「苦難を通って衣を白くされた者」 ヨハネの黙示録7章9~17節
著者ヨハネが見た幻とは、「天で行われている礼拝」の光景でした。 玉座に座っておられる方がいた。 その周りに、24人の長老たちと四つの生き物が取り囲んでいた。 玉座に座っておられる方の右の手には、天地の創造から天地の完成までの神の救いのご計画が書き記された巻物があり、七つの封印で封じられていたと言います。 その巻物を受け取った者がいた。 ヨハネはその者を、「ダビデのひこばえ、屠られた小羊、全地に遣わされる神の七つの霊をもっている者」と表現します。 24人の長老たちと四つの生き物は、その小羊にひれ伏して礼拝をした。 そこに新しい祈りと賛美が沸き起こった。 その際、大地の四隅に四人の天使が立って、見張っていた。 「神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、四人の天使たちに守られ、裁きの日は留められた。」と言うのです。 救いの完成が果たされる時、すべての地から呼び集められ救われる人々、つまり「新しいイスラエル」の大群衆を指し示すのです。 当時の「刻印」とはその所有者を示すもので、「神の刻印」を押される人々とは、玉座に座っておられる神ご自身が「わたしのものである。」とはっきりと宣言された人たち、神に導かれ、その御心に委ねて、それぞれの生涯を歩むことを赦された人たちのことです。 曲がりなりにも、イエスの歩まれた神が備えられた道に従って行こうとした人たちです。 この地上にいる限り、この「神の刻印」を目で見ることはできません。 だれも大差ないように見えるのですが、終わりの日には、はっきりとその刻印が現れ出てくるのです。 「天で行われている礼拝」に、「だれにも数え切れないほどの大群衆」が登場します。 「なつめやしの枝を持ち、白い衣を身に着けていた」と言います。 「なつめやし」とは聖書においては勝利のシンボルで、「白い衣」とは洗い清められた衣のことです。 「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」と書かれているように、信仰のゆえに苦難を通ってきた人たちなのです。 神がその人にしか赦しておられない苦難、神ご自身が出口を用意し前もって備えてくださった苦難なのです。 ですから、この地上での信仰ゆえの苦難は避けるべきものでも、遠ざけるべきものでもありません。 むしろ、その人にしか味わうことのできない体験として、イエス・キリストと深く繋がれていく大事なプロセスなのです。 贖いのしるしとして屠られたイエス・キリストによって赦された者として勝利のシンボルをもって玉座の周りに集められるのです。 彼らは、歩んだ生涯で何か功績があったわけではない。 様々な信仰ゆえの苦難を通って、悔いて、砕かれ、ただイエス・キリストの十字架に与るだけ、神の憐れみにすがってきただけの人たちでしょう。 それが救いの完成の日には、神の国に招かれている。 迎え入れられている。 「神の刻印」を押されている。 小羊なるイエス・キリストの血によって洗い清められ、贖われて白い衣を着ることが赦されている。 その神の憐れみを受け取った大群衆が、玉座に座る神とイエス・キリストの前にひれ伏して、賛美し、祈り、礼拝をささげている光景を、希望のしるしとしてヨハネは受け取ったのです。 大群衆は神に仕え、神は彼らとともにいる。 飢えることも渇くこともなく、涙は拭われると言うのです。 クリスマスに教えられたことは、イエス・キリストの出現を「待つ」ことです。 そこに天の呼びかけが突然「くる」のです。 私たちの「待つ」ことと天からの呼びかけが「くる」ことが結びつけられるところに、「天における礼拝」と「地上における礼拝」が結びつけられるのです。 遣わされてきたイエス・キリストとの出会いを喜び、しっかりと心の内に宿して参りましょう。 私たちは、「神の刻印」が押されていることを決して忘れてはなりません。
[fblikesend]「黙示録が語るクリスマス」 ヨハネの黙示録5章1~14節
黙示録の著者は、「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。 わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。」と言います。 パトモス島とは政治犯が流されていた流刑の地で、ヨハネはパトモス島に幽閉されていたのです。 ローマ帝国の激しい迫害のもと、ヨハネ自身が流刑の身の痛みを抱えながら、同じ痛みの中にあった諸教会にある信徒たちに書き送られた文書です。 その冒頭に、「イエス・キリストの黙示」、「この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。」と言います。 ヨハネが語っていることは、隠された真実がイエス・キリストによって明らかにされたものである。 ヨハネが、幻をもって見させていただいたものを、同じように迫害を受け、呻き、涙を流しているところに届くようにと語るのです。 