秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「狼の群れと小羊」 ルカによる福音書10章1~12節

2020-10-18

 ルカによる福音書では、イエスがこれから送り出す72人の弟子たちはいったいどのような者たちであるのかをご自身の言葉でこのように語っておられます。 「あなたがたこそ、収穫のための働き手である」と言います。 聖書で「収穫の時」と言えば、この世の終わり、神の国が完成される時という比喩です。 神の恵みがこの世をすべて支配する時がやってくる。 そのための「働き人」だと言われるのです。 「収穫」の比喩を用いて、神がご支配される時がすぐそこまで来ている。 その「時」に備えるための派遣である。 神の大いなる恵みの業に備えるために、多くの働き手がともに遣わされて行くように祈り願いつつ行きなさいと、緊迫感を漂わせてイエスは弟子たちを送り出されたのです。 もうひとつこのようにもイエスは72人の弟子たちを表現しています。 「あなたがたは小羊である。 これからあなたがたを遣わすのは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」と言います。 力の強い者、迫害する者、抵抗する者の危険の只中に丸腰で、弱い者、無防備な者として送り込まれるような労苦の多いものだとイエスが言っているように聞こえます。 「財布も袋も持っていくな。 何も持つな。」と言われているのでなおさらです。 果たして私たちはこのみ言葉を、弟子たちの覚悟を一層求めたものと受け止めるのでしょうか。 
 ルカだけが十二人の弟子たちの後に、72人の弟子たちを遣わした際のイエスが語られたみ言葉を書き残しているのです。 72という数字は、全世界の民に向けての数字であるかもしれません。 神の国はすでに来ている。 「シャローム、神の平和」が成し遂げられている。 さあ、わき目もふらず全世界に向けてまっすぐに家や町に伝えなさい。 その喜びの知らせに家や町が応えることを神は求めておられる。 受け入れる家や町と、拒む家や町に真っ二つに分けられる時がすでにやってきている。 そのためのあなたがたの働きである。 その働きが「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と言われているのです。 イエスは旧約聖書に熟知し、メシアの誕生の預言をご自身の誕生として読み取っておられます。 メシアは、「主を畏れ敬う霊に満たされる。 弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。」(イザヤ11章) そして、次のような神の国が訪れると預言されているのです。 「狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。 子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。 牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。 乳飲み子は毒蛇とともに、また幼子は蝮とともに戯れる。」 そのような驚くべき信じることができないような「神の平和」の世界が、メシアの誕生ととともにこの悲惨な現実の世界の只中に訪れることになると、イザヤは幻を見ることができたのです。 イエスもまた、このイザヤの預言をご自分のこととして受け取られて、このような神の恵みの支配の世界を確信したのでしょう。 ですから、「あなたがたを送り出すのは、そのような狼の群れとともにある世界を築くためである。 狼の群れに気をつけなさいではなく、恐れないで神の平和を築き上げるもう一方の当事者である狼の群れのところに行きなさい。」と送り出されたのではないでしょうか。 最も危険な場所、耐えがたい場所と思われるようなところが、最も驚くべき出来事、神の平和の現実を味わう場所に成り変わる。 この神との平和は、小羊と小羊の間だけではない。 神の平和など起こり得ないと思われるような所、狼の群れと小羊の間に起こされるのです。 これが神の恵みの支配される神の国です。 それが受け入れられるところに行って、「時は満ち、神の国はあなたがたに近づいた。 悔い改めて信じなさい。」と語るようにとイエスは弟子たち、私たちを送り出しているのです。

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「伝える側と伝えられる側」 マタイによる福音書7章1~6節

