「福音を告げ知らせる」 コリントの信徒への手紙一1章10~17節
イエス・キリストによって呼び出された者たちの群れを、聖書は「エクレシア、教会」と言っています。 神の働き、目に見えない霊の働きによって形づくられた共同体を指します。 この「エクレシア、教会」がこの地上で存在する理由は果たして何でしょうか。 また、いったいどのような務めが与えられているのでしょうか。 「教会」には、ふたつの力が働いているように思います。 ひとつは、教会の中にあって働く、霊なるイエスとの交わりです。 二千年前に十字架に架かってくださったイエスは今や、父なる神によってよみがえらされ、この地上における霊なる働きそのものとなって私たちに伴なってくださっています。 この交わりによって、人と人との交わりが神の愛による交わりへと変えられていくのです。 もうひとつの力は、この群れから外に向かって働き出す力、宣教、伝道です。 問題は外に向かって働き出す力の方角です。 この地上での存在として、「教会」がその存在理由を示そうとすればするほど、立派な存在にしていこう。 世の中の人に認められ、むしろ羨まれるぐらいの存在になろう。 教会がますます発展し、人が増え、建物も立派にしていこう。 霊なるイエスの働きを脇に置いて、人間のものさしによって「教会」をつくり上げようとするのです。 「教会」に働く力は、神の霊なる力です。 風のように自由奔放に働く霊なる大胆な働きです。 私たちの理解不可能な力です。 それをこの世の経験や知恵によって、コントロールしていこう。 このような力がもう一方で働く、この葛藤とせめぎあいが教会の歴史なのではないでしょうか。
パウロが設立したコリントの教会がまさに、そのような状態にあったのです。 「あなたがたの間に争いがあると、知らされました」と、手紙の冒頭でパウロは書き始めています。 コリントの教会のめいめいが、「わたしはパウロにつく、アポロにつく、ケファにつく、キリストにつく」と言っている分派争いが起こっています。 パウロこそコリントの教会の創始者です。 パウロを慕っても不思議はありません。 その後に教会に来たアポロは、聖書に精通していただけでなく、弁舌さわやかな説教者であったと言います。 アポロに養われた人々もたくさんいたでしょう。 ケファとは、エルサレム教会の指導者ペトロのことです。 イエスとともに生活した紛れもない使徒の代表者でしたから、心酔していた人も多かったのでしょう。 内紛に嫌気を刺した人々が、人間を離れキリストにつくと新しいグループをつくったのかもしれない。 パウロは、「あなたがたは、キリストに呼び集められた群れではなかったのですか。 キリストはどこに行ったのですか。 教会の中にはキリストはおられないのですか。」と訴えるのです。 人間のことに思いを寄せて、神の思い、キリストの存在を忘れてしまっているコリントの教会の人々に、「皆勝手なことを言わず、仲たがいをせず、心を一つにし、思いを一つにして、キリストにあって固く結び合いなさい。」と言うのです。 目に見える人間の思いを捨てさせ、「十字架に架かってくださったのは、いったいだれですか」と、キリストを思い起こし、十字架を思い起こすためでした。 そしてパウロは、「キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであった」と言うのです。 バプテスマを受けるという行いによって、私たちは救われるのではありません。 イエス・キリストの死と復活に固く結ばれることによって救われるのです。 そのために、十字架の福音、イエス・キリストの福音を告げ知らせることが、私たちの務めなのです。 「教会」はこの世にありながら、この世とは一線を画します。 「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい。」という、福音を語る務めが私たちに与えられているのです。
「不正にまみれた富」 ルカによる福音書16章1~13節
イエスが語られた「たとえ」です。 「自分の財産が無駄遣いされている」と知った主人は、管理人を呼びつけて言います。 「会計の報告を出しなさい。 もう管理を任せておくわけにはいかない。」 そう言われた管理人は、「主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。 でも辞めさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。」と考えた管理人は、次々と、主人に借りのある人々を呼んで、それぞれの借りを軽くしてあげるのです。 不正を働いた管理人が自分の将来のために、更に不正を重ねて主人の財産に新たな損失を加えようとしているのです。 だれしも主人が烈火のごとく怒り、管理人を取り詰めると思うでしょう。 ところが、その主人は「この不正を働いた管理人の抜け目のないやり方をほめた。」と言うのです。 なぜイエスは、このような「たとえ」を語られたのでしょうか。
