーセとエリヤとともに語り合っていたのです。 イエスに変化が起きたのは、ひたすら父なる神に祈っている時でした。 イエスはすでに、神から歩むべき道を告げられていた。 ご自身の十字架の道をみことば通りに歩むならば、父なる神の祝福が与えられることも分かっていた。 従順にそのみこころに従うならば、救いの業を成し遂げることになると弁え知っていた。 しかし、イエスは、父なる神から捨てられる耐えがたい本当の苦しみ、到底私たちが知ることのできない罪の結果としての死の恐れを背負って歩む前に、ひたすら祈っていた。 これから山を降って、エルサレムへの苦難の十字架への道を歩み始める前に、イエスは父なる神に力と励ましを求めて祈っていた。 そのイエスに、栄光の輝きが覆ったのです。 イエスはこの祈りによって、その歩みにふさわしい力と励ましを父なる神から受け取ったのです。 驚くべきことに、この十字架の歩みの最後にも、この時と同じようにペトロとヨハネとヤコブを連れて、イエスは祈るために山に登りひざまずいて祈っているのです。 ゲッセマネの祈りです。 イエスは、おぼろげにしか見ることのできない、また、目を覚ましていることもできないペトロとヨハネとヤコブを、ご自身の祈りの証人としてともなってくださったのです。 輝かしい栄光は、この苦しみの中に結び合わさっている。 しかし、その中を、祈りによって最初から最後まで歩み続けたイエスの生涯の姿が、この弟子たちの体に刻みつけられたのです。 教会の群れは、この苦難と栄光の結びあったイエスの祈りの姿から、どれほどの深い慰めと力強い励ましを受けただろうかと思わされます。 その時、弟子たちに「これはわたしの子、選ばれた者。 これに聞け」と言う神の声がします。 ペトロたちが山で一瞬見ることのできた神の栄光の光景は、雲に覆われて山のふもとでは見えなくなってしまった。 「イエスだけがそこにおられた」のです。 見えているのは、イエスのお姿とみことばだけです。 だから、神は「イエスに聞け」と言います。 先立って祈り歩み続けるこの主イエスに励まされて、私たちは生かされていくのです。
[fblikesend]「神の畑」 コリントの信徒への手紙一 3章1~9節
パウロは、コリントの教会の人々へこの手紙を書き送る直接の理由を、「実はあなたがたの間に争いがあることを知った」「あなたがたはめいめい、わたしはパウロにつく、わたしはアポロにつくなどと言って、皆さんが教会の中で分かれてしまっていることを聞いた」「皆さん、勝手なことを言わないで、仲たがいをしないで、心を一つにして、固く結び合ってほしい。」 このようにこの手紙の冒頭で訴えています。 コリントの教会は、パウロが開拓した教会でした。 その後をアポロが引き継いで、教会を形づくっていった。 パウロもアポロも、神のみことばを伝えるという宣教者としての大事な務めを果たした。 しかし、コリントの教会は、パウロの教会でもアポロの教会でもありません。 私たちの信仰は、キリストに結びついています。 私たちの教会は、キリストの教会です。 それらが人間に結びつく限り、そこには「ねたみ」や「争い」が必ず起こってくる。 大事なことは、「神のみことば」です。 それを語る人ではありません。 パウロは種を蒔き、アポロは水を蒔き、神の恵みの働きのために力を合わせたのです。 それを成長させて実りをもたらしてくださったのは、神です。 私たちは、何もないところからわずかなものさえも創り出すことはできません。 コリントの教会の人々は、この目に見える働きに目を奪われてしまった。 成長させ実りをもたらしてくださる目に見えない神の恵みの働きを見失ってしまった。 隠れた神の恵みに、心から感謝することを、喜ぶことを失ってしまった。 「働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みである。」と、パウロは同じ手紙の中で告白しています。 パウロは、コリントの教会の土台を築くために用いられたのです。 アポロは、その土台に立って、より豊かな教会を形づくるために用いられたのです。 大事なことは、時に適って人を選び、実りをもたらすために用いられたということです。 その神の恵みが働かれたのが、神のみことばが語られたコリントの教会なのです。 パウロは、「あなたがたは、神の畑である」と、コリントの教会の人々に向けて言います。 神のみことばが蒔かれた神の畑が、あなたがた教会であると言います。 パウロによって、アポロによって神のみことばの種が蒔かれました。 いつしか、その種を蒔く人を見上げるようになってしまった。 パウロは、どうか「心を一つにして、思いを一つにして、固く結び合ってほしい。」「自分に与えられたものは、すべて神の恵みである。 無駄なものは何ひとつない。」とパウロは言います。 蒔かれた種を受けとめ、耕かされ、神の恵みに感謝し、喜んで歩んで行きたいと願います。
