秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「新しきものへの方向転換」 コリントの信徒への手紙二5章16~21節 

2021-11-21

 パウロこそ、ユダヤ教の戒めの律法や祭儀に誰よりも熱心でした。 それらを軽んじるキリスト教徒を厳しく取り締まった中心人物でした。 そのパウロが、ダマスコへ取り締まりのため出向いていた時のことでした。 突然、天からの光がパウロの周りを照らし、パウロは地面に倒されて、「なぜ、わたしを迫害するのか。 わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 起きて町に入れ。 そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」という、目に見えないイエスの呼びかけを突然耳にしたのです。 その時のパウロは目が見えず、食べることも飲むこともできず、人の手を借りなければ歩くことさえもできなかった死んだも同然の有様だったと言います。 これが、古いサウロに死んで、新しいパウロへとつくり変えられた瞬間でした。 そこから新しく立ち上がったパウロは、「わたしたちは、自分たちのために死んで復活してくださったキリストのために生きている。 このキリストの愛によって駆り立てられている。」とまで語る存在となったのです。 「パウロに使徒としての資格がない」と主張する人々の影響を受け関係が難しくなったコリントの教会の人たちに向けて、単なる弁明としてではなく、全く新しい存在となったことを語っているのが今朝の聖書箇所です。 「今後、だれをも肉に従って知ろうとはしません。」とパウロは言い、これからは人間的、社会的な価値や働き、考えや動機をものさしとしない。 それらは、イエス・キリストが死んでくださったことによってもはや過ぎ去ってしまったものである。 「わたしたち」はこれから人間の側のものを超えて、霊によって神の恵みの業を知ろうと思う。 「あなたがた」も、肉によって判断しないで霊によって神の恵みの業に目を向けるようにと祈り願うのです。 「キリストがすべての人のために死んでくださった以上すべての人も死んだことになる。 キリストがすべての人のために復活くださった以上、すべての人も復活したことになる。」とまで言うのです。 どういうことでしょうか。 パウロは、「わたしたち」は、「このキリストの十字架と復活に与かり、神の恵みの業に結び付けられた者ではないか。 すべての人のために死んで復活してくださった神の恵みの出来事を、自分のものとして受け取って新しく創造された者ではないか。」 パウロがサウロからパウロへとつくり変えられたように、「わたしたちもまた新しいわたしに神が再び創造してくださる。」と言うのです。 聖書の言う「復活」とは、からだの息を吹き返して元に戻ることでしょうか。 別次元の命が与えられ、新しく生きるからだに変えられるということではないでしょうか。 パウロは自分の生涯で突然訪れた、復活されたイエス・キリストとの出会いの体験が、新しく変えたと証言しているのです。 「悔い改める」とは、反省するとか後悔するということではなく、向きを変える方向を転換させられるということです。 新しい命を頂いて、過去に戻るのではなく先に向かって新しく生きていくよう変えられるのです。 パウロはこのことを、「これらはすべて神から出ること。 神はキリストによってご自分を和解させた。 わたしたちの過ち、背きを問わない。」と言います。 聖書の言う「和解」とは、神の一方的な呼びかけです。 私たちが何かを積み上げて和解するに値する存在となって与えられるものではない。 神が一方的にイエス・キリストをささげて、和解の場を備えてくださった神の恵みです。 単なる「赦し」ではなく、キリストの死が私たちの死となる。 キリストの復活が私たちの復活となり、復活されたキリストの命に生きるようになる。 キリストの和解の務めが与えられる。 和解の言葉が委ねられる。 パウロのように劇的ではないかもしれないが、この備えられた和解の場でなされる、神の救いの働きの実体験を神は必ず私たちにも与えてくださるのです。

