秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「強く、雄々しくあれ」 ヨシュア記1章1~9節

2023-03-05

 40年にも渡ってイスラエルの民を荒野で導いてきたモーセというリーダーが死んで、新しくヨシュアというリーダーへ交代した経緯が記されています。 この出来事を支えたのは、神ご自身の直接の召し、神ご自身の直接の約束のみ言葉でした。 「いつも共にいる」という神の愛の業、引き継ぐ者の祈り、受け継ぐ者の信仰があったと指し示しています。 
 主なる神は、新しいリーダーであるヨシュアに、「わたしの僕モーセは死んだ。」 だから、「今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。」と第一の命令を下されるのです。 約束の地カナンは、モーセやヨシュアの能力や才覚や指導力で勝ち取っていくものではない。 イスラエルの民の一致団結によって勝ち取っていくものでもない。 主なる神が「モーセに告げたとおり」、「モーセと共にいたように」、ヨシュアを用いてご自身のご計画、約束を果たしてくださる。 主ご自身が準備し、導いてくださると新しいリーダーとなるヨシュアに宣言するのです。 この宣言によって、ヨシュアに大きな変化がもたらされます。 今までは、モーセが告げる言葉に聴き従っていればよかった。 しかし、これからは受けるだけから、受け取ったものをイスラエルの民と分かち合う使命が与えられたのです。 「あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。」と、使命を直接賜ったのです。 第一の命令は、約束の地にイスラエルの民を率いて入りなさいというものでした。 この新しい展開が、モーセの「死」とともに始まった。 この命令のために、主なる神は、「あなたたちの足の裏が踏む所をすべて、あなたたちに与える。」と、もうすでに叶えられたかのようにヨシュアに約束されたのです。 主が準備し、導いてくださっている大きなご計画の中、この世の生と死を越えて、私たち一人一人が用いられて約束の賜物を受け取っていくということです。 第二の命令は、「強く、雄々しくあれ。」と三度まで繰り返されています。 イスラエルの共同体を指揮する人の新たな任命を願うモーセの切実な祈りに応えて主なる神は、「ヨシュアを選んで共同体全体の前に立たせて、見ている前で職に任じなさい。」と段取りまで指示されるのです。 この「強く、雄々しくあれ。 恐れてはならない。 うろたえてはならない。」という命令は、神ご自身の直接の約束に基づいたものである。 そのお方が共にいると宣言し、その使命を直接授けられたものである。 そのお方と共に歩み続けたモーセの祈りにも支えられたものである。 だから、主なる神に信頼し、委ねて、いくら恐ろしくとも、脅えているにしても、疑うことがあったとしても心配することはない。 これが、主なる神にあって、「強く、雄々しく」させていただきなさいという神の憐れみなのでしょう。 第三の命令です。 律法に留まらず、ヨシュア以降の主なる神の呼びかけすべてにおいて、「わたしのみ言葉を、あなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、書かれていることをすべて忠実に守りなさい。」と言います。 これから約束の地に入るに至っても、そこに住んで暮らすに至っても、私たちの口において、耳において、目において、心において、主なる神のみ言葉を離れ置いてはならない。 思い巡らしなさい。 そのような姿にさせていただきなさい。 「そうすれば、あなたはその行く先々で、神の祝福に与ることができる。」 これが、第三の命令のために語られた神の約束です。 神の与える祝福とは、私たちが喜ぶような一時的なものではなく、神が大切にし喜ばれる、神ご自身のご性質にかかわるものなのです。 本来、私たちが与ることのできなくなったもの、失っていたものを、神の憐れみにより、恵みにより味わせていただくものなのです。

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「造られたぶどう園」 マルコによる福音書12章1~12節

