秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「自分を神としてはならない」 ヨブ記2章1~10節

2024-06-16

 ヨブは、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」と言います。 10人もの子どもに恵まれ、家畜もおびただしい数を有し、使用人も非常に多かったという富豪でした。 そこにサタンという存在が登場し、ヨブが手にしているすべての「財産、家族」などに対する挑戦を受けるのです。 ここではサタンを、「神のもとから私たちを引き離そうとするこの世のすべての力、この世においてのみその存在を許されているもの」と捉えておきましょう。 次々と財産を奪われ、家族をも失われ、その苦しみと悲しみの只中にあるヨブの言葉です。 「わたしは裸で母の胎を出た。 裸でそこに帰ろう。 主は与え、主は奪う。 主の御名はほめたたえられよ。」(1:21) ヨブ記は、「このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。」(1:22)と言うのです。 神の祝福とも思えるヨブの財産、家族一切を取り上げるサタンの挑戦に微動だにしなかったヨブの姿を見て、神はサタンに向けて「わたしの僕ヨブに気づいたか。 地上に彼ほどの者はいまい。 彼はどこまでも「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」と言います。 すると、サタンは、「人は命のためには全財産を差し出すものです。 彼の命が奪われる恐れがあるなら、たちまち神に向かってヨブは呪うに違いない。」と迫ります。 サタンは神の赦しを得てヨブに手を下し、「頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。」と言います。 誰が見ても哀れな姿です。 ここに至って愛する妻からも、「どこまで無垢でいるのですか。 神を呪って、死ぬ方がましでしょう。」とまで言い放されるのです。 それでもヨブは、「お前まで愚かなことを言うのか。 わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」と答え、ヨブ記は「このようになっても、ヨブは唇をもって罪を犯すことはなかった。」と言います。 ここまで語るヨブの真意を受け取ることなく、親しい友人はまるで因果応報かのように「自らの過ちを認めて神のもとに立ち帰るように」と諫める。 ヨブは災いとも思える出来事が度重なっても、決して揺れ動くことなく神との交わりを求めたのです。 なぜ、この身の苦しみが与えられているのか、その理由を知りたかった。 そう祈り求めたのに、神ご自身が一向に応えてくださらない。 この神の沈黙にヨブは耐えきれなくなり、落胆し、破れてしまうのでした。 神は前もって「わたしの僕」としてヨブを選び出したのです。 人間に支配できない存在を用いて、ご自身を深く知らせ、「わたしの僕」にふさわしく整えてくださるのです。 神は一対一で「わたしに答えてみよ」と突然語り始めます。 ヨブが弁え知ることなどほんの一部であることを厳粛に示し、問うヨブが逆に神に問われる者となるのです。 ヨブが、神の選びに応える信仰の深みに至るためでした。 真剣に問いかける者は、神に一対一で問われる者となるのです。 これこそ、神に愛されているということでしょう。 ヨブは、神が与える苦しみの解決を願っていたのではない。 苦しみの意味を求め、神との直接の交わりを願っていたのです。 ヨブは自身の無知と思い違いを知らされ、神を知ること、全能者の恵みの世界を味わうことが真の安らぎへの招きであることを知らされるのでした。 ヨブが神に問われる者となって沈黙し耳を傾ける時、新しい道が開かれていくのでした。 神の御心には、人間が測り知ることのできない大きさ、広さ、深さ、高さが横たわるのです。 ヨブは自らの貧しさ、弱さ、乏しさを知らされ、神を深く知るため、神の僕にふさわしく整えられていくのでした。 神は私たちに、神のもの、永遠なるものを与えようと、時には過ぎ去っていくものを失わせ、私たちの目を開かせようとするのです。 このお方の力と知恵と憐れみが私たちにも注がれていることを喜び感謝し、身を委ねて参りたいと願います。

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「イエスが与える安らぎ」 マタイによる福音書11章25~30節

