「神なき世界に神を見出す」 マルコによる福音書15章33~41節
イエスが逮捕されてから十字架上で息を引き取るまでの間に、兵士たちは、「ユダヤ人の王、万歳」と敬礼し、葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をはきかけ、イエスを侮辱するのです。 祭司長たちや群衆からも、「十字架から降りて自分を救ってみろ。 それを見たら、信じてやろう。」と侮辱を受けるのです。 イエスが十字架上で苦しまれた昼12時から午後3時のイエスが息を引き取るまでの三時間の間に、「全地が暗くなった。 イエスが絶叫し息を引き取られた。 神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 その一部始終をローマの百人隊長とイエスに従ってきた婦人たちが目撃していた。」と言います。 まるで自分たちが信じる神が、イエスの十字架のうえに何も働かなかったかのように記すのです。 私たちが事あるごとに、「神はどこにおられるのか。」という神への疑いのつぶやきが聞こえてきそうです。 「全地が暗くなった」とは、アモス書(8:9)が預言しているように、神が顔を背けるという神の裁きであったと告げているのでしょう。 そのような時、イエスの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びを百人隊長や婦人たちは確かに聞いたのでしょう。 間違いなく、イエスは絶望のうちに肉において死に、霊においてすべての人が負うべき永遠の滅びを背負われたのです。 その中でも、イエスは「なぜ、どうして」と父なる神に問いかけ、叫び続けておられるのです。 神から見捨てられ、永遠の滅びに自ら身を置くという苦い杯を飲まれた姿です。 私たちは、理由が説明できないもどかしさ、問題の解決や正しい答えを見つけ出せない苦しみを憶える時があります。 神は存在していなければ困る。 私たちのものさしに当てはまる神を探し求めてしまうのです。 自分にとってだけの解決を求めてしまうのです。 私たちにとって栄光に輝く神、正しい神、いつでも解決してくださる神を捜し出そうとするのです。 光の中、成功の中、幸いの中、正しさの中に神を見ることもあるでしょう。 しかし、神はむしろ闇の中、失敗の中、災いの中、罪にまみれたところにこそおられるのです。 イエスの十字架こそ、祭司長たちが侮辱したように、最も神などおられる筈などないところでしょう。 神は、神ご自身からも人からも見捨てられたイエスのもとにおられるのです。 イエスは、ご自身を神の御心に委ね、神の裁きにより引き離された苦しみを味わったのです。 父なる神もまた、ご自身の御子であるイエスを惜しまず、すべての人びとに替わってご自身の裁きのもとに置かれたのです。 イエスとともに、父なる神もまたイエスの十字架の上で苦しんでおられるのです。 イエスの叫びは、絶望の時に発する人の嘆き、父なる神の答えのない嘆きです。 「どうして、なぜ」と父なる神に問わざるをえない現実を味わっておられるのです。 神なき世界と思われるところに、神は私たちとともにおられるのです。 イエスが神の御心を果たし終えた時、「神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた」、神と人とをつなぐものは、神殿や祭儀から替わって十字架のイエスによって再び神に結び付けられた瞬間でした。 直に目撃していたイエスの処刑を確認する立場のローマの百人隊長が、その事実を神によって知らされたのでした。 同じように婦人たちもまた、イエスの復活の最初の目撃者として、すべての弟子たちの信仰の復活を起こしていくのです。 絶望のうちに、神に問い続けながら神なしで死んでいったイエスに苦しみを負わせた神が、イエスとともに背負わせた苦しみを味わっておられるのです。 救いの業を成し遂げたイエスを受け入れた神の存在を、百人隊長も婦人たちも事実として見出すことができたのでしょう。 神なき世界と思われる所に神がおられる事実の発見が、信仰を呼び起こし、礼拝と賛美と祈りの教会を形づくるのです。
[fblikesend]「逃げた私たちを救われた主」 マルコによる福音書14章43~52節
ユダヤ教の指導者たちの陰謀によって、主イエスがローマの十字架刑に処せられるため逮捕され、拘束されていく様子が記されています。 周囲の人々の敵意や無理解の中を、独り沈黙のうちに父なる神の御心だけに従って歩むイエスの姿がここにあります。 「祭司長たち、律法学者たち」こそ、イエスを異端の教師として抹殺したい、亡き者にしたいと願っている人々です。 「彼らに遣わされてきた群衆」は、エルサレム神殿の警備にあたる役人たちでしょう。 中には、ローマの軍隊が入り込んでいたのかもしれません。 そこに、「十二人のうちの一人であったユダ」が、「祭司長たち、律法学者たち」に逮捕する手がかりを与えようと動くのです。 「十二人」とは、イエスご自身が選んですべての秘密を明かして集められた使徒たちのことです。 ユダは、「イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。 彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。 そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡すことができるかと狙っていた」と言います。 ユダは、イエスと弟子たちの秘密の祈りの場所に、武装した群衆を案内し、接吻してこの人がイエスであると示して案内したのです。 「接吻」とは、弟子が愛する教師に行う尊敬の挨拶です。 ユダは念には念を入れて、「先生」とわざわざ呼びかけ「接吻」してイエスを示したのです。 今までイエスに従ってきた「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」と言います。 陰謀をもってイエスを捕らえようとする。 いざ身の危険を感じたら、イエスを置き去りにして逃げ出してしまう。 それぞれの姿が示す、人の本当の姿を垣間見る思いです。 自分の人生は自分のものと思えば、自分のことは自分でする、自分が選択し自分でその責任を果たしていこうとするでしょう。 危険なこと、損得には敏感で、それを嗅ぎ分ける力が自分にはあると胸を張る。 それがこの世の「賢さ」であり、「正しさ」でしょう。
マリアとヨセフの関係を思い起こします。 「マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、マリアは聖霊によって身ごもっていた。 ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」と言います。 結婚した者が犯す「姦淫の罪」は、石打の刑、死罪であるという社会ですから、「ひそかに縁を切ろう」としたことは「正しい」ことであったのかもしれません。 マリアを助ける決断であるなら、マリアを死罪から救うことになるのかもしれない。 ヨセフ自身の身を守る決断であるなら、マリアから逃げることになるでしょう。 神は思い悩むヨセフに、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と言います。 神の言われた通りにするなら、ヨセフもマリアも陰口をたたかれるでしょう。 その時の社会がどうであれ、神は二人にそのままそれぞれの身にこの出来事を引き受けなさいと言っておられるのです。 縁を切ろうとした寸前の二人が、互いに危険を身に引き受け、背負いながらそれでも生きていこうとしたそのところに、イエスの誕生の出来事が起こされたのです。 祭司長たちやユダの思惑通りに事が運びました。 彼らはこの世の勝利者として、「他人を救ったのに、自分は救えない。 今すぐ十字架から降りるがよい。 それを見たら、信じてやろう。」と罵ったのです。 イエスは、神の前に裁かれなければならなかったすべての人のために、その過ちを背負ったまま十字架から降りることはなかったのです。 それが父なる神の御心であったからです。 そのイエスが「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言われるのです。 マリアとヨセフのように、互いに与えられたものをそのまま背負いながら、それでも神の御心に従い共に生きていこうとするところに、主イエスが共にすべてのものを背負い歩んでくださるのです。
「福音に仕え、教会に仕える」 コロサイの信徒への手紙1章21~29節
パウロは直接訪問をしたことのないコロサイの教会について、「キリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について聞いた。 あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞いた。」と言います。 一方で、コロサイの教会が抱える問題をも語ります。 異邦人の地にある教会で、異教の習慣により元の状態に戻るかもしれない弱さをもちます。 掟や戒めに縛られるユダヤ教的な教えも入り込んで、「偽りの謙遜」とパウロは警戒します。 「人間の言い伝えに過ぎない哲学。 むなしいだまし事。」と称し、異端の脅威にもさらされていると警戒します。 これらは、「この世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。」 「わたしたちは、キリストと共に葬られ、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」 そうであるのに、キリスト以外のものに支配されているとパウロは言うのです。 そのようなコロサイの教会の人々に向けて、「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。 しかし今や、神御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者とされた。」 これは、神が御自身の御子イエス・キリストの肉の体において、その死によってあなたがたと和解されたからである。 イエス・キリストとの出会いによって、福音を受け入れたことによって信仰が起こされたからであるとパウロは言うのです。 