2023-02-26

 直前の段落では、イエスがエルサレムに入られて最初に行かれた場所がエルサレム神殿であったことが記されています。 イエスがそこで目の当たりにした光景は、「神を礼拝する場所、祈りの家」であるはずの神殿が、「強盗の巣」に成り下がってしまっているものでした。 この神殿から商人たちを追い出してしまうというイエスの振る舞いが物議を醸し出し、「祭司長、律法学者、長老たち」が「何の権威で、このようなことをしているのか。 だれが、そうする権威を与えたのか。」と迫ってきたと言います。 その際に、「ぶどう園のたとえ」をもってイエスが応じられたのがこの聖書箇所です。
 この主人である神が完備された至れり尽くせりの「ぶどう園」を任されたのが「農夫たち」でした。 神の大きな期待を受け、注がれた神のご愛と恵みに応える存在でした。 今、イエスに「何の権威で、だれからの権威で」と迫る「祭司長、律法学者、長老たち」のことでしょう。 収穫を迎える時、「ぶどう園」の決算を迎える時がきた。 主人は、収穫を受け取るために「農夫たち」のところに「僕たち」を送った。 ところが、「農夫たち」は「僕たち」を捕らえ、袋叩きにし、何も持たせず送り返したと言います。 それでも主人は「僕たち」を送り続けたが、侮辱され殺された。 それでも諦めない主人は、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と望みを失わず、最後に「愛する息子」を送り込んだ。 「農夫たち」は、「これは跡取りだ。 さあ、殺してしまおう。 そうすれば、相続財産は我々のものになる。」と言い、その息子を捕らえ、殺し、「ぶどう園」の外に放り出したと言います。 「ぶどう園」は、「農夫たち」に期待し、その収穫を共に喜ぶために完備された場所であったはずです。 自分たちを「ぶどう園」の主人にしようとする「農夫たち」のために、「僕たち」を送り続け、忍耐をもって主人は語り続けたのです。 最後まで、「ぶどう園」で収穫の実を結ぶように期待して待ったのです。 この「たとえ」は、神と私たち人間との関係を伝えています。 「ぶどう園」がだれによって造られたのか、だれの権威によって支えられているのかを、「何の権威で、だれからそうする権威を与えられたのか」と迫る「祭司長、律法学者、長老たち」に語りかけます。 神が準備し作り出したこの世界で、ついに、神が愛する独り子イエス・キリストを十字架に架けて殺し、神を拒み、神と徹底的に対立し最も深い罪を犯してしまう。 父なる神に遣わされたこの私自身が、父なる神の権威を授けられて、あなたがたに殺され、拒まれ、外に放り出されるために遣わされた「愛する息子」であると、「たとえ」を用いて彼らの問いに応えたのではないでしょうか。 「僕たち」の姿、「愛する息子」の姿を通して、備えられた「ぶどう園」をもう一度見つめ直して欲しい。 神ご自身の民として取り戻そうとされておられるのです。 問題は「さて、このぶどう園の主人はどうするだろうか。 戻って来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない。」という「裁きの言葉」と受け止められかねないイエスの発言です。 イエスはこの「たとえ」を、「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。 これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。」と締めくくるのです。 主人が、戻って来て、愛する息子を殺した「農夫たち」を裁いて、殺して、主人としての権威を回復させようとしたのではありません。 自身の息子を十字架に架けるということを通して示された神の愛によってです。 そのことに気づいて悔い改めたマルコが、このイエスが語られた「たとえ」の最後に差し込み、十字架に架けられ「捨てられた石」となったイエス・キリストを、神が「隅の親石」、あらゆる支配の力を足もとに置かれた「救いの礎」とされたと、「神の祝福の約束の言葉」として受け止めたのでしょう。