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「最初の主日礼拝」 マルコによる福音書16章1~8節 

2021-11-14

 ユダヤの一日は、日没から始まります。 土曜日の日没から始まった「週の初めの日、日曜日」の早朝の出来事です。 「イエスがガリラヤにおられたとき、世話をしていた」3人の婦人の名前が挙がっています。 イエスの十字架上での死は受け入れ難い出来事、胸が引き裂かれる彼女たちの思いであったでしょう。 「安息日の前日」のうちに十字架から引きずり降ろされ、墓の中に慌ただしく納められたイエスの遺体のある場所をじっと見つめていたのです。 ぞんざいに扱われたイエスの「死」と「埋葬」の一部始終を見つめさせられていた婦人たちは、安息日が終ってからイエスの遺体に油を塗りに行くために、香料を買って準備したのです。 「週の初めの日、日曜日」の早朝に「墓」に、諦めと絶望のままイエスの遺体を整えるためだけに出向いたのです。 夜が明けてあたりが再び見えるようになると、墓石はすでに脇へ転がされていた。 墓の中には、白い衣を着た若者、神の使いが座っていたと言います。 この神の使いが続けざまに、不安のままイエスの「死」と「埋葬」だけを見つめている婦人たちに、「驚くことはない。 あの方は復活なさって、ここにはおられない。 さあ行って、弟子たちとペトロに告げなさい。 あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。 かねて言われた通り、そこでお目にかかれる。」と告げるのです。
 イエスの復活後の最初の「週の初めの日、日曜日」の朝です。 悲しみと絶望に包まれて、ただイエスの遺体の装いを整えるためだけに「墓」に訪れた婦人たちに、「イエスは墓の中で朽ち果てるお方ではない。 よみがえられたのだ。 イエスのからだにとんでもない出来事が神によって引き起こされた。 もうすでにこの墓を立ち、ガリラヤに行かれた。 そこであなたがたはイエスに出会うことができる。 ガリラヤに行きなさい。 このことを弟子たちに伝えなさい。」と告げたのです。 信じることのできない出来事に直面させられた婦人たちは、「震え上がり、正気を失った。 恐ろしくて、だれにも何も言わなかった。」と、神の使いに命じられたことは何もできなかったのです。 そして、マルコによる福音書はここで唐突に終わるのです。 誰一人、イエスがよみがえられたことを目撃していません。 墓の中、夜明け前という「暗闇」の中で、イエスが復活し、もうすでにガリラヤへ行かれたという出来事は起こされていたのです。 弟子たちも、これら婦人たちも、このイエスが復活すると信じていた者はいなかったと言わざるを得ません。 事後に通告されただけなのです。 神の使いに「復活された」と言われたからでも、墓が空であったからでもありません。 「ガリラヤ」とは、弟子たち、婦人たちがイエスと寝食を共にし、親しくみ言葉を聴いて生活をしていたところです。 そこで再び復活されたイエスと出会い、懐かしい生活の中で呼びかけられ、一緒に歩んだ足跡をたどって味わったからでしょう。 この信じることのできない復活の出来事は、父なる神の強い救いの意志によって、神の決断と働きによってもたらされたことです。 イエスの意志でも、弟子たち婦人たちの信仰でもない。 ただ神の忍耐と憐れみだけによって起こされた、神の恵みの出来事です。 弟子たちや婦人たちが信じようが、信じまいが関係なく、むしろ弟子たち婦人たちの絶望と失敗の中に、この恵みの出来事は起こされているのです。 この生々しい復活直後の「日曜日」の証言をもって、うろたえたあの絶望の一日が、喜びの日に変えられた。 新しい出発の日に変えられたと最初のころの教会の群れは「礼拝」をささげる、その拠り所としてここに語っているのではないでしょうか。 神は「帰りなさい」ではなく「行きなさい」と言われるのです。 「暗闇」が去ってから「光」が届くのではありません。 「光」はもうすでに待っていて、「暗闇」の中で輝くのです。

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「主なる神のぶどう畑」 ルカによる福音書20章9~19節