更に、「イエス・キリストこそ、見えない神の姿です。 神の御子です。 その体である教会の頭です。 死者の中から最初に生まれた方です。 神は満ち溢れるものを余すことなくイエス・キリストのうちに宿らせたのです。 イエス・キリストの十字架の血によって、暗闇のこの世界に平和をうち立て、御自分と和解させたのです。」とパウロは言います。 パウロにとって大事なことは、キリスト教という教えではなく、イエス・キリストそのものです。 このお方に結びついているかどうかだけなのです。 「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、聞いた福音の希望から離れてはなりません。」と祈るのです。 そして、「この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。」と言うのです。 福音は、父なる神によって遣わされたイエス・キリストとの出会いによってもたらされるものでした。 福音が語られ、聞かれ、信仰が起こされるところには、必ずキリストが働かれるのです。 神の救いの業が引き起こされるのです。 教会はキリストのからだです。 その教会の頭はキリストです。 この世に教会が存在するのは、今もってキリストが働くためです。 キリストとの出会いに招くためです。 教会の存在理由は、福音を宣べ伝えるため、福音がもたらされたことを証しするためです。 「あなたがたのために、キリストの体である教会のために、神は御言葉をあなたがたに余すことなく伝えるという務めをわたしに与えられました。 この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。」と告白するのです。 私たちは、キリストの苦しみや悲しみの一端を味わっているでしょうか。 パウロは、「あなたがたのために苦しむことを喜びとしています。 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働くキリストの力によって闘っています。」とまで言います。 信仰はこの闘いがあるからこそ、キリストの力と恵み、神のご愛を味わうことができるのです。 「福音に仕える。 教会に仕える。」とは、「人に仕える。 キリストに仕える。」ということでしょう。 自分自身が神に対するささげものになるということでしょう。 人を通して神に仕え、キリストに仕えるのです。
[fblikesend]「人を通して語られ、聞かれる良い知らせ」 ローマの信徒への手紙10章9~15節
14節に、「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。 聞いたことのない方を、どうして信じられよう。 宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」とあります。 私自身は、神がその都度用いてお遣わしになった方々の人格やお姿を通して、イエスご自身と出会うことができた、イエスご自身が語られた福音のみ言葉が送り届けられたと思わされています。 ここで言われる「呼び求める。 信じる。 聞く。 宣べ伝える。 遣わされる。」というこの順番は、伝えられた側からすれば、「遣わされてくる。 宣べ伝えられる。 聞かされる。 信じるようになる。 主を呼び求めるまでになる。」という逆の順番になるのではないでしょうか。 若き頃のイエスはナザレの会堂で、「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれた。 主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みを告げ知らせるためである。 この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」とイザヤ書を聖書朗読されたのでした。 イエスとの今日の出会いが、福音を私たちにもたらすのです。 もうすでに福音は、私たちのすぐ近くにもたらされているとイエスは言われているのです。
神のみ言葉を「戒め」と受け取って、その「戒め」を忠実に守ることによって、自分の行いによって救われるとすることを「律法による義」とパウロは言います。 神のみ言葉を「福音、恵み」と受け取って、そのみ言葉を受け入れることによって救われるとすることを「信仰による義」とパウロは言います。 神のみ言葉は、それを行うようにと与えられたものでしょうか。 それを信じるようにと与えられたものであるとパウロは言います。 9節で、「口でイエスを主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる。」と言います。 神のみ言葉は、鍛錬に鍛錬を重ねてやっと到達することのできる、はるか遠くにあるものではなく、「あなたの口、あなたの心にある」、すぐ近くにある「私たちの信仰の言葉」だと言うのです。 イエスの中心的な弟子であったペトロでさえも、イエスの十字架の死が自分のためであった、すべての人々の救いのためであったと信じることができなかったのです。 ペトロの目が開かれたのは、復活されたイエスとの出会いの体験があったからです。 