2020-10-11

 1節から4節までは、「人を裁いてはならない」ということがテーマとなっています。 それは「自分もまた裁かれないようになるためである」と言います。 人はとかく自分のものさしで人を量り、人を区別します。 道徳的にもよく分かる話です。 しかし聖書はそうではありません。 人を裁くということは神がなさることだと聖書は言います。 「人の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気づかないのか」と言われるのは、神の前にということです。 人の中にある些細な「おが屑」を見つけ出して、自分の中にある「丸太」の大きさに目を閉じてしまう。 この自分の本当の姿、神の前の傲慢さを、イエスはこのように表現しておられるのです。 私たちが人の中に見る過ちに比べれば、神の目に知られている私たちの過ちははるかに大きい。 どんなに取り返そうとしても取り返しのつかない過ちである。 主イエス・キリストの十字架の翼によって覆われなければ償うことのできないほどの大きさである。 「そうした状態に先ずあなたがたは気づきなさい。 神の前にある自分の本当の姿を知り、赦していただきなさい。 それは神によって裁かれないためである。 そうすれば、人の本当の姿を知るようになる。 だから、互いに赦し合いなさい。 そうすれば、あなたがたも主イエス・キリストの十字架によって神に赦される。」とイエスは言われるのです。 そのことを5節で、「まず自分の目から丸太を取り除け。 そうすれば、あなたがたは自分の姿がはっきり見えるようになって、人の目からおが屑を取り除くことができるようになる。」とイエスは促しておられるのです。 
ここまでは、このみ言葉を受け入れることはさほど難しいものではないでしょう。 問題はこの1節から5節に続くイエスのみ言葉です。 「神聖なものを犬に与えてはならない。 真珠を豚に投げてはならない。 それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」という、どう受け止めてよいのか難しいみ言葉が続きます。 一般的に言われる「豚に真珠」ということわざに似たことをイエスは告げているのでしょうか。 「まず自分の姿がはっきり見えるようになって、それから人の姿を見るように」と言われたのです。 自分の姿、人の姿が見えるようになって、人の目の中にあるおが屑を取り除くことができるようになったのなら、「神聖なもの、真珠を犬や豚に投げ与えるようなことをしてはならない」と、弟子たち、私たちの信仰の在り方を問われたのではないかと思わされるのです。 いったい誰が「犬」であり、「豚」であるのか判断するのでしょうか。 神の前にはほぼ同じです。 人を「犬」や「豚」のように見なしているその在り方、そして「真珠」をもっていないと決めつけて人に与えようとする姿に、イエスは警鐘を鳴らしておられるのではないか。 神聖なもの、「真珠」は代えがたい神から与えられるものです。 私たちが所有できるようなものではない。 神から与えられ、恵みとして受け取るものです。 神から働きかけられて、驚いて味わう体験です。 その都度、イエスが霊となって私たちの内に入り宿られて初めて、私たちの中に湧いて出てくる神の命、力です。 私たちの中に「真珠」を持つのではなく、私たちの中で神の働きによって「真珠」になるのです。 そこに救いの喜びの出来事が起こされるのです。 神のみ言葉が生きた言葉となって、私たちの中に宿る。 何をもってしても打ち消されることのない出来事となって刻み込まれて、「真珠」になるのです。 「伝えられる側」の相手が「豚」であるのか「犬」であるのかという問題ではなく、「伝える側」の問題として、本当に神のみ言葉が生きて働いて「真珠」となっているのかどうかです。 「真珠」となって刻み込まれる出来事が起こされることを私たちが祈り願っているかどうかです。

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「出来事を起こされる主イエス」 マタイによる福音書9章9~13節

2020-10-04

「イエスはそこをたち、通りがかった」とあります。 そことは、イエスのご自分の町、カファルナウムという町です。 ガリラヤ湖畔随一の繁栄を誇っていた商業の中心地です。 ロ-マ帝国が税金を取り立てる収税所を設置し、軍隊を駐屯させたほどに重要視していたところです。 新たな宣教の地に向かう、その通りがかりにイエスが目を留められたのが「収税所に座っているマタイ」の姿でした。 マタイは収税所に勤務する徴税人です。 徴税人とは、ローマの権威を盾に正当な税額以上の取り立てをし、私腹を肥やしていた人たちのことです。 ユダヤの人びとからは忌々しい人々と疎まれていた人たちです。 そのころ、「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、福音を宣べ伝え、民衆のあらゆる病気や患いをいやされた。 そこでイエスの評判が広まって、人々はあらゆる病人を連れてきた。」と言われています。 イエスは食事をとることも、休息をとることも、眠ることさえもままならなかったのでしょう。 イエスが祈るために静かな場所に退かれても、人々は先回りしてイエスを待ち受けたと言います。 そうした中、イエスに目もくれず、ただ収税所にじっと座っていたマタイの姿の方が、イエスにとって目を留めなければならなかった姿に映ったのでしょう。 そのマタイにイエスは、「わたしに従いなさい。」と呼びかけられました。 すると、座っていたマタイは立ち上がって、イエスについて行ったと言うのです。 マタイにいったい何が起こったのでしょうか。 マタイが何かを望んで叫んだとか、マタイの姿がどのように映ったから呼びかけられたとか一切の理由も説明もなしに、イエスは呼びかけられたのです。 そこに、この出来事のいぶかしさと驚きを憶えます。 
 徴税人とはどのような人たちであったのか、イエスはよくご存じであったでしょう。 人々からは後ろ暗い人たち、胡散臭い人たちと見られていた。 律法を守ることのできない人たちだと眉をひそめられていたのでしょう。 もし、一緒に食事をするあるいは一緒に歩くなら、その仲間であると思われても仕方がなかったことでしょう。 イエスは、周囲の群衆のイエスを求める姿とは正反対に、ただひとりご自身を一向に見つめようとしない、求めようとしないマタイの姿に深く憐れまれたのではないでしょうか。 そこで想定外の出来事が、マタイのうえに起こされた。 イエスが新しい宣教の地に出発するその時に、このひとり孤独に座っていたマタイを連れて行こうとされたのです。 このマタイがイエスの十二弟子のひとりに加えられたという出来事が起こされました。 当時としては考えられない「徴税人のマタイ」と注釈が付けられる人物がイエスの十二弟子に加えられたという驚くべき出来事が起こされたと聖書は言うのです。 徴税人たちは穢れた人たちであると、自分がその職業を選んだ自業自得であると人々は思ったに違いない。 事実、ファリサイ派の人たちは、徴税人や罪人と一緒に食事をしているイエスを見て、「なぜ、あなたたちの先生は、徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」、間違っているとイエスを正します。 しかし、イエスは穢れた人であろうがなかろうが、その人の悲惨な姿に出会うことによって、深い憐れみから想定外の出来事を起こされるのです。 ホセア書を引用して、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。」と、丈夫な人ではなく病人を、正しい人ではなく罪人を招くためであるとイエスは言われるのです。 イエスの目には、自分にしがみついて神のもとから離れて死んでしまっている神の前に失われている者と、自分を捨てて神のもとに帰ろうとしている取り戻される者の区別しかないのです。 イエスは手当が必要なすべての人を招くために、自ら罪人に数えられる中に厭わず入って行かれて、憐れみから発せられる驚くべき出来事を、必要とされるひとりのために起こされるのです。 