この「主人」とは、ご自身のものを管理人に託した「父なる神」のことをイエスが語っておられるのでしょう。 「管理人」とは、「主人」に託されたものを自分のために用いた、あるいは用いようとしたこの世にある私たちのことでしょう。 この「たとえ」をイエスが語っておられる相手は、愛する弟子たち、そして私たちです。 私たちは「父なる神」によってつくられ、命を与えられ、からだも時間も財産も知恵も力もそれぞれにふさわしく与えられています。 イエスは管理人が働いた「不正」をほめているのではありません。 この「不正」は、道義的に赦されることではありません。 また、ずるがしこく立ち回りなさいと教えているのでもありません。 だれがどのようにして手に入れたにしろ、それらの富すべては神のものである。 神から委ねられ、託されたものである。 その富の用い方を、イエスは弟子たち、私たちに問われたのではないでしょうか。 いくら正当に手に入れたものであったとしても、自分が勝ち取って自分のものであるかのように用いるならば、それもまた「不正にまみれた富」になると言われているのです。 いずれは「父なる神」に返さなければならない厳粛な時がくる。 もし、そのことを忘れてしまっているなら、「父なる神」が「会計報告を出しなさい。 もう管理を任せておくわけにはいかない。」と言われる時がくるでしょう。 その時こそ、神の前に出る時です。 神と私だけの時です。 申し開きの時です。 この世にある限り、託されたものをどのように用いるのか、どのように生きるのかは、私たちの自由に委ねられ、しばしの間は隠されているでしょう。 しかし、その管理すべき時が終る時がいずれくる。 主人に報告をもって立たなければならない時がくるのです。
私たちの神に対する借りは、膨大な赤字でしょう。 埋め尽くすことのできない量の赤字でしょう。 その膨大な量の赤字をイエスが引き受けてくださっている。 父なる神が、私たちのあがきのようなふるまいをも、赦してくださっている。 神ご自身の前に立つためにすばやく備えた管理人のふるまいを、赦してくださっていると、イエスがあとわずかしかないこの世の別れを忍んで弟子たち、私たちに憐れんで語りかけてくださっているのではないでしょうか。
イエスはその「不正にまみれた富」をもって、「友達をつくりなさい」と言われます。 そうしておけば、「金がなくなったとき、弟子たちあなたたちは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」と言われるのです。 「金がなくなったとき」とは、この世を去るときでしょう。 一切のものを手放さなければならない時でしょう。 イエスは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)と言われています。 私の友となるように、この限られた地上の生涯を送るようにとイエスは励ましてくださっているのです。 だから、あなたがたは神のために、富を用いなさいと言われているのです。
「神の武具」 エフェソの信徒への手紙6章10~18節
パウロはこの手紙で、「今は悪い時代であるから、愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。 時をよく用いなさい。 無分別な者とならず、主のみ心が何であるかを悟りなさい。 酒に酔いしれてはならない。 むしろ、霊に満たされ、霊的な歌によって主に向かってほめ歌いなさい。 いつも、あらゆることにイエスの名によって神に感謝しなさい。」と語っています。 このような思いをパウロはもちながら、この手紙の最後に語っているのが今日の聖書箇所です。 「最後に言う。 主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」と言うのです。 この時のパウロは獄中にあります。 もう、そう多くは語りえないだろう。 だから、最後に、この悪い時代に生きる新しい生き方の根幹は、「神に依り頼み、神の偉大な力によって強くされることだ。」とパウロは言うのです。
パウロの言う「悪い時代」とは、特別にこの時代が悪いと言っているのではないでしょう。 どの時代でも、神のもとを離れてしまっているところからくる過ちを私たちは繰り返しています。 来るべき新しい時、神の国が訪れるその時に対して、今は神に背を向けている時代です。そうは言っても私たちは過去に生きることはできないし、今の現実に立って生きていかなければなりません。 ですから、私たちには今を生きる痛みがあります。 この痛みを忘れてもならないでしょう。 この神のもとから離れさせようとするこの世の力との戦いは、「血肉を相手にするものではない。 支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものだ。」 私たちの戦いは人間を相手とする戦いではない。 その人間を動かして、意のままに支配し、操作して、動かしているすべての力との戦いであるとパウロは言います。 私たちは自分に直接向かってくる相手を見てしまいます。 しかし、パウロはそうではないと言います。 その相手を動かしている、私たちの目には見えない力を恐れているのです。 神の力を小さく見せて、目に見える力を大きく見せて、不安や絶望に私たちを落とし込んで、その恐れに私たちを縛り付けて、巧みに支配し、操作し、動かそうとする力を相手とする戦いである。 そのようなものから守るための武具を身に着けなさいとパウロは言うのです。