私たちと同じからだを背負い、私たち以上に深く苦しんで、永遠の滅びに至るその極限から復活という新しい命を神の恵みによって授けられたイエス・キリストが私たちと共におられる。 「今おられ、かつておられ、やがて来られるお方」から「恵みと平和があなたがたにあるように」と流刑の地より祈るのです。 ヨハネが見た幻とは、「天で行われている礼拝」でした。 私たちの目や耳や心で見るものではなく、この地上の現実の中に働いている霊なる働きを恵みによって見るということでしょう。 そこには、玉座に座っておられる方がいる。 その玉座の周りに、二十四人の長老、四つの生き物がいた。 この地上の歴史を支配しておられる方の周りを、様々な代表者たちや一切の生き物が取り囲んでいた。 その玉座に座っておられる方の右の手には巻物があった。 天地の創造から天地の完成に至るまでの神の奥義である巻物です。 それは、七つの封印で封じられていたと言います。 「この封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか。」と大声で告げられたのに、この巻物を開くことのできる者がだれもいない。 神のご計画が手の届くところに置かれているのに、だれも手をつけなかったのでヨハネは激しく泣いたと言います。 そこに、「泣くな。 見よ。 ダビデのひこばえが、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」という声がかけられた。 「四つの生き物と二十四人の長老は、この小羊の前にひれ伏した。」と言うのです。 旧約聖書が語る「ダビデの子孫から生まれ出る若枝、切り株から萌え出る若い芽」であるメシア、新約聖書が語る「世の罪を取り除く神の小羊」であるイエス・キリストが現れ、七つの封印を解いて、神の奥義を説き明かす者として、天における礼拝にて大いなる賛美と礼拝に包まれ、新しい賛美が起こされたと言うのです。 この黙示録が預言している当時の戦争、内乱、難民、食糧飢饉、疫病などは、今日の私たちの現実に近いものを感じます。 新しい賛美とは、神の新しい恵みの業に対する私たちの応答です。 天の礼拝での大合唱では、「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。」と歌われています。 「おのおの、竪琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。 この香は聖なる者たちの祈りである。」と言います。 私たちのささげた「祈り」が、神の前でひとりの香りとして臭いを放っていると言うのです。 私たちのささげる賛美も祈りも、天において賛美されている歌、祈られている祈りに合わせられて、私たちひとりひとりが通らされているこの地上の生涯の中で、神の前にささげられているのです。
[fblikesend]「帰って行った人たち」 ルカによる福音書2章8~20節
「羊飼いたち」とは、どのような存在の人たちなのでしょうか。 町の囲いの外で、野宿しながら「夜通し羊の群れの番をしていた」小さな群れの人たちです。 町の囲いの中で営まれていた生活とはかけ離れた存在であったのでしょう。 町の人々の数の中に入っていない存在であったのかもしれません。 そのような存在である「羊飼いの群れ」に神の呼びかけが迫り、余りの突然のことに彼らは非常に恐れたと言います。 「恐れるな。 わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。 この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。 これがあなたがたへのしるしである。」 この神の言葉は、彼らにとって理解不能、恐れと戸惑いと不安と思い煩いを生み出すお告げであったに違いない。 しかし、彼らに対する神のみ言葉は簡単明瞭です。 「あなたがたは恐れてはならない。 この出来事はあなたがたのためのものである。 惹いては、あなたがただけでなく民全体に与えられる大きな喜びとなる。 だから、この呼びかけに聴きなさい。 喜びのしるしを見つけなさい。 受け取りなさい。 いつ起こるのか分からないようなことではない。 今日のことである。 ダビデという町のことである。 あなたがたが今まで先祖たちによって語られ、漠然と耳にしてきた救い主が生まれたのだ。 この方こそメシアである。 布にくるまれて飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子がそれである。 これがあなたがたへのしるしである。」 ルカはこのような出来事が起こされたのは、「ローマ皇帝からローマ帝国全土の領民に、住民登録するようにと勅令が出ている」、その真っ只中で起こったと言うのです。 当時は、「救い主」という言葉は、ローマ皇帝につけられた称号でした。 自分たちの安全や平和は、ローマ皇帝によって与えられるものと意識づけられていたのです。 そのような中で、抑圧されている人々にとっての「本当の救い主、今まで待ち望まれていたメシアが生まれた」と羊飼いたちは告げられたのでした。 