秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「神の約束としての賜物」 使徒言行録2章37~47節 

2022-05-29

 「聖霊が降る、受ける」とは、私たちにとってどういう意味のある出来事なのでしょうか。また、「聖霊」とは、いったい何者なのでしょうか。 ルカはこの出来事を、福音書の続編として「使徒言行録」に客観的に詳しく記しています。 ヨハネによる福音書はこのルカとは異なり「聖霊が降る」出来事を、「弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、あなたがたに平和があるようにと言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。 弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。 聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:19-23)と端的に記しています。 かつてイエスが「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。 あなたがたのところに戻ってくる。」と約束してくださっていたように、復活されたイエスは絶望し意気消沈していた弟子たちの真ん中に現れて、聖霊を注いでくださったのです。 一方、ルカは、聖霊が弟子たちの上に降った有様を詳しく語っています。 「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに話し出した。 復活したイエスが度々現れていたにも関わらず信じて受け入れることのできなかった弟子たちが、イエスを賛美し、復活されたことを大胆に証言するまでに、新しい人間として生まれ変えられた。」と、聖霊の業として証言しているのです。 その中心人物であったペトロの説教は、新しい霊の目が開かれたとしか言いようがありません。 その変貌ぶりは目を見張るばかりで、イエスによくたしなめられていたペトロ、イエスが復活されたと告げられ「たわ言のように思われた」と信じることができなかったペトロとはまるで別人です。 そのペトロの言葉に、人々は心を打たれて、「わたしたちはどうしたらよいのでしょうか」と尋ねるまでになったと言います。 ペトロと同じように、人々はイエスを殺してしまった自分たちの過ちに気づかされるまでになったのです。 その時のペトロの言葉が、「悔い改めなさい。 イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。 罪を赦していただきなさい。 そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、私たちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられるものなのです。」と語ったのでした。 賜物として聖霊を受けるという約束がもうすでに用意され、その約束に従って神の業が起こされる。 私たち人間の業を用いてでも神の業を起こしてくださる。 「主が招いてくださる者ならだれにでも」です。 そこに、神の民の群れは起こされたとルカは証言しているのです。 このペトロの言葉を受け入れバプテスマを受け、その日に三千人ほどは仲間に加わったと言います。 教会という群れは、人の業によってできあがったものではありません。 神のみ心があって、約束が語られ、聖霊が賜物として注がれ、人間の業が用いられ、救われるべくして集められた私たちによって造り上げられた存在なのです。 「聖霊が降る」とは、ルカも、ヨハネもその表現は異なりますが、復活されたイエスに出会う、神の約束の賜物が注がれる、私たち人間が応えていく、そこに神の業が起こされるということなのではないでしょうか。 その神の業の有様は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と言います。 そのために注がれる「聖霊」という賜物を求めて止まない、私たちの「祈り、信仰、礼拝、悔い改め、恵みの感謝」を指すのでしょう。

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「主の鍛錬が結ぶ実」 ヘブライ人への手紙12章1~13節 

