「教会の祈り」 使徒言行録12章1~17節
律法の教えを厳しく守ってきたユダヤ教徒たちは、律法をないがしろにするキリスト教徒たちを異端として排斥していたのです。 ユダヤの領主であったヘロデ王はそれに目をつけ、ユダヤの人々の関心を得るため、急成長していったキリスト教徒の群れの中心人物であったヤコブを殺害し、ペトロも同じように殺害するために投獄していたのです。 何の手立てもない、最大の苦難を前にしてただ神に祈るしかなかった生まれたての教会は、ただ「ペトロのために熱心な祈りをささげていた。」 次の日にはそのペトロが牢から引き出されて、処刑されようとしているそのような時に、「主の天使がペトロの傍らに立った。 その牢の中を光で照らした。 ペトロのわき腹をつついて、眠りから起こした。」 そして、厳重に監視させられて、二本の鎖につながれ、眠りの中にあったペトロに、「急いで起き上がりなさい。 帯を締めなさい。 履物を履きなさい。 上着を着てついてきなさい。」と言うのです。 この呼びかけに突然起こされ、何も分からないままにペトロは、「幻を見ているかのようだったが、鎖がペトロの手から外れ落ち、番兵が見張っているはずの牢の鍵は外れ落ち、衛兵所を過ぎ町に通じる門がひとりでに開いた。 その呼びかけに従って、外に出てついて行った。 すると急にその主の天使はペトロのもとを離れ去って、ペトロは我に返り、本当のことが分かった。」と言うのです。
この「本当のこと」とは、「主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤの民衆のあらゆるもくろみから、このわたしを救い出してくださった」ことです。 それが神のみ心であったことを、ペトロが分かったと言うのです。 神を信じようとする人々を閉じ込め、厳重に監視し、その存在を赦そうとしない、神のもとから引き離そうとするこの世の力、それら一切のものから解放してくださって、「目を覚ましなさい。 耳を澄まして呼びかけに聴きなさい。 ついていく準備を今すぐしなさい。 必要なものを身に着けなさい。」と言っているのです。 ペトロは、自分が厳重に監視されていた牢からこのように救い出されたと事実を詳しく説明して、 これからエルサレムの教会の中心人物となるヤコブとその兄弟たちに、このことを伝えなさいと言ってその姿を消していくのです。 ペトロを取り逃がした番兵は処刑されていきます。 助け出されたペトロは、その後のヘロデの厳しい追及に晒されたことでしょう。 エルサレムの教会を引き継いでいく、これから始まるパウロによる異邦人宣教を引き継いでいくという大切な務めを担ったペトロは、その務めを果たすまで神に守られ、救い出されたのでしょう。 ところが、エルサレムの教会の人々は牢の中にいるはずのペトロが救い出されるとは信じることができなかった。 自分たちの目の前に立ったペトロを見て驚いたと言うのです。 あれほどペトロのために熱心に祈っていた人たちではなかったのか。 ペトロが救い出されて戻ってくるという祈りが叶えられると信じていなかったのかと疑問に思うほど、大喜びするどころか驚いたと言うのです。 エルサレムの教会の熱心な祈りの姿には、望みようがない時にもなお望みつつ、神の前に立ち続けた信仰の姿を見るのです。 信じようがないくらいに望みが絶たれてしまっている、そのようなときにも何でもおできになる神を仰いでうわ言のように祈ったエルサレムの教会の人々の信仰の姿を見るのです。 アブラハムもそうでした。 「アブラハムは希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、神の約束の言葉に従った.」(ローマ4:18)のです。 「祈り」は神の前に立ち続けることです。 神のみ心を知るまで神を仰いで待つことです。 そのために用いられた「苦難」、与えられた「熱心な祈り」であったのでしょう。 「苦難」は解決するのではなく、解消していくものなのでしょう。
「赦しの言葉」 マタイによる福音書6章9~15節
「主の祈り」は、先ず神への呼びかけから始まります。 「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけて、次に、神に向けて三つの祈りがささげられています。 「み名が崇められますように、み国が来ますように、み心が行われますように」と、神への祈りで始まるのです。 その後で、私たち人間の営みについての祈りが三つ続きます。 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 わたしたちの負い目を赦してください。 わたしたちを悪より救ってください。」と祈るようにイエスは言われたのです。 私たち人間の些細な生活の中にある迷い、苦しみ、悲しみに、具体的に答えてくださるようにと祈る願いがあればあるほど、先ず神に向かって祈らなければならない。 神のみ前に立たずして、ただ私たち人間の側からだけの祈りであるならば、神との交わりのない空虚な祈りとなりかねないのです。 「主の祈り」は、神との交わりの」中で祈られる「祈り」であるとイエスは語っているのです。 本当に簡潔明瞭にして短い「祈り」です。