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「嘆きの中で神を賛美する」 ヨブ記1章21節 19章25~26節 42章1~6節

2020-09-27

 ヨブは、「七人の息子と三人の娘、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産を与えられていた。 東の国一番の富豪であった。」と言います。 そのようなヨブの家庭に次々と苦難が訪れるには原因があったと聖書は言うのです。 神の前に、神の使いたちとサタンが集まってきた。 サタンとは、「この地上を巡回して、方々を歩き回って」、神のもとから人を離れさせる存在です。 そのような存在を赦しておられるのは、神がご自身の救いの業の為に用いられるとしか言いようがありません。 神は先ずサタンに言います。 「お前は私の僕ヨブに気づいたか。 地上に彼ほどの者はいまい。 無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」 神はヨブをご自身の僕であると認めているのです。 ここからサタンの神への最初の挑戦が始まります。 「ヨブが、利益もないのに神に従うでしょうか。 彼の手の中にあるすべての財産に象徴される祝福が失われるなら、ヨブは面と向かって神を呪うに違いない。」と挑むのです。 人々の姿を多く見てきたサタンは、人間はただで神を畏れるものではない。 自分の幸せを図るために神を利用しているに過ぎないという確信です。 そのサタンに神は、「ヨブのもの一切、お前のいいようにしてみるがよい。 ただしヨブには、手を出すな。」と応じられたのです。 その後、牛もろばも略奪される、羊も焼け死んでしまう、らくだも奪われ、家族も失われるという災いが次々と襲ったのでした。 その時、思い切り悲しんで地にひれ伏して叫んだヨブの言葉が、「わたしは裸で母の胎を出た。 裸でそこに帰ろう。 主は与え、主は奪う。 主のみ名はほめたたえられよ。」でした。 「取り去られるものはすべて取り去られたけれども、神の名を呼び賛美することは赦されている。」とヨブは言っているのです。 自分が神の僕であるなら、神の許可なくこの私に触れることができる者などいないという確信であったのです。 サタンは更に神に挑んできます。 「人は自分自身の命のためなら、全財産を差し出すものです。 もしヨブの骨と肉が損なわれるなら、彼は面と向かって神を呪うに違いない。」と言うのです。 そのサタンに、神は「ヨブを、お前のいいようにするがよい。 ただし、ヨブの命だけは奪うな。」と応じられたのです。 ヨブはその後、全身がひどい皮膚病にかかり、体中をかきむしるまでになったと言います。 それでもヨブは、「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と語るのです。 ヨブは神とサタンとの対話は知らされていません。 災いとも思える出来事の理由が、神が答えてくれないので分からない。 その神の沈黙に耐えきれなくなって絶望したのです。 その時にヨブに届いた神の言葉が、「お前は何ものか。 わたしが大地を据えたとき お前はどこにいたのか。 知っていたと言うなら言ってみよ。」でした。 神はヨブを御自身の僕として選び分かち、サタンの試みにも承知してずっとご覧になっておられるのです。 この苦しみの解決ではなく、神の沈黙こそ神の答えでした。 サタンの試みにヨブと一体となって支えてくださっていた神にヨブが出会うためでした。 ここまで深くご自身を知らせてくださる神と出会うためでした。 この神に答えたヨブの言葉が、「今、このようなところで、この目であなたを仰ぎます。 それゆえ、わたしは自分を退け、悔い改めます。」でした。 ヨブは自分を守るために悔い改めたのではありません。 ヨブは神を深く知るために悔い改めて、神の僕にふさわしく整えられていったのです。 神がすべてを承知しておられ、そのみ手の中で一緒にサタンの試みにともなってくださることをヨブが味わい知るためでした。 神は永遠なるものを与えようとして、過ぎ去るものを失わせご自身の沈黙をもって人の目を開かせようとされたのです。

