秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「ガリラヤ湖畔の野原での祝福」 ヨハネによる福音書6章1~13節 

2021-04-25

 有名な「五千人に食べ物を与える」という、すべての福音書に記されている聖書箇所です。 よほど、弟子たちの心に刻まれた出来事であったのでしょう。 その場所は、イエスがガリラヤ湖畔の山に登り、弟子たちとともにお座りになった、草がたくさん生えていた野原であったと言います。 のどかな風景が目に浮かびます。 イエスを仰いで、弟子たちが、群衆がそこで安らぎをもってイエスの言葉に耳を傾けていたのでしょう。 大勢の群衆が自分たちの方へ近づいてくるのをイエスはご覧になって、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われた。 イエスはこれからなさろうとしていることを分かっておられて、弟子のフィリポを試されたと言います。 その群衆の数は、男たちだけで五千人であったと言いますから、フィリポは常識通り、「めいめいが少しずつ食べるだけでも相当なパンが必要です。 この数の人を養うだけのパンはありません。」と答えるのが精いっぱいであったでしょう。 弟子のアンデレが思わず、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。 けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」と叫びます。 大麦のパンとは、粗末な食べ物のしるしでしょう。 五つのパンと二匹の魚も、少ない数のしるしでしょう。 少年という姿もまた、小さな存在ということでしょう。 しかし、イエスはそのパンを座っている群衆に分け与え、魚も同じように欲しいだけ分け与えられた。 そして、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われたと言います。 そこで考えられないことが起きたのです。 群衆は満腹となった。 食べ残ったパンの屑を集めると、十二のかごがいっぱいになったと言います。 群衆は、イエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言ったと記されています。
 この出来事が記された中に、ふたつの文章が心に残ります。 ひとつは、「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいた」という文章と、「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから」という文章です。 この出来事とエルサレムで国を挙げて執り行われる過越祭とどのような関係があるのだろうか。 また、私たちが主の晩餐の際に行われているようなイエスの振る舞いが、なぜここに記されているのでしょうか。 神はモーセに、エジプト全土にひとつの災いをくだし滅ぼすと言われました。 エジプトにあるものすべてを区別なく撃つと言われました。 そうならないように、神はモーセにイスラエルの人々の家の柱と鴨居に小羊の血を塗るようにと言われました。 イスラエルの家に塗られた血がしるしとなって、この災いがその家を過越し、及ばないと約束されたのです。 神がすべてのものを滅ぼそうとされたが、そうならないようにと柱と鴨居に小羊の血を塗って「辛うじて救い出された」喜びを記念して、エルサレムで人々が祝っているのが過越祭です。 群衆は、イエスのしるしを見たからこの野原に近づいてきたのです。 その群衆を前にして、今、エルサレムの立派な神殿、整備された儀式もないけれども、このガリラヤ湖畔ののどかな野原で大勢の群衆に囲まれて、イエスはこの過越の祭りをともに祝うことを喜びとされたのではないでしょうか。 本来滅ぼされても仕方のない私たちが、イエスの贖いの十字架の血によって神の災いがここにいる群衆の上にも通り過ごされていくことを、「感謝の祈りを唱え」喜びをともにされたのではないでしょうか。 何もない、エルサレムから遠く離れたこの「草がたくさん生えていた野原」で、何千年も前の出来事と同じように、今、ここに訪れようとしているこの喜びをイエスは噛みしめておられるのではないでしょうか。 私たちもまた、イエスに出会って、そのご愛に触れて、赦されることのない過ちが赦されて、そのご愛に満たされる神の国の一員であるのです。

[fblikesend]

