秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「キリストのからだなる教会の成熟」 エフェソの信徒への手紙4章1~16節

2023-04-16

 「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」とパウロは言います。 この三つの言い方は、いったいどういうことでしょうか。 最初の「すべてのものの上にあるお方」とは、すべてのものの父である唯一の神です。 創造主なる神、絶対的存在である。 すべてを越えておられる神、「私たちすべての神」ということになるのでしょう。 私たち人間は偶然としか思えないものに取り囲まれています。 しかし、そこには神の必然がある。 神のみ心が果たされている。 神のご計画に私たちが用いられているとパウロは言うのです。 その次に書かれている「すべてのものを通して働いておられるお方」とは、「降りて来られた神」です。 私たちの側近くまでおられて、生活の隅々にまで人間となってくださった神、キリストであるとパウロは言うのです。 地上に降って来て、天に昇って行かれて、ご自身の賜物を地上の私たちに分け与えられたと言うのです。 そして、最後に書かれている「すべてのものの内におられるお方」とは、私たちの内に宿られる神です。 すべての人びとの心の内にあって働いておられる復活されたキリスト、神の霊です。 パウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。 キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)と告白しています。 私たち一人一人の心の内に働く、私たちの日常生活の中にまで働く「私たち一人一人の神」なのです。 
 「わたしたち一人一人に恵みと賜物が与えられるために」、また、「わたしたち一人一人がすべてのものに満たされるために」、「すべてのものの上にあるお方」が「すべてのものを通して働くお方」として、「すべてのものの内におられるお方」としてキリストをこの世に遣わしてくださったのです。 この地上にある私たちの群れ、教会の頭として、このお方が与えられたのです。 「すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(1:22-23) 「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(2:22)とまで語ります。 ですからパウロは、「体は一つ、霊は一つ、希望は一つ、主は一人、信仰は一つ、バプテスマは一つ」と言うのです。 このキリストに結び合わされることによって整えられていく。 それぞれ職務、賜物を与えられて、奉仕の業に適した者とされ整えられていく。 一つのものとなっていく。 この地上において、キリストの体が建て上げられ、キリストご自身が、キリストの霊があらゆるものの中に満ちていく。 これが「すべてのものの上にあるお方」、父なる神のこの世における最終目的なのではないでしょうか。 働いておられるのは、教会という体の頭としてのキリストご自身です。 このキリストに堅く結ばれることによって、私たちは整えられていく。 「キリストに対する信仰と知識において一つのものとなっていく。 成熟した人間となっていく。 キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する。」と言うのです。 パウロは最後に、「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。 キリストの愛によって造り上げられてゆくのです。」と言います。 イエスが愛した愛とは、私たち人間が持ち合わせていない神によって注がれた神の愛です。 ただ憐れみだけによって、キリストに結び合わされて、分に応じて働いて体全体を成長させて、キリストによって注がれる愛によって、教会という体全体は造り上げられてゆくとパウロは宣言します。

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「復活の主、キリストの愛」 ローマの信徒への手紙 8章31~39節