ここで忘れてはならないことは、「わたしたち」という言葉で祈る「祈り」であるということです。 わたしたち教会の群れがともに祈る「祈り」です。 それとともに群れに連なるひとりひとりの「祈り」、神のみ前に一人立って祈る「祈り」でもあるということです。 この六つの祈りに順番があると言うならば、なぜ、「わたしたちの負い目を赦してください」という祈りが五番目の祈りに位置付けられているのだろうかと思います。 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りの後に、「わたしたちの負い目、わたしたちの罪を赦してください」と祈りなさいと言うのです。 イエスは荒れ野で、「人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と言われたではありませんか。 順番が逆ではないでしょうかと言いたくなります。 イエスはこの「主の祈り」を教えた後に、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。」というみ言葉をつけ加えています。 このみ言葉をどのように受け止められるでしょうか。
私たちは、自分の犯してきた過ちは、神の憐れみによって一方的に赦されることを知っています。 「主の祈り」こそ、イエスご自身によって愛する弟子たちに教えられた「祈り」です。 イエス・キリストの名によって罪が赦されている者の「祈り」であるはずです。 そうであるなら、罪の赦しを願う「祈り」はすべての祈りに先立つ「祈り」であるはずです。 イエスは、私たちが生活の日常の糧を日々祈り求めると同じように、私たちの罪深さに敏感に気づき、イエスの名によって赦され続けなければならない存在であることを忘れてはならないと愛する弟子たちに教えられたのではないでしょうか。 ここに語られた「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。」とは、人の過ちを赦すことを条件に、神が私たちの過ちを赦すと言っているのではないでしょう。 「主の祈り」は、イエス・キリストの十字架の生涯によって、イエス・キリストの名によって祈る「祈り」です。 イエスは十字架の上で、すべての人の過ちを担って、執り成して死んでくださったのです。 それが、父なる神のみ心だったからです。 「天の父があなたがたの過ちをお赦しになる」という赦しの約束の言葉が聞かされなければ、私たち一人一人の過ちの赦しなどないのです。 イエスが教えられた「主の祈り」は、この過ちが赦された者が祈る「祈り」です。 イエス・キリストの名によってすでに成し遂げられた「神の赦しの言葉」を受け取った者が祈る、赦された者どうしが祈る「祈り」です。 父なる神の赦しの言葉に聴いて、これを携えて、神のみ心を行わせる聖霊を身に受けてこの世に遣わされて行く者の「祈り」なのです。
「正しいことを行う人」 使徒言行録10章34~48節
当時のユダヤ人は、社会的にも政治的にも支配されている者でした。 強大な力をもつローマの支配にただ従うだけの存在であったのです。屈辱と無力に苛まれた存在であったでしょう。 しかし、神によって授けられた律法を弁える者として、選ばれた民である「誇り」をもっていたのです。 ローマ人も含め異邦人とは異なるという独善に至って、決して交わろうとしない排斥の殻に閉じこもっていたのです。 一方、ローマ人は、支配する者として文化も武力ももつ優越感をもった存在でした。 神を知ろうとしない、自分の力だけを頼りに生きる無知なる存在であったのでしょう。 ユダヤ人とローマ人が互いに訪問し、交わることなど考えられない当時の社会であったのです。 神は、「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長であったローマ人コルネリウスと、ガリラヤの漁師であったユダヤ人で、イエスに出会い従ってきたペトロを選び出します。 このコルネリウスが福音を受け取るために、次第に整えられていくのです。 「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、憶えられている。 だから安心して、これから告げるペトロというユダヤ人をあなたのもとに呼び寄せなさい。」という神の導きがあったのです。 コルネリウスのささげる祈りと賛美はもうすでに神に届いている。 届いているだけでなく、神ご自身に覚えられていると言うのです。 だから、安心して神の導き通りに委ねなさいと言われるのです。 そのコルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて、「今、わたしたちは皆、神が語らせる言葉を聞き逃すことのないようにと、神のみ前に進み出ている。」と語るまでに整えられていったのです。