「神の愛に気づきなさい」 ルカによる福音書10章25~37節 

2021-04-18

 「律法の専門家」が立ち上がり、イエスを試そうとしたと言います。 「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」 イエスに挑んだ「律法の専門家」が逆に、「律法に何と書いてあるか」と問い返されます。 仕方なく答えざるを得なくなった「律法の専門家」は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。 また、隣人を自分のように愛しなさい。」と律法に書いてあると胸を張ります。 イエスは同時に、「あなたはそれをどう読んでいるか」と尋ねているのです。 「あなたはそれを読んで、どう分かって、その戒めに沿ってどのように生きているのか」とその生き方に目を向けさせます。 「律法の専門家」は、自分の生き方から目をそらし、解釈の問題として「では、わたしの隣人とはだれですか」と尋ね返すのです。 その時にイエスが、この「善いサマリア人」の譬えを語られたのです。 
 私たちは、だれかを愛そうと決意して愛していこうとしても難しい。 頑張ってみても長続きしないこともよく分かっています。 「愛」は、私たちの意志によってコントロールできるものではありません。 聖書には、私たちが持ち合わせている「愛」のほかに、相手本位としか言いようのない、無条件の「愛」が区別された言葉で用いられています。 それが、神によってしか与えられない「神の愛」です。 この愛に満たされるなら、私たちの愛の貧しさをとことん知らされます。 自分が決意して築き上げるようなものではないことを知らされます。 自分の中にないこの愛に触れるなら、私たちは驚きと喜びと感謝に満たされます。 マザーテレサがこの神の愛をこう語っています。 「神は愛であり、愛は神から来るのですから、愛には限界がありません。 ですから、神の愛のうちに本当に身を置きさえすれば、神の愛に尽きることはありません。 肝心なのは愛することです。 傷つくまで与え尽くすことです。 どれだけのことをしたかではなく、あなたの行いに神から与えられた愛を込めたかなのです。」と言っています。 「傷つくまで」とは、その相手の人の痛みや悲しみや苦しみを自分のものとするということでしょう。 この「譬え」に出てくるサマリア人は、「その人を憐れに思い」と記されています。 この言葉が、同情するとか、かわいそうだと思ったとかを遥かに超えて、「はらわたがちぎれるほどの痛み、苦しみ」を受け止めたということです。 イエスが私たちの痛みや苦しみや悲しみをご自分のものとされた時に用いられた言葉です。 当時はユダヤ人とサマリア人は犬猿の仲でした。 決して互いに交わることなどない関係でした。 だれしも、「道の向こう側を通り過ごしていく」のが、当たり前のところで、「追いはぎに襲われた人」が思いがけない人の助けを得た。 考えてもみなかった人から助けられた。 社会的な慣習には縛られない「憐れに思った」相手本位の無条件の憐れみが、そのサマリア人の原動力でした。 イエスは「善いサマリア人」の譬えで、無条件の、恵みとしか言いようのない父なる神の愛が、だれも見向きもしないところに働いたと言っているのです。 その神の愛に満たされたのなら、「行って、あなたも同じようにその愛を注ぎなさい」と送り出しておられるのです。 イエスを試そうとした「律法の専門家」に、戒めに記されている「愛しなさい」という定めを自分の愛によって満たそうとしている「律法の専門家」に、神の愛に触れてみなさい。 自分で築き上げる「愛」の貧しさに気づきなさい。 私たちの痛みや苦しみや悲しみを自分のものとして受け取ってくださる神の愛に触れるなら、自分もまた神の愛に触れるために、「隣人」の痛みや苦しみや悲しみもまた、神の愛が注がれるものしてと受け止められるはずである。 神の愛を祈り求めるよう、送り出してくださっているのです。

[fblikesend]