2024-06-09

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。」 何とも言えない安らぎが響きます。 イエスは、「律法学者たちは、言うだけで、実行しない。 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」(マタイ23:3-4)と批判しています。 私たちが生きていくことに伴う疲れや重荷というよりは、「律法の重荷」についてイエスは語るのです。 本来、律法は神と人、隣人どうしの人格的な関係に基づいています。 その律法に記されている文字だけが独り歩きし、正しさを測るものさしに貶められ、自分を誇り他者を裁く「律法主義」がまかり通っているのです。 「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」とイエスは言います。 「これらのこと」とは、イエスが今まで語って来られた福音の奥義です。 福音の奥義は、人間の知恵によって受け入れられるものではなく、与えられた信仰によって示されるものである。 律法の重荷によって覆われていたその只中に、この福音の奥義が明らかにされた。 「これは御心に適うことでした。」とイエスは言います。 この世の知恵ある人たちからみれば、「幼子のような者」とは、未熟な者、無知な者、力の弱い者ということになるでしょう。 なぜそのような人たちが選ばれたのかと言いますと、「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためである。」と言います。 神はこの世の知恵を愚かにし、宣教という愚かな手段によって信じる者を起こされるのです。 イエスは、「わたしを見た者は、父を見たのである。」と言われるほど、神を示す務めがご自身には与えられている。 「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者の他には、父を知る者はいません。」と言われているように、「父なる神と子なるわたし」という関係にあり、「すべてのことがわたしに任されている。」と言うのです。 父なる神と子なるイエスの関係のように、イエスに結ばれる者は神の子とする霊を受け、神の子となる。」(ローマ8:15)のです。 この父なる神の一方的な恵みのゆえに、神の子として引き上げられる。 イエスを信仰により受け入れた「幼子のような者」は「もう二度と、奴隷の軛につながれてはならない。」と、律法の重荷を負っている人たちにイエスは語るのです。 本来、律法の重荷は取り去られるものではなく、神のご愛に支えられて負うべき重荷です。 私たちが正しく負っていないと言われるのです。 そこでイエスは、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」と言われます。 イザヤ書53章が預言した「苦難の僕」のとおり、イエスご自身が父なる神の御心という重荷を黙って負ってくださって、父なる神との交わりが保たれたから、イエスに従う者もまた御心に適う重荷を負うことによってイエスご自身との交わりが保たれるのです。 そのイエスが、「わたしの軛は負いやすい。 わたしの荷は軽い。」と言われているのです。 自分を縛り付ける重荷を降ろし、イエスの軛に取り換えるようにと言われる。 「軛」とは、二頭の牛が一つの軛でつながれて共に重荷を負い合うものです。 律法の軛というその重荷を取り換えて、イエスの言う軛を一緒に負うようにと言われているのです。 重荷が与えられていることが神に愛されているということです。 神は耐えきれない重荷を負わせられるはずがありません。 このイエスの軛、神の御心に適う重荷を負うことが、イエスを知ること、学ぶことになると言われる。 イエスが父なる神との交わりを持たれたように、私たちもまたイエスに結ばれ交わりを保ち、イエスがこの地上の道のりを歩まれた道を一緒に辿っていくと、神の恵みにより神のもとへ引き寄せられ、神の子となるのです。 「イエスが与える安らぎ」とは、神が備えられた道をイエスと共にイエスの軛を負って歩んでいくことではないでしょうか。

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「自分がする」から「受け入れる」へ マルコによる福音書10章17~27節

2024-06-02

 イエスが弟子たちを引き連れて、エルサレムでの十字架に向かう途上です。 イエスの十字架の受難の予告がいったいどういうことなのか理解できず、不安と恐れに苛まれている弟子たちの姿があります。 そのような時に、「ある人がイエスのもとに走り寄って来て、ひざまずいて尋ねた。」と言います。 たくさんの財産を持っていた社会的には成功を収めている人物です。 「自分がもっと善い者となるには、より正しい者となるためには」と、自分を高める強い願いをもって、「善い先生、永遠の命を継ぐには、何をすればよいのでしょうか。」と真剣に求めるのです。 この男の問いに対しイエスは、「わたしを善いと言うのか。 神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 モーセの十戒の後半部分の戒めをあなたは知っているはずだ。」とイエスは言われ、父なる神のみ前にこの男を招いて立たせたのではないでしょうか。 この男はがっかりして、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」と胸を張るのです。 この聖書箇所の前後において、この「永遠の命を得る」ということを「神の国に入る」と言い替えています。 「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることができない。」ともイエスは言われているのに、金持ちの男は「そんなことは子供でも知っている、子供でも守ることができることだ。」と主張するのです。 この男をイエスはじっと見つめて、慈しんで「あなたに欠けているものが一つある。」と、彼の心の根底に欠けているものがあることをイエスは鋭く指摘するのです。 自分を豊かにしていこう、より善い姿にしていこうとする道は、富が富を求めるように常に足りなさや欠けを生み出すことになる。 そうした自分をひとまず神のみ前に差し出しなさい、「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。 それから、わたしに従いなさい。」と言われたのです。 彼にとってみれば、子供の時から守ってきた、身に着けてきたと誇りに思っていたことが打ち砕かれた瞬間です。 イエスはこの男を裁かれたのではなく慈しんで言われたのです。 より良い自分へと熱心に求め続ける彼に、神を愛することにも、隣人を愛することにも、また神がこれだけ愛しておられる自分自身を愛することにも欠けていたことに気づかせ、そのご愛によってイエスご自身に身を委ねるようにと招いておられるのです。 イエスが招いておられる道は、エルサレムの十字架に向かう道、悲しみと苦しみに向かうけれども救いの喜びとともに戻ってくる道です。 金持の男は気を落とし、イエスのもとから悲しみながら立ち去りました。 そこでイエスはこの男の姿を通して、「弟子たちを見回して言われた」のです。 財産が神ならぬものとして支配してしまっていることを、金持ちの男も、弟子たちも気づいていない。 神以外のものに目を奪われるなら、神の恵みによって生かされていることに気づかされない。 弟子たちもまた金持ちの男と同じように、自分で救いを勝ち取ろうとすることから離れられない。 イエスは、「人間にできることではない。 しかし、神にはできる。」と、神の国に入ることも、救いの赦しが与えられて再び生かされることも人間の問題ではなく、神の問題であると断言するのです。 自分たちこそイエスに最も近いと自負していた弟子たちにとっては、「子供たちのように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」というイエスの言葉は衝撃的です。 自分の子供の幸いだけを願う親の姿も、金持ちの男の姿も、弟子たちの姿もすべて私たちの姿です。 何とか自分の力で自分を高めようとし右往左往する私たちを、イエスは愛の眼差しをもって見つめ、父のみ前に出てくるようにと招くのです。 備えてくださった神の国に呼び寄せてくださった主イエスを受け入れることです。 そして、ここまで主に愛されて一番近い者として立たせていただいている自分自身をも受け入れることです。