力の支配ではなく、「布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」という、私たちの目には弱々しい姿をとって訪れた。 これがあなたがたにとっての本当の希望、喜び、励ましと慰めを与えるしるしになると、神は羊飼いたちに宣言されたのです。 そこに、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」という神への賛美がこの地上で起こされた。 争いと憎しみに溢れたこの地上においても、天においてなされていた神への賛美の礼拝がこの地上で神のみ心に適う人たちに与えられたと宣言されたのです。 この神の救いの業が、2000年の時を越えて、私たちの「今日」、私たちの町に、私たちの日常生活にも起こると神は約束してくださったのです。 彼らはそんなことがあるわけがないと疑ったことでしょう。 しかし、彼らはそのような時がくることを希望を失わず待ち続けていたのでしょう。 「さあ、しるしがそこにあると神が言われたベツレヘムへ行ってみようではないか。 主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」と立ち上がったのです。 神が準備してくださっているのですから、彼らは捜し当てるのです。 「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて告げられた通りであったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。 この幼子について話されたことを人々に知らせた。」と言います。 帰って行ったところはもとの所で、何も変わらないところであったでしょう。 しかし、変えられて新しくされた羊飼いたちは、神に新しく賛美をもって遣わされて行ったのではないでしょうか。
[fblikesend]「マリアとヨセフに訪れた神の恵み」 ルカによる福音書1章26~38節 マタイによる福音書1章18~25節
世界で最初のクリスマスは、ナザレという片田舎のごくありふれたマリアとヨセフに突然訪れています。 マリアは、ヨセフのいいなずけであったと言います。 そのマリアに主の天使が、「おめでとう、恵まれた方。 主があなたと共におられる。 マリア、恐れることはない。 あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」と告げられた。 ヨセフにも、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。 マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。 その子をイエスと名付けなさい。」と告げられたのです。 「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」と言います。 当時のユダヤ社会では、離縁を申し渡されても仕方のない出来事であったのです。 ヨセフは、マリアの尊厳を守り自ら身を引く道を選び取ろうとします。 ヨセフは自分自身の心の中に一切を留め、沈黙を守ろうとします。 私たちも、「いったい何が神の恵みだと言うのですか。」と神に問いただしたくなる出来事を目の前にする時があります。 その時にこそ、自分自身の神に対する「信仰」が吟味させられるのです。 今まで確かなものと思い込んでいた神ご自身に対する信仰がもろくも崩れ去る時に直面するのです。 主なる神の呼びかけは突然で、私たちの準備などお構いなしです。 私たちに神は直接呼びかけ、その呼びかけに自ら立ち上がって応えてほしいからです。 「神ご自身がご用意してくださった出来事を受け入れ、従いなさい。」と決断を迫るのです。 神の恵みこそ、受け取って、従ってみて、このからだをもって味わい触れてみなければ分からないものです。 神のみ心と共に歩んでみて、神に与えられた命に刻み込まれて味わってみて初めて、「神のみ言葉の通りであった。 神の一方的な最善の時に適った恵みであった。」と気づかされるのです。 「神にできないことは何一つない。」と告げられ、「わたしは主のはしためです。 お言葉どおり、この身に成りますように。」と応えた乙女マリアの応答は、果たして何もしない消極的な受け身のものであったのでしょうか。 もはや諦めであったのでしょうか。 これから始まるまったく理解できない長い人生の道のりに不安と思い煩いを憶えながら、それでも神がご用意してくださったものを選び取って、神の計り知れないみ心をこの身に刻んでいこうとする凄まじい決断の姿ではないでしょうか。 幼子イエス・キリストとの出会いは、この世のものではない神の恵みを受け取っていこうとする決断の時です。 マリアと同様に、これから迎えるであろうあらゆる苦難と忍耐を覚悟し、その生涯を沈黙と思い煩いを覚悟して歩んでいこうとしたヨセフも同じです。 ヨセフは間違いなく、神のみ言葉に傾聴し受け取ったのです。 神の前で静かなる決断をしたのです。 私たちは神の前に立とうとせず、人の前に立とうとします。 何も語ってくださらない神の前に耐えかねて、人からの救いを求めようとするのです。 私たちは、この神の前での沈黙、苦闘と思い煩いがなければ神の恵みに満たされないのです。 孤独な沈黙の中に置かれたヨセフとマリアに、神の恵みが訪れたのでした。 その恵みの意味について、後から神ご自身が示して、説明し、悟らせてくださったのです。 私たちもまた、「今日、この時」に、遣わされてきたイエス・キリストに出会い、心の内に受け入れ、これから共におられるという約束に生かされて、神の前に立ってご一緒に参りたいと願います。
