秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「リバイバルの源」 使徒言行録8章4~25節 

2021-10-10

 使徒言行録は、使徒たちや信徒たちが聖霊を注がれて、イエス・キリストの救いの福音を、エルサレムから地の果てまで告げ知らせた。 その働きは人間の業ではなく、神ご自身の業であった。 ひとりひとりに注がれた聖霊が導く働きであったと記しています。 生まれたての教会の群れが次々と新しい教会の群れをつくり上げ、失敗と挫折とともに成長していく生き生きとした姿が記されています。 この聖書箇所は、サマリアの町で神が起こされたリバイバルです。 ユダヤとサマリアには断絶があり、確執の歴史があるところでした。 そこに、「エルサレムから散って行ったユダヤの人々が、その断絶の壁を超えて福音を告げ知らせた」と言うのです。 迫害が激しくなり、エルサレムから追放され散らされた彼らが、散らされて行ったそのところで福音を告げ知らせたと言うのです。 その指導者のひとりがここに出てくるフィリポです。 「フィリポはサマリアの町に下って、人々に神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせた。 多くの中風患者や足の不自由な人もいやすしるしも行った。 サマリアの町の人々は大変喜んだ。 フィリポが語る福音を信じて、男も女もバプテスマを受けた。」と言います。 その中に、魔術を使ってしるしを起こし、自分を偉大な人だと人々に思わせていたシモンという人もいたと言います。 一方、フィリポの行うしるしとは、イエスが行ったように、体の癒しではなく魂の救いを指し示すしるしであったのです。 シモンは、フィリポの行うしるしの秘密を探ろうとしてつき従い、不純な思いで人々に紛れてバプテスマを受けたのかもしれません。 サマリアの人々は、このシモンのしるしに象徴される「この世の惑わし」に長い間心を奪われていたのです。 それらから解放され、喜んでバプテスマをフィリポから受けたのです。 しかし、聖書には「シモン自身も信じてバプテスマを受けた」とあります。 私たちの信仰の確かさによって、神に受け入れられ救われたのではないでしょう。 神が恵みとして受け入れてくださって、「わたしのものにする」と約束してくださったからです。 フィリポの福音宣教は、砂地に水が染み込むようにサマリアの人々の魂の中に川が流れ出るように浸み込んでいきました。 サマリアとユダヤの敵意という中垣は取り壊され、神を装って人を支配しようとするこの世の力からも解放されたのです。 「人々はバプテスマを受けていただけで、聖霊が降っていなかった」ので、ペトロとヨハネがエルサレムから遣わされて来たと言います。 ふたりは人々に「聖霊が降るように。」と祈り、主の言葉を証しし、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせました。 また、「わたしにも、聖霊の力を授けてください」と言いお金を差し出した魔術師シモンには、「心の中に純粋でないものがある。 聖霊は神さまからいただく賜物です。 神を所有しようとしてはならない。 悔い改めなさい。 祈りなさい。」と勧めています。 このサマリアのリバイバルは、かつてここの井戸端でイエスが一人の女性に蒔かれた一粒の種がもたらしたものではないでしょうか。 イエスは日常に入ってこられて、魂の渇きに応えようとされます。 求める心を起こそうとされます。 救いの恵みは、その人が願わなければ、知らなければならないことを知らなければ受け取ることができないのです。 「もしあなたが、神の賜物を知っており、水を飲ませてくださいと言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に望み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」と、井戸端で一人の女性に言われたのです。 イエスは、「あなたが求めているものは、あなたと話しているこのわたしである。」と直に出会ってくださるのです。 生きた水を注ごうとしてくださるのです。 その「生きた水」は、川となって周りに流れ出て敵意の中垣があるようなところでも「リバイバル」を起こすのです。 

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「川となって流れ出る生きた水」 ヨハネによる福音書7章37~39節 

