「ダビデの賛歌」 詩編23編1~6節
人一倍激しくその生涯を濃厚に生きたダビデは、多くの詩を書いて自分の生涯を振り返って主を賛美しています。 この詩篇23編でもその前半部分で、「主はわたしの本当の羊飼いであった。」と振り返ります。 「不安と戸惑いの中にあったこのわたしを、主は青草の原に休ませてくれた。」 「憩いの水のほとりにまで導いてくださって、わたしの魂を生き返らせてくださった。 だから、これから死を迎えようとしているこのわたしには、何も欠けることがなかった。 何も困ることはなかった。」と賛美します。 ひとりの羊飼いに過ぎなかったダビデは、イスラエルの王にまで駆け上がった人物です。 その地位にまで上り詰めるにあたっては、自分の才能、体力、経験、知恵をフルに用いてきたことでしょう。 あるいは、人からの名声や賞賛や地位もまた活用したことでしょう。 長い間そのようなものを振り回し、あるいは振り回されてきた。 しかし、その生涯を終えるにあたってはそうではなかった。 最後にダビデは「主がわたしの羊飼いであった。 最後までわたしを見届け、導いてくださった。 たとえ、死の陰の谷を通されるような災いのときにも、わたしは不思議と恐れることはなかった。 それは、主がこのわたしと共にいてくださったからだ。 主の羊飼いとしての鞭と杖がわたしを力づけてくださった。」と、その生涯を振り返って賛美しているのです。 ダビデにとって、主の鞭や主の杖とは果たして何であったのでしょうか。 羊飼いとして自分の生涯をコントロールしていこうとしたダビデこそが、様々な災いとも思われる出来事を通されて思い悩み、うろたえるこの自分こそが迷える羊であった。 歩むべき道を取り間違えた時も、このわたしを取り戻してくださった。 自ら踏み込んでしまって「死の陰の谷」を歩んだときでさえ、災いを恐れとは感じさせず、あなたの鞭と杖によってむしろその道を潜り抜けるまでわたしは力づけられた。 「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださった。 わたしに油を注いでくださった。 わたしの杯に、恵みを溢れさせてくださった。」と、感謝のうちにその生涯を振り返っているのです。 そして、「その導きに身を委ね、歩み通したその後には、わたしは主の家にたどり着く。 そこにとこしえに留まることが赦されている。」と、最後まで主に望みをおいて希望をもって賛美しているのです。
自分がどのようにその生涯を歩んだのかではなく、主がわたしの生涯にどのようになされ、わたしとともに歩んでくださったのか、また歩もうとしてくださったのかに目を注いでいるのです。 そして、その主の働きにこそ、心から期待し、希望を抱いていると思わされるのです。 「死の陰の谷を通ったときも あなたはわたしと共にいてくださり、わたしを力づけてくださった。」と叫んでいます。 他の詩篇の箇所にも、「あなたは多くの災いと苦しみを、わたしに思い知らせましたが、再び命を得させてくれるでしょう。 地の深い淵から 再び引き上げてくださるでしょう。」(詩編71:20)という叫びもあります。 また、「深い淵の底から 主よ、あなたを呼びます。 わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、みことばを待ち望みます。 わたしの魂は主を待ち望みます。」(詩編130:1,5,6)と叫びます。 自分を支えるものが何もない、一切頼るべきものがない。 主の前に立ちようがない、立つ資格もない。 主のみ言葉に耳を傾けることも、悟ることも、それにふさわしい行いすらもできない。 立ち向かう信仰すらもっていない。 そのようなところからでも、「わたしは、あなたを呼び求めます。 再び命を得させて、再び引き上げてくださるでしょう。 わたしは主に望みをおきます。 わたしを追いかけてくださる恵みと慈しみにすがります。」と叫んでいるのです。
「共に喜ぶ」 フィリピの信徒への手紙2章12~18節
パウロは自分自身が獄中に囚われているにも関わらず、フィリピの教会の人々にこう書き送っています。 「わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」と言います。 ここで使われている「従順」という言葉は、「聴く」という意味合いの言葉の語幹から出てきている言葉です。 「聴き従う」という言葉に近いかもしれません。 権威に従うというような意味ではなく、「信じる」がゆえに従っていくという意味でしょう。 まさに、父なる神に対するイエス・キリストの姿がこの「従順」の象徴です。 キリストが十字架で示してくださった「従順」がもたらすところに、神のみ言葉に聴き従う本当の「喜び」がある。 世界がどのように移り変わったとしても、また身の回りがどのようになったとしても、この与えられた「喜び」を味わうところには、本当の「平安」、「希望」がある。 その信仰の姿である「従順」でもって、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」とパウロは言うのです。 「自分の救い」の実感は、古い自分の生き方に向きを変えて、今までとは違うところに目を注ぎ始めることができた時に感じたことでしょう。 信じて、一歩、足を踏み出す決意をした時に感じたことでしょう。