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「結びの言葉」 ガラテヤの信徒への手紙6章11~18節

2023-02-19

 パウロはガラテヤの教会の人たちに、この手紙の「結びの言葉」として、「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」と言います。 今までは口述筆記で人に記してもらっていたが、今やどうにも気持ちが伝わらないので「こんなに大きな直筆の字で書いている」と言うのです。 「わたしを神の使いであるかのように、またキリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました。」(4:14)と記しているように、パウロが語る「キリストの福音」を従順に受け入れてくれたガラテヤの人たちが今や、「エルサレム教会から派遣されてきた伝道者たち」に惑わされて心変わりをしてしまった。 「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしはもう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」(4:19)と言うまでになった。 異邦人であるあなたがたに「割礼」という儀式を、「ユダヤ主義キリスト者たち」が受けさせようとユダヤの律法を強要している。 パウロはこのことを、「ほかの福音に乗り換えようとしている。 わたしは、あきれ果てています。」(1:6)とまで言うのです。 できたばかりの当時のエルサレム教会は、まだユダヤ教ナザレ派、ユダヤ教イエス派と言ったところでしょうか。 ガラテヤの教会でも同じように、イエスを信じるユダヤ人信徒がユダヤの律法をないがしろにしているとの疑いや誹謗中傷を避けるため、その矛先をかわすために「割礼」を異邦人たちに強要し、十字架の福音を曲げていることをパウロは知り、「キリストの十字架の福音」の危機を感じ取ったのです。 14節にパウロは、「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものがあってはなりません。」と言います。 「キリストの十字架のゆえに迫害されたくない。 迫害を一身に受けているパウロのようになってしまう。」と思っている人たちが、見せかけの形だけのユダヤ化を受け入れるようにと惑わしている。 「しかし、わたしがユダヤ人から受けている迫害は、キリストの十字架のゆえである。 キリストの十字架は、ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが関係なく、すべての人を無条件に受け入れる神の恵みの出来事である。 行いによって律法を守ることは、もはやその救いの条件ではない。 神の恵みとして感謝して受け取ることが救いの条件である。」と堂々とパウロは言うのです。 この「ユダヤ主義キリスト者たち」を、「肉において人からよく思われたがっている人たち」とパウロは表現します。 パウロの言う「肉」とは、人間が自分の力で成し遂げようとするすべてのものを言うのでしょう。 「人からよく思われたい人たち」は、成し遂げようとしている自分を誇ります。 しかし、パウロは、「十字架だけを誇る」のです。 キリストのゆえに、キリストのために生かされている自分をパウロは肯定するのです。 自分のために「わたしに代わって」架かってくださった「キリストの十字架」だけを誇るのです。 「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされている。 わたしは十字架に、イエス・キリストとともにつけられている。」と告白するのです。 パウロの言う「十字架」とは、イエスの歴史的事実を指し示すだけでなく、自分自身が新しくつくり変えられた事実を語っているのです。 15節に、「大切なのは、割礼の有無は問題ではなく、新しく創造されることです。」と、結びの言葉として語るのです。 手紙の最後に、「新しく創造された神の民の上に平和と憐みがあるように。」と祝祷を祈り、「わたしは、イエスの焼き印を身に受けている。」とキリストの福音の僕であることを宣言し、ガラテヤの「兄弟たち」に向けて、イエス・キリストの恵みがあなたがたの霊と共にあることを、父なる神に執り成しの祈りをもって締めくくるのです。 

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「注がれて示された神の愛」 ヨハネの手紙一4章7~16節

2023-02-12

 ヨハネの手紙一の4章のみ言葉の中から、五つのみ言葉を中心に語らせていただきます。 一つ目は、「愛は神から出るもの」というみ言葉です。 「愛」は、神にのみその起源をもつと言っていることです。 聖書の言う「愛」とは、私たちの中から湧いて出てくるようなものではなく、神ご自身のご性質の中にあるもの、神に特有のものであると言っている。 8節に「神は、愛だからです。」、16節に「神は愛です。」と言っていることです。 神のなさることはすべて、この「愛」から出てくるものであると言い切っていることです。 言いかえれば、神を知るためには、この「愛」以外に知るすべはないと言っているのかもしれません。 「愛」が、神にのみその起源をもつと言うなら、7節「愛する者は皆、神から生まれた者」、「神を知っている者」ということになるでしょう。 これが、二つ目のみ言葉です。 神を知ること、イエス・キリストを知ること、これが神の国に入ること、新しい命に生かされることだと聖書は明確に語っているのです。 8節には、「愛することのない者は、神を知りません。」と言うのです。 この神を知ること、神を知ろうとすること、これが「神の愛」を受け取ることができるようになるということです。 三つ目のみ言葉は、9節の「ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」というみ言葉です。 「神が独り子を世にお遣わしになった。 そのお方によって、わたしたちが生きるようになった。」 イエス・キリストが、私たちと同じ体を背負う人となって、私たちが生きるこの世に降って来てくださった。 そのイエス・キリストが、十字架という悲惨な極刑によって、私たちに代わってこの世に死んでくださった。 そのイエス・キリストの人間としての父なる神への全き従順によって、新しい命、神の国に生きる命が私たちのために授けられた。 私たちが、このイエス・キリストを信じて、倣い、父なる神のもとへ立ち帰ることができる道が切り開かれた。 「ここに、神の愛が示された。」と語っているのです。 「ここに、神の愛が示されました」と言うだけでなく、10節には、「ここに神の愛があります。」と言います。 四つ目のみ言葉です。 私たち人間が何かをしたとか、新しく変えられたとかではなく、すべて神の側で果たしてくださったことの中に、神の愛があると言っている。 私たちが求めて祈ったから、私たちが神を愛したからではなく、父なる神が私たちを愛してくださったから、イエス・キリストがこの世に遣わされて来た。 そのイエス・キリストが、私たちの罪と咎のために、「償ういけにえ」となってくださった。 私たちが、イエス・キリストのゆえに赦された、救い出された、解放されたから、ここに「神の愛がある」と言っているのです。 だから、もう神の愛を求め、捜し回る必要はない。 ここにある「神の愛」を受け取ることだけだ。 私たちがいつでも向きを変えて、感謝して受け取ることのできる十字架という出来事、事実の中に「神の愛」が示され、今、ここで生きて働いてくださっている。 そうであるのに、回り道をして、求めてやまず、探し続けて通り過ぎて行った人々の余りの多さに気づかされます。 第五のみ言葉は、11節の「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」というみ言葉です。 「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださる。 神の愛が、わたしたちの内に全うされる。」とまで言います。 愛の起源が神であるとするなら、神から私たちへ、私たちから互いの私たちへという「神の愛」の流れがあると語っているのです。 神がこの「神の愛」の流れを通して、働いておられることが分かるようになるのです。 私たちが見ることができるようになるのは、この「神の愛の働き」なのです。