2021-11-07

 旧約聖書では、「ぶどう」はイスラエルの象徴でした。 この譬えに出てくる「ぶどう園の主人」とは、主なる神です。 「ぶどう園」は、イスラエルのことです。 「農夫たち」とは、イスラエルの指導者たちのことです。 イザヤ書の5章の「ぶどう畑の歌」には、「わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。 その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのは待った。 しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」と言います。 主なる神は、イスラエルを「わたしのぶどう畑」と呼んでいます。 良いぶどうの実がなるのを待っていると言います。 「農夫たち」はぶどう園の主人に選ばれて、主人がつくったぶどう畑を借りて、その収穫を託された人たちです。 主人が信頼していたからこそ、「長い旅に出た」のでしょう。 良いぶどうの実がなることを期待していたのでしょう。 「ぶどう園の主人」が帰ってくる時がいずれくるのです。 「農夫たち」は、その期待に応えなければならない時がくるのです。 私たちは、神の用意されたところで、自由な主体性をもって生きることが赦されています。 神の用意された「恵み」を、もうすでに与えられているのです。 しかし、そこには神の支配があること、神に応えなければならない時がくることを忘れてはならないのです。 ところが、「農夫たち」は、主人のもとから送られた僕を袋だたきにして、「何ももたせないで追い返した。 侮辱して追い返した。 傷を負わせてほおり出した。」と言います。 困った「ぶどう園の主人」は、「わたしの愛する息子なら、敬ってくれるだろう。」と送り込んだところ、「農夫たち」は、ぶどう畑が自分たちのものとなるだろうと外にほおり出して殺してしまったと言うのです。 エルサレムの郊外ゴルゴダの丘でのイエスの十字架の死を思い起こさせます。 この時すでに、イエスはご自身の十字架の死をすべての民から捨てられる出来事として受け止め、その後で復活の出来事が起こるなら「終わりの日」が始まるという、主なる神の救いのみ業に向かうすさまじい決意を感じます。 同時に、僕たちとご自身の息子を繰り返し送り出した「神の忍耐」と限りない「神の憐れみ」を憶えます。 イエスはこの時、「さて、ぶどう園の主人はこの農夫たちをどうするだろうか」と民衆に尋ね、「ぶどう園の主人は戻ってきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない。」と、厳しい神の裁きを語り「イエスは彼らを見つめて言われた。」とルカは記しています。 この「見つめて」という言葉は、ペトロが三度イエスを知らないと裏切った時、「イエスが振り返って見つめられた」と記されている言葉と同じ言葉が使われているのです。 イエスの「赦しの眼差し」です。 厳粛な神の裁きが、イエスの眼差しによって「赦し」に変えられているという無言の宣言ではないでしょうか。 この「ぶどう園と農夫」の譬えを用いて、神の裁きを語ったうえで、赦しの眼差しをもって語られたみ言葉がここにある詩編118編22節です。 人々が役に立たない石として投げ捨てた石を、神が新しい命を与え、復活させ、つくり変え、すべての人が住まう家の土台石とされ、隅の親石にさせた」と、喜びの賛美を挙げているのです。 イエスを十字架に架けて殺すという出来事は、人の力によって投げ捨てられたものでも、ほおり出されたものでもない。 神のみ心により、神の忍耐と憐れみの末に準備されたものである。 ついに成し遂げられようとしている救いの出来事の始まりである。 「終わりの日」の始まりである。 主なる神に従われたイエスの人間としての生き方がここに示されているのです。 私たちは「主なる神のぶどう畑」です。 神なき世界においても、良い実がなるようにと待たれているのです。

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「滅びないもの」 ルカによる福音書21章29~33節 

2021-10-31

 主イエスは、「世の終わりはすぐには来ない。 惑わされないように気をつけなさい。 おびえてはならない。 わたしがあなたがたに必要な言葉と知恵を与える。」と言われています。 そして、「終末の徴と言われるようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。 あなたがたの解放の時が近い。 そのとき、大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るこのわたしを見ることになる。」と言われました。 今朝の聖書箇所は、この「終わりの日」を覚えながら生きていかなければならない人々に向けて主イエスが語られた渾身の言葉です。 目を覆いたくなる、耳をふさぎたくなる、そのような「終わりの日」の徴を体に刻みつけながら生きていくことになる私たちに、それでも「終わりの日」を忘れてはならないと語っておられるのです。 この21章に記されている「終末の徴」とも言える出来事は、どうしてそのようなことが起こるのか、その意味を語る人はほとんどいません。 今まで生きてきたそれぞれ自分の物語が、ある日突然、想定外の出来事によって破壊されるのです。 だれもその意味が分からないから語れないのです。 福島第一原発事故の直後、「流浪の教会」となった「福島第一聖書バプテスト教会」の牧師がイザヤ書43章19~20節のみ言葉に立ってこう振り返っておられます。 「先行きの見えない不安の中を過ごしておられるなら、また、過去の癒えない傷をひきずって、思い出したくもない過去に縛られておられるなら、そんな不安と後悔の涙であなたの未来を染めてはならない。 一度限りの人生の未来を過去の涙で染めないで、神さまが用意してくださっている未来に向かって生きてください。」と訴えておられます。 このイエスが語った短い「いちじくの木」の譬えとみ言葉は、このような危機の中に、そして必ずやってくる「終わりの日」、滅びるものと滅びないものが見分けられる、そのような時に備えて、イエスご自身が語られた渾身の宣言であったのでしょう。 滅びないものの確かさ、主のみ言葉に聴いて、従って、委ねて生きる者の救いの確かさを語っておられるのです。 いちじくの木でさえ、時が来れば実をつけ熟すではないか。 ましてや、あなたがたに約束された神の言葉が実を結ばないことがあるだろうか。 「すべてのことが起こるまでは、神の時がくるまでは、この時代は決して過ぎ去らない。 しかし、神の時が至ったならば、神のみ心が果たされるように、わたしの言葉を信じ、委ねて、従って生きた者は、新しい命に生き、神の国に生きる者に変えられる。 天地は過ぎ去るが、わたしの言葉は過ぎ去ることはない。 終わりの日は必ず来る。 それはあなたがたの救いの時である。 このような終末の徴に翻弄されるようなところで、あなたたちの想像もつかない神のみ心が果たされる時となる。 だから、心が鈍くならないように注意しなさい。 いつも目を覚まして祈りなさい。」と言われたのです。 私たちは繰り返すことのできない時を送っています。 どう考えても、私たちも、この世も、神の総決算には耐えられない存在でしょう。 神の厳粛な目からみれば、滅ぶべき存在でしょう。 しかし、イエスは、「わたしの言葉は決して過ぎ去ることはない。」 この神の約束に聴いて、信じて、委ねて、従って生きた者は、「わたしとともにいるわたしの子。 わたしが贖う者。」となる。 神の裁きの前に立つ滅ぶべき私たちそしてこの世が、主イエス・キリストのとりなしの祈りの結晶のような十字架により、救い出され、神のもとに憩うことが赦されるようになる。 これが神のみ心です。 この時が、私たちの新しい旅立ちとなるのです。 「終わりの日を覚えて生きる。 終末を生きる。」ということは、天地が過ぎ去ってしまう直中で、神のみ言葉は決して過ぎ去らないという確信に立ち、この天地において忠実に生きるということです。