しかし、「私たちの救い」はそこで終わらないのです。 そこから出発する、救われてから後の信仰生活があるのです。 「私たちの救い」を達成するためのプロセスに入る、目標に向けて歩んでいくという道のりがあるのです。 そして、パウロが「キリストの日」と称している、神の国に入って「私たちの救い」が完成される日を目指して歩んでいくのだとパウロは勧めるのです。 この「私たちの救い」の入り口に立たされた時、すでに神の一方的な恵みによる導きであったように、「私たちの救い」の完成に至るまでの間もまた、「あなたがたのうちに働いて、み心のままに望ませ、行わせているのは神である。 だから、あなたがたは恐れおののきつつ、自分の救いを達成するようにこのお方と共に努めなさい。」と言うのです。 神さまは、みことばを与えることによって、私たちに「希望」を与え、「祈り」を与えてくださいます。 私たちの「希望」や「祈り」に応えて、ご自身のみ心を果たすために、「聖霊」を遣わし事を成し遂げてくださるのです。 この「聖霊」を私たちのうちに宿すのでなければ、「私たちの救い」は達成することが叶わないのです。 神さまは今もなお、「私たちの救い」を達成するために、「聖霊」の姿をとって共に働いてくださっているのです。 「だから、何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 そうすれば、とがめられることのない清い者となる。 よこしまな曲がった時代の中で、非の打ちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」とパウロは言うのです。 信頼をもって、神のみ言葉に委ねていこうとする「従順な信仰者」に対する神の働きの結果が、その姿に必ず現れ出る。 神に属する者として、神ご自身がその輝きによってこの世にあって照らし出してくださると言うのです。 「救い」は、信じる個々の人間のうちに働いて、古いしがらみから解放され、姿までもが変容するという個人的な面があります。 パウロはそれに加えて、信じる者たちの間に働かれる「聖霊」の働きをその「交わり」の中に見出しているのです。 自分も、フィリピの人々も共に、神によってこの世から呼び出された者である。 「終わりの日、イエス・キリストに出会うその日」に、それぞれの「救い」が完成するまで、神がこの世で働くために「聖霊」を宿すことが赦された者どうしであると、「わたしは喜びます。 あなたがたも同様に喜びなさい。」と、獄中から呼びかけているのです。
「復活の希望」 コリントの信徒への手紙一15章42~49節
パウロはこの手紙で、「死者の復活」を種まきと収穫という身近な生活体験から語ります。 「麦の種が蒔かれて、土の中で朽ちて死ななければ、その種の中に隠されている命は本来の姿を現すことができないではありませんか。 あなたたちが蒔いているものは、ただの『種粒』です。 その『種粒』が土の中で死んで、その中に込められている命にふさわしい体が与えられると、麦の本体である命が現れ出て実をつけるようになる。 ただの『種粒』に神さまがみ心のままに、そのひとつひとつの『種粒』にふさわしい体をお与えになる。」と言うのです。 この『種粒』の体が死んで、また別の体を神が創造される。 創造主である神が再び強い意志をもって、天地創造の初めの創造とは異なる別の体をお与えになる。 「死者の復活」を、神が終わりの日に再び新しい体を与える創造の業であるとパウロは言うのです。 地上を走る、空を飛ぶ、水の中を泳ぐ様々な動物にも、それぞれふさわしい体が与えられている。 地上の輝きにも、太陽の輝きがある、月の輝きがある、星の輝きがある。 しかし、それらの「地上に属する体」と「天に属する体」とは異なる。 「地上の体の輝き」と「天に属する体の輝き」とは異なる。 「死者の復活」もこれと同じであるとパウロは言います。
「自然の命の体が蒔かれて死んで、霊の命の体が復活する。」 「蒔かれた種粒が地中に落ちて朽ち果てた後に、全く別の体をもって再び起こされる。 『自然の命の体』も『霊の命の体』も、神が創造された人間の姿であることには変わりありません。 しかしそこには、『朽ちるもの』と『朽ちないもの』との違いがある。 『卑しいもの』と『輝かしいもの』との違いもある。 『弱いもの』と『力強いもの』との違いもある。 『自然の命の体』が蒔かれて、『霊の命の体』が復活するのです。」とパウロは断言しています。 残念ながら、この『霊』は生まれながらの私たちの体には備わっていないものです。 神から与えられる特別な賜物、神に属するものです。 私たちの理解や創造をはるかに超えるものです。 