2021-10-03

 「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」とあります。 「祭り」とは、仮庵の祭りです。 イスラエルの人々が異邦の地エジプトで奴隷として苦しんでいたところから解放されて、モーセによって率いられて行進した果てしない苦しい長旅を忘れないようにと、人々は小枝で造った仮小屋で七日間過ごすと言います。 その時の神の導きと守りを記憶し、この世は仮の住まいであることを信仰告白すると言います。 喉が渇いて仕方のなかった人々はモーセに向かって、「なぜ、われわれをエジプトから導き上ったのか。 わたしも子どもたちも、家畜まで渇きで殺すためなのか。」と不平を述べ、「我々に飲み水を与えよ」と迫ったのです。 主なる神は、「ナイル川で打った杖を持って行くがよい。 わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。 あなたはその岩を打て。 そこから水が出て、民は飲むことができる。」と言われたモーセが、岩の前に立って手を挙げて、持ってきた杖でその岩を二度打つと水がほとばしり出たと言うのです。 「祭り」の最終日には、エルサレムの近郊にあるシロアムの池から汲んできた水を、エルサレム神殿の祭壇に行列を組んで運ぶのです。 その「水」に包まれた神殿で、群衆に向かって立ち上がって、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と、イエスは大声で叫ばれたのです。 イエスは、「渇いている人」と言います。 人々が求めたのは、のどの渇きを癒す飲み水でした。 しかし、イエスは、渇いているのは体ではなく魂であると言うのです。 人間は体の渇きには敏感ですが、魂の渇きには鈍感です。 自分の魂が本当に満たされているのか、渇いているのか分からない。 そのことを忘れ去らせてくれるこの世のはかないものに満たされ、心地よい言葉に神を忘れてしまう。 それでよいと自分を納得させたりもする。 もともと人間は創世記にあるように、「土の塵で形づくられ、その鼻に命の息を吹き入れられて生きる者となった」のです。 神の息吹を必要とする霊的な存在として創られたのです。 神に応えるために、神を知る力、求める力を「霊性」として備えられているのです。 それがいつしか神に替わるものに奪われ、神を悲しませているのです。 「水の渇きではなく、魂の渇きに気づきなさい。 自分の本当に求めている魂の渇きが何であるのか知りなさい。 その渇きをもって、わたしのところに来なさい。 わたしのところに来る者はだれでも、生きた水を飲むことができる。 生きた水を飲むことによって魂の渇きは満たされる。」と、祭りの最後の日に立ち上がって人々にイエスは大声で叫ばれたのです。 そして、父なる神が約束されたように、その人の魂の渇きが癒されるだけでなく、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになると言うのです。 それは、「御自分を信じる人々が受けようとしている霊について言われたのである」と注釈が付けられています。 父なる神は二つの約束をされています。 ひとつは、今まで犯してきた過ちを「思い起こさないことにする」と、私たちの過去について赦しを約束されました。 もうひとつは、「生きた水」という神によって吹き入れられた「聖霊」が注がれるという将来に向けての約束です。 私たちが赦されて受け入れられること、そして、それによって高価な賜物である神の霊が与えられることが、神の救いの本質です。 自分が本当に渇いていることを知る。 その渇きを携えてイエスのもとに出かけて行こうとする。 イエスに出会ってみる。 差し出された生きた水を感謝して受け取る。 それを飲んでみる。 すると、その生きた水は、その周りに川となって流れ出て潤すことになると、イエスは祭りの最後の日に宣言されたのです。 「わたしを信じる者」とは、直訳すると、「わたしの中に信じ入る者」となります。

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「地上のすみかと永遠のすみか」 コリントの信徒への手紙二4章16節~5章10節