「イエスの復活を信じるトマス」 ヨハネによる福音書20章24~29節 

2021-04-11

 トマスは、疑り深い弟子の代表として描かれています。 死んだはずのイエスがよみがえったなど、見ていないので信じることができなかったトマスは「イエスの手に釘の跡を見、この指をその釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と仲間の弟子たちに訴えた人物です。 最初のイースターの日の夕方のことです。 仲間の弟子たちがユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて閉じこもっていたところへ、十字架に架けられて死んだはずのイエスが現れたと言います。 入り込む余地のない所に、死んだはずのイエスが現れた。 自分たちの目で墓の中に、イエスの遺体がないことを目の当たりにしても、またマリアの「わたしは主を見ました。」という証言を耳にしても、イエスが生きていると信じることのできなかった弟子たちの真ん中に、イエスは立たれた。 そして、「あなたがたに平和があるように」と言われ、傷跡の残る手とわき腹をお見せになったと言います。 「あなたがたに平和があるように」とは、争いがなくなるようにというようなことではありません。 父なる神との正しい関係が、交わりが取り戻されるようにということです。 忘れてしまっていた神との交わり、そのような交わりがあることさえ知らなかった者に神との交わりが回復されるようにということです。 
これが最初のイースターの夕方の光景です。 トマスは、そこにはいなかったのです。 よみがえられたイエスを目の当たりにした仲間の弟子たちは「主を見て喜んだ」のです。 思いもかけない驚きと喜びに満たされて、興奮して、「わたしたちは主を見た。」と証ししたのです。 イエスが「わたしは必ず復活することになる」と言われていたことを思い起こして、元気と希望を取り戻したのです。 それらの様変わりした仲間の弟子たちの姿を見たトマスは、自分だけが出会っていない。 見ていない。 信じ切ることのできない自分の姿を見つめさせられていたのではないでしょうか。 その思いの凝縮したトマスの言葉が、「イエスの手に釘の跡を見、この指をその釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」という叫びになったのではないか。 この言葉の響きには、なぜ自分だけが取り残されているのか。 その理由が分からない、群れの中に居場所がないというトマスの痛みと悲しみを憶えます。 その一週間後です。 イースターの日と同じように、トマスのために最初の時と同じようにイエスが現れ、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。 また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」と呼びかけてくださったのです。 トマスは、イエスの手とわき腹に傷跡があることを確認したかったのではありません。 他の弟子たちと同じように、自分をお忘れになってはおられなかったことを確認したかったのです。 この群れの仲間と同じように、自分もまた愛されている、この群れの中にいることを赦されている、イエスに捉えられていることを確認することができたのです。 そこで発せられたトマスの「わたしの主、わたしの神」という告白が、トマスの口からほとばしり出たのです。 「あなたはわたしと同じ人間としての苦しみを味わってくださった主であった。 そして、霊なる命に生きる神なるお方となってくださった。 人間の肉体をもって味わってくださったイエスが、目の前におられる復活されたイエス・キリストとなってくださったという、精いっぱいのトマスの告白です。 イエスは「指を入れてみなければ、手を入れてみなければ信じない」と言っていたトマスのこの告白を聞いて、「見ないで信じる人は、幸いである」と、変えられたトマスを最大限祝福されたのではないでしょうか。 

[fblikesend]

「わたしたちの救い主」 イザヤ書53章1~12節 

2021-03-28

 イザヤ書53章は、「苦難の僕」という歌、詩です。 バビロンにイスラエルの人々が捕らえられていた時期に活動した無名の預言者、第二イザヤが記したものです。 バビロンに囚われている時期のイスラエルの民が味わっているこの苦難は、いったいどこからきているのか。 それは神の罰である、神の教えであると、イスラエルの人々は思っていた。 異国の王、ペルシャ王キュロスの手によってバビロンが崩壊して、自分たちが解放されることになったことにより、キュロス王こそ自分たちを解放してくれる救い主だと思った時期があった。 しかし、この政治的、軍事的なメシアが自分たちを救ってくれるという希望が、不毛な戦いとその悲惨な結果によって諦めと絶望に襲われていた時です。 なぜ神に愛され、選び出された自分たちが、このような苦難に遭わなければならないのかと苦しんでいた時です。 この苦難の意味が、第二イザヤによって示されたのです。 自分たちが味わっている苦難こそ、これから訪れようとする神の恵みの世界を現れ出すものである。 無力で、貧しく、虐げられている自分たちの無言の忍耐と犠牲によって、神の憐れみの世界、恵みの世界がつくり上げられていくという贖罪の苦難がここにはあると四回にもわたって繰り返し、「苦難の僕」という姿を通して預言したのです。 
このみ言葉を鋭く目に留めて、地上での生き方を定めたお方が救い主イエス・キリストです。 イエスは、「わたしは、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。 異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうではない。 あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕となりなさい。」(マルコ10:42-45)と言われました。 私たちは少しでも高く見られたい。 人の評価に振り回され、神経をすり減らす者です。 あくまでも自分が主人で、神でさえも自分の奴隷として利用しようとまでするのです。 しかし、イエスはこの「苦難の僕」のみ言葉に聴いて、父なる神のみ心を見て取ったのです。 私たちの病い、痛み、背き、咎のために、これからご自身が受ける傷、軽蔑、侮辱、見捨てられること、葬り去られることによって、人々に「平和が与えられる」 「人々が癒される」ことを読み取ったのです。 聖書の言う「平和」とは、争いが起きていないとか、平和宣言がなされているとか、武器がなくなるとかということではありません。 「平和が与えられる」とは、神との正しい関係、交わりが取り戻されるということです。 神との和解ということです。 忘れてしまっていた神との交わり、そのような交わりがあることさえ知らなかった者に神との交わりが回復されるということです。 「わたしは、すべての人の僕となるために、神とすべての人との和解のために遣わされた。 多くの人々が、神の赦しがあることを知るため、そして、赦されることによって命そのものが癒され、神のもとに取り戻されるために遣わされた。」と言われたのです。 最後の晩餐でご自身がパンを裂いて杯を配られたのも、五千人にパンと魚を配られたのも、ご自身のからだをささげてこの世に「イエス・キリストによって結ばれたひとつのからだ」をつくり上げるためであったのです。 私たちは、このお方を救い主として何の資格もなくいただいた者です。 このお方が私たちと一緒にいてくださる。 わたしたちの僕となって仕えて、とりなしてくださっている。 そのためにご自身の命をささげたと言われているのです。 イースターを迎え、ご自身の十字架を背負って歩まれ、「復活の道」を切り開いてくださった主イエスをしっかりと仰いで参りたいと思います。

