秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「赦されること 愛されること」 創世記4章1~12節

2020-09-13

「兄弟は他人の始まり」とはいい意味で使われている言葉なのかもしれません。 兄弟間での葛藤こそ、人を大きく成長させるものでもあるからです。 人類最初の人を殺してしまうという悲しい出来事が兄弟の間で起こったと言います。 兄カインは「土を耕す者」となった。 弟アベルは「羊を飼う者」となった。 それぞれ人間に神から託された務めを果たす者となったということです。 ところが、二人の神への感謝の献げ物から事が始まります。 兄カインは「土の実りを献げ物として持って来た。」 弟アベルは、「羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。」と言います。 なぜか神は、「アベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」と言います。 カインは弟アベルに向かって「激しく怒り」、神に向かっては「顔を伏せた」とあります。 私たちは神が目を留められる違いはどこにあるのか、あれこれと詮索してしまいます。 献げ物そのものの違い、献げ方の違い、献げる者の心の違い、献げる者の働きの違いなのかと思ってしまいます。 新約聖書では、献げ物は「信仰によって」献げるもの、神を愛するという思いから出てくるものであると言います。 神に対して今、献げなければならない最良のものを献げるという思いに神は目を留められたのでしょう。
 「激しく怒って顔を伏せたカイン」に、神は「どうして怒るのか」と呼びかけます。 神に顧みられなかった理由を、なぜ弟に求めるのか。 自分自身の中にある理由に目を背けるカインに、神は「どうして顔を伏せるのか。もし、お前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。 顔を上げよ、神の前に自分自身の姿を差し出せ。 そうしなければ、お前を支配している誤った思いに翻弄されてしまう。」と、カインを見捨てることなく悔い改めを迫ります。 人は自分を正当化するために、正しいことを言われれば言われるほど怒り出します。 すべてを知っているがゆえに、それを隠すために人は必死になります。 心の中に、神に隠さなければならないような思いが湧いてくるなら、そのままにしておいてはならない。 たとえ破れても、恥ずかしくても、もう一度向きを変えて、神の前から隠れていこうとするのではなく、神の前に向きを変えてありのままの姿を差し出して戻って来なさい。 「隠れた罪」は恐ろしく、お前自身を支配するものとなると言われたのです。 
 その甲斐なく、カインは弟アベルを言葉巧みに誘い出し、手にかけてしまうのです。 「お前の弟アベルはどこにいるのか」と神は呼びかけます。 神は「お前の弟」と言っています。 私たちの命は人とのつながりの中に生かされていると神は言います。 その呼びかけにカインは、「知りません。 わたしには関係ありません。」と答えたのです。 神から託された人との関係を自ら断ち、自らの務めを放棄したのです。 それだけではなく、神の前を立ち去り、「ノド」という地に住んだと言います。 「ノド」という地名は、動揺、あせり、不安といった意味合いでしょうか。 神に背を向けて、自分の身を守ろうとした地「ノド」。 神を二の次にして漂う、自分だけを頼りにうつろいごまかすこの世の姿を映します。 旧約聖書は、このカインの兄弟間の葛藤を物語ると同時に、もうひとつヨセフの兄弟間の葛藤の物語も記しています。 兄たちに荒れ野の穴に突き落とされ、遠いエジプトに奴隷として売り飛ばされたヨセフが、そのエジプトで頭角を現し、エジプトを支配するまでになったのです。 豊かに食糧のあるエジプトに助けを求めてやって来た兄たちをヨセフが赦す感動的な場面が創世記45章に記されています。 兄弟姉妹は社会性を鍛え合うばかりでなく、互いに赦し合うというかけがえのない経験をも与える関係であることが、そこには示されています。

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「カナンの女の信仰」 マタイによる福音書15章21~28節