2021-09-26

 パウロは、「だから、わたしたちは落胆しません。」と繰り返しています。 様々な手紙の中で、「死」と向き合っていたことを赤裸々に「わたしたちが被った苦難についてぜひ知っていてほしい。 耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。 死の宣告を受けた思いでした。」と語っています。 死を目の前にして、絶望する、勇気を失う、気を落としてしまうような、死と隣り合わせのような状況ばかりです。 しかし、パウロは、「落胆しません。」 「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださる。」(4:14)からだと言うのです。 パウロは「外なる人」と「内なる人」という言葉をもって語ります。 肉体は汚れたもの、精神は優れたもの、汚れた肉体からの解放が人間の救いだというようなギリシャ哲学の二元論を語っているのではありません。 また、肉体は衰えるが、精神は益々新しく強くなるということでもありません。 「外なる人」とは、肉体も精神も含めた全体としての人間のことでしょう。 パウロの言う「内なる人」とは、神によって復活させられたイエスと共に生きる人、神の働きによって日々新たにされていく人ということでしょう。 私たちの心の中に、神の豊かな栄光とその霊の働きによって復活させたイエス・キリストを住まわせて、私たちの「内なる人」を強めると言っているのです。 ですから、パウロは、神がイエスと同じように私たちをも復活させてくださると知っているから、あるいは、そのイエスを内に住まわせ、イエスと同じ新しい命が神によって与えられているから「落胆しません」と言うのです。 併せてパウロは、「艱難」と「栄光」という言葉を用いて語ります。 「艱難」は、地上での一時のものである。 「外なる人」の営みによるものである。 一方、パウロの語る「栄光」とは、イエス・キリストが味わった復活に与かることです。 「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピ3:10)と告白している通りです。 この栄光の重さ、復活の重さは、今体験している地上での「艱難」とは比べものにならない。 やがて自分にも訪れるイエス・キリストと同じ復活という出来事が、今味わっている「艱難」の事実の意味を変えてしまう。 一時の軽い「艱難」が、比べものにならないほどの重みのある「栄光、復活」をもたらしてくれる、創り出してくれるとパウロは言っているのです。 「死者の中からの復活」など、私たちの目には見えないものです。 「外なる人」の五感や理解や経験によって捉えることができないものです。 ですから、「目に見えるものではなく、目に見えないものに目を注ぎます。」と言うのです。 目に見えるものを見るなとは言っていない。 見えるもの、過ぎ去り枯れていくものに目を奪われてはならない。 永遠に存続するものを見なさいと言うのです。 「地上のすみか」と「永遠のすみか」という言葉をもってパウロは語ります。 人の手で作られた仮住まいのような「地上のすみか」ではない、神に備えられた「永遠のすみか」である。 「私たちを、その住みかに住まうのにふさわしい者に神がしてくださる。」と言うのです。 その保証として「聖霊」を与え準備してくださると言うのです。 「外なる人」の内に、神ご自身が新しく創造する「内なる人」をつくり上げてくださる。 「外なる人」の中に、神のみ言葉と聖霊の働きによって与えられた新しい「わたし」、神の恵みを感謝して受け取って「永遠のすみか」に住まう希望を確信している「わたし」が造り上げられるのです。 「内なる人」とは、この地上でも、死後の世界でも神がともにいてくださるという確信に生きる人のことです。

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「ヨベルの年、主の恵みの年」 レビ記25章1~12節 

2021-09-19

 イエスが安息日にガリラヤの会堂の中に入り、お立ちになって聖書朗読した時のことです。 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と言われたのです。 その聖書の言葉とは、「主の霊がわたしの上におられる。 貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。 主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18-19)というイザヤ書61章の引用でした。 かつてモーセに約束された「主の恵みの年」が今日、今ここに訪れたとイエスは会堂で旧約聖書の巻物を紐解いて朗読された時に宣言されたのです。 イエスは父なる神が語られたみ言葉をよく読んでおられ、ご自身に語りかける声として聴き、受け取っておられるのです。 「第七の日を、安息日として主のために、その礼拝のために聖別された日としてささげなさい」と言われたように、「主のための安息をその土地にも与えなさい。」と言われる。 エジプトからモーセによって導かれた約束の土地は、神から与えられた土地である。 この恵みの業を私たちに成し遂げてくださった神を憶えるために、自分たちを顧み生かしてくださる「主にある平安」を喜ぶために、しばし手を休め静かに感謝して神を仰ぐようにという「主のための安息」を告げたのです。 「土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者に過ぎない。 主の僕として主のもとで、与えられたその土地を託されているに過ぎない。 六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、七年目には全き安息を土地に与えねばならない。 畑に種を蒔いてはならない。 ぶどう畑の手入れをしてはならない。」と言われるのです。 それでは、七年目はどうやって食糧を確保するのですか。 八年目や九年目にすぐさま収穫ができるのでしょうかと私たちは尋ねたくなります。 神は、「わたしは六年目にあなたたちのために祝福を与え、その年に三年分の収穫を与える。 あなたたちは、八年目になお古い収穫の中から種を蒔き、食べつなぎ、九年目に新しい収穫を得るまでそれに頼ることができる。」と、前もって収穫の恵みを備えると約束されたのです。 そして、「安息の年を七回、七を七倍した年は四十九年である。 この五十年目の年を聖別し、全住民に解放を宣言する。 売られた土地も、売られた人も買い戻され、元の所有者に、元の家族のもとに帰ることになる。 こうして土地も人も回復される。」と、「ヨベルの年、主の恵みの年」をモーセに仰せになったのです。 その父なる神のみ言葉を、イエスはご自身のこととしてご自身のうえにこの「ヨベルの年、主の恵みの年」が、今ここに実現されたと宣言されたのです。 イエスは税金に苦しんで土地を失い、家族を失い、収穫の半分以上を小作料として搾取されている、この世の犠牲となっている人々の姿をご覧になっていたのでしょう。 「主の恵みの年」には、その負債が免除される。 本来もっているはずの土地が回復される。 失っていた社会的な存在を取り戻される。 この世のことだけではない。 イエスご自身の到来によって、神のもとを離れてしまって、罪と死の奴隷となってしまっていた、この世の奴隷になってしまっていたことに気づいていなかったこの私たち自身が、主なる神との交わりを赦されて、回復され、神を仰ぎながら生きるようになる「主との交わり」が回復されるという「解放」、「救い」を宣言されておられるのです。 見えていなかったこと、気づいていなかったことが示され、神に出会い、神を迎え入れ、神とともに歩むまでに回復され、「主の交わり」の中に生きる者と変えられる。 これが真の神の救い、神の恵みです。