[fblikesend]「四つの福音書が語るクリスマス」 ヨハネによる福音書20章30~31節
マタイでは、イエス・キリストの誕生の喜びのメッセージの前に、なぜか羅列された無味乾燥に思える系図がその冒頭に記されています。 「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。 この短いみ言葉は単なる血筋や家柄を示したものではなく、旧約聖書の時代に連綿と伝えられてきた主なる神の約束、契約の成就者こそイエス・キリストであるという宣言です。 その名を見るだけで、波乱万丈に満ちた生々しい人たちのこの地上での格闘の営みが積み上げられた、まさに光と陰の織りなす人間の歴史です。 その人間の歴史の中に、私たちと同じからだを背負って降ってきてくださったお方がイエス・キリストである。 人となられた神の御子である。 「自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:12)お方であるという宣言です。 マルコでは、イエス・キリストの誕生物語は全く記されていません。 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」とあります。 この短いみ言葉こそ、預言されてきた救い主がついに訪れたという喜びの知らせなのです。 むしろ、イエス・キリストの生涯の中心は、人として私たちの初穂として受けられた受難と十字架の出来事です。 「福音の初め」とある「初め」という言葉は、最初というよりは根源、原点という意味です。 神のもとから切り離されて、私たち人間を救い出すために人となってくださったイエス・キリストこそが福音の源である、喜びの訪れであると宣言しているのです。 ルカでは、人間の歴史的出来事としてクリスマスは記されています。 世界の片隅で起こっただれも知らないような小さな出来事、地上での最初の場所が「飼い葉桶」であった。 家畜でさえもその飼い主を知り、飼い葉桶をも知っているにもかかわらず、ご自身の民はその主人を知らず、この世の権力者である皇帝アウグストゥスが課税するために行った住民登録の真っ只中に起こされた出来事であったと言うのです。 選ばれたイスラエルの民が、奇跡そのものである幼子の前でひざまずくことができなくなってしまっている。 目に見えるこの世の力に覆われてしまっている。 クリスマスはそのようなところに起こされた出来事であった。 「飼い葉桶のイエス・キリスト」を知り、そこにひざまずき主なる神の救いの業を見ることのできる人は幸いであると語っています。 ヨハネでは、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 わたしたちはその栄光を見た。 それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)という一節をもって、クリスマスを私たちへの神の愛の語りかけとして語っています。 イエス・キリストは言葉となって私たちの心の内にまで宿ってくださったのです。 「言の内に命があった。 命は人間を照らす光であった。」(ヨハネ1:4) この語りかけの「言葉」には「命」があったと言います。 「父の独り子としての栄光」は、「暗闇の中で輝いている。」(ヨハネ1:5)と言います。 ヨハネの集約の言葉が、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネ20:31)と語っています。 ヨハネは、クリスマスの出来事を言葉と命と光によって語ります。 私たちはこの「すでに到来している神の恵み」を信じて受け取っていく。 それぞれに与えられた「信仰」と「生涯」と「命」によって、主なる神の愛とイエス・キリストの愛に触れて、来るべき神の国の完成とそこでの神の憩いのうちに宿ることを願いつつ、私たちの小さな生涯の愛の実をこの地上で結んでいただけるよう、ご一緒に最後まで歩ませていただきたいと願います。
[fblikesend]「完成される愛」 コリントの信徒への手紙一13章12~13節