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「私たちに代わって飲む杯」 マルコによる福音書10章35~45節

2023-02-05

 12弟子のうちの2人、「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」とイエスに迫ります。 イエスが「何をしてほしいのか」と尋ねると、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」と単刀直入に畳みかけるのです。 イエスがエルサレムの都に入るなら、イスラエルの新しい王になると弟子たちは直感していたのでしょう。 イエスは、「ご自身の苦難の時」が迫っていることを確信し、エルサレムに向かって先頭を切って歩んでいます。 弟子たちには、その苦難の時がくることを三度にもわたって予告し、その覚悟を促しておられたのです。 他の弟子たちも、出し抜いたヤコブとヨハネに腹を立てたと言いますから、腹の中は同じでしょう。 イエスの思いとはかけ離れた弟子たちの姿です。 イエスと弟子たちは、全く別の道を一緒に歩んでいたということです。 「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」とイエスは2人に言います。 何も分かっていない弟子たちに、「杯」と「バプテスマ」という言葉を用いてイエスは尋ねます。 「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか。」と問います。 イエスの言う「杯」とは、神の怒りとしての裁き、苦しみでしょう。 神の怒りにあなたがたは耐えられるのか。 ともに神の裁きを受けるのかと言うのです。 イザヤ書(51:17)が語る「神の憤りの杯」ということです。 バプテスマ=殉教の死と当時用いられていたことを思えば、「わたしが受けるバプテスマ」という言葉も、神の怒りに裁かれる永遠の滅びを指すのです。 この神の裁きに、あなたがたは堪え得るのかということです。 このイエスの問いに、弟子たちは軽率にためらいもなく「できます」と答えるのです。 この弟子たちにイエスは、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになる。 わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。 定められた人々に許されるのだ。」と答えられたのです。 これはどういうことでしょうか。 この二人とのやり取りを終えて、イエスは一同を集めて、「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうではない。」と言います。 神に「定められた者」は、この世の支配や力から解放された者であるはずである。 「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」とイエスは語られたのです。 「仕える」とは、自分のため、自己満足のため、仕える相手を道具や手段としてはならないでしょう。 「僕になる」とは、決して人の権威や支配に隷属するものではありません。 パウロが、「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。 奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラテヤ5:1)と語っているとおりです。 私たちはイエス・キリストにおいてのみ、イエス・キリストのゆえにのみ、僕となり、神に仕え、人に仕えるのです。 イエスご自身が、「仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と言われたように、イエスの生涯は人を神の愛の中に取り戻し、生き返らせるためにご自身をささげる生涯でした。 私たちの過ちの代価として、「贖いとして献げられた」のです。 私たちが本来受けなければならなかった神の憤りの裁きを一身に身に受けたのです。 「私たちに代わって」、「罪人の一人に数えられる」ためでした。 私たちはこのバプテスマを受け、イエスの焼き印を身に受けて、主イエスの飲み干された「杯」を飲み、「定められた者」としてこの地上の生涯を歩むのです。

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「赦し合う開かれた教会」 マルコによる福音書9章38~41節