ペトロのうえに聖霊が注がれたからです。 今まで隠されていた神の救いのご計画が明らかにされたペトロは、民衆に堂々と「イエスは、私たちの主である。 父なる神が、イエスを死者の中から復活させられた。」とまで叫ぶようになったのです。 私たちの行いの結果でもなく、信仰の高まりでもなく、遣わされる者がいて、福音を伝えられて、聞かされて、福音を信じるようにされて、受け取るように準備までされて、今度は私たちの方から呼び求めるまでにつくり変えられたところに、福音が実現するのです。 「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と語られています。 「喜びを伝える使者の姿」です。 荒野を走り続け、山々を越えて急いで走って行く「足」です。 汚れた「足」であるかもしれない。 回り道を歩く「足」、無駄足を踏む「足」、引きずるようになかなか進まない「足」、立ち止まる「足」であるかもしれない。 その「足」が美しいと言っているのです。 そのような「足」であったとしても、父なる神の「憐れみ深い、恵みに富む、忍耐強い、慈しみの大きい」(詩編103:8)ご愛が注がれるなら、託されている「福音」の輝きのゆえに「美しい」のです。 力も知恵もない私たちでさえも、このご愛に支えられて「福音」を持ち運び、伝えることができるのです。
「離れず、置き去りにしない神」 ヘブライ人への手紙13章1~5節
ヘブライ人への手紙は名宛人もなく手紙の挨拶もありませんが、当時の様々な迫害や困難に出会い自らの弱さや貧しさに気づいて苦しんでいる信徒たちへの励ましの手紙となっています。 最初に、「兄弟としていつも愛し合いなさい。」と言います。 他の聖書の翻訳では、「兄弟愛を続けなさい。 兄弟愛をいつも持っていなさい。」となります。 ここで言う「兄弟」とは一般的な意味ではなく、イエスご自身が「兄弟と呼ぶことを恥としない」と言われた信徒たちのことです。 私たちのことです。 父なる神によって遣わされたイエスご自身に現わされた「神のご愛」に結ばれた神の民のことです。 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。 これがわたしの掟である。 わたしの命じることを行うなら、わたしの友である。 わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」と言われた、イエス・キリストにある兄弟姉妹のことです。 そうであるなら、「兄弟愛を持ち続ける」、「互いに愛し合う」とは、神の民に等しく注がれている「神のご愛」によって満たされ、そこに留まり離れることがないようにということになるでしょう。 「わたしはまことのぶどうの木である。 わたしにつながっていなさい。 わたしの愛に留まりなさい。 わたしのもとを離れることがないように。」とイエスがおっしゃっている通りです。 この手紙では、「イエス・キリストが、神の国に入れるよう新しい生きた道を切り開いてくださった。 私たちと同じ血を流し、肉を裂かれてくださって、新しい命を与えられて、私たちが父なる神の家に入れるようにしてくださった。 父なる神によって、その家を支配される大祭司となってくださった。」と言うのです。 そこに神のご愛がすでに示されている。 そのご愛から離れることがないようにと、この手紙は勧告しているのです。
この神のご愛に憩うなら、もはや「旅人をもてなすことを忘れることはないだろう。 牢に囚われている人たちを思いやるであろう。 虐待されている人たちのことをも忘れないであろう。 神によって結ばれた家庭をも、決して疎かにしないだろう。 ましてや、この世の金や富に目を奪われることはないだろう。」と言います。 もし神のご愛なしに、イエス・キリストの苦しみや悲しみの一端を担うことなしにこれらの言葉を聞くなら、至極当然のことに思えるでしょう。 しかし、誰もがそうしたいと望みながら、その通りに生きていくことは難しいのです。 先行きの見えない厳しい現実であるからこそ、私たちは過ちを繰り返し、挫折し、絶望し、やり直し、学びながら養われていきます。 心から願うことができない自分の弱さや貧しさを見つめさせられます。 自分の力ではできないことばかりです。 神のご愛に触れなければ味わうことのできないことばかりです。 惹いては、苦しみや悲しみを忘れるために、神ならぬものに目を奪われ、拠り頼んでしまうのです。 ついには、神に背を向け、招きに目を閉ざし、耳を閉ざし、振り向こうとしなくなるのです。 悲しい現実です。 イエスは、「いったいどこに立っているのか。 何を見つめているのか。 神のご愛によって赦され、その注がれたご愛を受け取って生きていきなさい。 自分も、もう一人の隣人も、同じ神のご愛を必要としている存在であることに気づきなさい。 その人とともに生かされていきなさい。 このご愛を背負って生きるなら、この世にない恵み、喜びを味わうことになる。 わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない」と言われるのです。 これが神の約束です。 これこそ、神のご愛そのものです。 これ以上のものを、私たちは望むのでしょうか。 創造主なる神は、「わたしの安息に与からせる。 最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となる。」と言われているのです。