パウロは「最初の人アダム」と「最後のアダム」という言葉を用いて、この「霊」が初めて「最後のアダム」を通して人間に与えられたと言うのです。 「最初の人アダム」とは、罪と死に縛られて神のもとを離れてしまった「死」に向かって生きる人間です。 「最後のアダム」とは、神のもとから遣わされて土の塵からできた体を負わされ、その体を脱ぎ捨てて死んだ後、新しい霊なる体を着せられて、天に上げられたイエス・キリストのことです。 人間で最初に、「自然の命の体」に死んで、「霊の命の体」によみがえらされて、人間の初穂として神に収穫されるという体験をしてくださったイエスが、救い主メシアとされたのだとパウロは信仰告白するのです。 この最初に収穫された初穂としてのイエス・キリストの霊なる体に結ばれるなら、私たちもまた「イエスが復活されたように」復活するのです。 死に定められているこの私たちが、霊なる体に復活されたイエスと同じように、「霊の命の体」が与えられるという希望が約束されたのです。 しかし、そこには順番がある。 「最初に霊の命の体があったのではない。 自然の命の体があり、次いで霊の命の体があるのです。」とパウロは言います。 悩み多い、苦しみや悲しみの多い「自然の命の体」から、この主イエス・キリストの復活の希望に支えられて、「自然の命の体」に死んで、新しい「霊の命の体」につくり変えられるのです。 イエスが、「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者は、死んでも生きる。 このことを信じるか。」と呼びかけてくださっています。 この復活の主との結びつきは誰をもっても、何をもっても断ち切られることはないのです。
「天に引き上げられた十字架のイエス」 使徒言行録1章6~11節
聖書にはこう記されています。 イエスは十字架に架けられるという父なる神から見捨てられるという「絶望と恐ろしさ」を味われた。 しかし、そのイエスがよみがえられて、40日にもわたって使徒たちの前に顕れて、ご自分が今なお生きておられることを示された。 姿を現しただけでなく、神の国について話された。 使徒たちと食事をともにした。 「エルサレムを離れるな。 前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」と命じられたと言うのです。 「エルサレム」とは、使徒たちがつまずき、イエスを見捨てた大失敗をした苦い経験をした所です。 人々からも取り残された、自分たちにとって辛い所です。 イエスはそのような所を、「父なる神の約束である賜物が授けられるまで離れず、祈り求めなさい。」と言われたのです。 そして、「あなたがたは、間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる。」と約束されたのです。 使徒たちはこのイエスの言葉を聞いて励まされ、自分たちの夢が叶えられると思い、イエスの言われる「神の国」とは自分たちのイスラエルの国が再び新しく興されることであると喜んだのでしょう。 「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、今ですか。」と思わず、イエスに問い返したのです。 この弟子たちの問いに対するイエスの答えが、「その時期については、父なる神がご自身の権威をもってお定めになることである。 あなたがたが知るところではない。」と語り、神のみ心を見当違いに捉える使徒たちに、イエスは諭すのです。
すべての民がこの世から救い出され、神のもとへ立ち帰るという父なる神の救いの業を、イエスはこの使徒たちに託すのです。 イエスがこの使徒たちを用いて、この救いの業を推進していく。 イエスの身に起こった事実を目撃し、一人一人のからだに刻まれた事実を語る「イエスの証人」を用いて救いの業を行うという決意でした。 歴史的事実の証人としてだけでなく、自分の生涯に起こされた事実を自分の言葉で語る人を用いて救いの業を進めると、イエスは使徒たちに向けて一方的に語られたのです。 使徒たちがそれにふさわしい人であると認めたから、イエスは用いると言われたのではありません。 そのために、「あなたがたのうえに聖霊が降る。 あなたがたは力を与えられる。 あなたがたは、わたしの証人となる。」、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、そして地の果てにまで、わたしの証人となる。」と約束し、イエスはその準備をし、その務めを託されたのです。 自分たちの犯した過ちを噛みしめるところから出発しなさい。 自分の周りから神の救いの業を始めなさい。 それが全世界にまで及ぶようになる。 そのための原動力である聖霊という賜物が与えられる。 イエスを信じて従うすべての人に、「イエスが主である」と証言する力が与えられると約束し励まされたのです。 しかし、聖書はそれだけではないと言います。 イエスの宣教の業が託された使徒たちが見ているうちに、イエスは天に上げられた。 