2023-04-09

 マルコによる福音書は、復活したイエスの姿自体を一切描いていません。 それどころか、イエスが復活したという事実そのものがだれにも告げられないままに、唐突に終わっているのです。 週の初めの日朝早く、3人の婦人たちが死者の装いを整えるために、悲しみを憶えながらイエスの遺体を求めて墓に出かけてきたと言います。 ところが、婦人たちは思い描いていた光景とはまるで違う驚きの出来事を目の当たりにします。 自分たちの力では動かしがたいと心配していた墓の石がわきへ転がしてあった。 墓の中にいた人物が、「驚くことはない。 あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。 さあ行って、弟子たちとペトロにこのことを告げなさい。 あの方は予て『復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く』と言われていたとおり、そこでお目にかかれる。 あなたがたは、イエスの遺体をお納めしていた墓の中をよく御覧なさい。」と言うのです。 余りの突然の出来事により、婦人たちは「震え上がり、正気を失った。 余りの恐ろしさに、墓を出て逃げ去った。」と言います。 それほど、イエスの復活は弟子たちにとって衝撃的な出来事であったのです。 この事実を突きつけられた婦人たちは、イエスのもとを離れてしまっていた弟子たちと全く同じように、逃げ去るように復活の主イエスのもとを離れ去ったのでした。 この十字架に架けられ死んだイエスが「復活」という新しい道を歩み始めた出来事こそ、「私たちと全く同じ死ぬべきからだを背負わされて、この世の誘惑も受けるしこの世を恐れることも悲しむことも知らされて、神との交わりを制限されたイエスご自身の、人間としてこの世を歩み通した愛の業である。」と語るパウロは、自らの体験の中でこの「復活」の新しい生き方を味わったのでした。 そのパウロが、「だれが、わたしたちに敵対できますか。 だれが、神に選ばれた者たちを訴えることができるでしょう。 だれが、わたしたちを罪に定めることができましょう。 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」と訴えます。 「神が選んだのであるなら、神が味方であるなら、人を正しく裁くことができるのは神なのであるから」とその理由を述べています。 その理由の中に、「わたしたちすべてのために、その御子さえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」 「復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる。」という言葉を付け加えるのです。 私たちすべての過ちを背負って、神の裁きを替わって受けて贖ってくださった。 復活という生き方、新しい道を切り開いて、自らその道を歩んでくださった。 そこに留まることなく、「復活されたイエスが父なる神のもとで、すべての権威と力を与えられて、私たちすべてのために聖霊を注ぎ出し、励まし、慰め、執り成し続けてくださっている」とパウロは言うのです。 逃げ去った弟子たちも、一言も復活の事実を告げ知らせなかった婦人たちも、確信をもってイエスに敵対していた昔のパウロ自身のためにも、「復活」はすべての人のために一貫して働いてくださるイエス・キリストのご愛と痛みの業であると言うのです。 イエスは神の子であるから、このような道を歩むことができたのではありません。 過ちだらけのこの世においても、イエスは祈りを通して神との交わりが途絶えなかった、み言葉に聴き神のみ心に忠実であったから、神のご愛が注がれてイエスの身に現れ出たのです。 このキリストに現れ出た神の愛は、キリストに結ばれて生きる者には必ず現れ出るのです。

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「先を見ておられる十字架の主」 マルコによる福音書14章66~72節