[fblikesend]

「イエスとのかかわり」 ヨハネによる福音書13章1~11節 

2021-03-21

 イエスはついに、「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟られた」とあります。 「父なる神がすべて御自分の手にゆだねられたこと」、「御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていること」を、この時イエスは悟ったと言います。 本来、神のものであったイエスがもとのところへ帰ると言うのですから、喜びであるはずです。 しかし、イエスは、父のもとへ帰る喜びよりも「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と言うのです。 そのイエスの愛が注がれた「世にいる弟子たち」こそ、イエスの思いとは裏腹に、「だれが一番偉いのか」、「これからだれが、イエスの右と左に座るのか」、それを競い合う情けない弟子たちです。 そこには、銀貨30枚でイエスを裏切る段取りを終えたユダがいます。 「あなたのためなら、命を捨てます」とまで言い切って、その言葉を反故にしたシモン・ペトロがいます。 イエスを信じ切ることのできなかったトマスもいます。 イエスに要求し、イエスを従わせようとまでしたフィリポもいます。 それぞれです。 最後までイエスに従った弟子はひとりもいません。 十字架をイエスと共にしたのは、弟子たちではなかったのです。 これが「世にいる弟子たち」、私たちの姿です。 その時のイエスの振る舞いが、「食卓の席から立ち上がった。 上着を脱いだ。 たらいに水をくんで、弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで拭いた。」姿であったと言います。 「足を洗う」とは、ユダヤ社会では召使いの仕事、目下の人が目上の人に行う振る舞いでした。 ですからペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と思わず尋ねてしまったのです。 そして、「わたしの足など、決して洗わないでください」と、むしろ自分が洗うべき逆であると思って叫んだのです。 それに対するイエスの言葉が、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で分かるようになる。 もし、わたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」という言葉であったのです。 
 「愛して、この上なく愛し抜かれた」弟子たちに、どこまでもかかわろうとするイエスの姿です。 何も分かっていないペトロも、疑うトマスも、自分に縛られているフィリポも、裏切る決意をしていたユダも、だれひとりイエスは切り捨ててはおられないのです。 今、イエスの最後の晩餐に与っている弟子たちこそ、イエスに従ってきた罪人の集まりです。 「もし、わたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われた人々の集まりです。 これが教会という群れの始まりです。 かかわりをもとうとしてくださるイエスの憐れみによって、ひとつのものとされた集まりなのです。 そそっかしいペトロはイエスの言葉尻だけを捉えて、「主よ、足だけでなく手も頭も洗ってください」と答えたと言います。 イエスは、「すでに体を洗った者は、全身清いのだから、足だけを洗えばよい。」と言われました。 イエスは予てより、「だれでも水と霊によらなければ、神の国に入ることはできない。 人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と断言しています。 「イエスが主である」と公に言い表し、古い自分に死んで、新しい命に生かされる出発を水によるバプテスマによってした者は、もうすでに神のものにされている、「清い」と言われているのです。 イエスはそのうえで、「足を洗う」というイエスがかかわってくださる霊のバプテスマによって、今のそのままのあなたに十字架の贖いが全身に成し遂げられる。 神の子となるためには、わたしがかかわり伴なって歩むようにならなければならないと、「足を洗う」姿を通して語られたのです。 足を洗い終えたイエスが、「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、互いに洗い合いなさい。」と言われたのです。

[fblikesend]