2022-05-22

 時代背景には外からの脅威がありました。 ローマ皇帝による迫害、殉教の恐れです。 内からの脅威も多大なものがありました。 言われなき中傷や誹謗により耐えかねて信仰を捨てていく「背教」の恐れです。 この手紙の著者は、「イエス・キリストを見つめながら、忍耐強く走り抜こうではありませんか。」と人々を励ますのです。 「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。 そうでないと押し流されてしまいます。」と、「漂流」の危険性と恐れを語ります。 気がつかない間に少しずつ潮に押し流されていく、ずるずると引きずり込まれてしまう「漂流」には、しっかりとした「錨」を流れの底に降ろさねばならないと勧めるのです。 
 手紙の著者は、古い時代には神が預言者たちによって語られた。 しかし、新しい時代には神が御子イエスによって語られたと言います。 「神が語る」ということは、何も分かっていない私たちのために、神ご自身が強い意志をもって隠されていたものを明らかにしてくださったということです。 主導権は神にあります。 事を準備して起こすのは神の意志、私たちに対する神のご愛と憐みです。 それに私たちが応えて初めて事が始まるのです。 古い時代には、神の民であるなら当然そうなるであろうと記された律法によって、私たちの罪深さや妥協することのできない神の裁きを知らされたのです。 新しい時代には、イエス・キリストの十字架の神の裁きによって、神の恵みが注がれ、私たちの罪が赦されたことに気づかされたのです。 イエスご自身が、イエスの目撃者たちの証言が、神ご自身自らが、霊的な賜物によってずっと説明し続けておられるのです。 だから、手紙の著者は、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」と勧めるのです。 「ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍ばれたイエスのお姿を忘れないでほしい。 そのお姿は、すべての重荷や絡みつく罪から私たちを解放するためであった。 もともとあった神との交わり、約束されていた祝福と恵みを取り戻すためであった。 そのことを強く心に留めておかなければならない。 それとともに、父なる神のみ心を果たす為だけに自らを置かれたことにより、よみがえらされ、天に挙げられ、父なる神の右にお座りになったイエスのお姿をも心に留めておかなければならない。」と言うのです。 しかし、「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまでに抵抗したことはありません。」と言います。 イエスが人間として耐え忍んでいた戦いは、私たちが戦うようなものではなく、神の厳粛な裁きを受けるということ、神のもとから引き離そうとするこの世のものすごい力との血を流すまでの壮絶な戦いに耐え忍んでおられたということです。 そのお方が、繰り返し私たちの方を振り返り、とりなしてくださっているのです。 そこに慰めと励ましがあり、「もはやあなたがたは血を流すほどの苦しみは不要になった。 だから、そのお方を見つめて立ち上がりなさい」という慰めの響きに感じるのです。 最後に、「主の鍛錬を軽んじてはならない。」 それは、「わたしたちの益となるため、御自分の神聖にあずからせるため、義という平和に満ちた実を結ばせるため」と言います。 この「鍛錬」こそ、私たちを創り命を与えてくださった神を、信頼することができなくなるような所においてでも、気力を失い疲れ果ててしまうような所においてでも、開拓者として歩み通して神のみ心を果たし終え、まったく新しい命によみがえらされて、神のもとに迎えられたイエスを仰ぎながら歩んでいく、その歩みそのものを言うのではないでしょうか。 「信仰」はそのための走り抜く力です。 走り抜く希望です。 

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「エチオピアの高官のバプテスマ」 使徒言行録8章26~40節 

2022-05-15

 大きな成果を上げた最初の頃のキリスト者の群れの宣教の働きの中に、ルカは小さな福音宣教の出来事をわざわざ書き留めています。 「たったひとりにたったひとりが用いられて、神の福音のみ言葉が告げ知らされて、再びそれぞれのところに遣わされていく」小さな出来事です。 サマリアの地で思いがけず宣教の働きの大成功を収めたフィリポに、「主の天使」が、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け。」と命じるのです。 人々が温かく接してくれるサマリアの地を離れて、だれも通る人がいないような荒れ地を通って、破壊された廃墟の町に行けと命じられているのです。 フィリポは自分の思い描くものとは異なるものを神から迫られて、自分を振るい立たせ動き出さねばならない「神のみ言葉」を聞かされたのでした。 フィリポは何も言わず「すぐ出かけた」と言います。 そこで、エチオピアの女王の全財産の管理をしている一人の宦官に出会ったのです。 「宦官」とは、位の高い女性の貴族に仕える、男性としての機能を去勢され、専ら女性だけに仕える奴隷です。 家族や社会とのつながりをもつことも許されない存在です。 ユダヤ社会からみれば、遠い国の異邦人でありかつ宦官であったというだけで、受け入れられない存在でした。 その宦官が礼拝のためにエルサレムに来て国へ帰る途中であった。 馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していたと言います。 手に入れることのできないような馬車や預言書を手にしていたにも拘わらず、なぜこのような生涯を選んでしまったのかと自分の生涯に疑問をもっていた。 このような身分であったとしても神の救いがもたらされると、イザヤ書56章に書いてあることを見つけ出し、自分の救いを求めていたのでしょう。 エルサレムで礼拝をささげ、長い道のりをかけて帰って行こうとする時でさえ、救いの確信を得ようとイザヤ書を朗読していたのです。 その箇所こそ、イエス・キリストの十字架の預言でした。 神の声が再びフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と命じるのです。 すべて神の備え、神の業としか言いようがありません。 み言葉を伝える側が、伝えられる側に近づいて行って主にある交わりを築けと神は命じておられるのです。 そこから、フィリポと宦官との「読んでいることがお分かりになりますか。」、「どうぞ教えてください。」という対話が始まります。 フィリポは聖書の箇所から説き起こし、イエスについての福音を告げ知らせたと言います。 宦官は、「屠り場に引かれて行った羊、毛を刈る者の前で黙している小羊」の姿を、自分の残酷な運命に重ねて、「傷ものとされたこの私を助け出し、救い出してくださるお方は、一体だれなのですか」とフィリポに尋ねたのです。 宦官はフィリポの説き明かしにうなずいて、神と自分がイエス・キリストによって直接結ばれたことを悟って、バプテスマを求めたのでしょう。 福音の言葉を携える者のなすべきことは、「追いかけて、語りかけて、主にある交わりを築き、説き明かす」ことでした。 フィリポは、散らされて行ったサマリアにおいてでも、だれも行かないようなガザに向かう寂しい道にでも、神の霊に導かれるままに「立ち上がり、追いかけた」のです。 そこに、ひとりがひとりと出会い、奇跡が起こされたのです。 神のみ心のままに委ねてみる。 一歩、踏み出してみる。 そうすると、神のみ心を知るようになるし、味わうことにもなるのです。 水の中から新しくつくり変えられて出て来た二人は、それぞれの場所に遣わされて行ったのでした。 神は小さな存在を追いかけて、見つめて追いかけられておられるのです。 人間の計画や行動や手順などには無頓着です。 神はみ心のまま、自由自在です。 