2020-09-06

 「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。 人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れてきたので、これらの人々をいやされた。」と聖書にあります。 ここに出てくるシリアとは、今朝の聖書箇所にある「ティルスとシドンの地方」がこれに当たります。 「イエスはそのガリラヤを立って、ティルスとシドンの地方に行かれた。」と言います。 マルコによる福音書によれば、「だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった」とあります。 精力的に宣教活動をしていたイエスの目には、ユダヤの指導者たちの姿は、「口先では神を敬うが、その心は神から遠く離れている。 人間の戒めを教えとして教え、むなしく神を崇めている。 彼らは盲人の道案内をする盲人だ。」とまで失望しています。 彼らに指導されているイスラエルの人びとを、「飼い主のいない羊のような有様である」と深く憐れんでおられます。 そのイスラエルの人びともまた、癒しを求めイエスに押し寄せては、癒しを与えてもらう。 にも拘わらず、その結果に満足してイエスのもとを離れ去ってしまう。 その繰り返しの姿に、イエスは失望もしておられたのではないでしょうか。 そのガリラヤを離れて、異邦人の地に退かれたということです。 神に遣わされたガリラヤの地を一時離れたということは、イエスにとっては特別な意味があったのでしょう。 父なる神との交わりを心静かに備えるために、退いて来られたのかもしれません。 その異邦人の地で、イエスは意図しないひとりの女性との出会いから、神のみ心を深く知られたのです。 その女性とは、「この地に生まれたカナンの女、自分の娘が悪霊にひどく苦しめられている女」とあります。 弟子たちにとっては、ガリラヤの時と同じようにここでもまた、病気のいやしを求めて大声でわめいている女がいる。 「あまりに大声で叫びながらついてきますので、癒して差し上げて、この女を追い払ってください。 この女の願いを聞き届け、立ち去るように願いを叶えてやってください。」と、弟子たちは思い余って言うのです。 聖書の言う信仰は、私たち人間の願いに神を従わせることではありません。 神が願っておられることに、私たちが応えていくことです。 彼女は異邦人でありながら、「主よ、ダビデの子よ」と、「あなたこそ、イスラエルの人びとの救いの為に遣わされるメシアです。」と告白します。 そして、「わたしを憐れんでください。 主よ、どうかお助けください。」と、イエスの前にひれ伏して申し出るのです。 この言葉には、あなたにすがるしか他に手立てはないのです。 諦めるしかないのです。 いや、諦めるわけにはいかないのです。 どうぞ、主よこの願いを受け取ってくださいという、絶望の淵に立った瀬戸際に立たされた者の祈りがあります。 「イスラエルという子どもたちのパンを取り上げて、小犬という異邦人にそのパンを与えるわけにはいかない。」というイエスの言葉に、彼女は「主よ、ごもっともです。」と答えます。 未だ、イスラエルの人びとが、自分たちの真の救いのためにイエスが遣わされていることに気づいていない時に、彼女はそのことを承知している。 しかも、「あなたこそ、そのために遣わされたメシアです」と告白している。 すでにイスラエルの人々が神の国に招かれている恵みに気づいている。 自分たち異邦人もまた、イスラエルに注がれた恵みのおこぼれに与り、その招かれた神の国の食卓からこぼれ落ちるパン屑に、私たちは恵みとして与ることができますと申し出た彼女の信仰を、イエスは「立派な信仰」と受け止められたのです。