「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、今、天に上げられたその姿と同じ姿をもって、またおいでになる。」と知らされた。 「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさった。」(使徒2:36)と言っているのです。 使徒たちのイエスが復活したという信仰は、イエスが十字架のうえで裁かれて、殺されて死んだ。 そのイエスが神によって天に引き上げられ、よみがえらされ、すべての権威を授けられたメシアとされた。 このままでは死んで、神との交わりが断絶してしまうという使徒たちを取り戻すために、再びここに集められた。 再び新しく造り上げられたのです。 神は集めるために散らされるお方です。 再びつくり上げるために壊される神です。 使徒たちの変貌のためには、イエスの十字架の死、復活、昇天という出来事が必要であったと聖書は語り、そこに教会が興されたと言っているのです。
「十字架の死を仰いで」 ヨハネによる福音書19章31~42節
聖書は「イエスの十字架の死」をこのように記しています。 イエスは十字架の上に死んで遺体となっていた。 その遺体は、その日のうちに十字架から取り降ろされた。 その際には、念には念を入れてローマ兵による槍の一刺しによって、イエスの死が十分確認された。 十字架から取り降ろされたイエスの遺体は、だれもまだ葬られたことのない新しい墓に納められたと詳しく記されています。 確実にイエスは殺されて死んでいた。 それは聖書に預言されていたことが成し遂げられたことであったと語っているのです。 後ほど「復活の朝」を迎えたイエスが弟子たちの前に顕れて彼らを迎えたことによって、この「イエスの十字架の死」を復活の希望に満たされた喜びと感謝の「証し」として聖書は語っているのです。
「十字架」は、私たち教会のシンボルです。 「十字架」は、ローマ帝国という強力な国家権力によって、その支配する社会の秩序を乱す政治犯を処刑するための道具にすぎません。 それをなぜ「象徴」として掲げているのでしょうか。 最初のころの教会の人たちもまた、イエスの十字架処刑の直後においては、その本当の意味を知ることはありませんでした。 しかし、その十字架によって処刑されたはずのイエスが自分たちの目の前に現れて驚きうろたえた末に、聖霊に導かれてそれぞれの信仰によって悟った心の中に刻まれた「証し」、それがそれぞれの「十字架」なのです。 イエスが十字架のうえで語られたとする「七つの言葉」をとってみても、実に様々です。 「イエスの十字架の死」に対する、ひとりひとりの信仰による応答の言葉でもあるのです。 ローマ帝国の権力の象徴でもあったローマ総督は、イエスをどうしても武力をもって人々を扇動する力をもっているとは認めることができませんでした。 イエスとユダヤ教の人々との間の宗教上の争いにしか見えなかった。 むしろ、群衆を惹き付けているイエスを妬んで、起こされた争いごとにしか見えなかったのです。 ユダヤ教の人々もまた、自分たちが拠って立つ神殿、神殿儀式を否定したイエスを赦すことができなかったのです。 これらの敵対者だけが、イエスを排斥したのではありませんでした。 愛する弟子たちもまた、イエスを見捨てそのもとを離れたのです。 群衆もまた、あれほどイエスを歓迎していたのに、簡単に扇動され、惑わされ手のひらを反すようにイエスを見捨てたのです。 イエスはローマ兵からも、祭司長たちからも、十字架の脇にいた犯罪人からもののしられ、侮辱を受けたのです。 イエスはあらゆるののしりと侮辱を受けて、それでも痛みと苦しみを味わい、神から捨てられるという「神との断絶」という神の子であるがゆえに知る「恐ろしさ」を十字架のうえで味われたのです。 イエスは死んだのです。 私たち人間がこのままでは味わなければならない永遠の「神との断絶」を、罪に定めることのできないイエスが私たちの罪によって裁かれたのです。 この裁きこそ、み子を裁いて神がその救いの業を示すためです。 私たちに仕え、私たちと同じ苦しみ、悲しみ、喜びを神が「神の子」の姿をとって共に味わい共に生きていることを示すためです。 このイエスが味われた「断絶の苦しみ、恐ろしさ」こそが、私たちの過ちを思い起こさせ、方向転換させるのです。 その過ちを赦して、私たち人間を取り戻そうとされた神のご愛を示すことができる。 父なる神こそ、わが子を裁かなければならなかったその痛みを、ともに味わってくださったのです。 神は十字架のうえに私たちと一緒に死んで、私たちを取り戻して一緒に生きてくださっているのです。 「十字架の死」は、み子を捨てられた「父なる神の痛み」と、その父なるへの従順と私たち人間と同じように生きて見捨てられた「み子の痛み」の協働の業です。 イエスは、神と人との溝を埋めるために、人間のどん底にまで下りてきてくださったのです。
「わたしの羊を飼いなさい」 ヨハネによる福音書21章15~19節