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「信仰生活の第二の転機」 使徒言行録19章1~7節 

2021-10-24

 パウロが同労者のプリスキラとアキラ夫妻を伴って、アジア州の中心都市のエフェソにやってきました。 各地の宣教のためパウロが一時そのエフェソを離れることになって、取り残されたプリスキラとアキラ夫妻は自分たちだけで信徒の群れを興していったのです。 そこに、アポロというユダヤ人がやって来たと言います。 「聖書に詳しい人、雄弁な人。 イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていた人。 しかし、ヨハネのバプテスマしか知らなかった人。」と紹介されています。 プリスキラとアキラはアポロの姿に何かを感じ、祈っていたのでしょう。 自宅に招き、アポロの信仰を整え、アポロが渡ることを望んでいたアカイア州の弟子たちに手紙を書き送り、アポロを励まして送り出したのです。 そのようなことがあった後、再びエフェソに戻ってきたパウロもまた、エフェソで出会った12人の弟子たちの信仰に、アポロと同じようなものを感じたのでしょう。 彼らは、アポロの影響を多分に受けていたのかもしれません。 パウロはその弟子たちに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか。 どんなバプテスマを受けたのですか。」と尋ねるのです。 聖書は詳しく知っていたし、イエスのことを雄弁に語っていたけれど、聖霊のことは知らないということでした。 「聖霊があるかどうか、聞いたこともありません。 ヨハネのバプテスマを受けました。」と答える弟子たちに、「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」とパウロは語り、その弟子たちに今度は「主イエスの名によるバプテスマ」を再び授けたのです。 すると、聖霊が降ったと言います。 
 私たちはエフェソで蔓延していた魔術のように、解決を求め、出口を求めてもがき苦しんでいました。 自らの弱さや醜さを示されて、救いを求めてもがき苦しんでいました。 どうすることもできなくて、ついに父なる神の憐れみにすがった時初めて、不思議な「安息」と「平安」を味わったのではないでしょうか。 それが、イエス・キリストの十字架という貴重な代償が払われたことに気づかされ、その贖いの恵みに涙したのではないでしょうか。 罪の赦しという、縛られていたものからの解放でしょう。 しかし、父なる神はそこに留まらないのです。 イエス・キリストの十字架という贖いによるバプテスマによって賜物である聖霊が川の水が流れ出るように注がれる。 新しい命に生きるようになる。 新しい生活へと変えられると言うのです。 ある日突然に、不連続に、それもそれぞれの個人的な具体的な生活の中に変化が起こされるようになる。 そのことが一度きりでなく、繰り返し何度も訪れるのです。 エジプトの奴隷の身から解放されたイスラエルの人々のように、神ご自身が用意してくださっている約束の地に入って行くようにと導かれるのです。 荒れ野の長旅はその途中なのです。 パウロが語るように、「悔い改めのバプテスマ」に留まらず、「主イエスのみ名によるバプテスマ」によって聖霊を受け取るのです。 罪を責めることに夢中になって、赦され救い出されたことの喜びを失ってしまうなら、満ち溢れた神が用意しておられる豊かな恵みを受け取り損ねるのです。 約束の地に足を踏み入れた私たちは、その足の裏が踏む所すべてを受け取っていくためには、神ならぬものがまったく追い払われて、神の約束してくださっているものすべてを受け取るまで満足しないことです。 私たちが勝手に神の恵みを決めつけてはならないのです。 用意された恵みを求める力、その渇きを失ってはならない。 そのために、父なる神は「聖霊のバプテスマ」を繰り返し、受け取り続けなさいと言われているのではないでしょうか。 この「用意された恵みを受け取りなさい」という福音の言葉は、私たちの現実の生活の上に実現しなければ空しいのです。