「わたしに従いなさい」 ルカによる福音書9章18~27節 

2021-03-14

 「ほかの町にも、神の国の福音を告げ知らせなければならない。 わたしはそのために遣わされたのだ。」とイエスは言われ、町や村を巡り歩き、人々の生活の隅々にまで出向いて行かれました。 そこで人々と同じように喜びや悲しみを共にされて、み言葉を語り、奇跡の業を示しながらずっと考えておられました。 「そばに来ていた12人の弟子たち」に、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と質問されたのです。 群衆は過去に目にした歴史の中で知っている偉大な人物であると言っていると答えた弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とイエスは更に尋ねたのです。 この答えを、今、自分の言葉として私たちは持っているでしょうか。 12人の弟子を代表してペトロが、「イエス、あなたは神から遣わされた、神に等しい救い主、メシアです」と答えたと言います。 最初のキリスト者の信仰告白であったかもしれません。 旧約聖書が、「一つの出来事が起こされる。 それは、人が詳しく説明しても到底信じることができない出来事である」と預言しているように、神は過去の延長線上にない、全く新しい出来事を起こされる。 神のもとを離れてしまった私たちを赦して、救い出して、ご愛のゆえに取り戻すという救いの出来事を起こされる。 イエスをその救い主として遣わして、「十字架の死」という贖いの業を通して、赦して、その結果、「復活」という信じることができない出来事によって「救い」の業を起こされると言うのです。 イエスこそ、この神のみ心に従って、人間という私たちと同じ肉体の制約を背負わされて地上の生涯を送られていたのです。 父なる神はどうしても、十字架に向けてエルサレムに行けと言われる。 イエスは、「父よ、み心ならこの杯をわたしから取りのけてください」と迷いながらも、「しかし、わたしの願いではなく、み心のままに行ってください」と祈っておられたのです。 今、エルサレムに赴けば何が起こるのか、イエスには容易に予測がついた。 しかし、このペトロの答えがどれほどイエスを勇気づけたことかと思わされます。 「十字架」これ以外に、神のもとを離れてしまった人間を神のもとへ取り戻す「救い」は他にない。 ご自身がこれから辿って行く道を通ってしか、神の「赦し」への道はない。 神のもとへたどり着く道は他にないと、イエスはこの時確信したのではないでしょうか。 聖書の言うメシア、救い主とは、「僕の形をとって、人間となってこの世にくる。 人の罪を背負って、その罪の身代わりに死ぬ。」と言うのです。 ですからイエスは、「必ず、苦しみを受け、殺され、復活することになっている」と言うのです。 救い主であるなら、必ずそうなる。 それが神のみ心であると言われているのです。 イエスはメシアの受難と復活を語り終え、「わたしについて来たいと思う者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言います。 父なる神のもとへ戻るためには、神の赦しを得るためには、「必ず、わたしがエルサレムに行って、侮辱されて、痛みを受けて、傷跡を残して、すべてのもの、命まで奪われることになっている。 神の赦しにより、恵みにより、新しく生まれ変わることになっている。 これが『救い』に至る唯一の道である。 あなたがた弟子は、このわたしの後について来なさい。 わたしがすでに十字架を背負って歩いたその道を、あなたがたは辿って従って来なさい。」と言われているのです。 イエスがすでに味わってくださった道です。 ひとりではないのです。 私たちは自分勝手、自分中心です。 イエスはその「自分」を捨てて、「わたし」に従いなさいと言われているのです。 「自分」から「イエス」へと生き方の根底を変えるように、「わたしの後を追ってついて来なさい。 わたしに信頼して従いなさい」と言われているのです。

[fblikesend]