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「その時を知らないのだから」 マタイによる福音書25章1~13節 

2021-09-12

 イエスは、「心を騒がせるな。 神を信じなさい。 わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。 こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14:1-3)と、今は姿が見えなくなるが、必ず戻ってきて弟子たちを迎えると約束されました。 「その日、その時は誰も知らない。 ただ父だけがご存じである。 だから目を覚ましていなさい。」と、イエスは「終わりの日」、救いが完成される日のことを「十人のおとめ」のたとえをもって語るのです。 
ユダヤの婚礼は、花婿が花嫁を迎えに行き、花嫁を伴って婚宴が開かれるところに連れて行きます。 花嫁の家では、介添え人の乙女たちが手にともし火を持って待機します。 花婿が訪れると、ともし火をかざして婚宴の席にまで花嫁を導いて行きます。 イエスはご自身を「花婿」によく譬えられました。 神の民の群れはその「花嫁」に譬えられます。 この「花婿」の到着こそ、イエスが再び来られる「終わりの日」、「救いの時」を譬えているのでしょう。 婚宴の席に参加する乙女たちこそ、神の民の群れを示すのでしょう。 その乙女たちは、「花婿」を待ちわびて「ともし火」を用意していた。 ところが、「花婿が来るのが遅れたので、眠気がさして眠り込んでしまった。」と言います。 マタイの福音書が記されたのは、エルサレム神殿が崩壊した後のことでした。 イスラエルの人々にとって、この世の終わりと思わされる出来事が起こってしまった。 イエスは約束通り、自分たちを迎え入れるために再びやってくると思っていた。 ところが、約束されたイエスは現れることはなかった。 期待を裏切られて、疑いや不安の中に漂う、失望に陥っている人々の姿こそ、この「眠気がさして眠り込んでしまった」乙女たちの姿ではなかったでしょうか。 イエスはこの乙女たちに、「賢い乙女」と「愚かな乙女」がいたと言うのです。 その違いは、「壺」に「油」を入れて用意して待っていたかどうかだけです。 「賢い乙女」は用意していたので、突然の出来事に間に合わせることができた。 「愚かな乙女」は、「ともし火が消えそうです。 油を分けてください。」と願い出ますが、「分けてあげるほどはありません。」と薄情にも断られます。 なぜでしょうか。 イエスはご自身が十字架の死に向き合って、ご自身の「終わりの日」を見つめて、それが自分のために父なる神から与えられたものであると確信して受け取っていったように、「人から分け与えられて、融通してもらうようなものではない。 神の呼びかけに耳を澄ませて聴いて、受け取って、従ってみようとするところに、神ご自身より分け与えられるものである。」と、「油」の本質を譬えをもって語っておられるのです。 どちらの乙女に該当するのかと示して、「終わりの日」を迎えるようにとイエスは迫っておられるのでしょうか。 イエスは誰よりも、人間の死が肉体の死を超えて、神から捨てられるという「永遠の滅び」、本当の絶望と悲しみに生きてくださったお方です。 そのお方が、「その日、その時」を憶えて、希望のうちに待ちなさい。 「目を覚ましていなさい。 油を用意していなさい。」と招いてくださっているのです。 どちらの乙女も、イエスを待ち望む心は持っていたはずです。 突然の到着に至っても、何とかしようとしたのです。 「その日、その時」は突然訪れる。 私たちの予定にはない、遅れて、突然訪れるのです。 それも、驚くような姿をとって私たちの前に現れるのです。 「その日、その時」を待つ希望をもちましょう。 もし出会うことができたのなら、その恵みを味わいましょう。 私たちの日常生活の中に現れて、招いてくださっているイエスのお姿を見つけ出しましょう。 