一方、すでに聖霊が降り、別人のようにつくり変えられていたペトロでしたが、未だにユダヤ教の教えに縛られ、社会常識によって神のみ心を知り尽くすことがなかったのです。 ローマ人のところに出かけて行くことなどできないとしり込みするペトロに、神は何度も何度も「神が清めた物を清くないなどと言ってはならない。 ためらわないで、コルネリウスのもとに出かけて行きなさい。」とペトロを戒め、導かれるのです。 ペトロは次第に異邦人であるコルネリウスに福音を告げるにふさわしく砕かれていきます。 次第に整えられていったコルネリウスと、繰り返し戒められ砕かれていったペトロが、神の導きによって引き寄せられた出会いであったのです。 そこに、異邦人のうえにも、ユダヤ人と同じように聖霊が降り、神への喜びと賛美が生まれたと言うのです。 「神は人を分け隔てなさらないことがよく分かりました。」というペトロの告白が生まれ出ます。 この神に導かれた二人の出会いによって、分け隔てなさらない神が支配からも、従属からも、また独善からも、無知からも二人を解放してくださったのです。 そこから、人種もなく、国や文化の違いも乗り越えて、すべての人に神の賜物、聖霊が注がれることを悟って、イエスキリストを主と信じる「キリスト者」の群れが湧き立ったのです。 ペトロは、「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられる。 十字架に架けられ、復活させられたナザレの人イエスを信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが与えられる。」と語るのです。 「神に受け入れられる」とは、神との交わりが赦されるということです。 私たちの過ち、罪によって閉ざされていた神との交わりの門が開かれるということです。 神との交わりを妨げている罪の存在さえ気づかない、罪に落ちて罪に踊らされていることさえ分からない私たちを、罪の恐ろしさを本当に知っておられる神が、事前に赦しを与えて解放してくださっているのです。 「正しいこと」とは、神から注がれるその賜物、聖霊を喜んで受け入れて感謝し、賛美しその導きに従うことです。
「託された必要なもの」 マタイによる福音書25章14~30節
イエスがこれから迎えるご自身の十字架での死を直前にして、愛する弟子たちとのお別れにこの「譬え」を語っています。 イエスはひと度、しばしの間、弟子たちの前から姿を消すことになる。 しかし、必ず戻ってくると語っています。 「主人は、これから旅に出かける。」と僕たちに言います。 「主人」とはイエスのことです。 「僕たち」とは愛する弟子たちのことです。 この「譬え」は、イエスと僕たちの関係について譬えているのです。 決して、人間どおしの「道徳」を譬えているのではありません。 主人がしばしの間の旅に出かける前に、「自分の財産を、僕たちに預けた。」と言います。 その財産を、「タラントン」という通貨単位をもって表現しています。 1タラントンとは、6000デナリオン。 1デナリオンは一日の賃金相当であったと言いますから、1タラントンと言えども相当な額の財産ということになるでしょう。 それを、「それぞれの力に応じて預けて、主人は出かけた。 しかし、かなりの日がたってから、主人が帰ってきてから精算を始めた。」と言います。 この「タラントン」とは何でしょうか。 「それぞれの力に応じて預けられる。 預けられたものを倍にして返す。 預けられたものをそのまま地の中に隠しておく。」とはどういうことでしょうか。 主人は、いったい僕たちの姿の何を見つめておられたのでしょうか。
「タラントン」とは、主人のものです。 しばしの間だけ、僕たちに預けられたものです。 僕たちの所有物でも、予め備わっているものでもありません。 1タラントンだけでも豊かなものです。 主人は僕たちを信頼して、その「タラントン」と「時」をその務めに応じて託したということでしょう。 ところが、「忠実な僕だ。 よくやった。 もっと多くのものを預けよう。 わたしと一緒に喜んでくれ。」と言われた僕と、「怠け者の悪い僕だ。 預けられていたものを取り上げられる。」と言われた僕とに分かれました。 主人は預けたものの成果をご覧になって喜ばれたり、悲しまれたのではありません。 それぞれの務めに預けられたことを喜んで用いた僕の姿を喜んでおられるのです。 主人は、その喜びをともに分かち合いたいのです。 そうではなく、自分がなくしてしまったら主人に咎められる、責められることを恐れて、主人のみ心に応えることができなかった僕の姿に、主人は悲しみを覚えたのでしょう。 一緒になって喜びを分かち合いたいと願う主人のみ心を知ろうとしないで、自分の身に迫ることだけに目を向けた僕の姿、むしろ、預けたものを減らすことのなかったことを褒めてもらおうとした僕の姿を、主人は悲しんだのです。 イエスのこの厳しい言葉は、神の御心を忘れ、自分の身を守るために神の言葉の形だけを守ることに専念した当時のファリサイ派の人々の姿に向けた悲しみの言葉でしょう。