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「祝福の源」 創世記12章1~8節

2020-08-30

神はアブラハムに3つの命令をくだしました。 「あなたは生まれ故郷を離れなさい。 父の家を離れなさい。 わたしの示す地に行きなさい。」というものでした。 この命令のために、神は6つの祝福を約束されました。 「わたしはあなたを大いなる国民にする。 あなたを祝福する。 あなたの名を高める。 あなたは祝福の源となる。 祝福するにしろ、呪うにしてもあなたを用いる。 すべての民は、あなたによって祝福に入る。」というものでした。 この3つの命令と6つの約束の言葉に従って、アブラハムは旅立ったと言います。 アブラハムがどのような人物であったとか、どのような状態であったとかに関係なく、神がみ言葉によってアブラハムを選んで、呼びかけ、この旅立ちを引き起こしているのです。 この神のみ言葉にアブラハムが応えて、従って、妻と甥と蓄えたすべての財産、そして途中で加わってきた人々を連れて旅立ったのです。 安住の地、安定の地を捨てて、経験したこともない、知識も持ち合わせていない異教の地に行きなさいということでしょう。 しがらみもない、血のつながりもない、社会的な礎もない、土地も権利もない神がご用意しているところに出かけて行き、そこで神の働きの為に用いられる。 その為に、アブラハムを祝福し、神の民の為にアブラハムを祝福の源とするということでしょう。 故郷を捨てることも、父の家を捨てることも、アブラハムには戸惑いがあったでしょう。 到底信じることができないような約束を、信じることができなかったのでしょう。 それでも、神のご命令であるからとアブラハムは、戸惑いながらも旅立ったのです。 神が示した地、カナン地方に入った時、神はアブラハムに「あなたの子孫にこの土地を与える。」と重ねて呼びかけられたのです。 しかし、アブラハムには息子がいなかった。 すでに75歳であったと言います。 妻サラにとっても、もはや子どもは与えられないと諦めていたふしがあります。 カナン地方には、すでにカナン人が住んでいる。 偶像礼拝がなされ、人間がつくったもので固められたところに、自分たちの土地が与えられてどのような意味があるのだろうと思ったかもしれない。 それでも、アブラハムは神の祝福の中味というよりは、その祝福を注いでくださろうとする神ご自身に従ったのでしょう。 
 私たちは神の祝福を、勝手に自分のものさしで決めつけようとします。 もし自分が望んでいる祝福でなかったなら、神がご用意してくださった祝福を拒もうとするのです。 神がご覧になっていてくださって、すべてを承知して私たちにくださるのならそれで十分です。 自分がその行き先が分からなくても、神が備えて、これがふさわしいとするなら十分です。 アブラハムは自分が安住できると思っているところを捨てなさいと言われました。 自分が祝福であると思っているものを捨てて、神が備えておられる場所と祝福を受け取りなさいと迫られたのです。 それはあなた自身のためではない。 あなたに関わるすべての人の「祝福の源」となるためであると言われたのです。 豊かに祝福が私たちに注がれるのは、「祝福の源」となるためです。 その向こうにいる、その祝福からこぼれ落ちている人々の為です。 注がれた祝福を運びなさい。 注ぎなさい。 渇くことのない泉のごとく湧き出てくる神の祝福は、その周囲にまで及ぶと約束してくださっているのです。 「すべての民は、あなたによって祝福に入る」という約束も、「あなたの子孫にこの土地を与える」という約束も、その175年の人生で目にすることはありませんでした。 妻を葬る墓地のわずかな土地だけでした。 それでも、アブラハムは神の約束にその生涯を生きることができたのです。 神の約束の言葉は必ず果たされるのです。 数百年後、アブラハムに約束された神の民の祝福は実現されたのです。

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「共に苦しみ、共に喜ぶ」 コリントの信徒への手紙一12章12~26節

2020-08-23

 パウロは、「教会の群れは、キリストの体である。 その体は一つである。 一人一人はその体の部分である。 ユダヤ人であろうと、ギリシャ人であろうと、奴隷の身分であろうと、自由な身分の者であろうと、男であろうと、女であろうと、このキリストの体に繋がっている多くの部分である。」と言います。 神に選ばれた民として絶対的な誇りをもっていたユダヤ人が、異国の民と一緒にいることなど常識外でした。 社会的な身分が明確に定められていた当時の社会においては、様々な身分の人々が共に教会の中にいることなど考えられない風景でしょう。 そこにパウロは当時の社会の枠を超えて、「あなたがたはバプテスマを受けて、一つの霊によって一つに結ばれているからだの多くの部分である。」と言うのです。 ユダヤ教の神学を究めた、ギリシャ哲学の素養も備え、神に忠実に従う熱心さと真剣さには誰にも引けをとらないパウロが、信仰は学問や研究によって、あるいは人間の熱心さや努力によって与えられない。 聖霊によらなければ、「イエスが主である」と告白することはできない。 聖霊のバプテスマによって、新しい目が開かれ、新しい耳が開かれ、今までとは異なる新しい命に生きて行かなければ、「イエスが主である」と信仰告白することはできないと言うのです。
 神を信じて従って行こうとする人を起こさせるのも、神に仕えて行こうとする人を用いてくださるのも、イエスが今もなお生きて働いておられる聖霊の働きです。 この聖霊は、神に祈り求めさえすれば、だれでも、いつでも、どこでも与えられると聖書は言います。 自分の弱さ、醜さを見つめて、悔い改めて新しい道を歩み始めたすべてのキリスト者に、この聖霊の賜物は注がれ、務めが託されるのです。 そのために、18節に、「神は御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれる。」と言います。 神がみ心のままに働かれるので、この聖霊を私たちがコントロールすることなどできません。 私やちは、この聖霊の賜物を受け取るだけです。 信仰は勝ち取るようなものではなく、神の裁きの前に、自分の弱さ、醜さ、とりかえしのつかない過ちをすべて差し出して、悔い改めて方向転換できることを恵みとして受け取っていくことです。 すべて主イエスが替わって担ってくださって、私たちの弱さ、醜さ、過ちが赦されて、新しく生きるようにと送り出される時に感謝していただくものです。 この聖霊の働きを小さく侮ってはなりません。 とてつもない大きな目に見えない恵みを主は天に用意してくださっています。 私たちはこのお方を主であると公に言い表し、聖霊の賜物を感謝して受け取っていくことです。 そして、聖霊の働きに大いに期待し、委ねていくことです。 
22節に、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」 24節に、「見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」 25節に、「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。」とあります。 神の恵みは弱いところに、いっそう明らかに現れ出るのです。 もっとも小さなところに、神の憐れみはいっそうはっきりと現れ出るのです。 この恵みを、神との交わりの中で皆で全体として受け取っていく。 「一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しむのです。 一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」と言います。 弱さのない、醜さのない、過ちのない人など一人もいません。 この人間の弱さ、醜さ、過ちという一つずつの部分が、この世におけるキリストの体、教会をつくり上げているとパウロは言うのです。 この一つ一つの部分を通して、イエス・キリストは聖霊となって働いてくださっているのです。 私たちその一部分は、聖霊の働きを受けて、用いられて、このイエス・キリストに仕えることができるのです。