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「イエスのバプテスマ」 マタイによる福音書3章13~17節

2022-05-08

 ここに出てくるバプテスマのヨハネが語る「バプテスマ」とは、どのようなものであったのでしょうか。 当時のユダヤ社会でも、水に入り罪を清めることは行われていたようです。 しかし、バプテスマのヨハネは、「毎日水に入り、汚れた罪のからだを清めようとしても、人間の中に入り込んでいる罪を洗い流すことはできない。 終わりの日の裁きの時が近づいている。 悔い改めよ。 天の国は近づいた。」と語り、人々に悔い改めを迫ったのです。 人々に罪の告白をさせ、ヨルダン川で一回限りの「バプテスマ」を授けていたのです。 そのヨハネのバプテスマを受けるために、「エルサレムとユダヤ全土から、ヨルダン川沿いの地方一帯から人々がヨハネのもとに来た。」と言うのです。 そのなかにエルサレム神殿を司るサドカイ派の人々や、律法の戒めを説き人々に聖書の教えを伝えるファリサイ派の人々が入って来ているのを見て、「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。 我々の父はアブラハムだなどと思ってもみるな。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と、誤って人々を導いているユダヤの指導者たちに激しく辛辣な口調で悔い改めを迫るのでした。 そして、「わたしは悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けているが、わたしの後からくる方は、わたしより優れておられる。 わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。 その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。」とも言うのでした。 「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところに来られた。」とあります。 なぜ神の子であり、ヨハネに告白すべき罪をもたないイエスがひざまずいて、ヨハネからバプテスマを受けなければならなかったのか疑問です。 この「来られた」という言葉が「補佐する、助けにくる」という意味合いがあるとするなら、突然、イエスがヨハネのもとに助けに来られたということになります。 そのヨハネは戸惑います。 「ヨハネは、それを思い留まらせようとした」と言います。 激しく悔い改めを迫ったその口調でイエスに向き合うことなどできるはずはありません。 「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのところに来られたのですか。」というのが精いっぱいの戸惑いの言葉であったのです。 その時のイエスの言葉が、「今は止めないでほしい。 正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」という言葉でした。 イエスが「このまま、バプテスマを受けさせてほしい」と言われているのです。 イエスはご自身の罪の告白も、罪の赦しの願いも一切語られていません。 むしろ、「私たちにとって、これが正しいことなのだ。 ふさわしいことなのだ」と言われているのです。 「これが神のみ心なのだ。 神のみ心が果たされることが正しいことなのだ。 ヨハネ、あなたが納得するかどうかは問題ではない。 あなたが願っていることが正しいことでもない。 あなたが手出しすることもできないことだ。」と言わんばかりです。 ヨハネは納得できないまま、「イエスの言われるとおりにした。」と言います。 自分の思い願う正しさを捨てて、謎を残したまま神に委ねる時に初めて「信じる」という出来事が起こされます。 信じて従う時に初めて、神のみ心の正しさを味わいます。 「わたしを水の中に沈めよ。 替わって受ける神の裁きによって、あなたがたはわたしに結ばれることになる。 わたしとともに自分の正しさを捨てて、委ねて生きていきなさい。」と、ご自身の十字架の死と復活の出来事を予見されたのではないでしょうか。 