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「与えようとしている土地」 ヨシュア記1章1~9節 

2021-10-17

 ヨシュア記には、モーセに率いられ奴隷の身であったエジプトから救い出され、神の約束の地カナンを目指し40年間荒れ野をさまよったイスラエルの人々が、モーセから引き継いだヨシュアに率いられ約束の地に入ることができたことが記されています。 しかし、一貫して記していることは、モーセの働きでも、ヨシュアの働きでもない。 神ご自身がみ心に従って果たされた働きであったということです。 そのヨシュアに、主なる神は4つの命令と5つの約束を呼びかけられます。 「今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。」、「強く、雄々しくあれ。」、「モーセが命じた律法を、あなたの口から離すことなく、口ずさみ、忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。」、「うろたえてはならない。 おののいてはならない。」と命令を降されたのです。 同時に、「あなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。」、「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。」、「わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる。」、「あなたは、行く先々で栄える。」、「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」と約束を宣言されたのです。 
 イスラエルの人々は不思議な出来事により守られ、エジプトから救い出され、支えられてきたことを思い起こし、その恵みに感謝していたのです。 その一方で、余りの長きにわたる荒れ野のさまよいに、苦しみや痛みを憶え落胆するのです。 いつまでこのようなことが続くのかと、不安や疑いをもつようになるのです。 かつて味わった喜び、救い出された感謝がいつしか薄れてしまう。 平安だった思いも、揺れ動いて心が破れてしまうのです。 ここに至ったことが、果たして正しいものであったのかどうか分からなくなるのです。 このような人々の姿は、「流浪の民」としか言いようがありません。 しかし、この人々は確かに神の約束を信じて一歩踏み出したのです。 この世の支配と苦しみに縛られていたところから、恐れも戸惑いもあったけれども救い出されたのです。 主なる神のみ心は、人々をご自身が「与えようとしている土地」に招き入れることであったはずです。 そのためにエジプトから救い出して、荒れ野に導き出したのです。 その途中なのです。 そうであるのに、人々はエジプトから解放された喜びだけで満足してしまう。 「与えようとされている土地」を見定めようとしない。 今、目の前にあるヨルダン川を渡ることを恐れて、脅えてしまうのです。 「わたしたちの求めや願いを遥かに超えた」神のみ心の救いの目的、真の恵みと賜物を味わうことなく、この世の目に見えるもので満足しようとするのです。
 「わたしが与えようとしている土地」とは何でしょうか。 「わたしたちの足の裏が踏むところすべて」、「先祖に約束され引き継がれている土地」、「どこに行っても、行く先々で栄える場所、わたしが共にいる場所」である。 だから、「わたしに見放されることも、見捨てられることもない、行く手に立ちはだかる者もいない。」とあります。 「神が共におられる場所」こそ、神の息によって生かされている私たちの魂の真の平安があるはずです。 私たちの魂を誘い、目を奪う、この世の様々な愛着物にしばらくさすらい続けたところから、「立って、共に川を渡って、入って来なさい」と言われているのです。 主なる神は、ご自身を慕い従う者の魂をご自身の「安息」の場として休まれると言います。 神が私たちの内に入ってこられて、一緒に憩われると言うのです。 神が憩われる「安息」の場となるように聖霊を注ぎ、「わたしが与えようとしている土地」で共に憩うようにと言っておられるのではないでしょうか。