パウロの言う「神の武具」とは何でしょうか。 「帯として締めなさい。 胸当てを着けなさい。 履物を備えなさい。 盾を取りなさい。兜をかぶりなさい。」と言っている身に着けるものとは、「真理」です。 イエス・キリストそのものです。 神の正しさです。 神の平和の福音です。 信仰です。 神による救いです。 それもこれも、神によってしか与えられないものばかりです。 この武具を着けて、人を支配し、操作するこの世の霊と戦うために、「主に依り頼み、主の偉大な力によって強くなって」、「霊の剣」を取りなさい。 神の言葉を受け取りなさいと言うのです。 人間がつくるようなもの、考えるようなものではなく、神によって与えられる霊的なもので身を固めなさい。 これは神の霊による戦いである。 神のみ言葉による戦いである。 そのうえで、「どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」と言うのです。 「どのような時にも」です。 「絶えず目を覚まして」です。 「根気よく」です。「祈り続けなさい」です。 これが、この世の霊と戦う、神の戦いに備えている私たちキリスト者の生きる姿です。 イエス・キリストの生き方を真似て、自分の力を磨いて生きる生き方ではないのです。 神の力によって、神によって授けられるものによって強くされる姿です。 そして、自分のためだけでなく、同じようにこの世の霊に取り囲まれ、さらされているすべての人のために祈る姿です。
「宣べ伝えなさい」 マタイによる福音書10章1~12節
イエスが十二人の弟子を呼び寄せられました。 父なる神に授けられているイエスご自身の権能を十二人の弟子にお授けになったと言います。 この有様には、イエスの弟子の原型があります。 このイエスによる弟子の選びと派遣は、イエスの深い憐れみを原動力としています。 迫ってきている神の国に、「弱り果て、打ちひしがれている人々」を招くためのイエスの業でした。 イエスが行われている通りの業を引き継ぐための備えでした。 そのために弟子たちは集められ、イエスから賜物を授けられ、人々のところに派遣されていくのでした。 その「授けられた権能」とは、「汚れた霊」を追い出す権能、神のもとから離れさせようとするこの世の力、あらゆる病気や患いを通して人々に与える不安や絶望から救い出す権能でした。
イエスはこの十二人の弟子たちを派遣するにあたり、「異邦人の道に行ってはならない。 また、サマリア人の町に入ってはならない。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。 行って、天の国は近づいたと宣べ伝えなさい。」と命じられたのです。 なぜイエスは、イエスをまったく知らない異邦人のところではなく、イスラエルの人々のところに先ず行きなさいと言われたのでしょうか。 イスラエルの民は、神の民として選ばれた民のはずです。 その民が、選んだそのお方を頼らず、神のみ心を思わず、自分勝手に歩み出してしまっている。 そのご自分の民が「飼い主のいない羊のようだ」とイエスは憐れんでおられるのです。 この失われたイスラエルを取り戻すこと、これが宣教の始めであると、十二人の弟子たちにイエスは語ったのではないでしょうか。 イエスの神の国の福音宣教は、「悔い改めよ。 天の国は近づいた。」という短いみ言葉でした。 選ばれたイスラエルの民の悔い改め、方向転換を呼びかけること、イスラエルの民の回復がすべてに優先されていたということでしょう。 マルコによる福音書では、「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した」とはっきりと書いてあるのです。 そして、イエスご自身が今まで行ってきたように、病人をいやす、死者を生き返らせる、重い皮膚病を追い払うようなことが弟子たちにもできるようにと、ご自身が授っている権能を与えられたのです。 そして、あなたがたはその権能を、「ただで受けたのであるから、ただで人々に与えなさい」と言われたのです。 「ただで」とは、価なしにということです。 何の資格もない、ただ神の恵みによって与えられたということです。 十二人の弟子たちの信仰歴は、わずか1~2年であったでしょう。 何の資格もなければ、何の力も、何の経験もありません。 また、事前の訓練も備えもありません。 突然呼び出されて、突然その力が授けられたのです。 すべて、イエスの方から呼びかけてくださって、「ただで」その力が与えられ、選ばれたのです。 すぐ近くにいるイスラエルの人々、新しいイスラエルに、ただ自分が神に赦されたこと、愛されてきたことをそのまま証しするだけであったのです。 