イエスの誕生物語を眺めますと、世界の片隅の小さな町でひっそりと隠されて、ごく限られた人たちのもとに突然訪れています。 「恐れるな。 わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。 この方こそ、主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。 これがあなたがたへのしるしである。」 最初のクリスマスは、民全体に与えられる大きな喜び、小さな存在である私たちのもとにやってくるもの、私たちの救いの業として訪れるもの、み言葉通り「今日、ここに」現実に見える形となって訪れるものであったと言うのです。 この神の不意の呼びかけが、社会的にも疎外されていた羊飼いたちを突き動かしたのです。 同じように、遠い国の占星術の学者たちをも立ち上げさせています。 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。 わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と、星という希望のしるしが力となってエルサレムにまではるばる旅立たせたのです。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)と言いますから、最初のクリスマスは、幼子イエス・キリストを礼拝するため、神の独り子を与えこの世を愛し滅びることのない新しい命を与えるためでした。 パウロがここで語る神によって賜った「信仰と希望と愛」こそ、イエス・キリストのうえに溢れ出て示されたクリスマスの出来事そのもの、人間としての体を背負わされ神の御子である特権を投げ捨てて、神のもとから切り離され、私たちに「信仰と希望と愛」を注ぎ愛し抜き、一人残らず救い出すために自らこの暗闇の世界に降ってきてくださったイエス・キリストに表された神の救いの働きそのものです。 「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。 だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。 わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようになる。」と「鏡のたとえ」が示されています。 今は部分的に一時的に見ているが、神の国が完成されるその時には神がこの私を知っておられるように、私も神をはっきり知ることになる。 完全なものとして、消えてなくならないものとして見ることになる。 この地上の歩みの中では、キリストの体なる群れをつくり上げるために、部分的に一時的に与えられる賜物がある。 しかし朽ちず、汚れず、しぼまないいつまでも残る賜物がある。 それが、信仰と希望と愛である。 「信仰」とは、土地から養分を吸い上げる「根」、イエス・キリストに結びつき命を得るためのものかもしれない。 「希望」とは、イエス・キリストによって注がれた命によって伸びていく「枝」、来るべき時に神の輝きに与る望みであるかもしれない。 「愛」とは、それぞれの枝に結ばれたそれぞれの実、信仰や希望を通して与えられる賜物、最後まで残るものであるのかもしれない。 当時のコリントの教会は傍からみれば、活気ある教会、多彩で多様な賜物があるように見えたのです。 「信仰なしに、希望なしに、神の愛とキリストの愛をもつことができない。 イエス・キリストなしに、十字架なしに神の愛とキリストの愛を語ることができない。 信仰が、神の前で私たちを正しい者にする。 希望が、私たちを神の愛とキリストの愛の実を結ばせるのです。 信仰と希望は、神の愛とキリストの愛に変えられていつまでも残る。」と言われています。 終わりには、一切のものが神の愛とキリストの愛になる、完成して残るとパウロは言うのです。 この世における神の愛とキリストの愛の完成のしるしは十字架の出来事です。 この道を通ってしか神のもとにたどり着くことはできないのです。
[fblikesend]「アドベントとは」 ペトロの手紙一1章3~9節
手紙の差出人は、「イエス・キリストの使徒ペトロ」です。 イエスの地上の歩みを共にした12弟子の一番弟子であるペトロです。 手紙の名宛人は、「小アジア各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」です。 ローマ帝国の激しい迫害のもと、離散させられ異教社会の中で肩身の狭い思いをしている最初の頃のキリスト者たちの小さな群れです。 彼らをペトロは、「神のご計画、神のみ心」に結ばれて用いられている「選ばれた人たち」と表現します。 パウロの投獄、処罰を受けて、パウロが開拓した小アジア地方の信徒たちに向けて、同じ迫害の苦しみの中にあるペトロ自身が書き記した「励ましの手紙」です。 その冒頭の言葉が、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。」という言葉です。 互いに過酷な状況にありながらも、神への賛美によって始めるのです。 「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(ネヘミヤ8:10)と言われているとおりです。 