聖書が語る「復活」は、私たちが日本語訳として用いる「復活」という言葉以上の響きがあります。 確かに聖書には、イエスが人をよみがえらせた事例が記されています。 しかし、それらはむしろ、この世の命の「蘇生」を示しています。 イエスが神の子であることの「しるし」として、神がお示しになったものでしょう。 イエスは、この「復活」を信じようとしないサドカイ派の人々の問いに、「死者の中から復活するときには、めとることもなく嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。 律法に『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてあるではないか。 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」と答えておられます。 聖書の言う「復活」とは、この世の延長線上にはない。 単なる生き返りとは異なり、神と人との関係において大きな変貌が遂げられる驚くべき出来事である。 この世に生き「死んだらおしまい」という世界から解放されて、新しい希望のうちに生かされる。 アブラハムはアブラハムとして、イサクはイサクとして、ヤコブはヤコブとして、神の前に新しい関係となって、神のもとに立ち帰る変貌がそれぞれの人生に起こされた出来事であると聖書は語っているのではないでしょうか。
イエスの「復活」そのものを詳細に記している聖書箇所はありません。 しかし、大きく分けてふたつの体系の描写があるように思います。ひとつは、「空(から)のお墓」の描写です。 もうひとつは、死んだはずのイエスが「顕れた」という描写です。 今朝の聖書箇所は、目的を失いイエスを裏切って見捨てて逃げ出してしまった七人の弟子たちが、失意のうちにガリラヤに戻って漁をしていた際に、十字架に架けられて死んだ後よみがえられたイエスが顕れた、その直後に交わされたイエスとペトロの対話です。 イエスは、思い出したくもない大失敗をしたペトロに呼びかけます。 呼びかけた言葉は、「わたしを愛するか」という言葉でした。 三度繰り返されたと言います。 この言葉には、「わたしはあなたを愛している。 あなたは、このわたしを愛するか。」という響きがあります。 挫折を深く味わったペトロは、自らの情けない姿を悲しんだのでしょう。 「主よ、あなたは何もかもご存じです。 わたしが三度、あなたを裏切ったことも、これから裏切るかもしれないこともご存じです。 わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と答えるのが精いっぱいでした。 そのペトロにイエスは、「わたしの羊の世話をしなさい。 わたしの羊を飼いなさい。 わたしはあなたを赦す。 だから、わたしの羊をあなたに託す。 今までのあなたはどうであれ、これから後、あなたにわたしの羊を委ねる。 あなたは、わたしを仰いでわたしに従いなさい。」と言われたのです。 この言葉を聞いた時こそ、裏切りを悔やみ、惨めな姿を思い知らされ、悲しんで挫折を味わったペトロという人物が、その罪を赦されたと実感した瞬間であったでしょう。 再び新しく立ち上げられ、希望に満たされイエスのもとに立ち帰った瞬間であったでしょう。 私たちは、イエスが今もなおずっとご覧になっていることに気づかないのです。 呼びかけられているのに、聞こうとしないのです。 招かれているのに、理由を述べてその食卓につこうとしないのです。 私たちの住んでいる世界には、この赦しなどない。 復帰も再生もないのです。 しかし、「復活」されて今もなお生きて働いておられるイエスに気づいて、そのお声に聴いて、差し出された恵みを受け取って一緒に食卓につく時には、この赦しと解放の出来事は必ず起こるのです。 これこそ、ひとりの人物がまったくつくり変えられる「復活」の瞬間です。この「復活」には、「わたしの羊を飼いなさい。 わたしに従いなさい。」という務めが復活されたイエスから託されるのです。
「興されたフィリピの教会」 使徒言行録16章11~34節
フィリピの教会は、パウロたちがアジア宣教からヨーロッパ宣教へと大きく舵を切った重要な拠点です。 パウロはそのフィリピの町に最初に入る前に、聖霊の導きによってみ言葉を語ることが禁じられた場所がありました。 聖霊は私たちに様々なことを語りかけます。 その語りかけには、「してはならない。 しなくてもよい。 行かなくてもよい。 行ってはならない。」と、私たちが望んでいる道を閉ざすことがあります。 「今は動かなくてもよい。 じっと静かに神のみ言葉を待ち望め。」と、私たちをとどめようとされる時があるのです。 二度にもわたって行先を閉ざされたパウロは失意のうちに、その分岐点に立って幻を見るのです。 その幻は、「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください。」と願う人の幻を見るのです。 この幻にパウロは、「神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至った」と言い、後先のことを考えもせずフィリピの町に入って行ったのです。