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「リバイバルの源」 使徒言行録8章4~25節 

2021-10-10

 使徒言行録は、使徒たちや信徒たちが聖霊を注がれて、イエス・キリストの救いの福音を、エルサレムから地の果てまで告げ知らせた。 その働きは人間の業ではなく、神ご自身の業であった。 ひとりひとりに注がれた聖霊が導く働きであったと記しています。 生まれたての教会の群れが次々と新しい教会の群れをつくり上げ、失敗と挫折とともに成長していく生き生きとした姿が記されています。 この聖書箇所は、サマリアの町で神が起こされたリバイバルです。 ユダヤとサマリアには断絶があり、確執の歴史があるところでした。 そこに、「エルサレムから散って行ったユダヤの人々が、その断絶の壁を超えて福音を告げ知らせた」と言うのです。 迫害が激しくなり、エルサレムから追放され散らされた彼らが、散らされて行ったそのところで福音を告げ知らせたと言うのです。 その指導者のひとりがここに出てくるフィリポです。 「フィリポはサマリアの町に下って、人々に神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせた。 多くの中風患者や足の不自由な人もいやすしるしも行った。 サマリアの町の人々は大変喜んだ。 フィリポが語る福音を信じて、男も女もバプテスマを受けた。」と言います。 その中に、魔術を使ってしるしを起こし、自分を偉大な人だと人々に思わせていたシモンという人もいたと言います。 一方、フィリポの行うしるしとは、イエスが行ったように、体の癒しではなく魂の救いを指し示すしるしであったのです。 シモンは、フィリポの行うしるしの秘密を探ろうとしてつき従い、不純な思いで人々に紛れてバプテスマを受けたのかもしれません。 サマリアの人々は、このシモンのしるしに象徴される「この世の惑わし」に長い間心を奪われていたのです。 それらから解放され、喜んでバプテスマをフィリポから受けたのです。 しかし、聖書には「シモン自身も信じてバプテスマを受けた」とあります。 私たちの信仰の確かさによって、神に受け入れられ救われたのではないでしょう。 神が恵みとして受け入れてくださって、「わたしのものにする」と約束してくださったからです。 フィリポの福音宣教は、砂地に水が染み込むようにサマリアの人々の魂の中に川が流れ出るように浸み込んでいきました。 サマリアとユダヤの敵意という中垣は取り壊され、神を装って人を支配しようとするこの世の力からも解放されたのです。 「人々はバプテスマを受けていただけで、聖霊が降っていなかった」ので、ペトロとヨハネがエルサレムから遣わされて来たと言います。 ふたりは人々に「聖霊が降るように。」と祈り、主の言葉を証しし、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせました。 また、「わたしにも、聖霊の力を授けてください」と言いお金を差し出した魔術師シモンには、「心の中に純粋でないものがある。 聖霊は神さまからいただく賜物です。 神を所有しようとしてはならない。 悔い改めなさい。 祈りなさい。」と勧めています。 このサマリアのリバイバルは、かつてここの井戸端でイエスが一人の女性に蒔かれた一粒の種がもたらしたものではないでしょうか。 イエスは日常に入ってこられて、魂の渇きに応えようとされます。 求める心を起こそうとされます。 救いの恵みは、その人が願わなければ、知らなければならないことを知らなければ受け取ることができないのです。 「もしあなたが、神の賜物を知っており、水を飲ませてくださいと言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に望み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」と、井戸端で一人の女性に言われたのです。 イエスは、「あなたが求めているものは、あなたと話しているこのわたしである。」と直に出会ってくださるのです。 生きた水を注ごうとしてくださるのです。 その「生きた水」は、川となって周りに流れ出て敵意の中垣があるようなところでも「リバイバル」を起こすのです。 

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「川となって流れ出る生きた水」 ヨハネによる福音書7章37~39節 