ですから、「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。 袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。」と、神の支配の中に包まれて神のみ心に従って働く者には、神ご自身が必要なものをすべて用意してくださるし、神の国の支配が現実に私たちの中にあることを神ご自身が証ししてくださるとイエスは言うのです。 私たちはイエスから授けられた精いっぱいの賜物で、神の国の福音を告げることが私たちの務めです。 しかし、そこから先は、私たちが決めることではありません。 神のわざ、神の戦いです。 私たちはするべきこと、する必要のないことを神に教えていただかなければなりません。 すべきことの虜になってもならないし、すべきことに気づいてもいなければならないのです。
「わたしが愛したように」 ヨハネによる福音書13章34~35節
イエスは十字架に架けられる前の晩、弟子たちの足をひとりずつ洗い終え、その足を洗った弟子たちのうちのひとりユダが出て行った後に、「あなたがたに新しい掟を与える。 互いに愛し合いなさい。」と語られました。 奴隷である僕が行うような「人の足を洗う」というイエスが取られた振る舞いの意味を、弟子たちは理解することができなかったでしょう。 事実、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と不思議がっています。 そのイエスに向かって、「わたしの足など、決して洗わないでください。」とまで、真剣に断っています。 そのペトロにイエスは、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、もし、わたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」と答えておられるのです。 そして、弟子たちすべての足を洗い終えたイエスは、「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに洗い合わなければならない。」と、十字架に架けられるその前の晩に弟子たちに語られたのでした。
一人一人の汚れた足を見つめながら、腰を静めて丁寧に洗い流す。 私たち人間の汚れている部分をご自身が引き受けられて、その過ちを贖ってくださる。 そのイエスを通して注がれた「神の愛」、「救いの招き」を、ひとりユダだけは受け取ることなく、その場から出て行った。 その直後にイエスが、「あなたがたに新しい掟を与える。 互いに愛し合いなさい。」と語られたと言うのです。 「自分を愛するように隣人を愛しなさい。」という律法の戒めがすでにあるのに、イエスはなぜ「新しい掟を与える」と言われたのでしょうか。 それは、「わたしがあなたがたを愛したように」です。 「昔の人の言い伝え」とされている戒めに、「イエスがわたしたちを愛したように」愛することを加えたということです。 イエスは、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。 わたしの愛にとどまりなさい。」と言っておられます。 イエスご自身が体験されておられる神の愛です。 同じように、ご自身を十字架にささげるまでに私たちを愛してくださっているイエスの愛です。 そのように示された神の愛にとどまることによって、互いに愛し合いなさいと、イエスは新しい掟として語っておられるのです。 イエスに足を洗われて初めて、私たちもまたその隣人の足を洗うことができるようになる。 過ちをイエスの十字架によって赦されて、贖われた者だけが、互いに神の赦しによって愛し合えるようになる。 そこには、その過ちに気づいた人の涙がある。 砕かれた時の痛みがある。 イエスの十字架によって砕かれ、つくり直され、赦された人の喜びがあるのです。 イエスはそうした者たちだけが、互いに愛し合えるようになると言っておられるのです。
イエスになぜ、多くの人々が群がってきたのだろうと思わされます。 貧しい人たち、悲しむ人たち、社会から見捨てられた人たちでした。彼らがイエスの驚くばかりの教えをそのまま理解し、受け入れたとは到底思えない。 しかし、同じ肉体をもった人としてのイエスの深い憐れみが、人々の心を捕らえたのでしょう。 イエスの分け隔てのない言葉と振る舞いに、彼らが本当に求めていたものを感じ取ったのでしょう。 イエスの示す憐れみに、この世にない「神の愛」を感じ取ったのでしょう。 ユダヤ人も異邦人もない。 自由人も奴隷もない。 男も女もない。 かけがえのない人として愛しておられるイエスのまなざしに彼らは魅かれて、この世にない「愛」を感じ取ったのではないでしょうか。 人が神に赦される、愛されるということが、人を根本的に生き返らせるのであるということを、彼らはイエスの姿と語る言葉の中に感じ取った。 神を見ることができたのではないでしょうか。
「わたしの時」 詩編90編1~12節