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「神と人との交わり」 ルカによる福音書19章1~10節

2020-09-20

 エリコという町は都エルサレムの入口であり、物の流通や人の行き交いが盛んな町でした。 ローマ帝国にとってみれば、様々な税金を取り立てやすい重要な拠点であったようです。 主イエスがもう戻ることのない十字架に向かう旅の最後の町と言えます。 猛然とエルサレムに向かって、イエスが足を速めている時です。 そのエリコの道端に座って物乞いをしている盲人がイエスがお通りになることを聞いて、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と叫んだと言います。 叫び続ける盲人に立ち止まり、そばに連れてくるようにと命じ、「何をしてほしいのか」とお尋ねになってその願いを聞き届けられたのです。
 このエリコの町でもうひとり、イエスがエルサレムを急ぐなか足を止めてわざわざ出会ってくださった人物がザアカイでした。 ザアカイは、「徴税人の頭であった。 金持ちであった。」と言います。 徴税人たちは、ローマの威光を背景に必要以上の税金を取り立て、私腹を肥やしていたのです。 当然ながら、ローマの支配下にあったユダヤの人々からは、忌々しい人々と嫌がられ、疎まれ、つまはじきにされていた人たちです。 ザアカイはその頭であったと言いますから、人々からは容赦なく徴税する凄腕の徴税人であったのでしょう。 そのようなザアカイがなぜか、このエリコの町を通りすがるイエスを見ようとします。 道端に座って物乞いをしている盲人のように、叫び声を挙げてイエスに出会うことを熱望していたわけではないが、背の低かったザアカイはいちじく桑の木に登ってまでイエスを見たいと願っているのです。 財産をもち、生活は安定し何不自由のないザアカイが、なにかしら満たされない心の渇きがあったのでしょう。 人々との交わりは断たれ、孤独にされ、いちじく桑の木の上にまで締め出された居場所のない孤独な人の姿に映ってきます。 そのようなザアカイをイエスは十字架に架けられるという大きな務めを果たす為に先を急ぐその最中でも足を止められ、側近くでご覧になって「ザアカイ」と名前を呼んで呼びかけるのです。 そして、「急いで降りて来なさい。 今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われる。 「ぜひ泊まりたい」というこの言葉は、「泊まることにしている。 泊まらなければならない。」という意味合いの言葉です。 道端で物乞いをしていた盲人も、いちじく桑の木の上にまで締め出されていたザアカイも、イエスが手を差し伸べるべく定められた存在であったのです。 このふたりがどのような人物であったのか、どのような行いをしていたのかに関係なく、イエスが望んで選び、立ち止まり、捜し当て、呼びかけられた存在であったのです。 これは父なる神のみ心を果たす為であった、これから向かわれる十字架のもとで贖われるすべての人々のうちのふたりであったと、イエスはその直前にこのエリコという町で示されたのではないでしょうか。 このイエスの呼びかけに、突然のことであったザアカイは、「急いでいちじく桑の木から降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」と言います。 エリコの町の人々は、「イエスは神の子であると思っていた。 しかし、ザアカイの家に泊まるという罪人の仲間であった。」とつぶやいたのです。 このつぶやきにお構いなく、イエスの御業が果たされていきます。 ザアカイは訳が分からなかったが喜びに満たされ、イエスに委ねて行こうと小さな決断をしたのです。 当時の律法の定めをはるかに超えた償いをすると宣言するまでに、生き方そのものが変えられたのです。 そのザアカイの応答に、イエスはザアカイの家に泊まられたのです。 そして、ザアカイひとりだけでなく、その家族にも救いが訪れたのです。 アブラハムと同じ祝福を引き継ぐ者であるからとザアカイに出会ってくださるイエスは、私たちにも出会ってくださるのです。 