「証ししてくださるお方」 ヨハネによる福音書5章31~40節
旧約聖書に書かれていることに精通している専門家であるユダヤ人たちに、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。」とイエスは言われます。 しかしその聖書こそ、「わたしについて証しするものだ。 わたしをお遣わしになった父なる神が、わたしについて証ししてくださっているものだ。」と語ったのです。 イエスは弟子たちに、どれだけ父なる神が私たちを愛し、祝福してくださっているのかを聖書全体を通して説き明かしておられます。 エルサレム神殿に、水が動くとき最初にその池に入る者はその病いが癒されると言われていたベトザタという池がありました。 そこに38年間も横たわって病気に苦しんでいる人がいたと言います。 イエスに「良くなりたいか」と尋ねられた彼は、「水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。 わたしが行くうちに、ほかの人が降りて行くのです。」と、自分の病いが治らないのは、誰も助けてくれないからである。 人のせいであるとイエスに訴えるのです。 その彼にイエスは、「起き上がりなさい。 床を担いで歩きなさい。」と、自らの足で立ち上がりなさいと言われ、38年間も横たわっていた人の病いを癒されたのでした。 イエスは安息日にしてはならない癒しの業を敢えて示されただけでなく、「わたしの父は今もなお働いておられる。 だから、わたしも働くのだ。」と言い、神を自分の父と呼び、神と同じようにふるまったものですから、大工のせがれではないかとユダヤの指導者たちは激しく非難し始めたのです。 その時のイエスのユダヤの指導者たちに対する反論がこの聖書箇所です。
イエスはご自身に対する4つの証言を語ります。 ひとつはバプテスマのヨハネの証言です。 人間が語った言葉を通して、「わたしは人間による証しは受けない。 しかし、バプテスマのヨハネは『わたしよりも優れた方が、後から来られる。 わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 この方こそ、神の子である。』と証ししたではないか。 バプテスマのヨハネは、燃えて輝くともし火であった。」と、ご自身の先駆けの務めをヨハネは果たしたと言われたのです。 二つ目には、イエスご自身がなさった業です。 出来事を通して、「わたしが行っている業そのものは、父なる神がわたしに成し遂げるようにお与えになった業である。 これこそ、父なる神がわたしをお遣わしになったことを証ししたものである。」と言うのです。 癒しや奇跡の業に留まらず、イエスが人のからだを背負って歩まれた生涯そのものの姿が、父なる神がお遣わしになったことを示しているのだと、イエスを霊能者に過ぎないと思っているユダヤ人指導者たちに、起こされた出来事によって神の子であることが証言されていると言われたのです。 三つ目は、父なる神の証言があると言います。 「しかし、この神ご自身の証言は、あなたがたは聞くことができない。 証言している姿も見ることができない。 なぜなら、父なる神がお遣わしになったこのわたしを信じていないからである。 自分の内に、父なる神の語られたみ言葉をとどめていないからである。」と言われたのです。 そして最後は、み言葉による証言です。 「聖書は、わたしについて証しするものだ。 その証しのみ言葉は、あなたがたに命を与えるものだ。 このわたしについての証言を受け入れることが、わたしとわたしの父を信じることである。 命が注がれることである。」と言われたのでした。 この福音書が書かれた目的について、「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスは神の子であると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(20:30)と記されています。 神は、私たちのような小さな存在でさえも、その尊さをご自身自らの方法でふさわしく「証し」してくださるのです。
「イエスとの出会いから」 ヨハネによる福音書9章1~12節