詩編90編は、「神の人モーセの詩、祈り」と書かれています。 モーセと言えば、エジプトの地からその奴隷として虐げられていた同胞のイスラエルの人々を救い出した「偉大な指導者」と私たちは表現するでしょう。 しかし、モーセの生涯を考えてみてください。 生まれてすぐイスラエル民族への迫害のゆえにエジプトのナイル川に流されるという、悲しい出来事からその生涯が始まっています。 しかし、神はその赤ちゃんをよりによってエジプトの王女に拾わせ、エジプトの王宮の中でモーセを育て必要な教育を受けさせたのです。 成長したモーセは、同胞であるイスラエルの人々の苦しい奴隷の姿に憤り、迫害するエジプト人を殺してしまう。 苦役に縛られているイスラエル民族の解放のために立ち上がるが失敗し、失意のうちに荒れ野で羊を飼う生活に入り込んでしまうのです。 ここでも、神はご自身が選んだモーセを再び立ち上がらせ、エジプトに向かわせるのです。 神のイスラエル民族の救いのご計画の担い手として立たせ、同胞の人々の不信仰に何度も悩まされながらも、エジプトの反撃に遭いながらも、自然の脅威に襲われながらも、40年もの間、エジプトから連れ出してきた人々とともに荒野をさまよい、ついに約束の地カナンを目の前にするまでに至ったのです。 そこでモーセは体力、気力とも満ち溢れていたにも拘わらず、その生涯を終えたのです。 モーセだけは約束の地に一歩も入ることが赦されなかったのです。
このモーセが神に向かって、「大地が、人の世が生み出される前から、世々とこしえにあなたはわたしたちの宿るところ」と歌い始めるのです。 そのように私たちは創られたはずなのに、私たちはその神のもとを離れて、漂う者、移ろう者、しおれる者、枯れゆく者、消え去る者、飛び去る者となってしまった。 あなたはとこしえに変わりなくおられるお方。 しかし、私たちの人生はたかだか70~80年、本来宿るべきところを忘れてしまった私たちは、このようにはかない者となって、はかない人生を送るようになってしまっていると言う。 その理由を、神が「隠れた罪」を光の中に置いて、明るみにされたと言い、神の憤りが私たちに迫っても不思議なことではないと言う。 神はこのような罪深さに気づかず、驕りの中に沈み込んでいるこの私たちを、土の塵に返すお方です。 そのように扱われても仕方のない私たちです。 これだけエジプトから救い出されても、不平や不満を言い、もとに戻ろうとする。 同じことを繰り返してしまう人々の自分勝手な姿を通して、モーセは気づいたのです。 また、やりきれない自らの思いから、神の約束を受け取ることができなくなる自分自身の姿を通して、私たちはすべて死ぬべき存在であると分かったのです。 自分たちがいかにはかない存在であるのか。 神を恐れないで自分勝手に動いてしまう存在であるのか。 その本当の姿をはっきりと自覚したその時です。 「人の子よ、帰れ」 「あなたを塵に返す。 あなたは、わたしのもとへ帰れ。」という神の声がこだましたのです。 モーセは神の命令によって、体力も気力も十分にあったにも拘わらず、自分の死を受け入れて人々の罪深さを背負って、ひとり神のみ心によってそこに留まったのです。 モーセは、神の厳粛さを知り尽くすと同時に、「選ばれて、用いられて、ここまでみ心を果たし終えたモーセよ、わたしは人を塵に返す者である。 そのわたしのもとへ帰れ。」という神の招きに癒されたのです。 彼の願いは約束の地に入ることではなく、神に用いられることでした。 自らの人生はこの神のみ手の中にあったのだと確信して、その喜びに同胞のイスラエルの人々が与るようにと、「生涯の日を正しく数えることができるように教えてください。 塵に帰る私たちの肉体の死が、神のもとに赦されて帰る喜びの日となるように。」と、モーセは祈るのです。
「神のみ心だけに従ったイエス」 ヨハネによる福音書7章10~18節
イエスは、エルサレムから遠く離れたガリラヤ地方を巡っておられました。 病人を癒す。 盲人の目を癒す。 次々に繰り出すイエスの不思議な業に、人々が大勢集まってくる。 その有様を目の当たりにしたイエスの兄弟たちは、「仮庵の祭りが近づいてきている。 大勢のユダヤ人たちが都エルサレムの神殿に集まってくる。 そこで、あなたを公に知らせなさい。 そうすればもっと多くのあなたの弟子が生まれるだろう。」とイエスに進言するのです。 そう言われたイエスは、ご自身のことについては無頓着でした。 「あなたがたは祭りに出かけていくがよい。 わたしは、わたしの時がきていない。 わたしはガリラヤに留まり、エルサレムの祭りに上っていかない。」と、イエスはその兄弟たちに答えるのです。 ユダヤの人々にとって、この仮庵の祭りにエルサレムに出かけて行くことは義務でした。 出かけて行かないことは、むしろ、習わしには反することで勇気のいることでした。 ところが、イエスの兄弟たちがエルサレムに上って行ったとき、イエスは「人目を避けて、隠れるようにして、エルサレムに上って行かれた」のです。 どうしてでしょうか。 その理由がここには一切書かれていません。 それどころか、エルサレムでは祭司長や律法学者たちがイエスを捕らえようとして探し回っている。 群衆の中にも、「イエスは群衆を惑わしている」と言う者もいたほどです。 そのような危険なエルサレムに敢えて、「人目を避けて、隠れるようにして」イエスはその中に入って行かれたのです。 そしてついには、仮庵の祭りが半ばにさしかかったころ、よりによってエルサレムの中心にある神殿の境内で、イエスは大胆にもその姿を表して、「群衆を惑わしている」と言われていた自らの教えを堂々と語り出したというのです。 このイエスのお姿の変わり様は、いったいどうしてなのでしょうか。