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「罪の赦しを宣言するお方」 ヨハネによる福音書8章1~11節

2020-08-16

 当時の律法によれば、この聖書箇所に出てくるひとりの女性が犯した姦淫の罪は、石で打ち殺される重い罪に定められていました。 律法学者たちは、この女性を民衆の真ん中に立たせてイエスを試そうとします。 もしイエスが、「律法に従って、過ちを犯したこの女性を石打の刑で裁け」と言うなら、民衆は無条件の赦しを説いていたイエスに失望するだろう。 もしイエスが、「民衆に晒されたこの女性の過ちを敢えて赦す」と言うなら、律法を守らない者としてイエスを告発し、律法学者たちが裁くことができるようになるだろう。 どちらに転んでも、イエスを追い込むことができるようになると律法学者たちが企んだのです。 
 それに対するイエスの言葉が、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」という短い言葉でした。 イエスは、「石を投げなさい。 この女性を裁きなさい。」と言っているのです。 この女性が犯した過ちは石打の刑に値すると認め、律法を重んじています。 律法はモーセが造り出したものでも、律法学者たちが編み出したものでもありません。 神が定め、モーセに授け、託したものです。 その戒めによって、私たちを神の前に立たせるためのものです。 イエスは明らかにこの女性に、「神の前に立ちなさい」と言っています。 しかし、イエスはそこに留まらないのです。 この女性を取り巻いている多くの人々の姿があります。 この女性と共に過ちを犯してしまった、ここには姿を見せていない男性の存在もあるでしょう。 この女性を利用して、イエスを貶めようとした律法学者たちの姿があります。 今にもこの女性に石を投げつけようと、手に石を握りしめていた民衆もいるでしょう。 その有様を遠くから眺めていただけの傍観者の人々もいるでしょう。 イエスは民衆の真ん中に立たされた女性だけでなく、すべての人々に対して、神の前の裁きの場に立ちなさいと言われたのではないでしょうか。 神の裁きは、ただ咎めるだけの裁きではありません。 神の前に立とうとしない、自分の本当の姿を見つめようとしない、見ることのできない人々に向けて、神の前に立って自分の姿を見つめるようにと呼びかけておられるのです。 この短い呼びかけのほかは沈黙を保ったまま、身をかがめて、今にも人々が石を投げつけようとしているその場に、女性ととともに裁きの石を身に受けようとイエスは留まり続けたのです。 イエスの短い言葉に、人々は一人また一人と立ち去って行って、最後にはイエスと女性だけが取り残されたと言います。 
 女性は誰にも裁かれなかったのです。 石は投げつけられず、助かったのです。 しかし、彼女の犯した過ちはそのままです。 放置されたままです。 誰も裁くことも、赦すこともなかったのです。 その場を立ち去っただけです。 このままでは、彼女は生涯過ちを背負ったまま歩んでいかなければならない。 立ち去った人々もまた、そのわだかまりを持ちながら生涯を歩まなければならない。 「だれもあなたを罪に定めなかったのか」と確かめたイエスは、「わたしもあなたを罪に定めない。 行きなさい。 これからは、もう罪を犯してはならない。」と言われたのです。 女性はここで初めて、自分を裁いてくださったお方に出会うことができた。 その裁きは、この私を赦し、過去の過ちから解放し、救い出すためのものだった。 過ちを犯してしまったこの私がここに存在することも、これから新しい歩みを始めることも赦されたことに気づかされた瞬間ではないでしょうか。 イエスは彼女の過ちを見逃したのではありません。 彼女に替わって、彼女と共に、神の前に立ってくださって、その過ちを引き受けてくださったのです。 そして、そこから解放してくださって、新しい歩みに送り出してくださったのです。 私たちを新しく創造する神の愛が、そこに働いているのです。