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「主と同じ姿」 コリントの信徒への手紙二3章18節 

2022-05-01

 パウロは「肉に従って歩む者」と「霊に従って歩む者」がいると言います。 「肉に従って歩む者」とは、罪の中にある私たち人間の姿ということになるでしょう。 パウロは「罪の奴隷」とまで言っています。 「霊に従って歩む者」とは、神の息を吹き込まれて創られた天地創造の際の人間の姿ということになるでしょうか。 パウロは「神の子ども」とまで言っています。 「奴隷」と「子ども」の違いは、帰ってくるところがある、たとえ過ちを起こしたとしても赦される、捨て去られることがないということではないでしょうか。 パウロは、この「罪の奴隷」の姿と「神の子ども」の姿を自分自身の中に合わせ持つと嘆いています。 私たちの生涯を振り返ってみますと、「バプテスマ」を受けて信仰生活が始まりました。 パウロは、「わたしたちは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 バプテスマを受けてキリストに結ばれたわたしたちは皆、キリストを着ているからです。 ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。 わたしたちは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:26-28)と言います。 パウロが嘆いていたように相反する姿をもつ私たちであったとしても、それでも神の子であるという確信をパウロのようにもっているでしょうか。 バプテスマは、私たちの信仰生活の最終目標ではなく始まりです。 「神の子ども」は成長するのです。 パウロは、「わたしたちは皆、主と同じ姿に造りかえられていきます。」と言います。 自力で、神の前に正しい者とすることのできない私たちが、ただ信仰により、無条件の神の恵みにより、それでも神の子として生かされる者となっていきますと言うのです。 それも「皆」です。 例外なくです。 この恵みを信仰によって受け取っていく者にはすべて、「主イエスと同じ姿」に造りかえられていく。 それは、「キリスト・イエスを死者の中から復活させた方の霊の働きによる。」 私たちはその途上にある。 神のものとなるその救いの始まりにあると言うのです。 そして、「鏡のように主の栄光を映し出しながら、主と同じ姿に造りかえられていきます。」と言います。 神の栄光に直接触れることができるようになる。 そればかりか、この神の栄光を映し出す姿に変えられていくとまで言うのです。 パウロは、「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(フィリピ3:8)と告白します。 パウロの地上の生涯の最終到達地点は、「神の国を引き継ぐこと」、「神の国の命を得るための死者の中からの復活」でした。 キリスト・イエスの新しい霊なる体には、十字架上での釘や槍の傷跡があるはずです。 イエスと同じ体に造りかえられる私たちにも、キリストの姿が映し出されるはずです。 私たちの輝かしい姿にではなく、私たちの惨めな姿、欠けや貧しさや弱さや過ちのひとつひとつの傷跡に、キリストの恵みが注がれて映し出されていくのでしょう。 私たちの内に宿るキリストの霊によって、どうしようもない私たちが造りかえられて生かされるようになる。 曲りなりにもキリスト・イエスに従って行こうとする私たちに授けられた短い生涯に、神のみ心が果たされていくのでしょう。 これが、私たちの地上の生涯の最終ゴールではないでしょうか。 キリストはこのような私たちをも用いて、今もなおこの地上で働いておられるのです。 キリストに従う者によって、神のみ心がこの地上に果たされること、そのために神のみ言葉が語られ、聞かれること、これが私たちに託された務めではないでしょうか。 私たちに託された時には限りがあります。 その時を、神の栄光のために用いられていることに気づきましょう。

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「絶望の中で見出す希望」 ヨハネの黙示録12章7~12節