2021-10-03

 「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」とあります。 「祭り」とは、仮庵の祭りです。 イスラエルの人々が異邦の地エジプトで奴隷として苦しんでいたところから解放されて、モーセによって率いられて行進した果てしない苦しい長旅を忘れないようにと、人々は小枝で造った仮小屋で七日間過ごすと言います。 その時の神の導きと守りを記憶し、この世は仮の住まいであることを信仰告白すると言います。 喉が渇いて仕方のなかった人々はモーセに向かって、「なぜ、われわれをエジプトから導き上ったのか。 わたしも子どもたちも、家畜まで渇きで殺すためなのか。」と不平を述べ、「我々に飲み水を与えよ」と迫ったのです。 主なる神は、「ナイル川で打った杖を持って行くがよい。 わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。 あなたはその岩を打て。 そこから水が出て、民は飲むことができる。」と言われたモーセが、岩の前に立って手を挙げて、持ってきた杖でその岩を二度打つと水がほとばしり出たと言うのです。 「祭り」の最終日には、エルサレムの近郊にあるシロアムの池から汲んできた水を、エルサレム神殿の祭壇に行列を組んで運ぶのです。 その「水」に包まれた神殿で、群衆に向かって立ち上がって、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と、イエスは大声で叫ばれたのです。 イエスは、「渇いている人」と言います。 人々が求めたのは、のどの渇きを癒す飲み水でした。 しかし、イエスは、渇いているのは体ではなく魂であると言うのです。 人間は体の渇きには敏感ですが、魂の渇きには鈍感です。 自分の魂が本当に満たされているのか、渇いているのか分からない。 そのことを忘れ去らせてくれるこの世のはかないものに満たされ、心地よい言葉に神を忘れてしまう。 それでよいと自分を納得させたりもする。 もともと人間は創世記にあるように、「土の塵で形づくられ、その鼻に命の息を吹き入れられて生きる者となった」のです。 神の息吹を必要とする霊的な存在として創られたのです。 神に応えるために、神を知る力、求める力を「霊性」として備えられているのです。 それがいつしか神に替わるものに奪われ、神を悲しませているのです。 「水の渇きではなく、魂の渇きに気づきなさい。 自分の本当に求めている魂の渇きが何であるのか知りなさい。 その渇きをもって、わたしのところに来なさい。 わたしのところに来る者はだれでも、生きた水を飲むことができる。 生きた水を飲むことによって魂の渇きは満たされる。」と、祭りの最後の日に立ち上がって人々にイエスは大声で叫ばれたのです。 そして、父なる神が約束されたように、その人の魂の渇きが癒されるだけでなく、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになると言うのです。 それは、「御自分を信じる人々が受けようとしている霊について言われたのである」と注釈が付けられています。 父なる神は二つの約束をされています。 ひとつは、今まで犯してきた過ちを「思い起こさないことにする」と、私たちの過去について赦しを約束されました。 もうひとつは、「生きた水」という神によって吹き入れられた「聖霊」が注がれるという将来に向けての約束です。 私たちが赦されて受け入れられること、そして、それによって高価な賜物である神の霊が与えられることが、神の救いの本質です。 自分が本当に渇いていることを知る。 その渇きを携えてイエスのもとに出かけて行こうとする。 イエスに出会ってみる。 差し出された生きた水を感謝して受け取る。 それを飲んでみる。 すると、その生きた水は、その周りに川となって流れ出て潤すことになると、イエスは祭りの最後の日に宣言されたのです。 「わたしを信じる者」とは、直訳すると、「わたしの中に信じ入る者」となります。

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「地上のすみかと永遠のすみか」 コリントの信徒への手紙二4章16節~5章10節

2021-09-26

 パウロは、「だから、わたしたちは落胆しません。」と繰り返しています。 様々な手紙の中で、「死」と向き合っていたことを赤裸々に「わたしたちが被った苦難についてぜひ知っていてほしい。 耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。 死の宣告を受けた思いでした。」と語っています。 死を目の前にして、絶望する、勇気を失う、気を落としてしまうような、死と隣り合わせのような状況ばかりです。 しかし、パウロは、「落胆しません。」 「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださる。」(4:14)からだと言うのです。 パウロは「外なる人」と「内なる人」という言葉をもって語ります。 肉体は汚れたもの、精神は優れたもの、汚れた肉体からの解放が人間の救いだというようなギリシャ哲学の二元論を語っているのではありません。 また、肉体は衰えるが、精神は益々新しく強くなるということでもありません。 「外なる人」とは、肉体も精神も含めた全体としての人間のことでしょう。 パウロの言う「内なる人」とは、神によって復活させられたイエスと共に生きる人、神の働きによって日々新たにされていく人ということでしょう。 私たちの心の中に、神の豊かな栄光とその霊の働きによって復活させたイエス・キリストを住まわせて、私たちの「内なる人」を強めると言っているのです。 ですから、パウロは、神がイエスと同じように私たちをも復活させてくださると知っているから、あるいは、そのイエスを内に住まわせ、イエスと同じ新しい命が神によって与えられているから「落胆しません」と言うのです。 併せてパウロは、「艱難」と「栄光」という言葉を用いて語ります。 「艱難」は、地上での一時のものである。 「外なる人」の営みによるものである。 一方、パウロの語る「栄光」とは、イエス・キリストが味わった復活に与かることです。 「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピ3:10)と告白している通りです。 この栄光の重さ、復活の重さは、今体験している地上での「艱難」とは比べものにならない。 やがて自分にも訪れるイエス・キリストと同じ復活という出来事が、今味わっている「艱難」の事実の意味を変えてしまう。 一時の軽い「艱難」が、比べものにならないほどの重みのある「栄光、復活」をもたらしてくれる、創り出してくれるとパウロは言っているのです。 「死者の中からの復活」など、私たちの目には見えないものです。 「外なる人」の五感や理解や経験によって捉えることができないものです。 ですから、「目に見えるものではなく、目に見えないものに目を注ぎます。」と言うのです。 目に見えるものを見るなとは言っていない。 見えるもの、過ぎ去り枯れていくものに目を奪われてはならない。 永遠に存続するものを見なさいと言うのです。 「地上のすみか」と「永遠のすみか」という言葉をもってパウロは語ります。 人の手で作られた仮住まいのような「地上のすみか」ではない、神に備えられた「永遠のすみか」である。 「私たちを、その住みかに住まうのにふさわしい者に神がしてくださる。」と言うのです。 その保証として「聖霊」を与え準備してくださると言うのです。 「外なる人」の内に、神ご自身が新しく創造する「内なる人」をつくり上げてくださる。 「外なる人」の中に、神のみ言葉と聖霊の働きによって与えられた新しい「わたし」、神の恵みを感謝して受け取って「永遠のすみか」に住まう希望を確信している「わたし」が造り上げられるのです。 「内なる人」とは、この地上でも、死後の世界でも神がともにいてくださるという確信に生きる人のことです。