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「背後で備えておられた神」 ルツ記2章1~13節 

2024-05-26

 ルツ記の冒頭には「士師が世を治めていたころ」とあります。 「イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいことを行っていた」時代です。 イスラエルの民が主なる神のもとを離れ、勝手気ままに自らの正しいとするままに動いていた世界です。 口に出して語ることが憚れるほど退廃した有様です。 そのような激動の最中に、神の壮大な働きが動き出すのです。 わずか4章のルツ記が、美しい人間模様と素朴な主なる神への信頼が絡み合った小さな家庭に繰り広げられる現実に大きな励ましを得るのです。 飢饉が起きたので、夫婦二人と二人の息子の四人家族がユダの地からモアブの野に移り住んだ。 その小さな家族に夫が死別するという予期せぬことが起きたと言う。 残された妻が「ナオミ」です。 この異教の地で、二人の息子はモアブの女性と結婚したと言う。 その二人の女性のひとりが「ルツ」です。 ところが、今度はその二人の息子が相次いで亡くなり、「ナオミは夫と二人の息子に先立たれ、一人残された」と言います。 ここでナオミは決断します。 「主がその民を顧み、食べ物をお与えになった」と聞いて、住み慣れた場所を後にして故郷に戻る決心をしたのです。 ナオミは二人の息子の嫁に「自分の里に戻りなさい。 あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。 どうか主がそれに報い、どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように」と労い、彼女たちを解放させようとするのです。 イスラエルにとって、モアブ人は「よそ者」です。 ましてや「未亡人」となると、戻ったユダでの生活では過酷な日々を送ることになる。 「自分の里に帰りなさい。 あなたたちよりもわたしのほうがはるかに辛いのです。」と吐露して、「主の御手がわたしに下された」と言います。 これは、ただ食糧を求めて約束の地を離れてしまった夫と共にしたことを悔やんだのかもしれません。 ナオミにとって、姑としての嫁に対する愛情であり、主のもとへ再び立ち帰るために立ち上がった精一杯の信仰であったのです。 このナオミの決断を聞いた二人の嫁は声を上げて泣いて、「あなたとともにあなたの民のもとへ帰ります。」と答えたと言います。 繰り返し説得するナオミに対し、ついに一人の嫁は別れの口づけをしたが、ルツはナオミにすがりついて離れなかったと言います。 ここで、ルツが決断します。 「あなたの民はわたしの民 あなたの神はわたしの神。 あなたの亡くなるところでわたしも死に そこに葬られたいのです。」と言うのです。 ナオミに対する愛情が高じてのことでしょうが、姑を一人にしてはならないという務めと生きがいを見出したのかもしれません。 ナオミに生涯仕えていく思いが、ナオミが仰ぐイスラエルの神に対する信仰へと導くのです。 ルツの決意が固いのを見て、ナオミは二人で故郷への道を歩みます。 時は大麦の刈り入れの始まるころ、場所はナオミが死別した夫の一族の有力な親戚であるボアズが所有する畑です。 立ち上がった人は、故郷へ立ち帰ることを決断したナオミと、ナオミの生涯の面倒をみると決断したルツです。 そのルツが自分の夫を失った後も姑に尽くし、自分の両親と生まれ故郷を捨てて見知らぬ国に来たことを知ったうえで、懸命に朝からずっと働いている姿を知ったうえでボアズはルツと出会うのです。 神が背後で予め整え待っておられたからです。 ルツの言葉には、姑に対する労わりと責任を感じ、ボアズの言葉には、自分自身と同じ「人に対する思い」と同時に、「主なる神への思い」を感じています。 ナオミの言葉には、主の隠された働きを的確に見て取って感謝の祈りをささげられています。 これまでの歩みは無駄ではなかった。 備えられていた永遠の旅に必要な旅であった。 そのために今、この時、この場所、隣り人が与えられている。 祝福の結果を喜ぶのではなく、これほどまでに準備し、招き、決断を起こした主を喜びましょう。