2022-04-24

 ヨハネの黙示録は不思議な書です。 人間に見えていないことを、幻や象徴や譬えなどを用いて解明しようとする黙示文学の形を取っています。 なかなか理解しがたい特異な文章となっていますが、書かれた時代背景など考えながら読み進めていくと見えてくるものがあります。 ローマ皇帝に対する礼拝の強制という厳しい抑圧の中で、身の危険や死の危険を感じながら生きて行かなければならない人たちに向けて、隠されている真実を「イエス・キリストの黙示」として明らかにしています。 筆舌に尽くしがたい迫害の中でも、勇気と希望を与えようとしています。 「天で戦いが起こった」、「ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだ」と言います。 「ミカエル」とは、イスラエルを守る天の使い、一方、「竜」とは「悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者」と言われています。 神と、神に敵対し人間を惑わす悪の霊との戦いが起こったということでしょう。 時代背景から、「竜」とはローマ皇帝であると容易に想像できます。 人間を惑わし、破綻させ、神のもとから離れさせようとする霊なる力に天は戦いを挑んだと言うのです。 その戦いの結末は、「竜とその使いたちは勝てなかった。 もはや天には彼らの居場所がなくなった。 竜とその使いたちは天から地上に投げ落とされた。 今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。 神のメシアの権威が現れた。 小羊の血と証しの言葉で打ち勝った。」と言うのです。 「小羊の血と証しの言葉」とは、イエス・キリストの十字架の死、十字架にまで従ったイエスのお姿とみ言葉を暗示します。 全人類を惑わす者は地上に投げ出された。 天ではもうすでに打ち破られて、その居場所さえなくなった。 彼らは、「残された時が少ないのを知って、怒りに燃えて地上に降って行った。」と言うのです。 イエス・キリストの十字架の死と復活によって、悪魔とかサタンとか呼ばれるものは敗れ去り、地上に投げ落とされた敗者に過ぎない。 勝敗の決した後の本当の「希望」、「復活することになっている希望」が、天では既に定められている。 彼らが投げ落とされた地上もまた、神ご自身が創造された世界である。 だから、地上で起こる目に見える一時の出来事に目を奪われることのないようにと「黙示録」は語っているのです。 キリストの復活がなければ、私たちの復活はないのです。 キリストは、私たちの「初穂」として、代表として「復活」してくださり、その「復活の希望」を保証してくださっているのです。 私たちの罪の赦しや平安や喜びに留まることなく、最後の敵である「死」を乗り越えて、神のもとに引き渡されたどり着く。 神のみ心の最終目的は、この地上のすべての権威や支配がキリストの足もとに降り、そのまま父なる神のもとに引き渡されるという壮大な救いの業なのです。 「終わりの日に現わされるように準備されている救い、もうすでに勝敗が決して定められている本当の希望を受けるために、神の力により信仰によって今の地上の世界、地上の時を私たちは守られている」と言うのです。 ですから、現状がどうであれ、「絶望」の中にでさえ「希望」があります。 何もなくても、何かを奪われても私たちは「豊か」です。 これらの「希望」も「豊かさ」も、私たちの信仰や努力のご褒美ではありません。 神ご自身のみ心の最終目的のためです。 神がすべてにおいてすべてになられるためです。 このような確かなことが、この世にあるでしょうか。 今の現実の姿から、その真の「希望」を見出そうとしても見出せないでしょう。 このお方の確かなみ心から眺め直すなら、すでに定められている、約束されている「希望」から、私たちの絶望に思える今現在を見つめ直すなら、新しい力、揺るがない希望が湧いてこないでしょうか。 私たちは目を上げて、天からくる助けを仰ぐのです。

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「眠りについた人たちの初穂」 コリントの信徒への手紙一15章20~28節 