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「赦されること 愛されること」 創世記4章1~12節

2020-09-13

「兄弟は他人の始まり」とはいい意味で使われている言葉なのかもしれません。 兄弟間での葛藤こそ、人を大きく成長させるものでもあるからです。 人類最初の人を殺してしまうという悲しい出来事が兄弟の間で起こったと言います。 兄カインは「土を耕す者」となった。 弟アベルは「羊を飼う者」となった。 それぞれ人間に神から託された務めを果たす者となったということです。 ところが、二人の神への感謝の献げ物から事が始まります。 兄カインは「土の実りを献げ物として持って来た。」 弟アベルは、「羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。」と言います。 なぜか神は、「アベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」と言います。 カインは弟アベルに向かって「激しく怒り」、神に向かっては「顔を伏せた」とあります。 私たちは神が目を留められる違いはどこにあるのか、あれこれと詮索してしまいます。 献げ物そのものの違い、献げ方の違い、献げる者の心の違い、献げる者の働きの違いなのかと思ってしまいます。 新約聖書では、献げ物は「信仰によって」献げるもの、神を愛するという思いから出てくるものであると言います。 神に対して今、献げなければならない最良のものを献げるという思いに神は目を留められたのでしょう。
 「激しく怒って顔を伏せたカイン」に、神は「どうして怒るのか」と呼びかけます。 神に顧みられなかった理由を、なぜ弟に求めるのか。 自分自身の中にある理由に目を背けるカインに、神は「どうして顔を伏せるのか。もし、お前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。 顔を上げよ、神の前に自分自身の姿を差し出せ。 そうしなければ、お前を支配している誤った思いに翻弄されてしまう。」と、カインを見捨てることなく悔い改めを迫ります。 人は自分を正当化するために、正しいことを言われれば言われるほど怒り出します。 すべてを知っているがゆえに、それを隠すために人は必死になります。 心の中に、神に隠さなければならないような思いが湧いてくるなら、そのままにしておいてはならない。 たとえ破れても、恥ずかしくても、もう一度向きを変えて、神の前から隠れていこうとするのではなく、神の前に向きを変えてありのままの姿を差し出して戻って来なさい。 「隠れた罪」は恐ろしく、お前自身を支配するものとなると言われたのです。 
 その甲斐なく、カインは弟アベルを言葉巧みに誘い出し、手にかけてしまうのです。 「お前の弟アベルはどこにいるのか」と神は呼びかけます。 神は「お前の弟」と言っています。 私たちの命は人とのつながりの中に生かされていると神は言います。 その呼びかけにカインは、「知りません。 わたしには関係ありません。」と答えたのです。 神から託された人との関係を自ら断ち、自らの務めを放棄したのです。 それだけではなく、神の前を立ち去り、「ノド」という地に住んだと言います。 「ノド」という地名は、動揺、あせり、不安といった意味合いでしょうか。 神に背を向けて、自分の身を守ろうとした地「ノド」。 神を二の次にして漂う、自分だけを頼りにうつろいごまかすこの世の姿を映します。 旧約聖書は、このカインの兄弟間の葛藤を物語ると同時に、もうひとつヨセフの兄弟間の葛藤の物語も記しています。 兄たちに荒れ野の穴に突き落とされ、遠いエジプトに奴隷として売り飛ばされたヨセフが、そのエジプトで頭角を現し、エジプトを支配するまでになったのです。 豊かに食糧のあるエジプトに助けを求めてやって来た兄たちをヨセフが赦す感動的な場面が創世記45章に記されています。 兄弟姉妹は社会性を鍛え合うばかりでなく、互いに赦し合うというかけがえのない経験をも与える関係であることが、そこには示されています。

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「カナンの女の信仰」 マタイによる福音書15章21~28節