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「主よ、お話しください」 サムエル記上3章1~14節 

2021-09-05

 「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。」と、わざわざ書かれています。 そのころ、イスラエルの人々は神殿にささげものをし、礼拝を重ね神に仕えていた。 神殿の祭司たちもまた、定められたように神に仕えていた。 神に仕えるという形は整っていたかもしれないが、主のみ言葉に従わずめいめいが正しいと思ったことを行っていた。 祭司エリも忠実な神に仕える者で、神のみ言葉を託された選ばれた預言者でしたが、祭司であった二人の息子たちの有様はひどいものでした。 神殿にささげられた肉を自分たちのものにし、神への供え物を軽んじていた。 神殿に仕える女性たちとしてはならないことをしていた。 神を侮り軽んじていた息子たちの有様を、エリは咎めたけれどもそれを放任してしまっていた。 ついに神の声が祭司エリに届きます。 「あなたはなぜ、わたしが命じたいけにえと献げ物を神殿でないがしろにするのか。 なぜ自分の息子をわたしよりも大事にして、自分たちの私腹を肥やすのか。 わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んじる。 わたしの望みのままに事を行う忠実な祭司を立てる。」と言うのです。 聖書はそのような状態を、「主を知ろうとしなかった。 主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。」と表現しています。 少年サムエルも、祭司エリの言われた通りに神殿で忠実に仕えていたのです。 神殿で雑用と思えるようなことでさえ、懸命にサムエルは励んでいたのでしょう。 「サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。」と言います。 祭司エリから教えられた神は知っていた。 しかし、直に神の声を聞いたこともなければ、出会ったこともなかった。 むしろサムエル少年にとってみれば、祭司エリこそ神のような存在であったのではないでしょうか。 そんな少年サムエルに、わずか一夜にして神は直に呼びかけ、出会い、隠されていた神のみ心を知るまでになさるのです。 
 神は先ず、「サムエルよ」と呼びかけます。 サムエルの知る神とは、人々に礼拝をされる神であり、祭司エリより教えられる遠い存在の神でした。 三度、神に呼びかけられたけれども、自分を呼んだのはエリ先生であると勘違いしたほどでした。 むしろ、エリの存在そのものがサムエルが神を知ること、神の声を直に聞くことを妨げていたのかもしれない。 これだけのことをしていれば、祭司としての形は整えている。 誰からも咎められることはないと思い過ちを繰り返していたエリの息子たちも同じであったのでしょう。 エリはその生涯の最後に、預言者としての務めを果たすのです。 サムエルに対する三度の呼びかけが、神のものであることを悟ります。 「もし呼びかけられたら、『主よ、お話しください。 僕は聞いています。』と祈りなさい」とサムエルに命じます。 エリは、自分の息子たちのことで神の厳しい声が降るのを覚悟していたのでしょう。 四度目に、神の呼びかけがサムエルに届きます。 少年サムエルが「主を知り、直に主と出会う」瞬間でした。 命じられたように「どうぞお話しください。 僕は聞いております」と祈り、その時聞いた内容は、エリ先生が息子たちの過ちを戒め直さなかったこと、預言者としての務めを果たし得なかったこと、預言者の務めの終わりを告げられるという、サムエルにとって驚くべきものでした。 エリにとってもサムエルに伝えられることは、つらく恥ずかしいことでした。 語る苦しみもあり、聞く苦しみもあった師弟関係の間に起こされた突然の出来事でした。 サムエルは隠さず語り終え、神との初めての出会いを経験した瞬間でした。 エリは生涯の最後に、見失っていた神との直の交わりを回復した瞬間でした。 これが「お話しください」という祈りに、神が起こされる出来事でした。 神は「私の話を聞いてください」という祈りよりも、「主よ、お話しください」と祈る私たちを喜んでくださるのです。

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「主よ、来て、御覧ください」 ヨハネによる福音書11章28~37節 