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「さあ、立て。 ここから出かけよう。」 ヨハネによる福音書14章25~31節

2024-05-19

 「最後の晩餐」の際に語られたイエスの言葉には、深い備えを感じます。 場所は、危険が迫っていた「とある家の二階座敷の部屋」です。 イエス御自身がこの「晩餐」の真の意味を告げようと、用意周到に準備し弟子たちを招いた最後の食事の場です。 弟子たちにとってみれば、自らの存在、生涯を賭けてすべてささげて従ってきたそのイエスが、これからいなくなってしまう。 その理由が理解できない。 それが現実となり追い詰められ、エルサレムの片隅にある部屋に閉じこもっていた弟子たちです。 だれ一人として弁護する者がいないという絶望の淵に追いやられ孤立した弟子たちです。 部屋から出て行くことすら勇気のない弟子たちに、聖霊が降ったと言う。 ある日突然、部屋から出ただけに止まらず、霊が語らせるままに語り始めたと言うのです。 三度もイエスを知らないと裏切ったペトロが、今では多くの聴衆を前にして声を張り上げ、イエスの語られた福音を語り始めた。 ここまで彼を一変させ、有無を言わせず神ご自身のために用いらせたこの「聖霊」とは何者でしょうか。 この聖書箇所では、「弁護者、真理の霊」と表現します。 「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」と言います。 イエスがいなくなったその代わりに、イエスの名によって働かれる存在です。 言うなれば、イエス・キリストは父なる神のもとへ行く「道筋」、聖霊はその「道案内」ということでしょうか。 この「聖霊の働き」の第一に、「わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と言うのです。 しかるべき時に必ず、イエス・キリストの言葉に遡らせてくださる、思い起こさせてくださる。 み言葉を思い巡らし味わうのなら、神の御心を悟り知る時が必ずくるのです。 「聖霊の働き」の第二に、「すべてのことを教える」と言います。 聖霊ご自身がそうであるように、「聞いたことを悟って、これから起こることをあなたがたに告げる。」と、その時に適って、それぞれにふさわしくいつも新しい教えとなって迫り、私たちの魂に新しく跳ね返ってくる。 「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」とイエスは言われているのです。 私たちが気づいていようがいまいが、事前にイエス・キリストの名によって聖霊を通して、事前に用意周到に準備されているのです。 私たちは招かれて、この「強いられた恵み」にあずかることができるのです。 神ご自身が働かれて、イエス・キリストの語られた言葉を思い起こさせ、かつて味わった神の恵みの意味がここにきて初めてよみがえってくる。 今悟るべきこと、今果たすべきことに迫られる。 今、それが新しい教えとなって目が開かれ、耳が開かれる。 ありとあらゆるものが用いられて、あらゆるつながりや交わりが生かされ、目に見える形として現れ出るのです。 「事の起こる前に」、イエスは私たちに語りかけ、すでに備えは果たされているのです。 私たちはそれに委ねていくばかりです。 「わたしは去っていくが、また、あなたがたのところへ戻って来る。」 「わたしは、平和をあなたがたに残し、世が与えるようにではなく、わたしの平和を与える。」と言います。 去って行かれたイエスの替わりに、残された「聖霊による賜物」として与えられる「イエスの平和」です。 これを最後の晩餐の時に、愛する弟子たちに「事が起こる前に、わたしの平和を残す。 わたしが平和を与える。」 私たちは備えられたその「強いられた恵み」、残された「聖霊による賜物」である「イエスの平和」に招かれているのです。 この「残された平和」を味わう者が、イエスの平和を造り出し持ち運ぶのです。 「心を騒がせるな。 おびえるな。 さあ、立て。 ここから出かけよう。」というみ言葉が蘇って、足取りの重い弟子たちを奮い立たせたのです。 私たちにも降る「残された賜物」をしっかりと受け取りましょう。 失望してはならないのです。