2023-01-29

 12弟子のひとりヨハネがイエスに、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」と報告します。 主イエスの名は、用いる資格のある者がふさわしく用いられなければならない。 主イエスの名を汚す者は、用いることをやめさせなければならない。 自分たちが与り知らない者が、主イエスの名を勝手に用いてはならないとヨハネは思ったのでしょう。 このヨハネの行動と報告に対するイエスの返答です。 「やめさせてはならない。 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」とイエスは答えるのです。 このイエスとヨハネのやりとりから、イエスのやさしい寛容を指し示している。 いたずらに偏狭にならないよう、弟子たちをイエスが戒めたものである。 自分とは意見の異なる者を追い出さず心を開きなさい。 やめさせないで受け入れない。 それが「赦し合う開かれた教会」であると語る方がおられます。 あるいは、「己に厳しく、人には優しく」という道徳、「敵の敵は味方である」という格言を語っておられるのでしょうか。 ここには、父なる神の大きなみ業、み心を果たす為に、エルサレムに向けて歩み出しているイエスの姿があります。 三度にわたるイエスの十字架と復活の予告にもかかわらず、無理解のまま、不信仰のまま、イエスに従っている弟子たちの姿もあります。 イエスは弟子たちに、今まで「隠されていた、秘められていた」ことを、いずれ訪れる「別れ」を意識しながら教えておられるのです。 しかし弟子たちは、十字架と復活の出来事、聖霊の働きが起こされるまで、イエスが語られたみ言葉を受け取ることはありませんでした。 イエスに対する背信と絶望のうちにイエスが語っておられた神の働きを体験し、ついにイエスのみ言葉のひとつひとつがよみがえってきたのです。 イエスに褒められると意気揚々と報告したヨハネに、「わたしの名を使って悪霊を追い出す奇跡を行うことを、やめさせてはならない。」 「彼らは、わたしたちに逆らわない者、わたしたちの味方なのである。」 「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」と語られた言葉もそうなのでしょう。 イエスは、ヨハネの振る舞いを否定したのではなく、やさしく諭しておられるのです。 イエスの念頭にある「悪霊を追い出す働き」とは、からだの癒しだけではありません。 その人の存在、周りの人々との交わりの回復があります。 新しく生きる命の力が起こされています。 その働きこそ、神の力の働きである。 神の国の訪れである。 勝手にイエスの名を借りて、祈祷師たちが万が一起こすことができたとしても、それが神の大きなみ心のうちにあるなら奇跡は起こるでしょう。 そうすれば、その場にいる人々もまた主イエスの名を受け入れる。 むしろ、イエスは喜んでおられるのではないでしょうか。 これから、「十字架、復活、聖霊の働き」へと続いていく救いの出来事の予兆である。 だから、ヨハネあなたが自らの正しさによって止めてはならないと諭されたのです。 弟子たちは、「イエスの名」の尊さ、重さを十字架の後に知ったのです。 イエスはそうなることが分かっていたゆえに、悪口を言わないだけのささやかな味方を赦し、何も分かっていない弟子たちも赦し、十字架の後、イエスご自身のからだなる教会の群れをつくり上げるために用いられたのです。 いずれ、ご自身の名の「尊さ、重さ」が分かるようになる。 「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」という言葉こそ、後の弟子たちを見据えて語られたイエスの約束であったとよみがえってきたのでしょう。 このイエスのご愛によって築き上げられる教会が真の「赦し合う開かれた教会」です。

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「すべての人が招かれる食卓」 マルコによる福音書8章1~10節