「侮辱されたイエスの神への信頼」 マルコによる福音書15章16~20節

2021-03-07

 イエスは夜中に捕らえられ、裁判を受け、ローマ総督ピラトのもとに残酷な十字架刑に処せられるために引き渡されています。 その時、ユダヤの祭司長、長老、律法学者たちは、「イエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、言い当ててみろ」とイエスを侮辱したと言います。 その下役たちからも、「イエスは平手打ちを打たれた。 その間、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった」とあります。 イエスを祭司長たちが引き渡したのはねたみのためだと分かっていたピラトですが、群衆を満足させようと事実を捻じ曲げて、イエスを鞭打ってから十字架につけるためにローマ兵士たちに引き渡したのが今朝の聖書箇所です。 兵士たちは、自分たちが着用していた服をもって王様の服に見立て、茨を編んで王様の冠に見立てイエスを茶化すのです。 繰り返し葦の棒でイエスの頭を叩き、唾を吐きかけたと言います。 イエスはさんざん侮辱された後、処刑場まで人々に晒されて歩かされます。 通りがかった人々からも、「十字架から降りて自分を救ってみろ」と言われ、一緒に十字架につけられた者からも、「今すぐ十字架から降りるがよい。 それを見たら、信じてやろう。」と罵られたと言います。 背中には鞭で打たれた傷跡が刻まれ、手首、足首には釘の跡が残され、愛する弟子たちからも見放され孤独となったのです。 しかし、ただひとりイエスの処刑を見届ける務めを与えられていたローマの百人隊長だけが、イエスが息を引き取るまでの一部始終を見届け、「本当に、この人は神の子であった」と告白したと言います。
 イエスはあらゆる人から愚弄され、人が拠り所とするものすべてが奪われたのです。 孤独となり社会的な存在としての命も、ついには裸にされ人としての命まで奪われてしまったのです。 それでもなすがままにご自身の身を任せられたのはなぜでしょうか。 確かにイエスは父なる神のみ心とは言え、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と洩らし、恐れ悶えておられました。 一方で、「時が来た。 罪人たちの手に引き渡される。 立て、行こう。」と覚悟もしておられました。 神のみ心が先ずあって、それにイエスが従ったとしか言いようがありません。 そうでなければ、十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言わないでしょう。 すべてが分かったわけではなかったかもしれないが、生身の人間として父なる神のみ心に祈りのうちに従ったのです。 ただ沈黙のうちに人のなすがままにさせ、すべてを失ったが、唯一、父なる神への信頼だけは奪われず、自ら進んでご自身の身を投げ出して父なる神のみ心に委ねたのです。 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。 人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-7) 絶え間ない「祈り」によって、み声に聴き続けていたことによって、イエスが父なる神との生きたつながりを保っていたからでしょう。 沈黙のまま、唯一「神への信頼」だけを拠り所として生きる人間の姿が、人間のどん底とも言える所で示されているのです。 イエスには、ご自身の正当性を主張する人間としての誇りや自尊心といったようなものを守ろうとする動きが一切ないのです。 神への信頼をもつことができるなら、これほどの平安、喜びはありません。 人間の間でも本当に人を信じ信頼することができるのなら、これほどの幸い、喜びはありません。 信じることは「力」です。 「喜び」です。 信じることができないから、私たちは悩み、思い煩うのです。 最もふさわしいことをしてくださると神を信頼することができるなら、何も怖れるものがなくなるのです。

[fblikesend]

「燃えて輝くともし火」 ヨハネによる福音書5章31~44節

2021-02-28

 イエスは、「父なる神はご自身の子を愛して、ご自分がなさることをすべて子に示される。 だから、わたしは父なる神からのご愛を知っている。 父なる神のなさる働きをすべて知っている。」とご自身が神の子であることを語り続けます。 神を自分の父と呼び、自分を神と等しい者とする神を暴騰する者であるとイエスを非難するユダヤ人たちに対して、「父なる神がもっておられる命を、このわたしの内にもその命をもつようにしてくださった。 人間がこのことを証しすることはできない。 そのことを証しするものが三つある。」と言われるのです 「ひとつは父なる神自身である。 そして、父なる神がわたしに成し遂げるようにとお与えになった業が、わたしを証しする。 そして、聖書の中に記されている父なる神のみ言葉がわたしを証しする。 この三つが、このわたしが人間でありながら神がもっておられる命をもつことができるようになったこと、神からのご愛や神のみ心を知ることができるようになったこと、父なる神の国で成し遂げられる業がこの世においても成し遂げられるようにされたことを証しするのである。 わたしは父なる神のお声を聞いている。 父から注がれるご愛を受けている。 だから、この父なる神のみ心をこの世において実現するために従うのみである。 父なる神は今もなお働いておられる。 だから、わたしも安息日においてでも働くのだ。」と言われるのです。 「わたし自身は肉体の制限をもつ人間であるから、自分自身のことを証しすることはできない。 もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。 そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、悟るだろう。」(10:37-38)とまで言われるのです。 これからイエスご自身が成し遂げられようとされている十字架の業、神のご愛とご真実の結晶の働きを信じなさい。 そうすれば、神とともにあるこのわたしを知ることになるだろう。 この世の命から新しく生まれ変わって神がもっておられる命を内に宿して、神の国に生きる者となる。 聖書の中にある永遠の命に至る道は、このわたしによって示されている。 そのために、この世で非難があろうと、迫害があろうと、処刑があろうと、「人からの誉れは受けない。 唯一の神からの誉れを求める。」と言われたのです。
 イエスはご自身の働きを語るのに、バプテスマのヨハネの働きを引き合いに出しています。 ヨハネの描くメシア像とイエスの姿にはギャップがありました。 神の国の認識にもイエスとの違いもありました。 十字架に象徴される「神の赦しの恵み」がヨハネには未だ見えおらず、「来るべきお方はあなたでしょうか」と尋ねたと言います。 しかし、イエスはこのバプテスマのヨハネを、「ヨハネより偉大な者はいない。 イエスご自身の歩むべき道を備えた預言者以上の者である。 神の国の訪れ直前に最後の準備をした預言者である。」と評価し、「燃えて輝くともし火」と言います。 周りの人々はその「ともし火」のもとでしばらくの間、喜び楽しむことができたと言うのです。 ヨハネの「ともし火」は限界のある、消えてなくなるようなたかが知れている「ともし火」であったかもしれない。 しかし、イエスは「このわたしに繋がる道備えをするために、精いっぱい命を燃やして、しばしの間輝いた、燃えて輝くともし火である。」とイエスは評価されたのです。 イエスの十字架によって与えられた罪の赦しを感謝して受け取って、「神の国」に新しい命に生きる者として歩むべき道の備えをしたヨハネを、イエスは「燃えて輝くともし火」と賞賛されたのです。 私たちもまた、「精いっぱい与えられたところで燃えて輝くともし火」として、主イエスに喜んで迎えられることを期待しましょう。