2022-04-17

 「死」は必ず訪れます。 死んだらいったいどこにいくのか誰も分からいない。 答えられない「死」、到底受け入れることも理解することもできない「死」を、聖書は「復活」という出来事によって語ります。 「キリストの十字架と復活」は聖書の根幹です。 私たちが受け入れやすく、説明しやすく語ろうとするなら、神のみ心から離れてしまうでしょう。 パウロは、「キリストの十字架の福音を告げ知らされているにも関わらず、神のみ心を曲げて自分たちが受け入れやすく受け取っている」コリントの教会の人たちの姿に、「死者の復活などないと言っているのはどういうわけですか」と心配するのです。 イエスは明確に、「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 わたしの父の御心は、わたしを見て信じる者が皆、永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることである。」(ヨハネ6:38-40)と語っています。 パウロは、十二弟子のように直接イエスの復活の体を確かめたわけではないでしょう。 イエスの弟子たちを迫害するその途上で、復活されたイエスに呼びかけられたのです。 このお方に結ばれて新しく生かされ変えられていった実体験、復活の命に与かっている今現在の事実を、パウロは「復活されたイエスがわたしにも現れました。」と語るのです。 今まで何も見えていなかった古い自分が死んで、イエスから賜る新しい命に生かされているという喜びです。 もうすでに、聖書が語っている「来るべき世」の命に生かされている確信です。 「終わりの日」に「復活」という形で永遠の命が与えられると信じていたユダヤ人たちとは異なり、キリストの十字架の死と復活という歴史的事実によって、「終わりの日」に味わう神の国はもうすでに私たちのもとに訪れた。 この世に生きている間に現実体験が深くなり、将来の「復活」に与かる希望が益々確かなものとなったとパウロは語るのです。 この自身の信仰体験より、「聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のためにキリストが死んだ、三日目に復活し現れた、死者の中から復活し眠りについた人たちの初穂となられた」と短く二つの信仰を語るのです。 私たちの過ちの償いのため、私たちの罪の赦しと解放を語る「贖罪の信仰」です。 もうひとつは、私たちが死んで新しい命に生きるためにキリストが復活されたという「復活の信仰」です。 キリストが人間として死者の中から復活し、新しい時代の幕開けとなった。 神のもとを離れてしまった私たちが新しく生かされる道が開かれた。 キリストが神の子であるから復活したという、キリストだけに起こされた特別な出来事ではない。 キリストの「復活」こそが、今眠っているすべての人たちに起こる出来事となる。 そのことを「初穂となられました」と表現するのです。 キリストは後に続く私たちを予め代表する者となり、保証する者となった。 キリストの「復活」は、「終わりの日」の地上への到来であるとパウロは言うのです。 同時に、パウロはそれには順序があり、最初にキリスト、次にキリストに属する人たち、次に「世の終わり」がきて、すべてのものが神に引き渡され、すべての権威や勢力が支配されるようになり、最後の敵、「死」が支配される。 それは、「神がすべてにおいてすべてとなられるためです。」 それが「救い」の最終目的である。 キリストが「復活」していなければ、私たちの「復活」はない。 肉体の死を越えたところに、神の救いの最終目的がある。 それがすでに定められていると言うのです。

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「つまずきと愚かさを信じる」 ルカによる福音書23章32~43節 