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「約束された神の安息」 ヘブライ人への手紙4章1~11節

2024-05-12

 この手紙が記された時は、ローマ帝国の激しい迫害が現実のものとしてイスラエルの民に迫ってきていた。 主なる神に替わって「ローマ皇帝」への崇拝を強要されていた。 教会の中では、慣れ親しんだユダヤ教の世界へと逆戻りしようかという誘惑に耐え切れなくなってきていた。 新しい福音のみ言葉に対する誤解などが相俟って確信がもてなくなっていたことが背景にあります。 外的な迫害や内的な動揺が広がり、初期のキリスト者たちの救われた喜びが薄れ、信仰の力が弱まってきて、この手紙の言う神の民への勧めの言葉が必要となってきていたのです。 ダビデは、詩篇95編で主に向かって救いの喜びの叫びを挙げています。 主なる神は大いなる神である、すべてのものを創りすべてを支配しておられると神への信頼と賛美を歌っています。 そのうえで、「わたしたちを造られた方 主の御前にひざまずこう。 今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。」と言うのです。 かつてのように、「心を頑にしてはならない」、先祖たちのように「神を試してはならない」、神の道を知ろうとしなかった信仰のゆえに「彼らは神の安息の地に入ることができなかった」と歌っています。 この手紙の著者はこのダビデの詩を引用して、イスラエルの民の過ちをもう二度と繰り返してはならない。 約束の地カナンに入ることのできなかったことに目を向けさせ、「神の安息にあずかることができなかった者がいる。 取り残されてしまったと思われる者がいる。」 かつて語られた「神の安息にあずかる約束が、今もってまだ続いている。」 だから、「そうならないよう、告げ知らされた神の約束の言葉に信仰をもって結び付くように。」、「生ける神から離れてしまう者がいないように」、「誰一人、罪に惑わされてかたくなにならないように」、「最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるように」、「注意しなさい」、「今日という日のうちに、日々励まし合いなさい」、「イエス・キリストに連なる者となりなさい」と強く勧めるのです。 そして、「信じたわたしたちは、この神の安息にあずかることができるのです。」と確信をもって宣言するのです。 約束の地カナンにおける安息と、天地創造の七日目の神ご自身の安息をもって、私たち「神の民の安息」の約束を語るのです。 「神の業は天地創造の時以来出来上がっている。」 神の民の一時的な不信仰があったとしても、未完成のままの安息に止まったとしても、神ご自身が休まれた安息は今もって残っている。 失われることはない。 神の言う創造には、働きと休みが必要である。 その休みこそ、すべてよしとして神が造られたものに対して祝福された大事な時である。 その創造主である神ご自身の安息と、被造物である私たちに対する祝福が注がれなければ、神ご自身が望まれるこの世にないものへとはなっていかない。 始めの時にすでに神によって「神ご自身の安息」の約束は始まっている。 受ける側の私たちの状況によって、私たちの信仰の状態によって左右されるようなものではない。 それは変わることがない。 失われることなく残されている。 天地創造の際にも、モーセやヨシュアの時代にも、また詩編95編を歌ったダビデの時代にも、そして今、私たちが生かされ、イエス・キリストを通して福音が告げられ、神ご自身がイエスによって直に表された後にも、この「神の安息」の約束は生き続け、私たちの信仰の応答によって時々刻々深められ、神の前に進み出る神の民に備えられている。 私たちはこの地上において、すでにこの真の「神の安息」のもとで時々刻々引き寄せられているのです。 この「神の安息」こそ、新しい創造の場への変わらない一貫した神の招きではないでしょうか。 「今日」という日のうちに、この残されたものを受け取り損ねないようにということでしょう。 私たちもまた、神の祝福を豊かに浴びるために自分の業を止め、今日という時をもちなさいと勧めるのです。 

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「イエスの示すしるし」 ヨハネによる福音書2章13~22節