[fblikesend]

「神を信じなさい 祈り求めなさい」 マルコによる福音書11章12~25節 

2021-02-21

 主イエスはエルサレムの都に近づいた時、「もしこの日に、このエルサレムが神の平和への道をわきまえていたなら・・・今は、エルサレムにそれが見えていない。 神の訪れてくださる時をわきまえなかったから、やがて崩されてしまうだろう。」と嘆き、泣いたと言います。 この嘆きと憐れみをもって、イエスは思い違いをしているエルサレムの群衆の歓呼のなか都に入って行かれたのです。 空腹を覚えられたイエスが、遠くから葉の茂ったいちじくの木をご覧になり、その木に実がなってはいないかと近寄って行かれたと言います。 しかし、時期はいちじくの木に実がなる時期ではなかったので、そのいちじくの木に葉のほかは何もなかったのです。 そのことを確かめたイエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と、呪いのような言葉を語られたと言います。 それから、イエスはエルサレム神殿に入り、そこで売り買いをしていた人々を追い出した。 貨幣の両替を商売としている人々の台をひっくり返した。 犠牲の動物を売るために商売をしている人々の腰掛をひっくり返したと言うのです。 イエスのこの不可解な言葉と振る舞いに、私たちはなぜだろうと疑問をもったものです。 今までこう教えられてきました。 「いちじくの木」はイスラエルの象徴である。 季節ではないからと理由をつけて、この世に従って信仰の実を結ばないイスラエルの姿にイエスは落胆している。 イエスご自身がエルサレムに訪れているのに、この世の常識に埋没してしまって一向に実を結ばない。 神に仕える場所が神なき場所に陥ってしまっている。 今、父なる神から授けられようとしている恵みを受け取ろうとしない。 そう嘆くイエスの怒りのような象徴的な言葉と行動が、「いちじくの木への言葉」であり、「神殿での振る舞い」であった。 これはイエスの呪いでも罰でもない、悔い改めを求めたイエスのご愛であると教えられてきました。 しかし、そのすぐ後にもうひとつの段落が結びつけられています。 昨日イエスが預言されたとおりに、いちじくの木が根元から枯れてしまっているのを一行は確認します。 「先生、ご覧ください。 あなたが呪われたいちじくの木が枯れています」と語ったペトロの言葉に象徴されるように、私たちはイエスが語られた言葉を「呪いの言葉」と受け取っています。 枯れたことが確かめられたその直後に、なぜイエスは「神を信じなさい。 祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。 そうすれば、そのとおりになる。」と、「祈り」について言われたのでしょうか。 神殿での振る舞いの際にも、なぜ「神の家は祈りの家と呼ばれるべきであると書いているではないか」と聖書を引用されたのでしょうか。 実がならないのは季節のせいだとする「いちじくの木」に向かって、「このままでは枯れてしまうものとなる。 いつまでも実がならないものとなる。 その時がきている。」 ペトロが「言われたとおりになってしまっている」と叫んだその時です。 イエスは、「だから神を信じなさい。 だれでも。 少しも疑わず信じるなら、そのとおりになる。」と言われたのです。 イエスは季節でもないのに実がなっているか、神のみ心ならこの世がどうであれ実がなっているかご覧になろうとしたのです。 諦めて枯れてしまったいちじくの木に、「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」と言われたのです。 神への信頼が祈りを産みます。 私たちの祈りはつくり変えられます。 神への変わらない信頼が、自分にふさわしい祈りをつくり上げていきます。 「祈り」が変えられると、人はつくり変えられるのです。 イエスの呪いの言葉と思われるような言葉が、希望と赦しの言葉に響いてこないでしょうか。 イエスの乱暴な振る舞いが、この世を操る霊に向かって激しい祈りによって戦いを挑んでくださる姿に映ってこないでしょうか。