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「社会の中に生きるキリスト者」 ペトロの手紙一2章11~17節

2020-08-09

 ペトロの手紙は使徒ペトロから、「アジア州に離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」へ宛てられた手紙です。 異教の国においてキリスト者として改宗して神なき世界の中で生きていくことになった人たちへ、「あなたがたは神によって選ばれた者である。 神の民に属する者である。 何もかも神にお任せしなさい。 身を慎んで目を覚ましていなさい。」と励ましの書簡を送っているのです。 
 ペトロは3つの呼びかけをしています。 ひとつは、「あなたがたは、いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」という呼びかけです。 ペトロは、「あなたがたは、暗闇の中から光の中へ取り出され、選び分かたれて新しくされた人たちです。 赦されて、イエス・キリストの歩まれた道を同じように辿り、神から憐れみと恵みが注がれた人たちです。」と、神の救いのもとを目指しこの世に生きている者であることを自覚するよう訴えています。 そして、「あなたの心の内に戦いを挑んでくる肉の欲を避けなさい。」と勧めるのです。 「肉の欲」こそ一番警戒すべき、手ごわい相手であることをペトロは熟知しているからこそ、それから離れなさい、避けなさいと消極的に先ず勧めるのです。 それから二つ目に、「異教徒の間で立派に生活しなさい。」と言います。 「立派な生活、立派な行い」とは何でしょうか。 イエスは山上の教えで、「あなたがたは世の光である。 あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。 人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:16)とはっきりと語られました。 「立派な生活」とは、自分のためではない、神があがめられるようになるために、私たちに求められている姿です。 この平凡な毎日の「肉の欲」との戦いに立ち続けるためには、どうしても神の憐れみと恵みを受け続けなければできません。 神への賛美と喜びと感謝が原動力とならなければ、この地味で長い戦いを続けることはできないのです。 3つ目のペトロの呼びかけは、「主のために、すべての人間の立てた制度に従いなさい。」というものです。 神なき世界で、人間が造り出した制度や権威や決まり事のなかで、「自由な人として生活しなさい。 神の僕として行動しなさい。」と勧めるのです。 イエスは、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返しなさい。」と言われました。 ペトロもまた、「神を畏れ、皇帝を敬いなさい。 すべての人を敬い、兄弟を愛しなさい。」と言い、この人間が造り出した世界に生きながら、神に属する者として生きなさいと勧めるのです。 無条件ではありません。 「主のために、主のゆえに」、この世に仕えなさい、この社会に仕えなさい。 それは、父なる神があがめられるためと言うのです。 「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。 かえって、祝福を祈りなさい。 祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」とペトロは訴えているのです。 目に見えるところでは、惨めな姿を取るかもしれませんが、「主のため、主のゆえに」人間のつくったものに仕えるという姿こそ、イエス・キリストが示してくださった神の僕の姿なのではないでしょうか。 神ご自身がすべてを説明し、失ったものや奪われたものをすべて回復してくださるのです。 私たちに与えられているものはすべて、神からお借りしているものばかりです。 いずれは、神にお返しするものです。 旅人です。 寄留者です。 「神の僕」として、私たちはこの世でこそ神に仕えていかなければならないのです。 主なる神があがめられるためです。 「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられるのです。」(テモテ一2:4)

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「一度も通ったことのない、行くべき道」 ヨシュア記3章1~17節