「主人が帰ってくる時がやがてくる。 精算を始める時がくる。」のです。 その時こそ、イエスとともに喜びを分かち合う時です。 神の国が訪れる「その時がやってくる」と、イエスは愛する弟子たちにしばしの別れをこの「譬え」で告げておられるのです。 ご自身が大切にしておられるものを託して預ける。 再び出会うとき、預けられたものを用いた恵みを持ち寄って互いに喜びを分かち合おうと、呼びかけておられるのです。 預けられるものは、イエスを通して注がれる一方的な恵みです。 私たちの身に備えられる資質や才能といったものではありません。 私たちの忠実さや努力によって勝ち取られるものでもありません。 神の持ち物です。 神のご用のために用いられるものです。 ですから、この預けられたものは自ら必ず、預けられた人を用いて神のみ業を成し遂げるのです。 そのための「しばしの間」と「タラントン」と「恵みの喜び」なのです。
「ペトロの恵み」 使徒言行録10章1~16節
場面は、カイサリアという町にいるコルネリウスとヤッファという町にいたペトロとの出会いです。 カイサリアもヤッファもともに、地中海に面するパレスチナ地方の代表的な港町です。 ヤッファは、エルサレムと密接につながる保守的なユダヤ主義の町です。 カイサリアは、ヘロデがローマ皇帝のために年数をかけて築いたローマによるユダヤ支配の象徴的なギリシャ文化の色濃い町です。 コルネリウスは、そのカイサリアに常駐する「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長でした。 ギリシャ文化に包まれたカイサリアに住む純粋なローマ人です。 「信仰厚く、一家そろって神を畏れ、民には多くの施しをし、絶えず祈っていた。」と、理想的な信仰者の姿であったと言います。 一方、ペトロは、かつてガリラヤの漁師であったユダヤ人でした。 イエスと出会い、聖霊が降り、別人のように変えられた人です。 方々を巡り歩き、イエスの語った福音を宣べ伝え、病を癒し、不思議な業を行い、ユダヤ主義の色濃いヤッファに滞在していたのです。 そのようなローマ人とユダヤ人であった二人を、神は出会わせようとするのです。 神の福音自らが場所と文化と人種を超えて、二人を用いてその壁を突き破っていこうとするのです。
最初に、カイサリアにいるコルネリウスに神は呼びかけます。 「ヤッファにいるペトロをカイサリアに招きなさい。」という分かりやすく、具体的な呼びかけでした。 一方、ヤッファにいるペトロにも神は呼びかけます。 しかし、その呼びかけは難しく、理解不能なものでした。 「大きな布のような入れ物に入っているものを屠って食べなさい。」という呼びかけでした。 その入れ物の中には、「律法に戒められていた清くない物、汚れた物が含まれていた。」とペトロは拒みます。 それでも、「わたしが清めたものを、清くないなどと言ってはならない」と神はペトロを戒めます。 これが三度繰り返されたと言います。 ペトロは、この神の呼びかけを食べ物のことであると決めつけて、思い込みで三度も拒んだのです。 そこで、コルネリウスにも神の呼びかけがあったことをペトロは初めて知らされて、この神の呼びかけは食べ物のことではなく、人間に対する福音を宣べ伝えることであることを知らされたのです。 ペトロはコルネリウスに出会って、「神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないとお示しになりました。 神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。」と語っています。
一方、ペトロを迎えるコルネリウスは、最大限の敬意をペトロに払います。 親類や親しい友人を呼び集めてペトロを待っていました。 ペトロの姿を見るや、足元にひれ伏して、「今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」とまで言います。 コルネリウスはペトロを迎えたというより、神を迎え入れて、そのみ前に進み出ていると言っているのです。 ペトロも同じでした。 「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人であるわたしは外国人と交際したり、訪問したりすることは律法で禁じられています。 けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないとお示しになりました。 それで、すぐにここに来たのです。」と、先立って行われた分け隔てなさらない神の働きだけを見つめているのです。 この三度も繰り返し神に砕かれたペトロが、コルネリウスのもとに遣わされたのです。 そこで、神の前に進み出てペトロが語る福音を聞き逃さないようにと多くの人々が待っていた恵みに、ペトロは与ることができたのです。 福音を伝えられたコルネリウスたちも、福音を伝えたペトロも、ペトロについてきた人たちもそこで、神の働きに与ることができたのです。 パウロは言っています。 「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。 わたしが福音に与る者となるためです。」(コリント一9:23)