ペトロは散らされ苦しんでいる人たちに、「神の豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせてくださったではありませんか。 死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えてくださったではありませんか。 あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださったではありませんか。」と呼びかけます。 このように訴えるかつてのペトロを思い起こしてみてください。 イエスの中心的な弟子であったにも拘わらず、こともあろうに慕っていたイエスを裏切り、逃げて、知らないと三度も口を閉ざし、悔いて閉じこもって絶望の中にいたペトロです。 そのペトロに復活されたイエスが、「わたしを愛するか」と三度も直接尋ね、「わたしの小羊を飼いなさい。 わたしの羊の世話をしなさい。」とすべてを赦し、絶望の中から救い出したのです。 「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。 だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)と言われ、涙を拭いながら立ち直らせていただいたのです。 そのペトロが、「終わりの時に準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいる。」とまで語り、失意の中にある散らされた信徒たちを励ますのです。 「今しばらく、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれません。」と言い、そこでは与えられている信仰が「火で精錬される」ように吟味され、日々注がれていく。 「イエス・キリストが再び現れる時」には、その試練に磨かれた「信仰」がキリストの栄光を現わすまでに照らされると言います。 散らされ苦しむ人たちの姿を、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」と表現するのです。 蔑まれ、辱めを受けても、いずれ与えられるであろうすでに準備されている「救い」を見据え確信をもって今を生きる。 解決の出口は一切見えていないけれども、言い尽くせないすばらしい喜びに浸りながら生きる姿に見える。 いずれその「救い」の時がくることを信じている。 希望をもって待ち続けている。 もうすでに「信仰の実りとして魂の救いを受けている」とまで言うのです。 アドベントの時こそ、人となって地上に来られ、十字架の上で贖いを成し遂げてくださって、天に引き上げられたイエス・キリストがこの身に出会って内に宿ってくださるよう待ち望みましょう。 やがて再び来られ神の恵みの世界を完成してくださるイエス・キリストを信じて待ち望みましょう。 待つこと、信じること、期待することを「神の確かさ」と「私たちの小さな決断」をもって希望を先取りしましょう。
[fblikesend]「新しい時に満たされて」 ルカによる福音書5章33~39節
「あなたの弟子たちは断食もしない、飲んだり食べたり」していると、イエスに向けて批判する人々がいます。 「ファリサイ派の人々、律法学者たち」です。 当時のユダヤ教徒たちは、一日3回の祈り、週2回の断食、十分の一の献金をささげることが常識でもありました。 神の国に入るため、神の裁きを免れるためでした。 むしろ、断食して祈ること自体が見せる祈りの姿、最終目的となって、ユダヤ主義の伝統となってしまっていたのです。 イエスは彼らの批判に、「婚礼」のたとえをもって応えます。 「花婿」に出会う時が訪れた。 そのために招かれた「客」として、互いに喜びを分ち合う特別な時がきた。 神の国が「婚礼」に譬えられ、イエスが「花婿」に譬えられ、私たちが祝宴に招かれた「客」に譬えられているのです。 「喜びの時がきた」と同時に、「断食して祈らざるを得ない時がいずれやってくる」とも言われる。 「花婿」であるイエスが奪い取られる時がくると、ご自身の十字架の受難をこの「譬え」をもって予告しておられるのです。 これは、「神のご計画、神のみ心」である。 断食や祈りの果てに、神の国があるのではない。 イエス・キリストの十字架の死と復活のもとにある。 神の赦しと救いのもとにある。 「新しい服、新しい布切れ」とは、イエスによって用意された新しい恵みの生活、イエスに出会うことができた、イエスとこれから後ともにあるという新しい恵みの生活でしょう。 「古い服、布切れ」とは、人の造り上げたものに縛られ、人の造り上げた「正しさ」に閉じ込められた今の生活でしょう。 神の国に入る人は、この招きに応えて、同じ食卓に着き、喜びを分かち合う人たちである。 この新しい恵みの生活の中味である「新しいぶどう酒、それを入れる新しい革袋」を感謝して受け取り、満たされなさい。 新しい命に委ねて生きなさい。 しかし、そのイエスが見えなくなる時が来るかもしれない。 本当の喜び、感謝、希望がわき上がってこない時がくるかもしれない。 