クリスマスは、今まで抱き続けてきた人々の救いの希望の実現という到達点でもあり、神の救いの実現が始まる出発点でもあります。 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)と言います。 必ず訪れる確かな神の約束が「来ること」と、それを信頼して「待つこと」の間に、神のみ心が私たちに信仰と希望を注ぎます。 信仰が祈りと希望を生み出し、その実現が未だ見えていない時に成し遂げられる確信と喜びが与えられると言うのです。 クリスマスの出来事は、神がご自身の独り子を私たちに出合わせ、その救いの御計画を実現させる始まりでした。 自分の身に突然奇跡が起こされ、つくり変えられたひとりの人物がいます。 時は、秋の仮庵の祭りの最も盛大に祝われる最後の日です。 エルサレム神殿に集まっている多くのユダヤ人たちに、「わたしは世の光である。」と宣言された直後の、神殿の境内を出て行かれた時のことです。 「生まれつき目の見えない人」について、弟子たちはその原因と理由をイエスに尋ねるのです。 この時のイエスの有名なみ言葉です。 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。 神の業がこの人に現れるためである。」 イエスは原因に目を向けるのではなく、目的に目を向けさせるのです。 弟子たちが勝手に災いだと思っているところに、神の業が現れると言うのです。 多くの人々に向けて語られた「わたしは世の光である」という宣言を、この「生まれつき目の見えない人」に向けて語り、唾で土をこねる、その泥をその人の目に塗る、シロアムの池に行ってその目を洗いなさいと言われたのです。 言われたことはすべて、安息日にしてはならないことばかりです。 彼の中に信仰があったとは思えないが、目が治りたい一心でイエスの言われた通りにすると、目が見えるようになったと言うのです。 問題はこのイエスとの出会いの後です。 彼を知っている人々は信じることができないので、その事実を否定したり、納得できる説明を求めたりするのです。 ファリサイ派の人々は、安息日に違反したイエスの行いの証拠を得るために尋問を繰り返すのです。 彼は自分の目が癒されたこと、イエスという名前のお方がしてくださったこと、自分が行ったことの事実だけを語ることしかできません。 尋問を受けるにつれて、今まで自分の目が癒されたことにしか目がいかなかった彼が、自分の目を見えるようにしてくださったお方に目を向け始めます。 「神のもとから来られたのでなければ何もできなかったはずである」と、反論するまでに変えられていくのです。 生まれながら光を見ることすらできなかった、将来を見ることもなく諦めていた人がイエスに出会った。 その呼びかけを聞いた。 何も分からないまま、言われた通りに従ってみた。 自分の身に起こされた事実、恵みの証しを与えられた。 目が見えるようになっただけでなく、戻ってきて証言をし事実を捻じ曲げようとする人々に反論するまでにもなった。 目を見えるようにしてくださったお方に目が向くまでになったのです。 そのように変えられた人にイエスは再び出会ってくださるのです。 「あなたは人の子を信じるか」と問い、「その方はどんな人ですか。 その方を信じたいのですが。」と問い返すまでになった彼に、「あなたは、もうその人を見ている。」と言われたのです。 クリスマスの出来事は、神が赤ちゃんの姿をとって私たちの前に現れ出てくださった救いの出来事の始まりです。 この出来事は、今まで閉ざされていた道の終着点でした。 今まで存在していなかった未来の新しい道の始まりです。 イエスとの出会いを体験した人が、新しい目が開かれ、分からないままイエスと共に歩み出すようになる。 すると、イエスの姿が見えるようになるのです。 これが神の業、クリスマスの出来事です。
[fblikesend]「抱きしめ和解させる神」 ルカによる福音書15章25~32節
「主があなたと共におられる」と告げられ、イエスはこの地上に赤ちゃんとして誕生されました。 そのイエスが地上の生涯を送り、死んで、葬られ、復活させられて、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と弟子たちに言われたのです。 イエスがともにおられるということは父なる神とともにいることになると、神は救いの恵みを語っておられるのです。 創世記には、「すべてのものが整ったその最後に、神は人を神にかたどって創造された。 土の塵で形づくり、その鼻に命の息を吹き入れた。 神がそれを見て『よし』とし祝福された。 人が独りでいるのは良くないとして、助ける者を造られた。」と記されています。 神と人をつなぐものは、神の息です。 人はすべてのものが備えられて、それに支えられて、力を借りて生きるようにと最後に造られた存在なのです。 イエスが「赤ちゃん」としてこの世に遣わされたのも意味のあることです。 神との交わりを保たなければ、神に備えられたものや助け手がなければ生きていくことができないのです。 そのことを、「放蕩息子のたとえ」で示しています。 父親からの自由を求めて、自分の思い通りの人生を送ろうと父の家を飛び出た弟息子と、父親の戒めを忠実に守り、父に仕え従ってきた兄息子と、そのふたりを温かく見守る父親が主な登場人物です。 思い描いた自分の理想から困窮の極みまで、奈落の底に落ちて行った弟息子に転換点が訪れたと言います。 「我に返った」と表現されています。 父親の愛情に育まれていた幸いと恵みに初めて気づかされたのでしょう。 その幸いを自ら捨ててしまった愚かさ、その過ちに気づかされたのでしょう。 弟息子は3つの言葉を抱いて、父の家に帰ろうと決心します。 「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。」という告白の言葉と、「もう息子と呼ばれる資格はありません。」