「立ち上がるサウロ」 使徒言行録9章1~19A節
生まれたばかりのキリストの教会は、ひとりの人物の大きな変化によって新しい世界が拡がっていったと聖書は語っています。 その人物はヘブライ語読みで「サウロ」、ギリシャ語読みで「パウロ」です。 ユダヤ教の中から飛び出したキリスト者たちが、「十字架に架けられたナザレ人イエスが神の子であった。 すべての人々の救い主となった。 今もなお、死を乗り越えて生きて、自分たちに出会ってくださった。」と証言し始めたので、エルサレムでは神を冒涜する者であると激しい迫害が起こっていたのです。 その最前線で指揮を取っていたのがサウロです。 「十字架に架けられた者」は神に呪われた者であると学んできた律法からも、自分の信念からも断じて許すことができないと、「脅迫し、殺そうと意気込んで、見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行しようとした」のです。 そのサウロが、エルサレムから200キロ以上も離れたシリアのダマスコで、天からの光に照らし出され、自分の名を呼びかける声を聴いて地に倒れたと言います。 あまりの輝きに、サウロは驚いたのです。 「呼びかけるあなたはどなたですか」のサウロの問いに返ってきた「あなたが迫害しているイエスである」という答えに、サウロは混乱したのです。 迫害していたのは、イエスを神の子と仰ぐキリスト者たちでした。 サウロは今、迫害されたキリスト者たちの痛みを自分の痛みとするイエスの呼びかけに出会ったのです。 イエスは、神に呪われて十字架に架けられて殺された、それだけの人物である。 自分を神と一体としたために、神を冒涜する者として処刑された人物であるとばかりサウロは思っていたのです。 死んだはずのそのようなイエスが、今、生きてこの迫害する自分に呼びかけている。 サウロは、キリスト者たちの「イエスは復活した」という証言を思い起こしたに違いない。 イエスを十字架に架けて殺した人々と同じように、自分もまたひとりひとりのキリスト者たちを捕らえ、処刑して、イエスを痛めつけている者であることを知らされたのです。 サウロは自分の本当の姿を知らされて、三日間、目が見えなくなって、何も飲み食いができなくなったと言います。 この三日間は、サウロにとって必要な時、神の恵みの時でした。 このイエスは律法によって裁かれたのでも、処刑によって裁かれたのでもない。 神の愛によって、神の痛みによって、私たち人間の過ちを背負って、神の前に立って裁かれてくださった。 私たちの代わりに神に見捨てられてくださった。 神に見捨てられるという本当の恐ろしさを味わってくださった。 そのイエスが今、ここに生きて自分に呼びかけてくださった。 そのことを、サウロは聖霊によってやっと知らされたのでした。
そのような状態のサウロのもとに、アナニアという人物が遣わされます。 イエスはアナニアにも、「サウロのもとに行け。 サウロは、あなたが手を置いて、元通りに目が見えるようにしてくれるのを祈り待ちわびている。」と呼びかけます。 アナニアは、「サウロは、エルサレムでどれほどの迫害を、わたしたちに行ったのかを聞いて知っています。 ここダマスコでも、祭司長たちからイエスの名を呼び求める人たちを片っ端に捕らえる権限を受けてやってきています。」としり込みします。 イエスはそれでも、「サウロは、わたしが選んだ器である。 わたしの名による福音を、異邦人に、すべての神の民に告げ知らせるために、わたしが準備して、選んだ人物である。」と迫ったのです。 サウロの生い立ちも、学んできたことも無駄にされることなく、また誤った熱心さから起こした過ちもまた赦されて、相応しい援助者も与えられて、まったく方向の異なる方へ神のみ業のために用いられるよう整えられていったのです。 これはサウロだけの特別なことでしょうか。 ひとりの回心が、イエスの輝きでその周りを照らし出すのです。
「イエスとの出会い」 ルカによる福音書2章8~20節
ルカによる福音書が記す最初のクリスマスは、ローマ皇帝が命じる住民登録の命令によって、大騒ぎとなっているその最中に訪れたと言います。 だれも注目していないユダヤのベツレヘムというダビデの町で、泊まるところなく「飼い葉桶に布にくるまれて寝かされていた」ひとりの乳飲み子の誕生として訪れたとあります。 私たちが「救い主」として賛美するそのお方の誕生は、皇帝の命令に翻弄され、その騒々しさのなかで、粗末に置かれたひとりの赤ん坊として起こされたのです。 きらびやかなところでも、誰が見ても圧倒されるような荘厳な厳粛なところでもなければ、ひとかけらのこの世の威厳もないところで、イエスはこの世に遣わされたのです。 そのありふれた乳飲み子であるイエスの誕生を、神は「野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたち」を目に留められ、知らせたとあります。 