2020-09-06

 「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。 人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れてきたので、これらの人々をいやされた。」と聖書にあります。 ここに出てくるシリアとは、今朝の聖書箇所にある「ティルスとシドンの地方」がこれに当たります。 「イエスはそのガリラヤを立って、ティルスとシドンの地方に行かれた。」と言います。 マルコによる福音書によれば、「だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった」とあります。 精力的に宣教活動をしていたイエスの目には、ユダヤの指導者たちの姿は、「口先では神を敬うが、その心は神から遠く離れている。 人間の戒めを教えとして教え、むなしく神を崇めている。 彼らは盲人の道案内をする盲人だ。」とまで失望しています。 彼らに指導されているイスラエルの人びとを、「飼い主のいない羊のような有様である」と深く憐れんでおられます。 そのイスラエルの人びともまた、癒しを求めイエスに押し寄せては、癒しを与えてもらう。 にも拘わらず、その結果に満足してイエスのもとを離れ去ってしまう。 その繰り返しの姿に、イエスは失望もしておられたのではないでしょうか。 そのガリラヤを離れて、異邦人の地に退かれたということです。 神に遣わされたガリラヤの地を一時離れたということは、イエスにとっては特別な意味があったのでしょう。 父なる神との交わりを心静かに備えるために、退いて来られたのかもしれません。 その異邦人の地で、イエスは意図しないひとりの女性との出会いから、神のみ心を深く知られたのです。 その女性とは、「この地に生まれたカナンの女、自分の娘が悪霊にひどく苦しめられている女」とあります。 弟子たちにとっては、ガリラヤの時と同じようにここでもまた、病気のいやしを求めて大声でわめいている女がいる。 「あまりに大声で叫びながらついてきますので、癒して差し上げて、この女を追い払ってください。 この女の願いを聞き届け、立ち去るように願いを叶えてやってください。」と、弟子たちは思い余って言うのです。 聖書の言う信仰は、私たち人間の願いに神を従わせることではありません。 神が願っておられることに、私たちが応えていくことです。 彼女は異邦人でありながら、「主よ、ダビデの子よ」と、「あなたこそ、イスラエルの人びとの救いの為に遣わされるメシアです。」と告白します。 そして、「わたしを憐れんでください。 主よ、どうかお助けください。」と、イエスの前にひれ伏して申し出るのです。 この言葉には、あなたにすがるしか他に手立てはないのです。 諦めるしかないのです。 いや、諦めるわけにはいかないのです。 どうぞ、主よこの願いを受け取ってくださいという、絶望の淵に立った瀬戸際に立たされた者の祈りがあります。 「イスラエルという子どもたちのパンを取り上げて、小犬という異邦人にそのパンを与えるわけにはいかない。」というイエスの言葉に、彼女は「主よ、ごもっともです。」と答えます。 未だ、イスラエルの人びとが、自分たちの真の救いのためにイエスが遣わされていることに気づいていない時に、彼女はそのことを承知している。 しかも、「あなたこそ、そのために遣わされたメシアです」と告白している。 すでにイスラエルの人々が神の国に招かれている恵みに気づいている。 自分たち異邦人もまた、イスラエルに注がれた恵みのおこぼれに与り、その招かれた神の国の食卓からこぼれ落ちるパン屑に、私たちは恵みとして与ることができますと申し出た彼女の信仰を、イエスは「立派な信仰」と受け止められたのです。