という謝罪の言葉と、「雇い人の一人にしてください。」という懇願の言葉です。 これが弟息子のたどり着いた「悔い改め」、精いっぱいの「悔い改め」です。 忘れてしまっていた「からだ」に染みついた父の愛情の記憶が動かせたのでしょう。 何と言われるか心配しながら戻ってきた弟息子に対する父親の姿は、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き接吻した。」と言います。 父親は必ず帰ってくると待ち続けていたのでしょう。 自ら見つけ出して、走り寄って来た。 叱るでもなく、悲しむでもなく、驚くでもなく、呆れたのでもなく、「憐れに思った」と言うのです。 「雇い人の一人にしてください」という用意していた弟息子の言葉を遮るかのように、「息子として」迎え入れ、「抱きしめて接吻し」喜びを表したのです。 弟息子の精いっぱいの「悔い改め」は、父親の大きな愛によって受け止められ成し遂げられたのです。 「悔い改め」は、自分だけの力や決意で成し遂げられるものではありません。 父なる神への信頼と祈りの希望があって、それに父なる神が応えて成し遂げられるのです。 父親はもうひとつの姿を、兄息子に取ります。 勝手気ままに生きた弟息子に責任を取らせることなく、無条件に受け入れている父親に対する兄息子の激しい怒りがあります。 「あなたの息子」と弟を称して言う兄息子に、父親は、「お前のあの弟」と言い和解を求めるのです。 「お前も弟もいつもわたしにつながって一緒にいる」と、父親のもとにいる存在を喜んでいるのです。 私たちは父なる神のご愛のもとになければ、神の赦しがなければ、あるいは人と人との交わりがなければ、和解がなければ生きていくことのできない存在です。 神のご愛が豊かに注がれなければ、赦しも和解も不可能でしょう。 クリスマスは、その救いの出来事の始まりです。 突然のマリアへの呼びかけは、私たちにも及ぶ出来事なのです。
[fblikesend]「定められたとおり」 ルカによる福音書22章14~23節
「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった」と言います。 時は、過越祭の小羊を屠る日です。 エジプトでのイスラエルの民が味わった故事を記念して受け継がれている食事です。 奴隷の身であったイスラエルの民に、「エジプト全土に神の恐るべき死の働きが訪れる。 それが通り過ごして行くように、小羊を屠ってその血を家の柱と玄関に塗っておきなさい。 家の中にこもって、屠られた小羊の肉を食べ尽しなさい。」と告げられたのです。 その災いを免れたイスラエルの民は、縛られていたエジプトから救い出されることになった。 その救いの出来事を忘れないようにと、種無しパンと苦菜、そして神殿で屠られた神にささげられた小羊の肉だけを食べ尽すことを受け継いできたのです。 このイエスと使徒たちとの最後の食事は、イエスが周到に準備した食事でした。 イエスが使徒たちを招いた食事でした。 それと同時に、過越祭で屠られた小羊こそ、イエスご自身であることを示すための過越の食事でした。 罪人を招いて、その罪を贖うためにご自身をささげ、喜びを分かち合う食事でもあったのです。 「わたしのからだと血とを味わうために、この食事を用意した。 そこに、あなたがたを招いた。」と、周到に準備して、使徒たちを招いたイエスの最後の別れの食事、ご自身を犠牲としてささげられた過越の食事であったのです。
そこでイエスは、「神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」 しかし、今は、「見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。」と言います。 救いが完成される時、「終わりの日」には、今日の食事のごとく一緒にわたしはあなたたちと共に食事をする。 しかし、今はと言われたのです。 ユダ以外には身に覚えのないことであったので、「いったい、だれが、そのようなことをしようとしているのかと議論し始めた」と言います。 イエスご自身が選んだ12弟子の中からイエスを裏切ることなど、あってはならないことです。 他の福音書では、ユダは金目的であった、自殺までしたと記され、裏切者の代名詞のように烙印を押されています。 しかし、ルカは、「ユダの中に、サタンが入った」としか記していません。 イエスが招いたその食事の席に着いていたその他の使徒たちは、どうであったでしょうか。 「あなたと一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と答えたペトロですらも、三度にわたって「イエスを知らない」と裏切ったではないですか。 その他の使徒たちも分からないように、イエスを見捨てて処刑の場から去って行ったではないですか。 イエスはすべてご存じのうえで、すべての使徒に向けて、「あなたがたのために与えられるわたしのからだである。 あなたがたのために流されるわたしの血である。 わたしの血による新しい契約である。」と、過ちの赦しが、わたしのからだによって、血と肉によって備えられたと言われているのです。 