このパウロの確信はどこからくるのでしょうか。 神との交わり、祈りの中で神のみ心を感じ取る力が高められ、聖霊に導かれ肌で感じるようになるのでしょう。 そこで三人の人物と出会い、フィリピの教会の土台が据えられたと聖書は語るのです。 高級な紫布を商う「リディアという婦人」が先ず、神によって心が開かれたのです。 神は聖霊によって、福音を語る者を押しとどめたり、幻を与えて出向かせるのです。福音を聞く者にも、心を開かせ福音を受け止めるにふさわしく整えてくださるのです。 リディアは、「主が彼女の心を開かせたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。 彼女もその家族もバプテスマを受けた。」と言います。 神は福音を語る者も福音を聞く者も、何を考え何を最も必要としているのかよくご存じで、自ら働いて導いてくださるお方です。 続いて、「占いの霊にとりつかれている女奴隷」と表現されている女性がパウロたちにまとわりついて、「彼らこそ、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」と繰り返し叫ぶのです。 この世の霊は、イエスに触れると自らの本当の姿を熟知するものとして留まることができなくなり、イエスの霊によって追い出されていくのです。 パウロの「イエス・キリストの名によって命じる。 この女から出ていけ。」という言葉に、この女性は今まで取りつかれていたこの世の霊から解放されたのです。 彼女は、迷信や習わしやこの世の欲得に縛られていたものから解放された。 神のもとから離れさせようとする力から、神のもとに立ち帰ろうとする力に動かされるように変えられたのです。 この「女奴隷」を自分たちの利益のために利用していた主人たちは、使い物にならなくなった腹いせに、パウロとシラスを裁判にもかけないで、反ユダヤの感情のもと、治安を乱す者、暴動の扇動者としてふたりの身柄を拘束させたのです。 牢に拘束される、木の足かせをはめられる、鞭で打たれる、看守に厳重に見張られる不当な扱いに陥れられた二人は動じることなく、牢獄のもっとも奥で、「賛美の歌を歌って神に祈っている」のです。 ローマの国家権力の鎖や見張りでさえも、この二人の福音の救いの喜びを奪い去ることはできなかったのです。 何にもお返しをすることができないこの私たちが、ただ憐れみにより一方的な恵みにより救い出されるというこの喜びに勝るものが、この世のどこにあるでしょうか。 死を間近にしたときには、教えを学ぶとか、何かをするとかという時間が赦されていないのです。 そのようなところに追い込まれたパウロとシラスに、神のみ業が起こされたのです。 それに遭遇し、我をも失った「命令を受けた牢の番人、看守」は、神のみ業の前に震えながらひれ伏すことができたのです。 「主イエスを信じなさい。 そうすれば、あなたも家族も救われます。」というみ言葉が当てられたのです。 そこにフィリピの教会は建て上げられたと聖書は語っています。
「新しい礼拝堂という奇跡」 歴代誌下6章17~21節
ソロモンが長年の神の約束でもあった、イスラエルの民の念願でもあったエルサレム神殿を完成させて、神にその祝福を感謝しささげた「祈り」がこの歴代誌下6章に綴られています。 その社会的背景には、戦争に負けたこともある。 雨が降らなくなり、飢饉が起きるという自然災害も起きている。 疫病が流行って、様々な難病が拡がっている。 また、いなごやばったが大量発生し、様々な災いが起きている。 そのような状況の中で、イスラエルの大群衆を前にして、神殿の完成を感謝しその神殿を神にささげるという「献堂の祈り」とでも言うべき、神を仰いで祈りをささげる「ソロモンの信仰」に触れたいと願います。
イスラエルの歴史にとって、イエスが「野の花は、働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。」(マタイ6:29)と語られたほど、ソロモンが王として在位していた時ほど繁栄していた時はなかったのではないでしょうか。 この壮大な神殿が、次第に聖地化されていきます。 それでもソロモンは、すべては神が父ダビデに約束されたとおり成し遂げてくださったことだと群衆の前で祈るのです。 人の手を借りて造られた建物の姿を見るのではなく、その建物を強い意志と計画をもって成し遂げられた神の業を見るのです。 「わたしの父ダビデになさった約束を守り、その口から出た神の約束のみ言葉が、今日このとおり成し遂げられました。 これからもその約束が確かに実現されますように。」と祈り、その恵みの業に圧倒され大群衆の前で賛美するのです。 「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦は虚しい。」(詩編127:1)と歌われているとおりです。 