2022-04-10

 イエスの十字架のもとには、様々な人々の姿が映し出されています。 祭司長、律法学者、長老というユダヤの指導者たちこそ、イエスを十字架につけた張本人です。 自分たちが築き上げてきたものすべてを壊しかねないイエスを抹殺するために、ローマ帝国の権威と権力を利用して用いた道具が「十字架」という刑罰でした。 彼らは、「自分を救うことのできない者が、どうして救い主と言えるか」とあざ笑ったのです。 「死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった」と判断しているのに、真実を曲げて自分の身を守るためだけにイエスを十字架刑に引き渡したローマ総督ピラト、ユダヤの領主ヘロデの姿が今朝の場面には隠れています。 この処刑の有様を「立って見つめていた」民衆の姿もあります。 イエスが自分たちが望む救い主であると期待し大歓迎した人々が、わずか一週間で「十字架につけよ」と叫んでいるのです。 直接イエスを十字架につけ、殺し、その死を確認する務めをもつローマ兵士たちの姿もあります。 彼らもまた、「お前がユダヤの王であるなら、自分を救ってみろ」と侮辱するのです。 そのようなイエスの姿をどうしようもなく諦めて、嘆き悲しんでいた婦人たちの姿も記されています。 「十字架刑」とは、人間の尊厳を徹底的におとしめる残酷な刑です。
 「イエスの十字架」の他に「二人の犯罪人」の十字架、合わせて三本の十字架が処刑場に立ったと言います。 イエスは、「預言されていることはわたしの身に必ず実現する」と公言し、自ら進んで「十字架」を目指してこられたのです。 直前のオリーブ山で、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。 けれども、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と、汗が血の滴るように地面に落ちるほどに祈ったと言います。 「二人の犯罪人」と同じように、もはややり直しがきかない、裁きの前に死を受け入れ、地上の命の終わりを遂げようとされているのです。 そのイエスがそのような極限の場所で、「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。」と、父なる神に過ちの赦しを祈る、とりなしの祈りをささげているのです。 自分の苦しみのためではなく、直接十字架につけたローマ兵だけでもなく、隣で十字架に架けられている「二人の犯罪人」も含めて過ちを繰り返すすべての人びとのためにイエスは祈っているのです。 このイエスのとりなしの祈りをすぐそばで聞いた「ひとりの犯罪人」が、この場に及んでもイエスを罵る「もうひとりの犯罪人」に言います。 「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。 しかし、この方は何も悪いことはしていない。」 なぜ、この犯罪人は、自分の過ちを心に刻むことができたのでしょうか。 ほどなく地上の命に終わりを告げようとする十字架の場で、「何をしているのか分からない」すべての人のために、地上の裁きでなく真の裁きを司るお方に、本当の裁きが及ばないようにと祈っているイエスの祈りを耳にしたのです。 真の裁きを執り行う存在を初めてそこで知った。 そのお方がおられるところに戻って行こうとされているイエスの確信の姿に出会ったのです。 この祈りこそ、自分のためにささげられていたことを知って驚いたのではないでしょうか。 その時の彼の語った言葉が、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」という精いっぱいの言葉でした。 それにイエスは、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と言われたのです。 地上の命を越えた「今日」、神が支配されている場で十字架のイエスと共にあると約束されたのです。 私たちの目には「つまずき、愚かさ」であるイエスの姿が、十字架の福音を信じる者には「神の力、神の知恵」となるのです。 これが地上の命の最後の場面で救われる者に与えられた祝福です。

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「無きに等しい者」 コリントの信徒への手紙1章26~31節 

2022-04-03

 コリントの教会の内部では、いくつかの群れに分かれるという騒動が起こっていました。 人間の社会では、主導権争いはよくあることです。 パウロはコリントの教会の状態を知って、「いったい、だれがわたしたちを救うために十字架につけられたのですか。 だれの名前によって、あなたがたはバプテスマを受けたのですか。」とはっきりと主張します。 教会はイエス・キリストのひとつのからだである。 自分たちのために十字架に架かって死んでくださったお方を語るべきである。 言葉の知恵によらないで、聖霊の力によって十字架の出来事を通して語る神の言葉を告げ知らせるために遣わされたのだと主張するのです。 このコリントの教会の群れの分派争いの原因を、パウロは「言葉の知恵、人間の誇り、この世の知恵」に置いています。  十字架に架けられたイエスの姿は、「人の知恵、この世の知恵」からすれば、愚かで、弱々しい、余りにも低く見えてしまう、理解不能の姿にしか映らないでしょう。 しかし、パウロは「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。」と言うのです。 「召される」という言葉は、「呼ばれる、引き寄せられる、集められる、遣わされる、再び神のもとへ戻って行く」という意味合いに用いられています。 「召される」のは神です。 神に造られた私たちは、この神の呼びかけに応えなければなりません。 「神に呼ばれたのはだれであったのですか。 人間的に見て知恵のある者、能力のある者、地位のある者、家柄のよい者が多かったわけではありません。 むしろ、無学な者、無力な者、世の無に等しい者、身分の低い者、見下げられている者であったではありませんか。 それには理由がある。 誰一人として、人間が神の前で誇ることがないようにするためです。 ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、神に召された者には、神の力、神の知恵である十字架につけられたイエス・キリストを宣べ伝えるためです。」とパウロは言うのです。 この「無きに等しい者」でなければ、「十字架の出来事に示されている神の言葉」を宣べ伝えることはできない。 自分の誉れ、自分の誇りにまみれた者であるなら、この世の知恵では悟ることのできないイエス・キリストの十字架と復活に示されている「神の力、神の知恵」を宣べ伝えることはできない。 正に、イエス・キリストの生き様に凝縮されているように、この世の知恵で「愚かな者として、無力な者として、取るに足りない者」として、父なる神に従わなければ「神の力、神の知恵」に生きていくことができない。 そのために、神は私たちを選んで、呼びかけて、召してくださっているのです。 神に召された者とは、神に選ばれた結果としか言いようがありません。 私たちの立派さ、努力、信仰、熱意とか、私たちの側に何らの根拠があるものではありません。 人間の側の一切の「誇り」を否定するものです。 「誇る者は、主イエス・キリストだけを誇れ」と、パウロは(エレミヤ9:23)を引用して語ります。 「神の力、神の知恵であるキリスト・イエスに結ばれる。 このキリストが私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた。 私たちはそれを受け取るだけである。」と言うのです。 「神の知恵」とは、人間に隠されている神のみ心です。 「義と聖」とは、神によしと肯定されるということでしょう。 パウロは、「神は罪と何のかかわりもない方を、わたしたちのために罪となさいました。 わたしたちはその方によって、神の義を得ることができたのです。」と言います。 「贖い」とは、「奴隷を自由の身にするために代償を払う」ということです。 この身代金こそ、十字架のうえで引き裂かれたイエスのからだ、流されたイエスの血です。 神ご自身が最も愚かな姿、低くされた姿、弱くされた姿をとって現れてくださったのです。