2023-04-02

 イエスが逮捕され、裁判手続きに入る場面を見ますと、イエスは十字架に処刑されるに際して、ローマ総督ピラトの法廷とユダヤの最高法院の裁判手続きを受けています。 最終的には、ローマの法律によって死刑判決を受け、ローマへの反乱を企てた者として処刑されます。 その前に、ユダヤの律法によって死に値する異端者として裁かれるのです。 ユダヤの最高法院の裁判の前に、大祭司による予審手続きがあったようです。 権力者が皆、大祭司の館に集まり、イエスに対する不利な証言を持ち寄って裁こうとします。 一致した証言がなかなか得られず、立証には不十分であったのでしょう。 ユダヤを代表する大祭司とイエスふたりが、祭司長、律法学者、長老たちが取り囲む中で対峙します。 大祭司は、「何も答えないのか。 この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」と、弁解の機会を与えようとします。 これにイエスは沈黙を続けます。 イエスは、イザヤ書が「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。」という預言により、父なる神のみ心、定めとすでにご自身の死を受け入れているのです。 これにしびれを切らした大祭司が、「お前はほむべき方の子、メシアなのか。」と問い質します。 「ほむべき方の子」とは神の子、「メシア」とは神から油注がれた者、イスラエルを解放する者ということです。 「神の子」と答えれば、神と同等の者とする神を冒涜する者となる。 「メシア」と答えれば、ローマへ反乱を企てる者となるのです。 この大祭司の問いに、沈黙を破って答えたイエスの唯一の言葉が、「そうです。 わたしはある。 わたしはあるという者だ。」と答えたのでした。 イスラエルの民に、神の啓示としてずっと神ご自身が答え続けてこられた言葉です。 「わたしのいるところに父なる神は現れる。 そこに神は共におられることになる。」とイエスは答えられて、更に「全能の神の右に座ることになる。」と答えたものですから、これが決定的な神を汚す言葉となり、取り囲む権力者たち全員がその証人となったのでした。 ついに、アブラハムの信仰により選ばれたイスラエルの民、モーセを通して律法を神より直接授かったイスラエルの民が、その神の子であるイエスの命を狙い、策略し、裁判にかけ、死に至らせた十字架の出来事が果たされたのでした。 人が神を裁く、神が人によって死刑判決を受ける。 この取り返しのつかない過ちを起こしてしまった出来事に、今日の私たちにもこの場面に身を置くようにとマルコの福音書は強く求めているのではないでしょうか。 この隠されていた奥義のイエスの告白は、大祭司の館の中で告げられたのです。 ペトロは、その館の中庭に、「イエスの後を追って、恐れながら従っていた。」のです。 そこにいた人々に気づかれて、「あなたも、あのイエスと一緒にいた。 あの人たちの仲間です。」とペトロは問われて、イエスが予告した通り不意をつかれ「そんな人は知らない」と三度まで否定しまったのでした。 逃げ去ってしまった弟子たちには起こり得なかった出来事です。 大祭司の中庭にまで入って来なければ、吐き出すことのなかった否定の言葉です。 イエスはすべてを承知のうえで、すぐ近くの中庭にいるペトロにも、また逃げ去ってしまった弟子たちにも向けて、大祭司に堂々と「わたしのいる所に父なる神は現れる。 そこに神は共におられる。」と口を開いたのではないでしょうか。 ペトロは、「イエスが言われた言葉を思い出し泣き続けた。」と言います。 生涯背負ったであろうペトロの砕かれた悔い改めの姿がここにあります。 ぼろぼろになったペトロに、その姿を先んじて知っておられたイエスが、館の中と外の違いはあれ同じ場所で、「わたしの羊を飼いなさい」と少し先をご覧になって用いようとされて、沈黙を破って語られたのではないでしょうか。

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「つまずきの主とともに新しく歩む道」 マルコによる福音書14章27~31節