2023-01-22

 「五千人に食べ物を与える」という奇跡と「四千人に食べ物を与える」という奇跡が、マルコによる福音書には記されています。 二つの出来事は、群衆の数も、差し出された食べ物も「五つのパンと二匹の魚」、「七つのパンと少しの魚」と違います。 かき集められた食べた残りが「12の籠に一杯になった、7つの籠に一杯になった」と違います。 この二つの奇跡の出来事には、イエスの癒しの業が先行していることが分かります。 様々な体の不自由な人たちこそ、体が不自由であるそのことだけで人々との交わりを拒まれた人たちです。 「五千人」の出来事は、ガリラヤ宣教を行なっているときのことです。 イエスと弟子たちを追いかけて一斉に駆けつけてくる大勢の群衆を見て、イエスは「『飼い主のいない羊』のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」と言います。 イエスを通してなされる神の最後の呼びかけを、イスラエルの人たちが聞かず、そのイエスを殺そうとまでしていることに対するイエスの深い嘆きです。 神の民であるはずのイスラエルの民が、神の祝福に与っていない有様をイエスは深く憐れまれたのです。 「四千人」の出来事の冒頭に「そのころ」とあります。 ガリラヤとは反対側、ガリラヤ湖の東側、異邦人の地でイエスたちが巡り歩いていたころです。 そのイエスが、四千人の異邦人に向けても、イスラエルの人々と同じ憐れみをもって接するのです。 イエスは、「群衆がかわいそうだ。 もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。 中には遠くから来ている者がいる。 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れ切ってしまうだろう。」と、群集が家路につくことを心配されるのです。 ここは、「人里離れたところ」、食べ物を買いに行くことさえできないところです。 三日間、イエスが語る神のみ言葉に満たされた世界から再び現実の世界に帰って行く、イエスのもとから遣わされていく群衆の帰り道をイエスは心配しておられるのです。 「こんな人里離れた所で、これだけの人に食べさせることができるでしょうか。」と呟く弟子たちに、「飼い主のいない羊」のような群衆を養うのが弟子たちの務めである。 ご自身の群衆に対する深い憐れみを共有してほしいと弟子たちに願うのです。 弟子たちが差し出した七つのパンを取り、感謝と賛美の祈りを唱えてこれを裂き、群衆に配るようにと弟子たちにお渡しになった。 イエスの思いが込められたパンを、弟子たちは人々に配った。 人々は満腹した。 残ったパンを集めると、七つの籠になったと言います。 マルコは「7」というイスラエルの完全数を用いて、イスラエルだけではない異邦人の世界にも、すべての世界がイエスから渡された恵みに満たされたと語っているのです。 イエスの前に差し出されたものは、「七つのパンと少しの魚」です。 残されていた最後の食べ物、ささやかなものです。 これから家路につき現実の世界に遣わされていく群衆を心配して、これらのわずかなものを祝福し、霊肉ともに神の恵みに満たされ遣わされていくようにと、イエスは群集を「解散させられる」のです。 弟子たちに渡されたパンと魚こそ、イエスご自身の十字架により「裂かれた肉体」と「流された血」を弟子たち、群衆にお委ねになったのです。 イスラエルの人たち、異邦人たち、社会から取り残された人たち、すべての人たちに神の恵みの世界は訪れた。 イエスはご自身の十字架の上で、ご自身の食卓をご用意されたのです。 私たちもこの群衆のひとりです。 神の前に立つことを、イエス・キリストの肉体と血によって赦された者です。 本来、神の前に立つことのできない者です。 私たちが差し出すわずかなものを、喜んで受け取って、執り成しの祈りをささげて祝福してくださるのです。 すべての人が、イエスの食卓に招かれているという恵みに与っていることを忘れてはならないのです。

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「交わりを回復するために」 マルコによる福音書7章31~37節

2023-01-15

 イエスたちの群れは、「ティルスの地方、シドンを経て、デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖にやって来られた。」と言います。 聖書地図に従って、その足取りを眺めてみますと、回り道をし、山脈を越え、ユダヤ人たちが住むガリラヤ地方の反対側、ガリラヤ湖の東側の異邦人の地を訪れたことになります。 どこか目的地があって、そこを目指したのではなく、迂回し、無駄な回り道を異邦人の地において繰り返しているのです。 ユダヤ教指導者たちも、ガリラヤの領主であるヘロデ・アンティパスも、イエスたちを秩序を乱す者として捕らえ排斥しようとしていたのです。 身の危険を避けるため、異邦人の地を巡り歩く苦痛の旅であったのでしょう。 しかし、異邦人たちは、「イエスの癒しの業を見て驚き、イスラエルの神を賛美した。」と言います。 イエスがこの地に足を踏み入れたと聞いて、「耳が聞こえず舌の回らない人」を、イエスのもとに連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願ったのでした。 その時になされたイエスの振る舞いです。 「この人だけを群衆から連れ出した。 指をその人の両耳に差し入れた。 唾をつけてその舌に触れられた。 天を仰いだ。 深く息をついた。 そして、その人に向かって『エッファタ』(アラム語で開け)と言われた。」と言うのです。 ユダヤ人は、イスラエルの神の民ではない異邦人たちを見下し、決して交わろうとしない大きな隔てがあった時代です。 忍びながら旅を続けていた異邦人の地での苦痛の旅の途中です。 イエスは、このような息苦しい旅の途中でも、ひとりの「耳が聞こえず舌の回らない人」と出会われるのです。 イエスはご自身と向き合わせるようにと、二人きりとなるようにされるのです。 連れて来られた人は、自ら望んでイエスのもとにきたのではありません。 人任せの心の閉ざされた人であったのでしょう。 二人きりになると、イエスは先ずご自身の呼びかけが聞こえるようにと、直接痛んでいる両耳に触れられるのです。 癒された耳を通して聞き届けられたイエスのみ言葉に、その人が応えて語ることができるようにと、口と舌に直接触れられるのです。 イエスご自身がこの人の痛みや苦しみや悲しみをご自分のものとされたということです。 イザヤが預言した「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。 口の利けなかった人が喜び歌う。 荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。」(イザヤ35:35-6)という預言が、今ここで成し遂げられたとマルコは証しするのです。 イエスは触れられただけでなく、「天を仰いだ。 深くため息をついた。 その人に向けて開けと叫ばれた。」と言います。 「天を仰ぐ」とは、命の源である父なる神に向けて祈るイエスの姿です。 私たちと同じように肉体の弱さを背負わされたイエスは、父なる神のもとから注がれる力と命を受けるためには祈るしかないのです。 「深く息をつく」とは、「呻く」という意味合いの言葉です。 心の閉ざされた人に替わって、その人の痛みも悲しみも憂いも知る者として、共に呻いて祈って執り成してくださったのです。 「エッファタ」という言葉は、マルコにはしっかりと耳に残ったイエスの肉声です。 このみ言葉が語られたとき、その人の「耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」と言います。 この「耳が聞こえず舌の回らない人」とはだれのことでしょうか。 聞くべきものを聞かず、語るべきものを語らず、自分の身を守ることだけに専念する私たちの姿ではないでしょうか。 イエスは祈る術を知らない私たちに替わって、執り成し呻いて祈ってくださっているのです。 身体の癒しだけでない、私たちと神との交わり、私たちと隣人との交わりが回復されるという神の恵みの働きが起こるとマルコは証しするのです。 