2021-08-29

 マルタとマリアの二人の姉妹の「祈り」と、その兄弟ラザロの病気と死という出来事が描かれています。 イエスは、「マルタとマリアとラザロを愛しておられた」と言います。 二人の姉妹はその場にいないイエスに、人をやって病気のラザロの危機を伝え、その回復をイエスに託すのです。 その訴えにイエスは、「この病気は死で終わるものではない。 神の栄光のためである。 私たち神の子が栄光を受けるためである。」と語り、その場を二日間動くことはなかったと言います。 これから起こる出来事に、必ず父なる神のみ心が働く確信があったのでしょう。 それから時が満ちて、「わたしたちの友ラザロが眠っている。 彼を起こしに行こう。」と弟子たちに呼びかけられたのです。 イエスは時が満ちるまで、ベタニアの村はずれでじっと待っています。 マルタは、イエスが村に来られたことを聞きつけて迎えに行きます。 イエスに会うと、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と言います。 これにイエスは、「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。 このことを信じるか。」と言うのです。 このイエスの言葉を受けて、マルタはマリアにもイエスのもとに行くことを促します。 家の中にじっと座って悲しんでいたマリアは、すぐに立ち上がりイエスのもとに出かけて行きます。 イエスのおられるところに来てイエスを見るなり、マリアは足もとにひれ伏し、マルタと同じように「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と言います。 愛する兄弟ラザロが死んで、もうすでに四日が経ち、ラザロは墓に葬られていたのです。 二人の姉妹の悲しみを慰めるためにやって来ていた多くのユダヤ人たちが、マリアが急に立ち上がって家を出て行く姿を見て、てっきり墓に泣きに行くのだろうと心配して、彼女の後を追いかけてくるほどの状況でした。 
 そのような最中での二人の姉妹とイエスの再会の場面です。 泣き崩れるマリアの姿、心配してその後を追ってきた多くのユダヤ人たちが泣いているのをイエスはご覧になって、「心に憤りを覚え、興奮して涙を流された。」と言います。 この涙は、私たちと同じ肉体を背負った者がもつ感情に左右され、「心を痛め、悲しんで、動揺して」流されたものでしょう。 それと同時に、何かを決意したかのようなニュアンスを込めています。 これから迎える、父なる神に見捨てられるという悲しみとその裁きを私たちに替わって受けなければならない十字架の苦しみ、そこから新しい命へとつくり変えられていく決意を込めて涙を流されておられるのではないでしょうか。 イエスが涙を流されたのは、「どこに葬ったのか」と問うた時に「主よ、来て、御覧ください」と二人の姉妹が祈った時のことです。 二人の姉妹は、ラザロが葬られていた墓の方ではなく、イエスがおられる所に立ち上がって駆けつけたのです。 そのお姿を見て足もとにひれ伏して訴えたのです。 どうすることもできないと分かっていても、イエスの憐れみにすがろうとする二人の「祈り」は変わらなかったのです。 「助けてください。 こうしてください。」という願いではなく、「主よ、わたしのところに来てください。」 そして、「その有様をご覧になってください。」という短い祈りです。 私たちは死んだ者が入る墓ではなく、主とともに生きていくところにすかさず立ち上がって、ありのままの姿をもって出かけて行かなければならない。 「来て、ご覧ください」と訴え、祈り委ね、主イエスを受け入れるのです。 そこに、父なる神が足を踏み入れて働いてくださるのです。 イエスは、「このことを信じるか」と私たちにおっしゃっておられます。