イエスにとっては、父なる神の定められた時に今が満ちているかどうか、これが最大の関心事でした。 イエスは人の感情や言葉によって動かないのです。 だれが何を言い、自分がどう扱われようが構わないのです。 ただ、神の定められた時であるのかどうか。 神のみ心がどこにあるのか。 神のみ言葉にご自身が従っているのかどうかだけです。 これがイエスのお姿の原点です。 イエスご自身には、「自分」がまったくなかったのです。 「わたしの教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」(7:16) 「わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのだ。」(12:49) 「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。 しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人である。 その人には不義がない。」(7:18)と言われたのです。 イエスがガリラヤに留まったのも、人目を避けて隠れるようにしてエルサレムに入って行かれたのも、大胆にもっとも人の目につくエルサレムの神殿で教え始められたのも、ご自身をお遣わしになった方の栄光を求めて従ったイエスの歩んだ足跡の一つ一つです。 イエスは時が満ちたなら、神がお命じになったとおり、時には慎重に、時には大胆に、神のみ心が成し遂げられる最後、十字架のうえの死に至るまで従い抜かれたのです。
イエスは、神のもとから直に遣わされた最初の人です。 神のみ心だけに従って、父なる神のもとへ戻って行かれた最初の人です。 イエスはご自身の命をもって、その生涯の姿をもって神のみ心を果たされたのです。 神のご愛とご真実を、私たち表してくださったのです。 弟子たちはこのイエスの人格に触れて、注がれた神の愛を知って、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」というイエスのみ言葉を思い起こしたのです。
「涙を流されたイエス」 ヨハネによる福音書11章28~37節
イエスはエルサレムからほど遠いヨルダン川の向こう側のほとりに滞在し、人々に教えておられました。 エルサレムに近いベタニア村に住むマルタとマリアという姉妹から、「自分たちの兄弟ラザロ、あなたの愛しておられるものが病気なのです。 すぐに来てください。」と告げられました。 イエスは、マルタ、マリア、ラザロの兄弟姉妹を友の愛によって愛しておられたと言います。 そこまで愛していたラザロが瀕死の病いの中にある。 この知らせはよっぽどのことであったのでしょう。 愛する人のもとへすぐにでも飛んで行きたいと願うのは当然でしょう。 しかし、イエスは姉妹たちの要請にすぐに動こうとはしないのです。 むしろ、「この病気は死で終わるものではない。 神の栄光のためである。 このラザロの病いによって、ご自身が栄光を受けるのである。」と言われたのです。
その後、イエスが遅れて到着したことを知ったマリアはイエスのもとに駆け込んだのです。 それはすでに、ラザロが墓に葬られて四日も経っていた時でした。 「主よ、もしここにあなたがいてくださいましたら、わたしの兄弟ラザロは死ななかったでしょうに。」 このマリアの言葉には、嘆きと悲しみが込められています。 もう少し早く、主よ、あなたがここに来てくださっていたなら、ラザロは死ぬことがなかったでしょうというイエスへの信頼が込められています。 しかし、もうひとつの思いがあるように思います。 マリアのイエスに対する抗議です。 どうして、もっと早く私たちがお願いした時に来てくださらなかったのですか。 イエスに信頼を置いていたからこそ、イエスに希望と慰めを求めたかったからこそ、心の奥底から出てきた言葉であったのでしょう。 イエスとともにいることに心が安んじて、このような言葉をマリアは叫ぶことができたのでしょう。