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「訪れた刈り入れる人」 マルコによる福音書4章26~29節

2023-01-08

 この短い「成長する種のたとえ」は、マルコによる福音書だけに記されているものです。 「神の国は、次のようなものである。」と言います。 「土に種を蒔く人がいる。」 しかし、その人は、「種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか」知らない。 「土はひとりでに実を結ばせる。 まず、茎、次に穂、その穂には豊かな実ができる。」 そして、「収穫の時がくる。」と言うのです。 神の国の到来とは、収穫の時である。 「神の国」とは、神の恵みに覆われる時、それが実現する時であると言います。 この「たとえ」で語る「種を蒔く人」とは、神ご自身のみ言葉を持ち運ぶ人ということでしょう。 この「種を蒔く人」が知らないと言っているのは、どうして種が芽生えて、茎が出て、穂をつけ、その穂に実がなるのかを知らないだけである。 芽生えや成長には与り知ることのできない神の働きであることを弁え知る蒔いている。 神の国の訪れ、収穫の時がいずれ訪れる希望をもって蒔いている。 そのために用いられている人、イエス・キリストが語られた福音を宣べ伝える人ということでしょう。 パウロが、「大切なのは、植える者でも、水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(コリントⅠ3:6-7)と語っているとおりです。 イエスはこの「たとえ」で、収穫の時がくること、刈り入れの主として鎌をもって立っておられること、すでに種は蒔かれていること、人知れず種は芽生え、成長し、穂をつけ、実を豊かに結び、刈り入れされるのを待っていることを知らせているのです。 イエスご自身の到来によって、この種蒔きは始まった。 しかし、刈り入れは未だ終わっていない。 この神の恵みの種を恵みとして受け取るところに、神の国の実が豊かに結ぶ。 そのことに希望や祈りをもっているかどうか。 この神の不思議な命の成長の働きに信頼を置いているかどうか。 種の成長が実を結んでいくという事実を体感し、味わって喜んで賛美しているかどうか。 そのことを、イエスはこの「たとえ」をもって、群衆にそして私たちに求めておられるのではないでしょうか。 
 蒔かれた種は、ひとりでに成長するのです。 その成長のプロセスはゆっくりで、私たちには分からない。 育みの理由も方法も分からない。 しかし、命がなければやがて朽ちていきます。 命があれば、時が経てば必ず実を結ぶのです。 そこには、命の神秘があります。 種が茎に、茎が穂に、穂が実に、順序立てて進行するのです。 イエスは、「神の国はそのようなものである」とたとえるのです。 神が御心の順序に従って、命を創造し、育み、実を結ばせる。 神の国、神の救いのご計画は順序立てて着実に前進しているのです。 「種を蒔く人」は、豊かな実を収穫しようとして種を蒔いているはずです。 収穫の時が必ずくると希望をもって、喜びのうちに待ち続けているはずです。 「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。」(ヨハネ4:36)とイエスが語っているとおりです。 私たちの中に種が蒔かれ、それを受け入れるなら、必ず実を結ぶ時がくると希望をもっているでしょうか。 説明のつかない、この世の常識や五感を越える神の現実に触れて、その喜びを味わっておられるでしょうか。 福音のみ言葉が語られ、受け取られ、聞かれるところに神の国は訪れます。 どのようなところにおいてでもです。 すでに種は蒔かれているのです。 目に見える現実の中に隠された神の働きによって結ばれた豊かな実に、私たちは注意深く目を留めているでしょうか。 勝手に神の国が訪れるのではありません。 神の働きによって、種が持ち運ばれ、蒔かれ、それを受け入れて応えるところに訪れるのです。 主は、鎌をもって刈り入れ人として立っておいでになるのです。