2024-05-05

 「神殿から商人を追い出す」という小見出しがついています。 イエスは、「神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。」、「わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」と厳しく言われ、彼らを神殿の「境内から追い出した」と言います。 私たちの目にはハプニングな出来事であるかのように映るこの出来事の真意についてみ心を尋ね求めたい。 彼らは、ユダヤ人たちがユダヤ全土から集まる過越祭に、神殿に犠牲のいけにえをささげるために必要なものを手当てする商人たちです。 その彼らにイエスが直接ふるまった出来事でしたが、その思いは神殿を司る祭司長たち、大祭司を頂点とする神殿の体制、仕組そのものの有様に対してのものでしょう。 これだけの言動をすれば、どれだけのものが自分に跳ね返ってくるのか当然承知していたでしょう。 ユダヤ人たちはイエスに、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか。」と怒りを込めて迫ります。 ユダヤ人たちの反感を買い、自らの死を招く直接の引き金になったことを示します。 「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす。」という詩編69編10節を引用し、「父の家」に対する熱い思いから引き起こされたイエスのふるまいが、十字架による処刑に至る原因の一つになった。 これから後に処刑されることになったことも聖書の預言の成就であった、 父なる神のみ心の中にある定められた出来事であったと、イエスの心の中にある思いを象徴的に表した「一度限りのふるまい」のように思われます。 イエスはユダヤ人たちの迫りに「この神殿を壊してみよ。 三日で建て直してみせる。」と答えられたと言います。 イエスは、御自分でこの神殿を壊すとは言っておられない。 「壊れても新しい神殿、父の家の神殿をすぐに起こす」と言って、形だけの礼拝をささげる神殿の崩壊を預言し、「まことの礼拝」がささげられる新しい神殿が建て直されるという、一度限りの憐れみに富んだ厳粛な預言をされたのです。 ユダヤ人たちはこのことを理解することができず、十字架に架けられたイエスをこう罵っています。 「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。 他人は救ったのに、自分は救えない。 今すぐ十字架から降りるがいい。 それを見たら、信じてやろう。」(マルコ15:29-32) この時の弟子たちも同じでした。 しかし、イエスは、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(14:26)と言います。 その時に分からずとも、神に備えられた時にははっきりと神のみ心が分かる時が必ずくるのです。 ユダヤ人たちが求める「しるし」とは、神がかかわっているという目に見える証拠としての「しるし」でした。 しかし、信仰によってしか見極めることのできない「しるし」があります。 神と人との交わりの場が、人の不信仰のために崩壊しようとしている。 人によって支配される神殿はいずれもろく崩れ去る。 しかし、イエスは人間としてのご自身のからだによって、「まことの礼拝」がささげられる父なる家がすぐに起こされる。 イエス・キリストと固く結ばれ、「父がわたしの内にあり、わたしが父の内にある」という父と子の関係にあずかる神と人との交わりにある神殿であるなら、この恵みをしっかり受け取った者の信仰により「まことの礼拝」がささげられると言います。 イエスの言う「神殿」とは、ご自身のからだ、ご自身による十字架と復活のことです。 この土台としての神殿の主であることを、イエスはこのふるまいによってお示しになったのです。 「十字架から降りてみろ。 そうしたら信じてやろう」という浅はかな目に見える「しるし」ではなく、十字架に架けられたまま、そこに留まり続け、一切を背負って人の死に至るという恵みと救いの「しるし」によって答えられたのです。

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「渇いて待っておられる主イエス」 ヨハネによる福音書4章7~15節