2020-08-02

 ヨシュアはモーセの後継者として神に選ばれた人物です。 「ヨセフよ、一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。 あなたを見放すことも、見捨てることもない。 強く、雄々しくあれ。 うろたえてはならない。 おののいてもならない。 あなたがどこへ行ってもあなたの神、主はともにいる。」と力強く神さまの声がかかったのです。 主がご自身の戦いの為に、ご自身のご計画を果たす為に、モーセやヨシュアを選び、任命し、約束されたのです。 具体的な指示まで伝えて、神ご自身が戦っておられたのです。 ですから、「あなたと共にいる。 あなたを見放すことも、見捨てることもない。 うろたえてはならない。 おののいてもならない。 戒めを守り、右にも左にもそれないなら、その行く先々で栄える。 神自身が戦っておられる戦いであるから、神に信頼し共にあるなら祝福を得るのは当然である。」と言われたのです。 その通りに歩んだヨシュアは、その生涯を終えようとするその最後に、「行く手に立ちはだかる者は、今日まで一人もいなかった。 主が約束された通り、御自ら戦ってくださった。 主が約束されたことは、何一つたがうことなく、すべて実現した。」と振り返ったというのです。
 これから立ち向かう戦いにすでに「勝利」を確信していたヨシュアは、シティムを出発しヨルダン川の川岸まで足を進めたのです。 イスラエルの部族を率いた、女性や子どもや家畜まで含めた大集団です。 問題は、3月から4月頃、雪解け水のために両岸いっぱいまで水かさが増し、流れの速さも増していたのでしょう。 ヨルダン川のほとりまでやってきた大集団が、そこで3日間の足止めをくったのです。 自分たちの力ではどうすることもできない状況であったのでしょう。 そこで、ヨシュアは神さまのご指示を3日間待ったのです。 神さまのみ言葉を待ち続けたヨシュアは、ついにイスラエルの人々にこう命じます。 「主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続きなさい。 その契約の箱には近寄らず、距離をとりなさい。 そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道が分かるようになる。 自分自身を聖別しなさい。 主は明日、あなたたちの中に、驚くべきことを行われる。」 続けて祭司たちには、「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、ヨルダン川を渡りなさい。」と命じたのです。 そこで再び、神さまの声がヨシュアに響きます。 「今日から、全イスラエルの見ている前であなたを大いなる者にする。 わたしが、モーセと共にいたように、あなたと共にいることを、すべての者に知らせる。 あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい。」と主が言われたのです。 「ヨルダン川」とは、自分の力だけでは乗り越えることのできないものを見つめさせるところでしょう。 ヨルダン川の中に入って、そこで立ち止まる「主の契約の箱」を見なさいと言われるのです。 渡ることなどできないと思っている川の中に主が入って行って、立ち止まっておられるのを見なさい。 主が激しい流れの中におられると分かったなら、今いる所を立ち上がりなさい。 そして、その主に従って、その後に続きなさいと言われているのです。 これから、驚くべきことをなされる主を畏れて聖別し、備えをしなさい。 「そうすれば、これまで一度も通ったことのない道が切り開かれる。 その道を通ることになる。 それが私たちの行くべき道であることが分かるようになる。」という約束を、ヨシュアはイスラエルの大集団とともに聞いたのです。 主の約束にのみ頼り、一歩足を踏み入れた時に初めて、驚くべきことがなされる主の力、「一度も通ったことのない道」に触れたのです。

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「神がこれからなさろうとすること」 創世記41章25~36節