「あなたがたの内に働いて、み心のままに望ませ、行わせるのは神であるからです。」(フィリピ2:13)とパウロが語っているとおりです。 この「ソロモンの祈り」は、イスラエルの大群衆を前にした神殿の祭壇の前でささげる「祈り」でした。 いけにえをささげる、いけにえを焼き尽くす祭壇での「祈り」でした。 つまり、イスラエルの民の罪の赦しを神の前に願う犠牲をささげる「祈り」であったのです。 新約聖書の時代に生きる私たちにとっては、イエス・キリストの十字架の前に立って、自らの恥ずかしい姿を差し出して見てもらって、その過ちを裁いてもらって赦していただこうと祈る「祈り」と同じです。 ですからソロモンは、「主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、僕がみ前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。 昼も夜もこの神殿に、御目を注いでください。 ここは、あなたがみ名を置くと仰せになったところです。 あなたのお住まいである天から耳を傾け聞き届けて、わたしたちの罪を赦してください。」と、群衆を代表して祈っているのです。 戦いに敗れたときも、自然災害に襲われた時も、疫病に悩まされたときも、どんな災いも病苦もすべてはあなたのみ心を知るため、あなたのもとに立ち帰ってあなたの赦しを得て、あなたの道に従って歩み続けることができますように。」と祈っているのです。 そして、イスラエルの民だけでなく、イスラエルに属さない民のためにも、「大いなるみ名、力強いみ手、伸ばされたみ腕を慕って、遠い国からこの神殿に来て祈るなら、あなたは耳を傾け、その民があなたに叫び求めることをすべて叶えてください。」と祈っているのです。 戦争に出会うのも、災いに出会うのも、私たちが神のもとに立ち帰るために神の意図をもって興されたものでしょう。 災いと思われるものに出会った人も、出会わなかった人も、この神殿、祈りの家に来て互いに祈り合う、このソロモンの「祈り」が今、私たちに強く求められているのでしょう。 神のもとに立ち帰って赦していただくための「祈り」が求められているのです。
「命のパン」 ヨハネによる福音書6章22~35節
イエスが5つのパンと2匹の魚をもって五千人の群衆の食事を賄うという奇跡を引き起こしたところに、取り残された群衆がいます。 そこには小舟が一そうしかなかったこと、その小舟に弟子たちだけが乗り込んで向こう岸に向かったことを、彼らは確かに見ていたのです。 そうであるのに、そこにイエスがおられないことを知った群衆はイエスを探し始めたのです。 そこに数そうの小舟がやって来て、それに群衆の代表者たちが乗り込んでカファルナウムに向かったと言います。 カファルナウムはイエスがガリラヤでの活動拠点としていたことから、当然の行動であったのです。 「群衆は、イエスのなさった奇跡を見て、この人こそ、世に来られる預言者であると思い、自分たちの王に担ぎ上げようとした」と言います。 五千人の奇跡を起こしただけでなく、小舟を使わず「湖の上を歩いて渡る」という考えもつかない姿をとって移動されたとヨハネによる福音書は語っているのです。 ですから、群衆は驚きをもって、また自分たちの意のままにならないイエスに対する不満を込めて、「先生、あなたはいつ、ここにおいでになったのですか」と語るのです。
その群衆に、イエスは「あなたがたはお腹を満たすパン、朽ちる食べ物を求めている。 あなたがたは奇跡というしるしを起こしたこのわたしを探し求め、またしるしを願い求めている。 奇跡を起こしたわたしを遣わした神を見ようとしない。 神が遣わしたこのわたしを信じようとしない。 わたしが起こした奇跡というしるしだけを見ようとしている。」と語られたのです。 イエスの話を聞いた群衆は、「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。」と語り、自分たちの先祖が荒れ野で神によって養われた食べ物、マンナのことを持ち出すのです。 イエスは言います。 「先祖たちが受けたマンナという食べ物は、わたしの父、神が与えられたパンである。 神がお与えになるパンは、この世の命を超えた、神の前に生きる霊の命を与えるものである。」 こう答えたイエスに、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と、自分たちが安心するために、明らかに自分たちが手にすることができるその見えるパンをください」と願ったのです。 そこで言われたイエスの言葉が、「わたしが、その命のパンである。 わたしのもとに来る者は決して、飢えることはなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」という言葉であったのです。