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「ヨベルの年、主の恵みの年」 レビ記25章1~12節 

2021-09-19

 イエスが安息日にガリラヤの会堂の中に入り、お立ちになって聖書朗読した時のことです。 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と言われたのです。 その聖書の言葉とは、「主の霊がわたしの上におられる。 貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。 主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18-19)というイザヤ書61章の引用でした。 かつてモーセに約束された「主の恵みの年」が今日、今ここに訪れたとイエスは会堂で旧約聖書の巻物を紐解いて朗読された時に宣言されたのです。 イエスは父なる神が語られたみ言葉をよく読んでおられ、ご自身に語りかける声として聴き、受け取っておられるのです。 「第七の日を、安息日として主のために、その礼拝のために聖別された日としてささげなさい」と言われたように、「主のための安息をその土地にも与えなさい。」と言われる。 エジプトからモーセによって導かれた約束の土地は、神から与えられた土地である。 この恵みの業を私たちに成し遂げてくださった神を憶えるために、自分たちを顧み生かしてくださる「主にある平安」を喜ぶために、しばし手を休め静かに感謝して神を仰ぐようにという「主のための安息」を告げたのです。 「土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者に過ぎない。 主の僕として主のもとで、与えられたその土地を託されているに過ぎない。 六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、七年目には全き安息を土地に与えねばならない。 畑に種を蒔いてはならない。 ぶどう畑の手入れをしてはならない。」と言われるのです。 それでは、七年目はどうやって食糧を確保するのですか。 八年目や九年目にすぐさま収穫ができるのでしょうかと私たちは尋ねたくなります。 神は、「わたしは六年目にあなたたちのために祝福を与え、その年に三年分の収穫を与える。 あなたたちは、八年目になお古い収穫の中から種を蒔き、食べつなぎ、九年目に新しい収穫を得るまでそれに頼ることができる。」と、前もって収穫の恵みを備えると約束されたのです。 そして、「安息の年を七回、七を七倍した年は四十九年である。 この五十年目の年を聖別し、全住民に解放を宣言する。 売られた土地も、売られた人も買い戻され、元の所有者に、元の家族のもとに帰ることになる。 こうして土地も人も回復される。」と、「ヨベルの年、主の恵みの年」をモーセに仰せになったのです。 その父なる神のみ言葉を、イエスはご自身のこととしてご自身のうえにこの「ヨベルの年、主の恵みの年」が、今ここに実現されたと宣言されたのです。 イエスは税金に苦しんで土地を失い、家族を失い、収穫の半分以上を小作料として搾取されている、この世の犠牲となっている人々の姿をご覧になっていたのでしょう。 「主の恵みの年」には、その負債が免除される。 本来もっているはずの土地が回復される。 失っていた社会的な存在を取り戻される。 この世のことだけではない。 イエスご自身の到来によって、神のもとを離れてしまって、罪と死の奴隷となってしまっていた、この世の奴隷になってしまっていたことに気づいていなかったこの私たち自身が、主なる神との交わりを赦されて、回復され、神を仰ぎながら生きるようになる「主との交わり」が回復されるという「解放」、「救い」を宣言されておられるのです。 見えていなかったこと、気づいていなかったことが示され、神に出会い、神を迎え入れ、神とともに歩むまでに回復され、「主の交わり」の中に生きる者と変えられる。 これが真の神の救い、神の恵みです。

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