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「多様性の中で」 ローマの信徒への手紙14章1~10節 

2021-08-22

 ローマの生まれたての「家の教会」には、多数派の異邦人キリスト者と少数派のユダヤ人キリスト者がいます。 習慣の違いからくる、あるいはモーセの律法に対する受け止め方の違いからくる些細なことで衝突が起こっていたのです。 律法の中に定められている「汚らわしいとされていた豚肉」、「血抜きしていない絞め殺した動物の肉」、これを自分たちは食してよいものなのか。 また、「異教の神殿にささげられた犠牲の肉」が市場を通して出回り、それを自分たちは食してよいものなのか。 特に少数派であったユダヤ人キリスト者たちにとって、これは重大なことであったのです。 ところが、異邦人キリスト者にとっては、そのようなことには自由であり、そこに拘るユダヤ人キリスト者たちを侮り、軽蔑したのです。 私たちの国でも、仏教や神道の慣習により、一般常識により様々なことで悩まされることがあるでしょう。 パウロは言います。 「信仰の弱い人を受け入れなさい。 その考えを批判してはなりません。 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また食べない人は食べる人を裁いてはなりません。」 その理由は、「神はこのような人をも受け入れられたからです。」と言います。 イエスは、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31-32)と、律法からもその他のものからも自由とされる喜びを語っています。 パウロもまた、「わたしには、すべてのことが許されている。 しかし、すべてのことが益になるわけではない。 わたしは何事にも支配されはしない。」(コリントⅠ6:12)と言っているように、パウロは自分自身を、律法の制約から解放されているという意味で、「信仰の強い人」として語っています。 今、私たちに与えられている自由は、十字架というキリストの犠牲と父なる神の痛みとご愛を通して与えられたものです。 従って、無制限の自由ではなく、この自由が生み出す行いには神が注がれるご愛と痛みによる制限が加えられるものです。 「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足、自分の正しさを求めるべきではない。 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならない。 食べない人は、食べる人を裁いてはならない。 お互いがお互いをつまずかせてはならない。 神のみ心に従って、各自が各自の心の確信に基づいて決めることです。」とパウロは忠告するのです。 「特定の人を重んじる人」と「すべての日を同じように考える人」の違いの場合も同じです。 どちらが正しいことなのかということではなくて、どちらの態度も認めて受け入れるようにと言います。 その理由は、私たちキリスト者は、「自分のために生きる人はなく、生きるとすれば主のために生きる。 自分のために死ぬ人はなく、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」 なぜなら、私たちキリスト者は「神に感謝しているからです。 食べる人は主のために食べるのです。 食べない人は主のために食べないのです。 特定の日を重んじる人も、主のために重んじるのです。 生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも、生きている人にも主となられるためである。」とパウロは言います。 私たちは主の僕、召し使いです。 そうであるのにあなたがたは、「なぜ、キリストの僕である兄弟を自分の召し使いのように裁くのですか。 キリストの僕である兄弟を侮るのですか。 あなたたちは皆、キリストの僕として神の裁きの座の前に立つのです。 神の憐れみと赦しの座の前に、例外なく立ちキリストによって弁護と執り成しをいただくのです。 召し使いが立つのも、倒れるのも、主人であるイエス・キリストによる。」と、パウロは自分の実体験から語るのです。

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「神の前に生きる者」 ローマの信徒への手紙3章21~26節 

2021-08-15

 パウロは、「ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にある。 正しい者はいない。 一人もいない。 全世界が神の裁きのもとにある。」 私たち人間が神のもとを離れ、神なき世界に漂ってしまう存在となってしまった。 神のもとから離れさせようとするこの世の力に、支配されるまでになったと述べています。 「ところが今や」新しい時代に入り、「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」 聖書に預言されてきたことが今や成し遂げられたと、パウロは語っているのです。 この「律法とは関係なく」という言葉は衝撃的な発言です。 ユダヤ人たちは、懸命に律法を守ることによって、神から与えられる「神の義」に至ることができると信じていた。 それにもかかわらず、パウロは「神の義は、ユダヤ人もギリシャ人の区別もなく、律法とは関係なく、神の恵みとして注がれるものである。」と宣言したのです。 命がけの宣言です。 「ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力である福音が示された。 その福音には、初めから終わりまで信仰を通して実現される、隠されていた神の義が示された。」(1:16-17)と大胆に定義し、宣言したのです。 ユダヤ人たちは、「自分たちこそ神に選ばれた神の民である。 祝福を約束してくださっている神に礼拝をささげ、犠牲の供え物も定められたように欠かさずささげている。 信仰のしるしとして割礼の儀式を済ませている。」 この律法さえ守っていればという「心地よい勘違い」があったのです。 神のもとを離れてしまっているという私たちの罪深さを巧妙に覆い隠すものが、私たちを納得させるかのようにこの世に溢れています。 パウロの言う「神の義」とは、破れた神と人との状態を神ご自身の方から回復させようとする神の救いの働きです。 その隠された「神の義」の働きが起こされた。 私たちの罪深さのゆえに、人間の側から修復しようとしても不可能です。 裁くのは神です。 裁かれる私たちの方から主張する資格などないのです。 ですから聖書は、「神が人を義となさる。 人が義とされる。」と表現します。 「神の義」とは、私たちがただ受け身として受け取る神の働きなのです。 そして、この「神の義」は、「イエス・キリストの贖いの業を通して与えられる」と言います。 
 聖書は、この「贖い」をふたつの意味で語ります。 ひとつは、捕虜や奴隷になった者を身代金を支払って買い戻すという「解放」の意味です。 もうひとつは、罪の汚れを動物の血によって拭い清め、神との交わりを取り戻すという「贖罪」の意味です。 パウロは、「イエス・キリストが私たちのために罪を贖う供え物となってくださった。」 イエス・キリストがその命をささげてくださった十字架のうえに、神が交わりの回復、和解の場を求めておられる。 イエス・キリストの信仰の服従と、神自らの裁きの痛みをともなったご愛によって、罪深さから解放される。 罪が免れる。 この「解放」と「贖罪」が、神のもとから流れ出てくる「救いの恵み」です。 罪にまみれた世界から私たちを救い出す「神の力」、救いに至らせる「神のご愛」です。 「神の義」が示され、福音が訪れ、新しい時代が始まったとパウロは宣言するのです。 この「救い」の出来事こそ、「ご自身の義を示すためだった。 同時に、イエス・キリストを信じるすべての人を義となさるためだった。」と締めくくっています。 「神の義」を示されたのは罪と妥協しない神の正しい裁きを示すため、何としても私たちを救い出そうとされるご愛のため、神との交わりを回復するためでした。 解決しないまま、先を見通せないまま、それでも神のみ前に生きて行こうとする私たちの懸命な姿を神は喜んでくださるのです。 そこには、神のもとからしか流れ出ない「神の力、ご愛、忍耐」が注がれるのです。