イエスは「わたしが与えるものを取って食べなさい。 わたしが与える杯を飲みなさい。」と言っておられるのです。 私が、食べてもなくならないパンである。 神がお与えになるパンである。 私を通して語られる神のみ言葉を味わい、飲みなさい。 これを受け取るのか、受け取らないのかと招いておられるのです。 見て信じる信仰、納得したら信じる信仰、満腹すればそれでいい、自分の願いが満たされるならそれでいいという信仰から脱却して、奇跡を行う人のうちに働く神を見出しなさい。 今もなお依然として働いておられる神を見出しなさい。 そうすれば、あなたがたは飢えることがない、渇くことがない。 この養いに、私たちが招かれているのです。 そうすれば、あなたがたのうちに、いつまでもなくならない、湧いてくる食べ物としてとどまり養われる。 わたしを通して働かれる神を信じなさい。 神が遣わしたこのわたしを信じなさい。 そうすれば、あなたがたは飢えることがない、渇くことがない。 この養いに私たちが招かれているのです。 毎日、毎日、私たちを養うために、礼拝に神が招いてくださっているのです。 この神との交わり、神の養いに満たされて、この礼拝からこの世の与えられた場所に出かけていくのです。
「猶予の恵み」 ルカによる福音書13章1~9節
当時のイスラエルの社会的事件がイエスに報告されています。 「ロ-マ総督であったピラトが、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」と記されています。 ガリラヤ人たちが神殿で礼拝しささげものをささげている時に、ローマ総督によって殺害された。 神殿の中で、礼拝をささげている信徒たちを殺されるままに神が赦しておられる理由があるのかと、イエスに詰め寄ったのでしょうか。 イエスは、神の戒めを守らない人は不幸と災いに陥ってしまうという考え方に縛られている人々とはまったく別の次元から諭します。 「そのガリラヤの人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。」と語られたのです。
続けてイエスは、「シロアムの塔で倒れて死んだ18人の災害の出来事をも人々に語るのです。 水道工事をするための塔が崩れて、18人の人が死んだ出来事は、「犠牲となった人々は、何かが災いとなってその罰によってこの災難に遭ってしまったのだ」と思っている人々にイエスは、「決してそうではない。」ときっぱり語られて、その後に、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と二度繰り返して発言されたのです。 これは、いったいどういう意味なのでしょうか。 果たして人災なのか、自然災害なのか判然としない災害が、今もなお起こっています。 しかし、何が原因でその災難を起こされたのかを正しくその意味を答えることは、だれにもできないでしょう。 ましてや、その災難に出遭う人と、災難を免れる人が分かれる理由を明確に答えることができる人などいないでしょう。 イエスは、「災難に出遭った人も、災難を免れた人も、神の前には同じである。 災難を免れたから幸いであった。 災難に出遭ったから災いであったというものではない。 災難に出遭ったかどうかは問題ではない。 災難は、災難を免れた人にも同じように向けられたものである。 本来は私たちすべてが引き受けなければならない災難を、代表して災難に出遭った人が引き受けてくださったのかもしれない。 神の前に立つひとりの人として、神の無条件の赦しがなければ生きてゆくことのできない存在であることを、災難に出遭おうが、出遭うまいが見つめ直さなければならない。 もし見つめ直して、神の憐れみによる、無条件の赦しに委ねることができるなら、「滅びることはない。」と、見つめ直す機会をすべての者に語っておられるのではないでしょうか。
イエスはそう答えて、「実のならないいちじくの木」の譬えを語られたのです。 「ぶどう園」の主人は神さまです。 神さまがおつくりになった世界こそ、「ぶどう園」です。 そのそばに植えられた「いちじくの木」こそ、「ぶどう園」での特別な務めを与えられたイスラエルの人々の姿です。 その世話をする「園丁」は神さまのもとから遣わされた主イエスです。 「三年もの間、実がなっていないいちじくの木を切り倒せ」と命じる「ぶどう園」の主人に、「園丁」は、「今年もこのままにしておいてください」と猶予を願い、「木の周りを掘ります。 肥しもやってみます。」と主人に執り成すのです。 イエスは私たちのために、猶予をくださいと申し出てくださるとともに、神の前に立つにふさわしく整えてくださると言うのです。 この時間の猶予はそう長くはないのです。 「園丁」であるイエスに出会っているその恵みの時に、向きを変える。 新しく歩み出す。 もし、向き直して神の恵みに委ねて生きるのであれば、今まで味わった痛みも、流された涙も、決して無駄になることはない。 この与えられた時間の猶予、この機会を生かしなさいと、イエスは「いちじくの木の譬え」を用いて語っておられるのではないでしょうか。
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