2023-03-26

 最後のエルサレムでの「過越の祭りの食事」と「苦悩するイエスのゲッセマネの祈り」に挟まれた箇所です。 イエスは自ら「過越の祭りの食事」の準備をし、場所までも手配し、食卓の主として振る舞われたのです。 過越祭に屠られる小羊として、パンとぶどう酒をこの後すぐ十字架に架けられ裂かれるご自身の体と流された血に譬えられたのです。 人間が神の子を裁いて、十字架に処刑するという愚かな人間の取り返しのつかない過ちが行われる。 イエスに敵対する者も、イエスを深く敬愛し従ってきた者も、程度の差こそあれ等しくイエスを人間の死に至らせることになる人間の浅はかな姿が浮き彫りになるのでした。 過越の食事が、イエスによる「最後の晩餐」となったその席でのことです。 衝撃的な言葉が、イエスの口から語られるのです。 「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」 それだけではない。 「あなたがたは皆、わたしにつまずく。」とまで言われるのです。 イエスはすべてをご存じのうえで、十二弟子のユダの裏切りもペトロの三度の否定も、他の弟子たちが逃げ去っていくことも予告されるのです。 ゼカリア書(13:7)に「イスラエルの牧者が撃たれ、羊は散らされることになる。 しかし、イスラエルは主の名を呼び求めるようになる。」と書いてあるように、この羊飼いの死こそご自身の死であり、父なる神のご計画に定められたものであるとイエスは言われたのでした。 この「つまずく」という言葉は、イエスの十字架による「死」の意味を理解することも、受け入れることもできない弟子たちの有様、失望と恐れからイエスと共に歩もうとする心を失い、見捨てて離れてしまうという弟子たちの有様を示します。 その言葉の直後にイエスは、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と言われたのです。 これからつまずき倒れ、離れたままになるであろう弟子たちをイエスは放置されず、十字架により裂かれたからだと流された血によって、再びガリラヤに集めると宣言されたのです。 イエスにつまずき、散り散りバラバラになって逃げ出した弟子たちは、復活されたイエスによって再び集められ、立ち上がらされ新しい群れとなると、もうこの時にイエスは約束されているのです。 このイエスの言葉に、ペトロが「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」と猛然と反論します。 この反論にイエスは、「あなたは今日、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と応じます。 「鶏が二度鳴く前に」とは、ほんのわずかな間にということでしょう。 「三度」とは、繰り返し徹底的にということでしょう。 ここまで言い張ったペトロは、その口が渇かぬ間に、「そんな人は知らない」とイエスが言われたとおり三度も否定したのです。 人間の土台が音を立てて崩れていく様を示しています。 イエスはそうなることを十分知ったうえで、「先にガリラヤへ行く」と言われたのです。 この言葉には、「赦し」の意味合いも、生まれ変わらせる神の復活の力も、新しい羊の群れが起こされるという宣言も含まれています。 ペトロに限らずすべての弟子たちに対して語られた言葉です。 ユダでさえも、最後の晩餐の機会を与えてくださっているではありませんか。 ペトロを筆頭に弟子たちは、神の隠された救いのご計画を理解することができなかった。 自分たちが従ってきたイエスが神から捨てられたと思わされたことが、「つまずき」でした。 私たちは、自分だけを頼りにする土台が崩されなければ、「イエスに対するつまずき」を経なければ分からないのです。 自らの貧しさ、はかなさ、弱さの自覚を経て初めて、神の救いの業を味わうことができるのです。 この弟子たちが築き直されて、再びガリラヤに集められて、イエスの十字架の福音を語り始めたのです。

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「過ぎ行くものの中で見出すイエスのみ言葉」 マルコによる福音書13章28~37節

2023-03-19

 イエスは、「いちじくの木から教えを学びなさい。」と言われます。 冬からいきなり訪れる夏の収穫の時期が近づくと裸の枝に葉を茂らせるようになる「いちじくの木」、その枝ぶりを見て夏の近づいたことが分かる。 同じように、終わりの日と思えるような恐ろしい出来事を見たら、「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」と言われるのです。 「人の子」とは、黙示思想の言葉の表現で、終わりの日に現れるメシア、神が最終的に遣わす審判者のことです。 再び現れるイエスご自身を指すのです。 ヨハネの黙示録には、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。 だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をするだろう。」(3:20)と記されています。 「終わりの日」とも思えるような恐ろしい出来事を見たら、再び来られる「イエスの時」が近づいたことを悟りなさい。 「終わりの日」には、新しい世界が始まる誕生の時である。 待ち望んで信じる人は、今は信仰の目で主イエスを見ているが、「その日、その時」には必ず顔と顔を突き合わせて見ることになると言われるのです。 イエスは、この「終わりの日」を、いちじくの木の葉が生い茂り新しい命がみなぎる「収穫の日」、私たちの救いが完成される時、神の裁きが救いの日に変えられる「喜びの日」に譬えておられるのです。 イエスご自身がこれから引き受ける受難の後、別れの最後の教えとして、「その日、その時」の「喜びの日」に備えるようにと、これから苦難に直面するだろう愛する弟子たちを励ましておられるのです。 「これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。」 言い換えれば、これらのことがみな起こるなら、この時代は、この天地はいずれ過ぎ去っていく。 「しかし、わたしの言葉は決して過ぎ去らない、滅びない。」と言われるのです。 「イエスが示されたすべての言葉」、「イエスの十字架と復活の福音」は、過ぎ去ることなく生き続ける、成し遂げられると励ましてくださっているのです。 「その日、その時はだれも知らない。 天使たちも、子も知らない。 父だけがご存じである。」と言い、だから、「気をつけていなさい。 眼を覚ましていなさい。」と三度も繰り返し、イエスの最後の教え「終わりの日の預言」を締めくくられたのです。 しかし、ゲッセマネで苦悩の真っ只中でイエスが祈られていた時、弟子たちはわずかひと時も目を覚ましていることができなかった。 しかし、このような時にさえ、レプトン銅貨二枚をささげた貧しいやもめの姿をイエスは目にします。 また、「なぜ、こんな無駄遣いするのか」と咎められても、純粋で高価なナルドの香油をイエスの頭に惜しげもなく注いだ女性に出会います。 イエスは最後まで耐え忍んで、父なる神の民を愛することに一切をささげておられました。 受難を前にしたこの時に見出した二人の女性の姿に、過ぎ去るものの中に神の御言葉、神の約束の確かさを見出し、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」と語られたのです。 これらすべての苦難は体験することになる。 ご自身の十字架と復活と聖霊の働きによって、神の国の姿をこの世においても見ることになる。 それによって成し遂げられる神の救いの業によって、信じる者には「終わりの日」の命がすでに与えられることになる。 その救いの出来事の完成の時「終わりの日」の始まりに、あなたたちは生かされているとイエスは断言します。 すでに新しい命に生きる者も、地上の命に生きる限り朽ちるべき体による苦しみがあるだろう。 しかし、あなたがたは「終わりの日」を待ち望みながら生きていきなさいと言われるのです。 死に定められた体が、朽ちることのない霊の体に変えられることをうめきながら、希望をもって待ち続けることができるようになると励ましておられるのです。 