かつての古い生き方に戻ってしまったのではないかと思わされる時がくるかもしれない。 神などいるのだろうかと思わされる時がくるかもしれない。 しかし、私たちはもはや、「新しい服、新しいぶどう酒」が備えられていることを知らされています。 イエス・キリストの十字架のゆえに、向きを変えて再び立ち帰ればよいのです。 信仰は、その都度最もふさわしい時にいつも新しく注がれるのです。 そのために神に向かってなされる断食であり、祈りであるはずです。 イエスにその都度招かれて、それに応えて食卓に着くことです。 その時の私たちの状態がどのようなものであるのかは問題ではない。 イエスと再び出会い、イエスと共にいるという現実の実感が、新しい恵みの世界です。 神ご自身が働いて、古いものを突き破って現れ出てくださる、それが「新しい服、新しいぶどう酒、新しい革袋」の姿なのではないでしょうか。 私たちの常識、経験、築き上げられた品性や性格、知恵や技術や心構えなどの「私たちの思い、私たちの計画」を遥かに超えた「神のみ心、神のご計画」なのです。 「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」(コロサイ2:3)と言われるイエス・キリストに出会うこと、触れること、味わうことです。 この体験をすることによって、私たち自身の愚かさ、弱さ、貧しさに気づかされるのです。 「人間の思い、人間の計画、人間の力」では得ることのできなものです。 「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である。」(フィリピ2:13)のです。 信じることができないようなことを、「神のご計画、神のみ心」のゆえに信じることができるようになるのです。 神を畏れず、「自分の正しさ、自分の計画」の側に立たないで、「神の側に立つ者」としていただきたいのです。
[fblikesend]「神とキリストの恵みと平和、神の栄光があるように」ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節
パウロの記した数多くの手紙には、共通している「挨拶」の言葉があります。 今朝の聖書箇所にある「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」という祈りの言葉と、「わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように。」という祈りの言葉と、「イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」という自己表現の言葉です。 この頃のキリスト者の福音宣教には、大きな障害がありました。 ユダヤ教からの迫害により、キリスト者たちはエルサレムから離散させられていきました。 その一方で、この小さなキリスト者の群れの中では、先祖からの伝承である律法を大事にするユダヤ主義的なキリスト者との戦いがあったのです。 割礼を受けなければ救われない、異邦人と一緒に食事をすることはできないなど、律法の戒めに縛られていたユダヤ人キリスト者たちとの戦いがあったのです。 イエスの12弟子でもない、生前のイエスを知らないはずのパウロ、エルサレム教会からの推薦状もない、何の権威も与えられていなかったパウロを、彼らはどうしても神から遣わされた「使徒」であると受け入れることができなかったのです。 律法を守るということに熱心でないパウロの語る福音、行いによらずただイエス・キリストを信じる信仰だけによって救われるとする福音を受け入れることができなかったのです。 これらの批判にパウロは一向に引きません。 「神がわたしを、母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった。」とまで言います。 パウロの語る福音は、「人を救うのは神である。 私たち人間の側の行いが、人を救うのではない。 人の権威が人を救いに導くのでもない。 神の働きがなければ人を救うことなどできない。 神はご自身のみ心を果たそうと、イエス・キリストを遣わして私たちを救い出そうとされた。 イエス・キリストは神のみ心を悟り、与えられた地上の生涯を父なる神に従順に従おうとされた。 私たちの過ちのためにご自身を捧げてくださって、私たちに替わって神の裁きを引き受けてくださった。 神はこうして、主イエス・キリストの恵みと平和へと招いてくださったのだ。」というものです。 この父なる神を、「キリストを死者の中から復活させた父である神」とパウロは表現するのです。 このイエス・キリストの十字架の死と復活に現わされた福音が唯一の福音であり、別の福音に惑わされてはならないと警告するのです。 私たちの側の行いや状態に関係なく、ただ神の憐れみ、神の恵み、神のご愛により、受け取るにふさわしくない者が何の理由も資格もなくそのままの姿で神に引き受けていただくという「恵み」と「平和」を、この地上で赦される限り日々新しく受け取っていくのです。 