2024-04-28

 イエスは弟子たちを連れて再びガリラヤへ行かれます。 ユダヤ人はサマリア人と挨拶さえもしなかったと言いますから、その通り道としてサマリアを避けるのが常でしたが、聖書は「サマリアを通らねばならなかった」、サマリアを通る理由があったと言うのです。 弟子たちは町へ食べ物を買いに出かけ、イエスだけがサマリアの町の井戸端に「旅に疲れて座っておられた。 正午ごろのことである。」と言います。 そこに、ひとりのサマリアの女性が井戸の水をくみに水がめをもって来たのです。 何のためらいもなくイエスはこの女性に、「水を飲ませてください」と語りかけ、イエスとサマリアの女性との対話が始まります。 公の場の風習としてありえない男女を越えた、人種を越えた対話です。 「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてくださいと頼むのですか」という彼女の問いに、「水を飲ませてくださいと言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人は生きた水を与えたことであろう。」とイエスは返すのです。 女性が井戸に水をくみにくるのは朝の早い時間帯か夕方の涼しい時間帯で、「正午ごろ」とはだれも井戸には立ち寄らない時間帯です。 町の女性たちとの交わりをわざわざ避けてこの井戸に立ち寄ることを見透かし、イエスは待っていたかのようです。 彼女はこの言葉を聞いて、話しかける人物がただならぬお方であることに気づき、「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。 どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。」と聞き直します。 この呼びかけにイエスは、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。」と言われる。 このイエスの返答に彼女は、「主よ、渇くことのないように、ここにくみに来なくてもよいように、その水をください。」と思わず答えるのです。 彼女の魂の奥底にある叫びを、イエスはご存じで引き出されたのです。 そこで初めてイエスはその女性に、「あなたの夫をここに呼んできなさい」と唐突に言います。 五回の結婚歴があり、現在でも夫ではない人と連れ合っていることを言い当てられ、驚いた女性は「キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています」という精いっぱいの信仰が引き出されます。 イエスはその女性に、「それはあなたと話しているこのわたしである」と宣言されたのでした。 そこから彼女の行動に劇的な変化が生まれ、「水がめをそこに置いたまま」、今まで交わろうともしなかった町の人々に対して突然に「語り出す」のです。 「わたしが言ったことをすべて言い当てた方がいます。 この方がメシアかもしれません。」 この女性の証言が、サマリアの町の人々をイエスのもとに引き寄せ、「自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かった」という信仰に導かれるのです。 この有様に町から戻ってきた弟子たちは驚かされ、イエスは「わたしには、あなたがたの知らない食べ物がある。 わたしをお遣わしになった方の御心を成し遂げることである。」と、これから人々を牧する者となる弟子たちに宣教の務めを諭されたのです。 イエスの宣教は一対一の対話から始められ、「生きた水を与えることのできるイエス」なのに、「この世の水を求めるイエス」となって呼びかけてくださるのです。 この井戸端に疲れたまま座っておられるイエスの姿こそ、十字架の上のイエスに重なります。 人々の嘲りの中に、一人の人間以下の姿に成り下がったイエスです。 イエスの最後の姿をこの福音書は、「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。 こうして、聖書の言葉が実現した。」と証言するのです。 一人の女性を救うために、イエスは哀れな姿をさらして待って、救いの道に導かれたのです。 その彼女の証言とふるまいが、多くのサマリアの町の人々を礼拝に招いたのです。 イエスはご自身の宣教を、後を継ぐ弟子たちに直に示されたのです。

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「救いの恵みに留まる」 ヘブライ人への手紙2章1~4節

2024-04-21

「そうでないと、押し流されてしまう」という言葉が心に残ります。 知らず知らずのうちに潮に流されてしまう舟の危険性に対する警告のように感じます。 少しずつ主のもとを離れていくと、み言葉も賛美も祈りも信仰も脇へ追いやられてしまう。 自分が漂流していることに気づかないまま座礁しないようにと、この手紙は「しっかり信仰の碇を降ろしておくように」と迫っているようにも感じるのです。 「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。」と言い、新改訳聖書では、「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」と言います。 この手紙が記された頃は、ローマ帝国の激しい迫害が「外からの脅威」としてありました。 「内における脅威」は、時が経過し、慣れ親しんだユダヤ教に逆戻りしようとする「背教者」の存在であったでしょう。 初代のキリスト者の熱意や喜びや感謝が薄れ、信仰の力が失せていく。 この漂流する状態を察して、この手紙は「わたしたちは聞いていたことをしっかり心に留めて、押し流されないように」と繰り返し訴えるのです。 漂流しないためには、何をもって「碇」とするのでしょうか。 この手紙は1章の冒頭のわずか3節だけによって簡潔に「それは御子である」と言明するのです。 神は、かつては預言者たちによって語られてきたが、「この終わりの時代には、御子によって語られました」と言います。 私たち人間が捜し出して神を見つけ出したのではない。 神が自ら探し求めてくださったからです。 人間の救いの働きの主導権は一切、神のもとにあるのです。 「神は、御子を万物の相続者として定め、また、御子によって世界を創造された。」と言います。 この「御子」を「神の栄光の反映」と表現しています。 父なる神の輝きを、その姿、その語られる言葉、その生き様によって自ら放つお方であるということです。 また、「神の本質の完全な現れ」とも言います。 「御子」には、神そのものであるという刻印が押されているということです。 「万物を御自分の力ある言葉によって支えておられる」とも言います。 この地上の世界を執り成し、支えておられるということです。 また、私たちの罪を贖い、救いを示され、その働きを成し遂げたがゆえに、父なる神の右の座に着くことが許されたお方であるとも言うのです。 神としての光を自ら放つ、神のみ言葉を語る「真の神」である。 それと同時に、父なる神の光を人間の人格とその働きを用いて反射させる「真の人間」であると言うのです。 「だから、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいてはならない。」と言うのです。 心を新たにして、福音の言葉を聞き取り直しなさい。 恵みとして福音の言葉を聞き続けないと、過去に逆戻りしてしまう。 今が「恵みの時」、「救いの時」として、この「御子」を受け入れ、信じて結ばれるようにとこの手紙は迫るのです。 私たちもまた「御子」と同じように、「神の子」として神の栄光を讃える礼拝によって神の栄光を現すことができるのです。 この「救いの恵み」を私たちの心のうちに留めるために、注意を払うべきものは「主イエスが最初に語られたこと」、そして、主イエスが最初に語られたことを「聞いた人々によって確かなものと示されたこと」です。 主なる神ご自身も、私たちの生涯を用いて証ししてくださると言うのです。 この漂流から救う警告の教えを聞く耳を開いていただきましょう。 それが信仰の碇を降ろすことになり、救いの恵みに留まることになるのです。 父なる神と「御子」の働きも、その「御子」から聞かされた人々の働きもすべて神の愛なる働きです。 一人残らず取り戻そうとされる神のみ心の働きです。 「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。 それはわたしの望むことを成し遂げと「御子」、使命を必ず果たす。」のです。