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「私たちの再興のため」 ローマの信徒への手紙11章25~32節 

2021-08-08

 パウロが、ローマにいる生まれたばかりの信徒の群れに呼びかけています。 「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。」と異邦人信徒たちにたしなめるかのように言います。 「イスラエルの民はその不信仰、不従順のゆえに枝として折り取られました。 その代わりに、あなたがた異邦人が接ぎ木されました。 イスラエルの民に約束された祝福の源、その根から送り込まれてくる豊かな養分、恵みをあなたがたは受けるようになったのです。 だからと言って、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。 むしろ恐れなさい。 神の慈しみと厳しさを考えなさい。」とパウロは語るのです。 「神の選びについて言えば」、イスラエルの民は神に選ばれた、神のみ言葉を託された神の民です。 アブラハム、イサク、ヤコブの神がずっと愛している神の民であることに変わりありません。 「神の賜物と招きは取り消されることのない神の約束である。」と言うのです。 ところが、そのイスラエルの民が託されたみ言葉を守り行うことによって、自分の正しさを追い求めるようになった。 これが神の民になるための条件であると理解し、神から遣わされたイエスの語る福音の恵みを拒み、イエスを十字架に架けて殺し神の敵対者となってしまった。 まさに、放蕩息子の弟の行いをあげつらい、間違っていると自分の正しさに縛られて、父親の憐れみを理解することのできなかった兄の姿でしょう。 一方、異邦人は、かつては神を知らず、神を求めようとせず、神とは無縁のまま、神なき世界を漂い放置されていたのです。 罪も分からず、神の憐れみも知らない存在でした。 しかし今は、イスラエルの民の躓き、不従順によって、十字架の恵みが異邦人にもたらされて神の憐れみを受ける者となったのです。 まさに、したい放題のことをして、破綻してどうすることもできなくなって、自らの醜い姿を見つめさせられて、悔いて、父のもとにひざまずいて無条件の赦しと恵みによって戻ってきた放蕩息子の姿です。 パウロはその神の「秘められた計画」を、「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」と結論付けています。 神は恵みの水路をせき止められる時がある。 一旦約束された恵みをせき止めてでも、救い出そうとされる時がある。 それはすべての人が、神の憐れみと厳しさを知るためである。 神のご愛、恵みに触れるためである。 しばしの間に神の憐れみと厳しさを知らされて、再び神の民として取り戻されるためであるとパウロは言うのです。 
 イスラエルの不従順は、自分たちの不従順から再び立ち戻る自らの再興のためです。 神は救いのご計画に従って、ご自身の民を打ち砕き裁くことによって、あるいは頑なな不従順に導かれることによって救おうとされておられるのです。 注がれる神の恵み、憐れみに私たちが気づくためです。 それに触れて味わうためです。 私たちの復興、再興のためです。 私たちを愛するがゆえに、神は私たちが考えもしない出来事を通して働いてくださるのです。 私たちの行いや有様やその報いによって、救いや赦しや祝福を私たちが受けるものではありません。 神はただご自身の豊かさから、そのご愛や恵みを私たちに分け与えようと憐れんで注ぎ続けてくださっているのです。 選ばれた民はたとえ途中で、不従順に陥ったとしても諦めてはならない。 神の選びは不変です。 約束は消え去ることはありません。 一時的な恵みのせき止めを通してでも、神は救いの恵みを与えてくださろうとしているのです。 一向に神の方に向きを変えない民もまた、神はその外から恵みとご愛をどっと流し込んでくださる時があるので、諦めてはならないのです。 私たちの不従順もまた神のみ手の中にあることです。

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