ラザロはすでに、マルタとマリアの手の届かないところに行ってしまったのです。 マルタとマリアが泣き、一緒にいたユダヤ人たちも泣いているのは当然です。 イエスはこの光景をご覧になって、「心に憤りを覚え、興奮した。」 そして、「涙を流された」と書かれているのです。 人間が持ち合わせている愛が引き裂かれ、打ち砕かれた現実の姿をイエスがご覧になって、「死」という神のものとは異なるものにまったく支配されてしまっている人々の姿を見て、心を痛め、悲しんで、心を動かされて涙を流されたのです。 イエスは、私たちの悲しみをご自身の悲しみとしてともに味わってくださったのだとヨハネによる福音書は伝えているのです。 人間の持ち合わせている愛の破れにこそ、神の愛は溢れるのです。 イエスはこのラザロの復活を通して、「もし信じるなら、神の栄光を見ることができると言ったではないか」と迫ります。 ラザロは一度は復活したかもしれません。 しかし、いずれは死んでいきます。 イエスは、ラザロを失った悲しみに沈むマルタとマリアを生き返らせておられるのです。 この地上においても、死や病いなどに支配されないで生きることができる者につくり変えられる。 そのことを、このラザロの復活は語っているのではないでしょうか。 ラザロの生と死が問題なのではなく、また、その病いが問題なのではなくて、すべては神の栄光が現れるためのものである。 神が遣わされたイエスの栄光が現れるためである。 だから、病いや死によって神との交わりが途絶えることはない。 神の授けられた命がなくなるものではない。 「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときは弱いものでも、力強いものに復活するのです。 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。」(コリント一)15:42-44)と聖書が語っている通りです。 このことを、今、この世で生きているときに、あなたは信じるかと、ご自分の悲しみとして味わってくださるイエスに私たちは迫られているのです。
「実りを待っておられる神」 イザヤ書5章1~6節
「ぶどう畑の歌」と書かれています。 収穫感謝のために人々がたくさん集まっていた時に歌われた、預言者イザヤの歌です。 ぶどうの収穫後の秋のお祭りです。 酒もふるまわれたでしょう。 踊りや歌もあったでしょう。 人々が繰り広げた光景は、収穫を喜び楽しむお祭りであったでしょう。 イザヤに歌わせている神は、「わたしは、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。 その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。 わたしはぶどう畑のためになすべきことはすべて行った。 わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、酸っぱいぶどうが実った。」と言うのです。 この歌の後には、人々が物質的な繁栄の中で犯している過ちについて憚ることなく延々と歌い続けるのです。 その歌の中味は、「神を忘れてしまっている、神の戒めを忘れて神の約束の言葉を侮っている。」、そのように指摘する言葉が延々と続くのです。 何千年経っても一向に変わらない、私たち人間の姿です。 イザヤを通して神は語られるのです。 「私は、実りを歌かにするために肥沃なぶどう畑を用意した。 実りをもたらすためにできることはすべてした。 良いぶどうが実るのを待っていたのに、この有様である。」と、喜び祝う人々を前にして神は語られたのです。
しかし、こう語るイザヤの神は私たちの神であるはずです。 イザヤの神は、イエス・キリストの父なる神であるはずです。 イエス・キリストを私たちのところにわざわざ遣わされたお方であるはずです。 イエスは「ぶどう園と農夫」の譬えを用いて語っておられます。 「ある人がぶどう園を作り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。 ところが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋叩きにして、何も持たせないで帰した。 再び送られた僕も、頭を殴り、侮辱した。 最後に送られた僕も殺してしまった。 ぶどう園の主人が自分の息子を送れば敬ってくれるだろうと思って遣わした息子もまた、捕まえて殺し、ぶどう園の外に放り出して、ぶどう園の実りを自分たちのものにした。 果たして、このぶどう園の主人はこの農夫たちをどうするだろうか。」と警告されています。 イザヤが歌った人々の過ちの姿と同じように、イエスの語る身勝手な農夫たちの姿こそ私たちの姿です。 主人である神から責任を問われても仕方のない者です。 私たちが父なる神から責められても仕方のない者であると十分承知の上でそれでもなお、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。 わたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と語ったうえで、イエスは「実のならないいちじくの木」の譬えをお話になったのです。