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「命をかけて神に近づく者」 エレミヤ書30章18~22節 

2024-04-14

 南ユダ王国がまさに滅びに向かってまっしぐらの時です。 主なる神は預言者エレミヤに、今まで語られた滅びの預言とは正反対の預言を告げます。 「わたしがあなたがたに語った言葉をひとつ残らず巻物に書き記しなさい。 見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る。」と言われるのです。 ご自身が語られる言葉に責任をもつので記しなさいと言い、記された言葉に触れることを主なる神は強く望んでおられるのです。 語られる預言が成し遂げられたなら、「回復される、再建される、昔のようになる、固く立てられる」と、その有様を記しています。 エレミヤが率いるイスラエルの民が起こしなさいと言うのではなく、主なる神が直接「憐れむ、栄光を与える、報いる」と言われているのです。 ここに言う「ヤコブの天幕の繁栄を回復し」とはどういうことでしょうか。 イスラエルの族長時代の遊牧民としての移住生活を思い起こさせます。 神と共に旅をして生きる、神に導かれ神を仰ぎながら歩む神の民の本来の姿に立ち帰るということです。 主なる神ご自身が囚われていた人々をもとに戻す、滅びに向かっていた人々を転じるのは、私によってしかできないことであると言われるのです。 これは単なる回復ではありません。 故郷に帰ることだけ、昔の生活を取り戻すだけのことではない。 人の手によってつくられたものに目や心を奪われてしまったイスラエルの民を、本来の主なる神の方に向けさせる。 記された神の言葉に再び集まり、神を賛美し、感謝の祈りをささげ、神の言葉に聴き従う。 礼拝する群れ、神に依り頼む信仰の群れに変えられるということではないでしょうか。 神によって裁かれた滅びを経て、その廃墟の丘のうえに、神の正しい裁きの土台のうえに立てられる救いの預言が、破壊を経て復興が果たされるというのです。 「昔のようになる」とは、繁栄したダビデ王の時代やソロモン王の時代に戻ることではない。 取り戻されるべき昔は、礼拝する神の民の回復です。 賛美の歌声、感謝と喜び、神の恵みと約束に対する信頼と確信です。 出口の見えない、滅びに向かっているように思わされる時こそ、新しい「回復の預言」に耳を傾ける時です。 22節に「こうして、あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる。」と言います。 主なる神が、「わたしの民となる。 わたしのものである。 救い出し、回復させる。」と約束してくださっているのなら、耐えられないと思われるような苦悩の中にあっても、傷の痛みが激しくともなうようなところにおいてでも、私たちはこの神の約束への信頼と確信があるなら、神の民として甘んじることができるのではないでしょうか。 このみ言葉の前に、「ひとりの指導者、治める者がわたしたちの間から、私たちの中から出る。 主なる神が彼を近づける。 そして、彼は命をかけてわたしに近づく。」とあります。 「彼」とは、群れを率いる者のことです。 エレミヤであり、イザヤであり、エゼキエルであり、モーセであるのでしょう。 彼らはすべて、主なる神によって選び出され、引き寄せられ、厳しい務めを与えられています。 しり込みをしながらも彼らは引き寄せられるままに、自ら命をかけて近づいていくのです。 神の懲らしめを受け、破壊と滅びを経て、救いの恵みがあることを群れと共に知らされるのです。 エレミヤは、「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである。 すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。 その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。 彼は公平と正義をもってこの国を治める。」と、新しい契約が結ばれ、新しい神の民が生まれると預言するのです。 エレミヤによって預言された新しい契約は、イエスの十字架の血により調印されたのです。 新しい救いは、十字架によって成し遂げられたのです。

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