2020-07-26

 私たちの人生を振り返った時、あの時こそ神に備えられた「時」であったと気づかされることがあります。 神さまどうしてですかと問いながらみ心を追い求めて祈る人にとっては、目からうろこが剥がれ落ちるような時があるのです。 自分だけに頼り独りだけの道を歩んでいる人にとっては、単なる偶然に見えるでしょう。 それを運命と吐き捨てる人がいるかもしれません。 偶然と偶然のぶつかり合いのなかで、私たちは翻弄されているのでしょうか。
 エジプトの王ファラオとヨセフの出会いは、ファラオが不吉な夢を見た後でした。 その夢の説き明かしを、だれも進言する人がいなかった時です。 宮廷の給仕役の長がほのめかした「ヨセフ」という名前を、ファラオが聞いた後です。 わらをもすがる思いで、ファラオに聴く耳が与えられた時でした。 すべてが整って、ヨセフの夢の解き明かしがファラオの耳に素直に入り込むようになったとしか言いようがありません。 だれがファラオに夢を見させ、ヨセフの夢の解き明かしを聞かせたのでしょうか。 だれがヨセフに夢の解き明かしをさせているのでしょうか。 
 「聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが」というエジプトの王ファラオの呼びかけに、奴隷の身であるヨセフが「わたしではありません。 神が告げておられるのです。 神がこれからなさろうとしていることをファラオにお告げになったのです。 ファラオにお示しになったのです。 神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるのです。」と大胆に応えるのです。 エジプトという異国の地で牢獄に捕らえられている一人のイスラエルの囚人が、エジプトの王に向かって、この国を治めておられるのは王ではなく神である。 これから起こるエジプトの将来は、ファラオの手の内にあるのではなく、神のみ手の内にあるとまで語り出すのです。 
 この後の創世記を読み進めば、この大豊作とひどい飢饉が何のために起こされたのかが見えてきます。 ファラオが不吉な夢によって変えられた。 一人の囚人の言葉でさえも耳を傾けるまでに神は備えられた。 ヨセフは神によって与えられるこの「夢」によって兄たちに捨て去られ、荒野の穴に投げ込まれ、エジプトに売られて故郷を捨てざるを得なかったのです。 そこで、侍従長に奴隷として仕えなければならなくなった。 侍従長の妻の偽証によって、牢獄に囚われることになった。 そこから、「夢」のゆえにエジプトの王の前に引き出されることになったのです。 聖書は、「主がヨセフと共におられたので。 ヨセフがすることを主がうまく計られたので。」と再三にわたり記しています。 神のご計画が人を選び、人の計画に知恵と力を与えて整えさせるのです。 神は準備をして、その「時」を待っておられるのです。 ですからヨセフは堂々とファラオの前で夢の解き明かしをしただけでなく、その周到な準備の方策まで大胆に語ることができたのです。 「夢」を解き明かす者は、神の声に耳を傾ける者です。 エジプト人のようにエジプトという異国の地で生き、イスラエルの神を忘れることなく、イスラエルを救い出すために用いられたヨセフの生涯でした。 ヨセフに、主がともにおられたので、神が片時もヨセフを忘れることがなかったので、ヨセフがこれまで奪い取られ、失ってしまったものが神によって回復させられた。 それにとどまることなく、神ご自身のご計画のために用いられた。 ヨセフの神はまた、私たちの神です。 ファラオに夢を見させた神が、ヨセフを選んで整え、「神の時」を待ってふたりを引き合わせた。 この世の権力や権威を、神の救いの業のために用いられたのです。 一人の王が一人の囚人によって支えられるという、「神の力」がここに示されたのです。

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「行って、あなたも同じように」 ルカによる福音書10章25~37節

2020-07-19

 ある律法の専門家が、イエスを試そうとして質問をしています。 「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 イエスはこの悪意に、「律法にはなんと書いてあるか。」と切り返します。 彼は即座に、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽し、思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい。 また、隣人を自分のように愛しなさい。」と書いてあると答えます。 満点の回答であったのでしょう。 イエスは、「正しい答えだ。 それを実行しなさい。 そうすれば、あなたの言う永遠の命が得られる。」と言われたのです。 律法の専門家の言葉には、そんなことはよく分かっているという響きがあります。 しかし、イエスは、神を愛することが第一であり、隣人を愛することは第二であるとその順序を語っておられるのです。(マタイ22:37-40) 聖書では、「愛する」という言葉を「エロース」という言葉と「アガペー」という言葉で使い分けています。 「エロース」は自分本位の愛です。 自分中心の求める愛です。 自分を満たすための条件付きの愛です。 「アガペー」は、相手本位の愛、自分を犠牲にしてまでも注ぎ続ける与える愛です。 愛するに値しない者をも愛する無条件の神の愛です。 この神の愛に触れるには、自分自身の姿を見つめ直し、自分の愛の貧しさに気づかされ、神の憐れみにすがる祈りがなければ味わうことのできない愛です。 神のもとからしか出てこない、ただ恵みによって神に与えられるものです。 マザーテレサは、「神は愛であり、愛は神からくるのですから、愛には限界がありません。 ですから、神の愛のうちに本当に身を置きさえすれば、神の愛は尽きることがありません。 でも肝心なのは、愛することです。 傷つくまで与え尽くすことです。 どれだけのことをしたかではなく、あなたの行いに神から与えられた愛を込めたかなのです。」と言います。 
 イエスに「この神から与えられた愛を宿しているか」と迫られた律法の専門家は、「では、あなたが言われるわたしの隣人とはだれのことですか」と応戦します。 自分の方から愛さなければならない「隣人」を見ようとする律法の専門家に、すかさず語ったのが「善いサマリア人のたとえ」なのです。 「傷ついた人を見ると、道の向こう側を通って行った」祭司とレビ人と、「その人を見て憐れに思った」サマリア人に分けられています。 その人を助けたなら、自分はどうなるのかと自分の立場に立っている人と、もし自分が助けなかったなら、この人はどうなるのかと相手の立場に立っている人に分けられています。 この「憐れみ」の言葉には、「はらわたがちぎれるほどの痛み」という激しさをもっています。 この憐れみが、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱させるのです。 デナリオン銀貨2枚を宿屋の主人に渡して、「この人を介抱してください。 費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」と言わせるのです。 ユダヤ人は、その血筋からサマリア人を見下し、嫌い、一切の交わりをしなかったと言います。 イエスはこのたとえを用いて、だれが助けを求めている人を助けたのか、愛したのかと問うているのです。 近寄って来て、傷を癒し、泊まるところまで連れて行って、解放するように頼んだ、蔑まれ見下されていたサマリア人こそ、私たちに替わって十字架に架かってくださったイエス・キリストです。 叫んでも、訴えても、道の向こう側を通って行く者が大半であるようなところにおいても、神の救いの恵みが注がれている、あなたがたは神に愛されている。 神の国はすでに訪れていると、このたとえを用いてイエスは語っておられるのです。 この神の恵みと、無条件の神の愛を喜んで感謝して受けなさい。 「行って、あなたも同じようにしなさい」と送り出しておられるのです。