羊飼いの仕事は、昼夜を分かたず羊の世話をする過酷なものでした。 人々からは卑しい仕事であると思われていたのでしょう。 そのような軽んじられていた、小さな存在であった羊飼いたちに、「恐れるな。 今日、大きな喜びを告げる。 ダビデの町で主メシアが生まれた。 『布にくるまれて飼い葉桶に寝かされている乳飲み子』がそれである。 これが、あなたがたへのしるしである。」と告げられたのです。 9節に、「この知らせを聞いた羊飼いたちは、主の栄光が周りを照らしたので非常に恐れた。」 13節には、「羊飼いたちに語り終えた神の使いに、天の大軍が加わって、『いと高きところには栄光、神にあれ。』と賛美したとあります。 聖書は、このクリスマスの出来事を神の栄光が現れ出るためであった。 神の栄光のためであったと、神の側のことを中心に語っているように思います。 神の側から見れば、その創り主を忘れて自分勝手な道を歩んでいる。 創り主を必要としないで自分が神のようにふるまっている。 力もない、知恵もない、小さな存在であるにもかかわらず、自分たちが造った権威に酔いしれて生きている。 このような私たちの姿こそ、「神の悲しみ」でしょう。 そのことに未だに気づいていない。 自分の本当の姿を見ようともしない。 逃げ隠れする私たちがいることが、「神の痛み」でしょう。 しかし、この神の前に失われたものと思われていた私たちが、方向転換し、ひと度、神のもとへ戻ってくるなら、神にとってこれ以上の「神の喜び」はないのではないでしょうか。 ですから、私たちが神を求める以上に、私たちを神が捜し求めてくださっている。 戻ってくるようにと、私たちを招いておられるのです。 神はご自身を離れてしまっている本当の恐ろしさを知っておられるから、放っておくことができないお方です。 私たちひとりひとりの過ちを赦して元に戻すために、イエスをこの世に遣わしたのです。 ルカは、このイエスの誕生の出来事を、初めに「神の栄光が周りを照らした。」 その終わりに、「栄光、神にあれ」という賛美が響いたと証言しているのです。 神がそこに顕れ出て、その神の力が溢れ出て、だれの目にも神の権威が明らかとなるそのところには、神を賛美する声が響く。 そのことを、ルカは、「神の栄光が周りを照らす。 それを仰いだ者が賛美している。」と書き記したのでしょう。 イエスの誕生という神の栄光が顕れ、羊飼いたちがいつものように夜通し羊の群れの番をしているそのところを照らした。 羊飼いたちが、神の起こされた業を見ようではないかと立ち上がった。 神の栄光を仰いだ者たちが声を挙げて賛美したと書き記しているのです。 イエスの誕生は、放っておくことのできない神の栄光のためです。 それと同時に、私たちが救い出されるためになされた神の業です。 私たちの救いは、私たちの側の熱心さや努力ではなく、神の栄光、神の必要のために、神ご自身が働いてくださっているも神の業です。
[fblikesend]「クリスマスという騒動」 マタイによる福音書2章13~18節
ヘロデ王の時代に、イエスはユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。 東の方から「占星術の学者たち」が星に導かれ、エルサレムにやって来たと言います。 天体の異変に気づき、世界を救う「救い主」を礼拝するために、遠い彼方から「黄金、乳香、没薬」を携えてエルサレムを訪れたのです。 この知らせに、ヘロデは「不安を抱いた」とあります。 国中の祭司長、律法学者たちを集めて、その学者たちが言っているメシアはどこで生まれることになっているのかを調べさせたのです。 「ユダヤのベツレヘムに生まれる」と聞かされたヘロデは、「占星術の学者たち」をひそかに呼び寄せ、「行って、生まれたメシアと思われる子を詳しく調べ、知らせるように」と、言葉巧みに学者たちを送り出したのです。 その場所こそ、だれも注目していない馬小屋、そこには母マリアと父ヨセフしかいないような寂しいものでした。 とても世界を救うメシアが生まれたと信じることができないような有様であったにもかかわらず、その生まれた場所をつきとめた学者たちは喜びにあふれたと言います。 ひれ伏して、その赤ちゃんを拝んだ後、「ヘロデのもとへ帰るな」という神の言葉をかけられて、別の道を通って自分たちの国へ再び戻って行ったと言うのです。