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「いま、ここに生かされる」 マタイによる福音書2章13~15節

2023-01-01

 マタイによる福音書2章には、ユダヤ領主ヘロデ王、東方の国からやってきた占星術の学者たち、ヨセフとマリアが登場します。 ヘロデ王が、占星術の学者たちから嫌な知らせを聞くのです。 彼は貪欲な権力者で、自身の地位を守るためであるなら家族である妻や息子さえも殺してしまう残忍な人物です。 「ユダヤに新しい王がお生まれになった。」と聞かされ、その子を探していち早く始末しようと企んでも不思議ではないでしょう。 ヘロデは学者たちに、「行って、生まれると言われているその子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。 わたしも拝もう。」と言い、本心を隠し人を操り企てを果たそうとするのです。 神のお告げによって、命じられていた学者たちがヘロデのもとに帰らず、別の道を通って自分たちの国に帰っていったことをヘロデは知って大いに怒ります。 「学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」と言うのです。 クリスマスの喜びの出来事の背後に、このような悲劇が起こされていたとマタイは語るのです。 この学者たちをここまで導いてきた「星」は、最後まできちんと「飼い葉桶の中に置かれた乳飲み子」の所にまで導いています。 なのに、なぜ学者たちはヘロデ王のいる宮殿に寄り道をしたのでしょうか。 話さなくてもよいことをヘロデに伝えてしまったのでしょうか。 その落とし穴によって、罪のない幼子たちが巻き添えをくらって殺されてしまった。 マリアとヨセフもまた故郷を離れなくてはならなくなったのです。 私たちの中にも、ヘロデ王の思いがあるでしょう。 学者たちのような配慮に欠けた振る舞いをすることもあるでしょう。 疑うことも、信じることもあり揺れ動くのです。 これらのことのためにも、イエス・キリストはこの「暗闇」を照らす「光」としてもうすでに乳飲み子の時から始まっているとマタイに教えられるのです。 その一方で、ヨセフの沈黙の姿をマタイは語ります。 ヨセフは、婚約中のマリアを、社会からの侮辱に晒さないよう自らの知恵によって救い出そうとします。 共に生きていく家族という存在の中に、まったくコントロールの効かない存在としてイエスを黙って迎え入れます。 学者たちが去って行った後も、黙って神の呼びかけに耳を傾けようとします。 「起きなさい。 故郷を捨てて、エジプトに逃げなさい。 幼子イエスとマリアを引き連れて行きなさい。 神が告げられるまで、そのエジプトに留まっていなさい。」と命じられるのです。 イエスを迎え入れたばかりに、マリアとヨセフの二人の生活は激変し、根底から覆される。 これがイエス・キリストとの出会いであったと言うのです。 ヨセフはその時々に懸命に考え、悩み、嘆き、苦しみ、それでも神の呼びかけに従った。 このヨセフの沈黙の姿こそ、「神の救いのご計画に用いられた」のではないでしょうか。 私たちの歴史は、神のご計画に従って進みます。 イエスがヘロデの手から守られたのは、イエスの果たすべき「務め」、十字架の救いの出来事を果たし終えるためです。 ヨセフがイエス・キリストに出会ったのは、自分の「いま、ここ」にあるあるがままの姿を見つめさせられるためであったしょう。 私たちは、「いま、ここ」にしか生きることはできないのです。 過ぎ去った過去とは、全く不連続であるように思える。 これからの未来もまた、ぼんやりと見えているつもりだけなのです。 神の業が、はるかに私たちの目や耳や思いを越えているからです。 「いま、ここ」という点の連続ではないかとさえ思わされます。 かえがえのない「いま、ここ」、その意味と目的は、神ご自身が後で説明してくださるのです。 この新しい一年もまたヨセフのごとく、「いま、ここ」を神の呼びかけに、思い煩いの中にも黙ってご一緒に従って歩んで参りましょう。

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