「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 ぶどう園の主人がそこで園丁に言った。 もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しにきているのに、見つけたためしがない。 だから切り倒せ。 なぜ土地をふさがせておくのか。 園丁は答えた。 ご主人様、今年もこのままにしておいてください。 木の周りを掘って、肥しをやってみます。 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。 それでもだめなら、切り倒してください。」 この「今年もこのままにしておいてください。」と主人に執り成している園丁がいることを、私たちは忘れてはなりません。 私たちの身勝手な過ちの背後に、このイエスのとりなしの祈り、十字架の贖いがあることを決して忘れてはならないのです。 このイエスの十字架によって赦されていることに、私たちは気づいていなければならないのです。 このイエスに出会って結ばれたという実りが必ず実現されると、神は約束してくださっているのです。
「実を結ばせ、恵みを芽生えさせる神」 イザヤ書45章1~10節
ノアの箱舟の物語の起きてしまった大洪水の出来事だけを見れば、自然災害でしか見えないでしょう。 ノアとその家族は、この大災害に備え周到な準備をした。 災害から身を守るための「箱舟」を造る努力をしていたということになるでしょう。 しかし、創世記はそのようには語っていないのです。 「神に従う無垢な人、神と共に歩んだ人」と書かれているノアに、災害の予告の神のみ言葉がかけられました。 神が命じられたとおりに、ノアは箱舟をつくり、箱舟に乗り込み、箱舟に留まり続け、来るべき時に箱舟から出たのです。 ノアは、人間の思いをはるかに超えた、神のみ心の業を体をもって体験した人物となったのです。 すべての望みが失われてどうすることもできないところに立たされて、神のみ心に委ねるしかないところに立たされて初めて、新しく用意された神の祝福にたどり着いたのです。 信じることができないところに立たされて、それでも神のみ言葉に従ったノアが、滅びから救いへという大転換に導かれたというのがノアの物語でしょう。
イザヤを通しても主は語っています。 敵国のペルシャ王であるキュロスでさえも、ご自身のみ心を果たすためには用いると主は言われます。 ご自身の民を守り、導くためには、どのような者も、どのような出来事も用いられる。 そして、「わたしが主、ほかにはいない。 わたしのほかは、むなしいものだ。 わたしをおいて神はいない。」と宣言し、「わたしは、光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者だ。」と言われるのです。 神は相反するものと思われるような「光も闇も、平和も災いも創造する者」である、一切のものを造る者であると言われるのです。 事実、バビロニアに征服され捕らえられていたイスラエルの民が、ペルシャがバビロニアを滅ぼすことによって故郷に戻ることができるようになったのです。 これこそ、目の前のことだけに目を奪われている私たちには見えてこない神の業です。 しかし、私たちに霊の目がひとたび与えられるなら、この世の成り行きでさえ神の業を見ることができるのです。 私たちのところに遣わされた主イエスを通して見るなら、神のみ心がこの世において果たされていく有様を私たちでも感じ取ることができると言うのです。 神は、「暗闇に置かれた宝、隠された富を与える。」と言います。 先が見えない暗闇に、私たちは立ちたくはありません。 避けて通るように動くでしょう。 しかし、神は、暗闇に立つなら、そこには「隠された宝」があると言うのです。 暗闇に投げ込まれるなら、その恐れから救い出されたいと願うでしょう。 その暗闇にこそ、「隠された宝」を置くと言うのです。 その「隠された宝」とは何でしょうか。 「わたしをおいて神はいない。 光も闇も創造する者である。 平和も災いも創造する者である。」と言われる、その神が遣わしてくださったイエス・キリストです。 そのイエスが架かってくださった十字架です。 十字架という死刑の道具を使って、哀れな僕の姿をイエスに引き取らせて、この世に侮らせて、捨てさせて、その姿と言葉によって私たちを救い出すという、分かりづらい隠された出来事です。 イエスを、「弱い者、苦しむ者、悲しむ者、貧しい者」の姿に落とし込んで、救いの歴史の総仕上げを神がなさったという出来事です。 イエスはご自身の使命を、暗闇から光へ、災いから救いへと導くこの「隠された宝」であると読み取られたのではないでしょうか。 イスラエルに災いを置かれたのも、ペルシャ王に力と成功と繁栄を与えられたのも、バビロニアに滅びを与えられたのも、イスラエルを再び帰還させたのもすべて神です。 神は、光も闇も起こされます。 平和も災いも起こされます。 私たちに与えるのも、取り上げるのも、その神です。 すべての者が、神が主であること、神以外に神はいないことを、地が開いて、救いが実を結ぶように、恵みの御業が共に芽生えるようにと願っておられる神を私たちが知るためです。
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