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「祝福の源」 創世記12章1~8節

2020-08-30

神はアブラハムに3つの命令をくだしました。 「あなたは生まれ故郷を離れなさい。 父の家を離れなさい。 わたしの示す地に行きなさい。」というものでした。 この命令のために、神は6つの祝福を約束されました。 「わたしはあなたを大いなる国民にする。 あなたを祝福する。 あなたの名を高める。 あなたは祝福の源となる。 祝福するにしろ、呪うにしてもあなたを用いる。 すべての民は、あなたによって祝福に入る。」というものでした。 この3つの命令と6つの約束の言葉に従って、アブラハムは旅立ったと言います。 アブラハムがどのような人物であったとか、どのような状態であったとかに関係なく、神がみ言葉によってアブラハムを選んで、呼びかけ、この旅立ちを引き起こしているのです。 この神のみ言葉にアブラハムが応えて、従って、妻と甥と蓄えたすべての財産、そして途中で加わってきた人々を連れて旅立ったのです。 安住の地、安定の地を捨てて、経験したこともない、知識も持ち合わせていない異教の地に行きなさいということでしょう。 しがらみもない、血のつながりもない、社会的な礎もない、土地も権利もない神がご用意しているところに出かけて行き、そこで神の働きの為に用いられる。 その為に、アブラハムを祝福し、神の民の為にアブラハムを祝福の源とするということでしょう。 故郷を捨てることも、父の家を捨てることも、アブラハムには戸惑いがあったでしょう。 到底信じることができないような約束を、信じることができなかったのでしょう。 それでも、神のご命令であるからとアブラハムは、戸惑いながらも旅立ったのです。 神が示した地、カナン地方に入った時、神はアブラハムに「あなたの子孫にこの土地を与える。」と重ねて呼びかけられたのです。 しかし、アブラハムには息子がいなかった。 すでに75歳であったと言います。 妻サラにとっても、もはや子どもは与えられないと諦めていたふしがあります。 カナン地方には、すでにカナン人が住んでいる。 偶像礼拝がなされ、人間がつくったもので固められたところに、自分たちの土地が与えられてどのような意味があるのだろうと思ったかもしれない。 それでも、アブラハムは神の祝福の中味というよりは、その祝福を注いでくださろうとする神ご自身に従ったのでしょう。 
 私たちは神の祝福を、勝手に自分のものさしで決めつけようとします。 もし自分が望んでいる祝福でなかったなら、神がご用意してくださった祝福を拒もうとするのです。 神がご覧になっていてくださって、すべてを承知して私たちにくださるのならそれで十分です。 自分がその行き先が分からなくても、神が備えて、これがふさわしいとするなら十分です。 アブラハムは自分が安住できると思っているところを捨てなさいと言われました。 自分が祝福であると思っているものを捨てて、神が備えておられる場所と祝福を受け取りなさいと迫られたのです。 それはあなた自身のためではない。 あなたに関わるすべての人の「祝福の源」となるためであると言われたのです。 豊かに祝福が私たちに注がれるのは、「祝福の源」となるためです。 その向こうにいる、その祝福からこぼれ落ちている人々の為です。 注がれた祝福を運びなさい。 注ぎなさい。 渇くことのない泉のごとく湧き出てくる神の祝福は、その周囲にまで及ぶと約束してくださっているのです。 「すべての民は、あなたによって祝福に入る」という約束も、「あなたの子孫にこの土地を与える」という約束も、その175年の人生で目にすることはありませんでした。 妻を葬る墓地のわずかな土地だけでした。 それでも、アブラハムは神の約束にその生涯を生きることができたのです。 神の約束の言葉は必ず果たされるのです。 数百年後、アブラハムに約束された神の民の祝福は実現されたのです。

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「共に苦しみ、共に喜ぶ」 コリントの信徒への手紙一12章12~26節

2020-08-23

 パウロは、「教会の群れは、キリストの体である。 その体は一つである。 一人一人はその体の部分である。 ユダヤ人であろうと、ギリシャ人であろうと、奴隷の身分であろうと、自由な身分の者であろうと、男であろうと、女であろうと、このキリストの体に繋がっている多くの部分である。」と言います。 神に選ばれた民として絶対的な誇りをもっていたユダヤ人が、異国の民と一緒にいることなど常識外でした。 社会的な身分が明確に定められていた当時の社会においては、様々な身分の人々が共に教会の中にいることなど考えられない風景でしょう。 そこにパウロは当時の社会の枠を超えて、「あなたがたはバプテスマを受けて、一つの霊によって一つに結ばれているからだの多くの部分である。」と言うのです。 ユダヤ教の神学を究めた、ギリシャ哲学の素養も備え、神に忠実に従う熱心さと真剣さには誰にも引けをとらないパウロが、信仰は学問や研究によって、あるいは人間の熱心さや努力によって与えられない。 聖霊によらなければ、「イエスが主である」と告白することはできない。 聖霊のバプテスマによって、新しい目が開かれ、新しい耳が開かれ、今までとは異なる新しい命に生きて行かなければ、「イエスが主である」と信仰告白することはできないと言うのです。
 神を信じて従って行こうとする人を起こさせるのも、神に仕えて行こうとする人を用いてくださるのも、イエスが今もなお生きて働いておられる聖霊の働きです。 この聖霊は、神に祈り求めさえすれば、だれでも、いつでも、どこでも与えられると聖書は言います。 自分の弱さ、醜さを見つめて、悔い改めて新しい道を歩み始めたすべてのキリスト者に、この聖霊の賜物は注がれ、務めが託されるのです。 そのために、18節に、「神は御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれる。」と言います。 神がみ心のままに働かれるので、この聖霊を私たちがコントロールすることなどできません。 私やちは、この聖霊の賜物を受け取るだけです。 信仰は勝ち取るようなものではなく、神の裁きの前に、自分の弱さ、醜さ、とりかえしのつかない過ちをすべて差し出して、悔い改めて方向転換できることを恵みとして受け取っていくことです。 すべて主イエスが替わって担ってくださって、私たちの弱さ、醜さ、過ちが赦されて、新しく生きるようにと送り出される時に感謝していただくものです。 この聖霊の働きを小さく侮ってはなりません。 とてつもない大きな目に見えない恵みを主は天に用意してくださっています。 私たちはこのお方を主であると公に言い表し、聖霊の賜物を感謝して受け取っていくことです。 そして、聖霊の働きに大いに期待し、委ねていくことです。 
22節に、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」 24節に、「見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」 25節に、「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。」とあります。 神の恵みは弱いところに、いっそう明らかに現れ出るのです。 もっとも小さなところに、神の憐れみはいっそうはっきりと現れ出るのです。 この恵みを、神との交わりの中で皆で全体として受け取っていく。 「一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しむのです。 一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」と言います。 弱さのない、醜さのない、過ちのない人など一人もいません。 この人間の弱さ、醜さ、過ちという一つずつの部分が、この世におけるキリストの体、教会をつくり上げているとパウロは言うのです。 この一つ一つの部分を通して、イエス・キリストは聖霊となって働いてくださっているのです。 私たちその一部分は、聖霊の働きを受けて、用いられて、このイエス・キリストに仕えることができるのです。