これは、弟子たちが裏切ろうが従おうが関係なく、父なる神が定められた救いの出来事である。 「わたしは、父なる神が定められたとおり去って行くのです。」と言われたのです。 「わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている」とは、イエスの犯人捜しの言葉でしょうか。 「わたしを裏切るその者は不幸である」とは、イエスの呪いの言葉でしょうか。 ユダの裏切りも、ペトロの裏切りも、父なる神の「赦し」のもとに立ち帰るためのご計画である。 そのための過越のイエスご自身を味わう食事です。 「屠り場に引かれる小羊のように」と預言されたイエスご自身が備えられた食事です。 ここに、裏切り、嘆き、涙を流さざるを得ない「からだ」の弱さを、私たちと同じように背負ってくださったクリスマスの喜びがあります。
「聖書全体に書いてある事柄」 ルカによる福音書24章36~49節
イエスが十字架に処刑された三日後の早朝に、遺体が納められている墓に出向いた婦人たちの姿があります。 信じることのできない復活の事実を知らされた婦人たちは、「震え上がり、正気を失った。」とあります。 その婦人たちからイエスの復活の事実を知らされたエルサレムに残っていた11人の使徒たちの姿があります。 「婦人たちから知らされたイエスの復活の事実は、たわ言のように思われた。」とあります。 イエスが殺されたと暗い顔をして、エルサレムを離れて自分たちの村に引き返そうとしている2人の弟子の姿があります。 「イエスは生きておられる」と告げられた婦人たちの話に驚きつつも、身の危険を感じエルサレムから離れようとしているのです。 その2人に復活されたイエスが旅人の姿をとって話しかけられました。 2人の目は遮られていてイエスだとは分かりませんでした。 しかし、イエスが聖書全体に書かれているご自身の事柄を説明し、一緒の食事の席についた時、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになると2人の目が開けイエスだと分かったと言います。 それで、「2人は時を移さずそこを出発し、危険なエルサレムに再び戻って行った。」とあります。 「そういうこと」を弟子たちが互いに話し合っているその場の真ん中に、驚くべきことにイエスは立って現れたと言うのです。 「シャローム」と挨拶を呼びかけ、「なぜ、うろたえるのか。 どうして、心に疑いを起こすのか。」と言い、ご自身の手と足をお見せになって、「よく見なさい。 触ってみなさい。」と語り、差し出された焼いた魚の一切れを取って食べられたと言うのです。 これが、愛する弟子たちと復活されたイエスの再会でした。 神が起こされた業を、自分たちの五感や理性で捉えようとする弟子たちの姿が浮き彫りにされています。 復活のイエスに出会ったからこそ、彼らにイエスが復活されたことを信じる信仰が起こされていくのです。 死によって終わることのない新しい命の存在に気づかされていくのです。 絶望と諦めの中にも、生きる希望を見い出していくのです。 そのためにイエスは大事なことを二つ述べています。 「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。」と言うのです。 この復活の出来事は、聖書で書かれていたことが実現しただけである。 「うろたえてはならない。 わたしに起こることはすべて聖書に記されている事柄である。 この聖書の言葉の実現が、聖書を悟らせるためにあなたたちの目を開かせる。」と言うのです。 「なぜ、どうして、自分たちのものさしで見ようとするのか。 わたしの手と足を見なさい。 わたしに触れてみなさい。 聖書が記している神が定められた事柄を悟りなさい。 そのために、わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。 そうすれば、心の目が開かれる。 神のみ心を知るようになる。」と言われたのです。 聖霊の働きによる聖書の解き明かしが、私たちの心の目を開かせると言われたのです。 「罪に赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。 あなたがたはこれらのことの証人となる。 高い所からの力に覆われるまで、都に留まっていなさい。」と、イエスは聖霊の力の働きを語られたのです。 弟子たちの驚き、うろたえ、疑いも必要だったのです。 彼らの目は遮られていたのです。 復活のイエスの呼びかけを聞く、復活のからだに触れる大事な時です。 復活のイエスと共に歩き始める大事な時です。 自分の本当の姿を見つめ直し、新しく出発する悔い改めの時です。 自分の救いのためだけでない、自分に連なるすべての人に、和解の場と救いへの道が備えられることに気づく大事な時です。 そのための神の力と知恵が、私たちに授けられる。 それまで、「都に留まっていなさい」と言われたのです。 私たちの都とはどこでしょうか。 そこで、聖書が記している神が定めておられる事柄を祈り尋ね求める大事な時を過ごすのです。
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