[fblikesend]

「見つけ出されるという出会い」 創世記16章1~12節 

2021-02-14

 アブラムは、「あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。」と神自ら約束された人物です。 そのアブラムとサライの老夫婦が10年待ち続けても子どもが与えられなかった頃のことです。 妻サライは自ら行動を起こし、ハガルというエジプト人の使用人を利用しようとします。 サライは夫アブラムに、使用人に子どもを産ませそれを自分の子どもにするという当時の慣行を進言し、アブラムはそのまま受けてしまうのです。 アブラムは未だに神の約束が果たされないでいる現状に耐えきれなかったのでしょう。 確かにサライの思惑通りに使用人ハガルは身ごもりました。 すると、ハガルの立場が変わり女主人であったサライを軽んじ始めたと言うのです。 見下されたサライはその矛先を夫アブラムに向けます。 「わたしが不当な目に遭っているのは、あなたのせいです。」と、道具のように利用したハガルへの仕打ちを忘れて、今度はアブラムの責任を盾に強く迫ったのです。 ここに至ってもアブラムは、「あなたの好きなようにするがよい。」と逃げ、別の問題が新たに起こった現実に目を向けようとせず放置するのです。 ハガルの側にも問題があるとはいえ、サライは元の自分付きの使用人として今までの腹いせとばかりにハガルに辛く当たったのでしょう。 ハガルはそれに耐えきれず、サライのもとから逃げ出したと言います。 小さな家庭に起きた、三者三様の人間の弱さを表しています。 
 亀裂が入ってしまった小さな家庭に、神はそれぞれにふさわしく分け入ってくださるのです。 アブラムとサライには、約束通り自分たちの子どもとしてイサクが与えられます。 人に利用されてその人生を奪われて、自分の立場を勘違いし奢って、それが原因で最後には一方的に逃げ出してしまったハガルにも、神さまは出会ってくださるのです。 宛てもなく漠然と故郷エジプトへ戻ろうとした一人ぼっちの逃避行のなか、「荒れ野の街道沿いの泉のほとりで、神は出会った。 そして語りかけた。」と言います。 この「出会った」という言葉は、「見つけ出された」という意味合いです。 ひとり呆然と荒れ野で佇んでいるハガルを、神は追いかけてきて、見つけ出して呼びかけるのです。 「ハガルよ。 あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」 神は、ただその場を避けたいだけのハガルに行き宛てのないことに気づかせ、自分の姿を見つめさせ、「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」と命令を下すのです。 辛さや悲しみだけから逃げ出してさまようハガルに、なぜ、神は元のところに帰りなさいと言われたのでしょうか。 なぜ、あれほど嫌がっていたサライのもとへハガルは自ら戻って行ったのでしょうか。 いったい何がハガルの心境に変化を与えたのでしょうか。 
 神はこの命令とともに、「あなたにもイシュマエルという男の子が与えられる。」という約束を与えています。 自分が身ごもっていたことも忘れていたハガルに、すでに子どもが与えられていると気づかせます。 ハガルはそこで、「あなたこそ、わたしを顧みられる神です。 行く宛てもなくさまよった私を追いかけてきて、捜し出して見つけ出してくださったからです。 主が悩みを聞いてくださったと気づかされたからです。」と告白するのです。 たとえその約束が今は祝福とは思えなくても、神の約束が与えられたのです。 祝福の外にあると思っていた存在にも神は顧みてくださるのです。 たとえ悲惨と思われるところであっても、神とともに戻れと言われるのです。 私たちが見つけ出す喜びよりもはるかに大きな喜び、神に見つけ出される喜びです。 見つけ出されるに値しない者が見つけ出される神の恵み、これが新しく人を造り変える喜びです。 目先の苦しみを避ける生き方から、争いと敵対の中にも神とともに戻っていく生き方へと変えられるのです。

[fblikesend]

« Older Entries Newer Entries »
バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元