「恵み」とは、キリストが十字架の死と復活によって与えてくださった神の裁きからの「赦し」でしょう。 「平和」とは、この世の「終わりの日」にしか味わうことのできない神の安息に憩うことをこの地上でも味わうことのできる「交わり」のことでしょう。 この神のもとから注がれる「恵み」と「平和」に満たされて生きるという確信が私たちの心の「平安」なのでしょう。 パウロは、人々からでもなく、人を通してでもなく、神によって召された者だと言います。 この手紙の結びの言葉に、「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。 大切なのは、新しく創造されることです。 わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」と結んでいます。 パウロが語ってきた福音の真理を曇らせる者に対する、「キリストの僕」としての激しい反発があります。
[fblikesend]「麦粒として死ぬのか、生きるのか」 ヨハネによる福音書12章20~26節
有名な「一粒の麦のたとえ」です。 問題は、この「一粒の麦のたとえ」が語られた時と背景です。 イスラエルの民がかつてエジプトから救い出された「救いの出来事」を忘れないようにと、神への賛美と感謝を捧げ続けてきた「過越の祭り」の時です。 十字架に架けられるためにイエスが自ら進んで、真のメシアの姿として「ろばの子」に乗ってエルサレムに入って来られた直後のことです。 「十字架の出来事の時」が来たことを悟り、自ら用意した最後の晩餐に弟子たちを招き一人一人の弟子たちの汚れた足を洗われ、「あなたがたは互いに足を洗い合わなければならない」と、最後の別れを告げた出来事の間に、ギリシャ人たちに語られたイエスの「たとえ」なのです。 エルサレムに巡礼していたギリシャ人たちが、「お願いです。 イエスにお目にかかりたいのです。」と、イエスの弟子であるフィリポとアンデレに掛け合います。 当時の社会では、異邦人の立場で直接イエスの前に出ることなどできないことを十分承知のうえで、それでも「イエスにお目にかかりたい」一心で願い出たのでしょう。 彼らの願いを後回しにして語られたイエスの言葉が、「人の子が栄光を受ける時がきた。」 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」という「たとえ」であったと言うのです。 「人の子」とはイエスご自身のことです。 「一粒の麦が地に落ちて芽を出すこと」は自然界では当たり前のことです。 イエスは、「一粒の麦が地に落ちること」を、「一粒の麦が死ぬ」と表現します。 「芽を出して新しい命の営みが始まること」を「多くの実を結ぶ」と言います。 「わたしが栄光を受ける時がきた。 私に定められた予てより予告していた十字架の出来事が起こされる時がきた。 わたしの地上の命を差し出してその命が死んで失われるなら、地上に生きる多くの人たちが新しい命に生きることになる。 しばしの間、神を見失い、地上の目に見えるものだけに目や耳や心を奪われてしまったこの世に漂う存在が向きを変えて、神を求めて生きる霊性を取り戻し、神のもとへ戻っていく存在につくり変えられる。 わたしが十字架に架けられる姿こそ、父なる神の救いの業を映し出す姿となる。 神の栄光を現わす時となる。」と、イエスはこの「たとえ」を用いて「福音の奥義」を語っておられるのです。 そしてイエスは、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」と付け加えます。 「愛する」とは執着する、「憎む」とは捨てるという意味合いでしょう。 そのままの姿に執着し、変わろうとしない私たちに替わって、私たちの愚かさや弱さすべてを背負って血を流し、死に定められた命を父なる神に委ねてくださった。 自ら帰ることも願い出ることもできない私たちを神ご自身が取り戻すために、御子であるイエス・キリストを献げなければならなかった。 十字架の出来事は、神の決断によって定められた「救いの時」でもあり、神ご自身の痛みを伴う妥協することのできない「裁きの時」でもあったのです。 そのために、イエスご自身がすべてを身に背負って味わわなければならない「わたしが栄光を受ける時」であったのです。 このイエス・キリストの死と復活に与かるなら、その身に「イエス・キリストの命」が現れる。 私たちの身にさえ神の栄光は現れ出るのです。 イエスは、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。 そうすれば、わたしのいるところにいることになる。 父はその人を大切にしてくださる。」と言います。 自分や人のためというところを越えて、十字架に架けられたイエス・キリストに仕えるために生きる。 この世に縛られて生きる自分を捨てて、解放させていただく。 この招きが「福音の奥義」なのではないでしょうか。
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