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「罪の赦しを宣言するお方」 ヨハネによる福音書8章1~11節

2020-08-16

 当時の律法によれば、この聖書箇所に出てくるひとりの女性が犯した姦淫の罪は、石で打ち殺される重い罪に定められていました。 律法学者たちは、この女性を民衆の真ん中に立たせてイエスを試そうとします。 もしイエスが、「律法に従って、過ちを犯したこの女性を石打の刑で裁け」と言うなら、民衆は無条件の赦しを説いていたイエスに失望するだろう。 もしイエスが、「民衆に晒されたこの女性の過ちを敢えて赦す」と言うなら、律法を守らない者としてイエスを告発し、律法学者たちが裁くことができるようになるだろう。 どちらに転んでも、イエスを追い込むことができるようになると律法学者たちが企んだのです。 
 それに対するイエスの言葉が、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」という短い言葉でした。 イエスは、「石を投げなさい。 この女性を裁きなさい。」と言っているのです。 この女性が犯した過ちは石打の刑に値すると認め、律法を重んじています。 律法はモーセが造り出したものでも、律法学者たちが編み出したものでもありません。 神が定め、モーセに授け、託したものです。 その戒めによって、私たちを神の前に立たせるためのものです。 イエスは明らかにこの女性に、「神の前に立ちなさい」と言っています。 しかし、イエスはそこに留まらないのです。 この女性を取り巻いている多くの人々の姿があります。 この女性と共に過ちを犯してしまった、ここには姿を見せていない男性の存在もあるでしょう。 この女性を利用して、イエスを貶めようとした律法学者たちの姿があります。 今にもこの女性に石を投げつけようと、手に石を握りしめていた民衆もいるでしょう。 その有様を遠くから眺めていただけの傍観者の人々もいるでしょう。 イエスは民衆の真ん中に立たされた女性だけでなく、すべての人々に対して、神の前の裁きの場に立ちなさいと言われたのではないでしょうか。 神の裁きは、ただ咎めるだけの裁きではありません。 神の前に立とうとしない、自分の本当の姿を見つめようとしない、見ることのできない人々に向けて、神の前に立って自分の姿を見つめるようにと呼びかけておられるのです。 この短い呼びかけのほかは沈黙を保ったまま、身をかがめて、今にも人々が石を投げつけようとしているその場に、女性ととともに裁きの石を身に受けようとイエスは留まり続けたのです。 イエスの短い言葉に、人々は一人また一人と立ち去って行って、最後にはイエスと女性だけが取り残されたと言います。 
 女性は誰にも裁かれなかったのです。 石は投げつけられず、助かったのです。 しかし、彼女の犯した過ちはそのままです。 放置されたままです。 誰も裁くことも、赦すこともなかったのです。 その場を立ち去っただけです。 このままでは、彼女は生涯過ちを背負ったまま歩んでいかなければならない。 立ち去った人々もまた、そのわだかまりを持ちながら生涯を歩まなければならない。 「だれもあなたを罪に定めなかったのか」と確かめたイエスは、「わたしもあなたを罪に定めない。 行きなさい。 これからは、もう罪を犯してはならない。」と言われたのです。 女性はここで初めて、自分を裁いてくださったお方に出会うことができた。 その裁きは、この私を赦し、過去の過ちから解放し、救い出すためのものだった。 過ちを犯してしまったこの私がここに存在することも、これから新しい歩みを始めることも赦されたことに気づかされた瞬間ではないでしょうか。 イエスは彼女の過ちを見逃したのではありません。 彼女に替わって、彼女と共に、神の前に立ってくださって、その過ちを引き受けてくださったのです。 そして、そこから解放してくださって、新しい歩みに送り出してくださったのです。 私たちを新しく創造する神の愛が、そこに働いているのです。

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