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「イエス・キリストとの出会い」 マタイによる福音書11章2~11節

2020-07-12

 人の人生は一回限りの、ほんのわずかな一日一日、一瞬一瞬の積み重ね、一回限りの瞬間の連続です。 その時毎に人が選び取る姿、思いが現れ出てくるのです。 この選択がまったく私たちに委ねられている恵みを憶えます。 神は私たちの心の扉をたたいてくださっているのです。 その時の流れの中で私たちはそれに気づき、その扉を開けなければならないのです。 
 ヨハネにはためらいがありました。 ヘロデ・アンティパスによって獄中に捕らえられ、その誕生日に一夜の享楽のために首をはねられるという、哀れな道をたどるヨハネでした。 ひとりさびしく牢獄に捕らえられて、今まさにその生涯を終えようとしています。 メシアが訪れるその時までの道備えをするという神から与えられた務めを、今さまに失いかけていた時です。 果たしてイエスはメシなのだろうか。 伝え聞くイエスの行っている業は、メシアとしての働きなのだろうか。 ヨハネが予想し、待望していたメシアとしての姿、働きとは違う。 ヨハネには期待を裏切る姿、働きに見えた。 自分の弟子を送って、「来るべきお方は、あなたでしょうか。 それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と、イエスに尋ねさせたと言います。 このヨハネの弟子たちの質問へのイエスの答えが、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」というものでした。 今、現実に見えている事実を伝えるようにとイエスは言われたのです。 その事実とは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」 そうした現実を伝えたうえで、「わたしにつまずかない人は幸いである。」と言われたのです。 イザヤ書35章5~6節に、メシアが訪れる時の預言が記されています。 「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。 そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。 口の利けなかった人が喜び歌う。 荒れ野に水が湧きいで 荒れ地に川が流れる。」と記されています。 メシアの到来を預言している事実が、今、ここに成し遂げられているとイエスはヨハネの弟子たちに言わせているのです。 注意深く読みますと、旧約聖書の預言にはなかった「死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」という事実を付け加えているのです。 イエスご自身こそ、旧約聖書の預言者たちがメシアが到来したらこうなると言われていたことを実現する者である。 旧約聖書が語るメシア以上の、死んだ者に命を与える者である。 自分の弱さ、罪深さを知る心の貧しい人々に神の赦しの恵み、救いのよき知らせ「福音」をもたらす者であると、その事実の報告をもってヨハネに伝えているのです。 ヨハネの弟子たちがヨハネのもとに帰った後に、イエスは群集に語ります。 「ヨハネは今までの預言者以上の者である。 旧約聖書が預言してきた神の救いの約束を橋わたす最後の預言者である。 あなたたちが荒れ野に出かけて行って、出会おうとしたのはこの預言者に出会うために出かけて行ったのではなかったか。 このわたしへの道を備えるために荒れ野で呼ばわっていたヨハネに出会うためではなかったか。 ひいては、このわたしに出会うためではなかったのか。 ヨハネはおよそ、生まれてきた者のうちで最も偉大な者である。 このわたしにつなぐ最後の道備えを果たした人物である。 しかし、これからつくりあげられる神への道、わたしの十字架の道によって果たされる救いの道を通って神のもとに憩う者、十字架の裁きによって赦されて、神の国に入ることのできるもっとも小さな者でも、ヨハネより偉大である。 だから、このわたしを通って神の国に入りなさい。 このわたしにつまずかない人は幸いである。」と言われたのです。

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