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「天に記されているわたしの名」 ルカによる福音書10章17~20節 

2022-03-27

 イエスが12人の使徒たちを遣わされた出来事は、マタイ、マルコ、ルカによる福音書に記されていますが、72人の弟子たちを遣わされた出来事が記されているのはこのルカによる福音書だけです。 12という数字は、イスラエルの部族の数でしょう。 72という数字は、世界を表していると言われています。 ルカは12人を遣わす時に「『イエス』は十二人を呼び集め、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わされた」と言いますが、72人を遣わす時には、「『主』はほかに72人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」とあります。 『復活されたイエス』が72人を全世界に向けて遣わしたのだとルカは語るのです。 この時イエスは、「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」と言われるぐらい、周囲には激しい抵抗や迫害があったのです。 イエスはそのことを承知のうえで、「悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能」を弟子たちに授けたと言います。 「悪霊」とは、神のもとから人々を引き離そうとするすべての力です。 『復活されたイエス』は、この霊との戦いにすでに打ち勝っている。 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。 あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者である。 あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。 わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」と言われているのです。 ところが、イエスの心配をよそに、72人の弟子たちは喜んでイエスのもとに戻って来た。 「主よ、あなたのお名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」と、意気揚々と喜んでいるのです。 イエスは、弟子たちがおこなったことを喜んでおられるのではありません。 イエスご自身の権威と権能を弟子たちに授け、遣わすことによってご自身が働いておられるのです。 弟子たちを通してご自身の名によって神ご自身がなされたこと、神ご自身のみ心が愛する弟子たちによって果たされたことを喜んでおられるのです。 イエスは、「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。 むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と言われます。 旧約聖書の中にも、神ご自身が書き記している「命の書」がある。 それに、あなたがたは登録されている、書き記されていると言うのです。 「あなたがたは、わたしによって遣わされて、わたしの権威と権能を授かった。 それが、もうすでに神の名簿に登録されたことである。 ゆえに、一つ一つの祝福の結果、見える恵みの出来事を喜ぶのではなく、もうすでに神の民とされている事実、そのような神の恵みの場に置かれていることに、あなたがたはむしろ喜びなさい。」と言われるのです。 「わたしたちの名前」とは、自分が自分であることを赦されていることです。 神ご自身が、ひとりの人格としてこの地上の命を与え、又とない唯一の存在として明示されている事実です。 何かいいことをしたら、神に認められたら「天に書き記される」と言っているのでしょうか。 神の御前においては、良いところも悪いところも、貧しさも豊かさも、プラスもマイナスも丸裸です。 隠しようがありません。 すべてが刻み込まれた「わたしたちの名前」です。 ペトロも、ユダも、トマスも皆同じ揺れ動く存在で、神のみ前では大差ありません。 神は何らの条件も付けず、そのままで受け入れ、赦してくださっているのです。 私たちはそのありのままの姿を差し出して、神の恵みによりまったく条件が付けられていないそのところで生かされていること、これが信仰者の歩みなのではないでしょうか。 神の国と同じように、そのままの名前を名乗り合うことができる世界が、この地上に訪れたとイエスは語るのです。 

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