[fblikesend]「アブラハムの出発の信仰」 創世記 12章1~7節
アブラハムは、カルデアのウルという、チグリス・ユーフラテスという二つの河の下流にある文化的にも栄えた町に住んでいました。 月の神の崇拝の中心地であったようです。 この偶像の町から、アブラハムは召し出されます。 アブラハムの家族は、二つの河を北上して行きます。 ところが、その途中のハランの地で留まり、財産を蓄えるまでに潤ったというのです。 そのハランの地で、アブラハムに神の命令が降ります。 「生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」という言葉でした。 しかし、この神の命令には、約束が添えられます。 「あなたを大いなる国民にする。 あなたを祝福し、あなたの名を高める。 祝福の源となる。」 アブラハムだけではない、その家族、その子孫をも祝福するという神の約束が添えられたのです。 この神の言葉を聞いて、アブラハムは「主の言葉に従って旅立った」とあります。 アブラハムが75才の時でした。 少し蓄えができるほどに安定した生活を送っていた時、父親の死に直面した時でした。
神は、今までの生涯を断ち切って、「わたしが示す地」に行きなさいと言われたのです。 アブラハムにとって、「家族、子孫をも祝福する」と言われても、父は亡くなった。 妻のサラは不妊の女で、子供がいなかった。 甥のロトも父を亡くし、身寄りがなかった。 ましてや、約束の地カナンには、神の約束など信じることのないカナン人が、すでに土地を所有し住んでいた。 神の約束を受けるための人も力もない。 また飢饉を経験して、食物が豊富にあるエジプトの生活に目を奪われ約束の地を離れてしまう。 妻を利用する浅はかなはかりごとが明るみになり、エジプトを追われてしまう。 いつまでたっても与えられない子どもを、他の女によって得てしまう。 アブラハムの信仰の旅は、恥ずかしい失敗の連続でありました。 しかし、どんなに失敗を繰り返しても、神はアブラハムに現れて、「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である」と語ってくださったのです。 アブラハムは、その神の言葉に従って旅立った。 アブラハムがすぐ神の言葉に従ったから、神が働いたのではない。 神ご自身が、アブラハムに語られた約束を守るためであった。 だから、アブラハムは信じることができた。 アブラハムは、行く所々で、その都度現れてくださった神のために祭壇を築いて、神の御名を呼んだ。 もし、アブラハムがつかの間の安定の中に留まり続けたならば、不妊のまま、不毛のまま、偶像に満ちた中でその生涯を終えたでしょう。 そこから救い出し、特別な神の民とするための神の命令と約束でした。 私たちは、アブラハムのように、偶像に満ちた他の国に宿るように住んでいます。 アブラハムと同じように、福音の中に神の声を聞き、旅立ちました。 様々な試練の時に、神が現れてくださり、その都度繰り返し備えて下さいました。 ここに至るまで神に導かれた生涯の歴史が、アブラハムにも私たちにもあります。 「わたしが示す地」とは、神が召し集めた新しい群れ、イエス・キリストを頭とする真の教会こそ、アブラハムが目指した地なのではないでしょうか。 私たちもまた、アブラハムの子孫です。
「漕ぎ出た私たちの舟」 マルコによる福音書 4章35~41節
湖のほとりの大群衆に向かって小舟の中から教えておられたイエスは、夕方になって「向こう岸に渡ろう」と言い出します。 大群衆を湖のほとりに残したまま、イエスを乗せた舟は、向こう岸に向けて漕ぎ出します。 その夜、激しい嵐に出会う。 向こう岸に着いた途端、汚れた霊に取りつかれた人に出くわす。 死にそうになっている幼い娘を抱える人が、困ってイエスのもとに駆け寄って来る。 決して治ることのなかった難病をもつ人が、イエスに触れようとその背後から近寄って来る。 イエスは、向こう岸にいる苦しむ異邦人の待つところに「渡ろう」と、弟子たちに語られたのです。 しかし、弟子たちは、向こう岸での務めにふさわしくない信仰にあることを顕してしまいます。 手慣れた湖と舟のかじ取りであったので、激しい嵐に自分たちの経験と知恵によって格闘します。 ついに、その経験と知恵を越えた嵐であることが分かった時、それが恐れに変わります。 イエスを必要としない弟子たちの姿が、ここにあります。 弟子たちは、眠っているイエスを不快に思います。 イエスを呼び起こして「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と、憤りをもって叫びます。 