この学者たちが帰った後です。 神はヨセフに言います。 「その子どもと妻マリアを連れて、エジプトに逃げなさい。 わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。 ヘロデがその子を探し出して、殺そうとしている。」という恐ろしい知らせを聞いたのです。 ただでさえ、これから自分たちの身に何が起ころうとしているのか不安であったヨセフに、今度は、ユダヤの王ヘロデによってその子が殺されようとしている。 その難を避けて、遠く離れた、何も分からないエジプトの地に行かなければならない。 それも、いつまでかも分からないと言うのです。 先を見通せないまま、エジプトに向けて流浪の旅に出なければならない。 そこで神の呼びかけを待ちながら、じっとそこに留まらなければならないという知らせを神に突き付けられたのです。 イエスの誕生が人を分岐点に立たせます。 ヘロデも、ヨセフもともに「不安を抱いた」のです。 しかし、ヘロデは、自分に取って替わる新しいメシアの出現を感じ取った「不安」でした。 その不安を取り除こうとして、自分だけが平安のうちに過ごすために、今までの経験やあらゆる知恵と、自分が今まで勝ち取ってきた力によって、不安に陥れるものを取り去ろうとしたのです。 それがベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子の殺害であったのです。 一方、ヨセフはその不安の中にあっても、神の言葉に聴き、分からないままでも従って行こうとしたのです。 神に呼びかけられるまで、希望をもって待とうとしたのです。 ヘロデも、ヨセフも、学者たちもすべて、神に用いられているのでしょう。 私たちは、自分のわずかしか見えていない目で、また、自分の経験でしか受けとめることのできない常識で、イエスの誕生を見ようとします。 神はイエスを十字架に献げて裁くまで、生まれたばかりのイエスの命をヘロデから守ったのでしょう。 イスラエルの民が、エジプトやバビロンに囚われた体験を追体験させているのでしょう。 流浪の旅を強いられたヨセフの家族の痛みは、イエスの十字架の死のためでした。 ベツレヘムの二歳以下の幼子が殺されるという出来事に、ヘロデを陥れたこの世の霊の働きを憶えます。 些細なことから陥ってしまう私たちの弱さ、醜さの悲しみを憶えます。 イエスの誕生の出来事は、私たちを根底から覆す「騒動」とも言うべき驚くべき出来事です。 この世の霊の働きに縛られている私たちに一石を投じる出来事です。 マリアが宿したように、私たちもまたこのお方をうちに宿して、このお方とともに歩んで参りたいと願います。
「神の子として迎えるクリスマス」 ルカによる福音書1章26~38節
神はマリアに、「あなたは身ごもって男の子を産む。 その子の名をイエスと名付けなさい。」と言われました。 結婚前のマリアにとって子どもができるとは、父親のいない子を産むということです。 当時のユダヤの社会では、訴えられれば厳しい律法によって姦淫の罪として石打ちの刑に処せられるのです。 そのような突然の、自分の人生を大きく揺さぶる知らせがマリアのもとに舞い込んだのです。 いくら、「その子は偉大な人になる。 神の子と言われるようになる。」と言われても、マリアにとってはそれどころの話ではありませんでした。 ただただ困惑するだけです。 「どうして、そのようなことがありえましょうか。 わたしは男の人を知りませんのに。」と応えるのが精いっぱいであったのでしょう。 マリアにとって、このクリスマスの出来事は常識を超えた、信じることのできなかった驚きの出来事でした。 私生児を産むという世間からの誹謗、中傷があったとしても不思議ではない出来事でした。 これから一生涯、この重荷を背負っていかなければならい窮地に陥った知らせでした。
常識と理性によって、不安のうちに応えるマリアに神は挑みます。 「聖霊があなたに宿り、神の力があなたを包む。 だから、生まれるその子も、この世から取り分けられた聖なる子となる。 神の子と呼ばれるようになる。」と言われたのです。 マリアは決して、神の前に素晴らしい決断をしたわけではありません。 告げられた知らせに思い巡らし、悩んだのです。 将来に不安を覚え、悩み、踏ん切りがつかなかったのです。 これは誕生の時だけではありませんでした。 イエスが成長し、その人間には理解できない振る舞いに戸惑い、そのたびに人間の常識によって親としての心配をし、イエスをたしなめようとまでしたのです。 それでもマリアには、他に頼るべきものはありませんでした。神の約束の言葉しか、頼るべきものは残されていなかったのです。 ですから、思い巡らし、何も分からないまま、ただ語られた「聖霊が宿る。 神の力に満たされる。 その子は育まれ、神の子となる。 このことは、何千年も前から預言されてきたことである。」という神の約束の言葉に、自らを委ねていくしかなかったのです。 それが、「わたしは主のはしためです。 お言葉どおり、この身になりますように。」という言葉になったのでしょう。 イエスの目には、この母マリアの姿はどのように映っていたのでしょうか。 ある女性がイエスを賞賛して、「あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は、なんと幸いなことでしょう。」と言われたイエスは、「むしろ、幸いなことは、神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカ1:28)とだけ答えられました。 イエスは、産んだ母親としてマリアは幸いであったと言っておられるのではないのです。 思い巡らし、不安の中にたたずんで、それでもなお、「お言葉どおり、この身になりますように」とみ言葉に聴いて従った母マリアを幸いであると言われたのです。 神のみ言葉を聞いてその約束に従い、その約束のうえに立って生涯を生きること、これほど幸いなことはないと言われたのです。
このイエスの誕生物語を詳細に書き記したキリスト者たちは、歴史の中に胎児として現れ、人間の代わりに裁かれ、私たちの過ち、醜さ、弱さを死んで贖ってくださったイエス、よみがえられて、神のもとに戻る道を切り開いてくださった「霊なるキリスト」を賛美しているのです。それが神の約束であった、神のご計画であった、そこに神のご愛とご真実があったと証言しているのです。 マリアと同じように、信じることができない、説明することができないような出来事に遭遇して、それでもなお神のみ言葉に立って生きる生涯を賛美しているのです。 母マリアが宿した胎児こそ、このよみがえって霊なるキリストとして私たちの中に宿ってくださるイエス・キリストです。 このお方との交わりに生きる生涯に、私たちは招かれたのです。
「クリスマスの驚き」 イザヤ書53章1~5節
預言者イザヤは、救い主メシアは「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように主の前に育つ」と預言しています。 ユダヤ教の中から起こされてきた最初の頃のキリスト者は、「十字架に架けられて処刑されて死んだはずのナザレの人イエスが、墓の中にない。 よみがえったとしか言わざるを得ないように、自分たちの前に姿を現してみ言葉をかけられ、一緒に食事し、交わり、共に生きてくださった。」と証言し始めたのです。 イエスというひとりの人間が死から復活した。 それは神の起こされた出来事であった。 このお方こそ、神ご自身のもとに立ち帰る人間の歩む「道」となってくださった。 見ることも、聞くこともできなかった暗闇の世界を照らす「光」となってくださった。 肉体の死に縛られている世界から解放されて、神のもとに憩う新しい霊の世界に生きる「命」となってくださった。 そのことに最初に気づかされたキリスト者たちにとって、現在の私たちと同じようにイエスの「復活」は驚きの出来事であったのです。 いったいどのような力が働いて、どのように成し遂げられたのか、説明することのできないことであったのです。 この驚くべき「復活」という神の救いの出来事を見つけ出したキリスト者が、このメシアの誕生、イエスの誕生について福音書にこう証言しています。 イエスの誕生は、名も知られていないヨセフとマリアというありふれた二人に赤ん坊として与えられた。 生まれる場所さえ用意されていなかった、粗末な扱いであった。 しかし、ありふれた大工の息子として育てられたその子どもが、霊の導きによって人とはまったく異なる成長をした。 親でさえその振る舞いを理解することができなかった。 苦しみ、悲しみの中にある人、虐げられている人の側に立って、その不思議な力から病いを癒し、心の平安を与えた。 人々からは、このお方こそ自分たちの国を再び復興させるお方として期待され、担ぎ上げられるようになった。 しかし、自分たちが望むものではないと分かった人々は、今度は手のひらを反すように見捨て、軽蔑し、十字架という惨い処刑によって殺害した。 まさにイザヤが預言したように、「見るべき面影も、輝かしい風貌も、好ましい容姿もない、軽蔑され、見捨てられた」存在でとなったのです。 「神の手にかかり、神の罰によって打たれたから、苦しんでいる」姿に見えたのです。 それは、隠された神のみ心でありました。 「わたしたちが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」(コリント一2:5) 十字架に架けられたイエスの姿こそ、神がこの世に遣わしたご計画であったのです。 私たちは、この神のみ心に従ってみようとしないから、自分たちの望みだけに頼ってみようとするから、イエスの振る舞い、イエスがなされる姿を受け取ることができないのです。 受け取ることが難しいのは、イエスの十字架を受け入れることが難しいのではないように思います。 イエスの十字架の姿は、私たちのすべての弱さ、醜さ、過ちを担ってくださった姿です。 自分の醜い姿こそ、その姿であることを認めることが私たちには難しいのです。 自分の弱さ、醜さを見つめざるを得なくなる恐れを感じるからです。 イエスの十字架の前に私たちが立つなら、その姿を突きつけられるからです。 暗闇は、光に照らされることを恐れます。 自分が暗闇であることを認めたくないのです。 罪は、神の正しさの前に出ることを避けます。 自分の醜さを晒したくないのです。 イエスは私たちに替わって、神に砕かれるため、懲らしめを受けるために十字架に架けられたのです。 私たちに神との交わりを回復させるためです。 それが神のみ心であるからです。 イエスの誕生の出来事は、この隠されていた神の救いの業を、驚きをもって「十字架に架けられた」醜いイエスの姿とともに見つめなければなりません。
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