弟子たちはたった今、病人を癒し、力強く神の国の福音を語るイエスを、大群衆と共に間近に見て聞いていたはずです。 しかし、イエスは、この弟子たちの不信仰な叫びに応え、時にかなった助けを与えます。 激しい風と荒れ狂う湖に向かって「黙れ、静まれ」と叫び、神への信頼のうちに神の力に包まれて眠っておられたご自身の姿を示されます。 そして、「なぜ怖がるのか。 まだ信じられないのか。」と嘆かれたのです。 イエスご自身が「向こう岸に渡ろう」と言われたのです。 そこには、神のみこころがあるのです。 イエスは、眠っておられたけれども、一緒にその舟に乗っていてくださっていたのです。 弟子たちはそこで、「いったい、この方はどなたなのだろう。」と、もう一度立ち止まり、イエスを改めて仰いで見出したのです。
最初の頃の教会の群れは、ユダヤ教からもローマ帝国からも迫害を受け、この嵐の中の小舟のように翻弄されました。 しかし、聖霊に満たされて「復活の主」の生きた証人となっていたこの教会の群れは、イエスが自分たちをともなって「向こう岸に渡ろう」と乗りこんだこの舟を、自分たちの教会の姿に見てとったのです。 不信仰な叫びを挙げる自分たちを乗せた舟に、「復活の主」がともに乗りこんでくださっている。 その時にかなった助けによって、時代の突風を突き通して向こう岸に向かっている。 着いた向こう岸で、想像もつかなかった「復活の主」の恵みの業を目の当たりにしている。 弟子たちは、この「向こう岸」に向かう舟こそが、自分たちの姿である事を悟ることができたのです。 私たちは、この「向こう岸に渡ろう」とイエスが語りかける途上の舟の中にともにいるのです。
「苦難が導く慰め」 コリントの信徒への手紙二 1章3~11節
パウロは、コリントの教会の人たちに向かって、「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい」「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました」「わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした」とまで、恥ずかしげもなく、自分たちの苦しみの姿を知らないでいてもらいたくないと手紙に書いています。 私たちは、苦しみに遭うことは心がけが悪いからである。 なるべくなら、苦しんでいることは自分一人の中に納めておきたい。 できれば晒したくないと考えてしまいます。 パウロは、具体的な自分の苦しみを積極的に語ります。 聖書には、パウロの受けた苦難はきりがないほど列挙されています。 なぜなら、パウロは、これらの苦難を通して自分が受けた神の慰めを人々に語りたいためです。 パウロが受けた苦しみはすべて、キリストの福音を宣べ伝えるという務めに結びついているからです。 パウロは「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださる。」 「神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」と言うのです。 苦しむ者こそ、神の慰めを経験することができる。 それだけでなく、その慰めを苦しむ人々と分かち合うことができる。 それは、キリストのゆえであると言っているのです。 「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれている」と言うのです。 パウロは、この苦しみと慰めこそが、キリストに触れる者すべてに共通のものであると言うのです。 パウロは、逃れることのできない、解決の糸口さえ見つからない、出口のない苦しみに遭いました。 パウロは、完全に自分自身に絶望したのです。 自分自身に寄り頼むことに絶望したのです。 パウロはこの絶望によって、自分自身から解放された。 自分自身を寄り頼むことから、神を信頼することへと転換させられた。 自分自身に完全に絶望したからこそ、神を信じ頼ることを悟ったのです。 ついに、パウロは、苦しみを受けることから立ち上がって、苦しみを背負うことへと変えられた。 その苦しみから導かれる慰めを、ともに苦しむ人々と分かち合うことへと転換させられたのです。 苦しみも慰めも、神のものです。キリストの十字架の苦しみのもとに、神がおられるのです。 そこにこそ、神の慰めと救いがあるのです。 私たちの教会もまた、この絶望の中に、弱さの中に神が働いてくださることを知ることができる。 この弱さと乏しさこそが、神が働いてくださることを鮮やかに証しすることができるのです。
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