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「宣べ伝えられねばならない福音」 マルコによる福音書13章1~13節

2023-03-12

 ひとりの弟子の発言が、思いがけない主イエスの教えを引き出しました。 イエスが「エルサレム神殿の境内を出て行かれるとき」、その神殿を眺めていたひとりの弟子が、「なんとすばらしい石、建物でしょう。」と叫んだのです。 ヘロデ王が46年もかけて修築した大理石に輝く華麗な神殿で、ガリラヤ出身の弟子たちが圧倒されるのはごく自然なことでしょう。 その弟子の言葉にイエスは、「これらの大きな建物を見ているのか。 この神殿は跡形もなく崩壊する。」と衝撃的な言葉を発するのです。 この時もうすでにイエスは、神殿が両替人や鳩を売る人たちの商売の場と成り下がって、すでに崩壊していると見て取られたのです。 このことに留まらずイエスは次々と、「祭司長、律法学者、長老たち」と、この世の権威について、皇帝への税金について、復活やメシアについて様々な論争を繰り返し鋭い批判を繰り返されたのです。 ただならぬイエスの形相に、言葉にならない緊張をもったペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの四人が、イエスが「エルサレム神殿の方を向いて座っておられるとき、ひそかに尋ねた」と言います。 「エルサレム神殿が崩壊してしまう」というこの世の終わりとでも思える恐ろしい出来事は、「いったいいつ起こるのですか。 どのような徴があるのですか。」 この問いにイエスは答えることなく、5節「人に惑わされないように気をつけなさい」、9節「自分のことに気をつけていなさい。」、37節「目を覚ましていなさい。」と語られたのでした。 イエスは、弟子たちが「終末の徴」と思っているものをひとつひとつ示します。 「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、多くの人を惑わすだろう。」 自称メシア、偽メシアといった人たちのことで、ローマ支配から独立しなければならないと武力に訴えるのです。 戦争の騒ぎや戦争のうわさ、民は民に、国は国に敵対して立ち上がること、「そういうことは起こるに決まっている」と言うのです。 「方々に地震が起こり、飢饉が起こる。」 これらの社会的な災害に加えて更に、弟子たちがこれから受けなければならない個人的な苦難をも語るのです。 「地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。」 ユダヤ教の迫害に対する苦難です。 「イエスご自身のために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。」 ローマの権力に対する苦難です。 「わたしの名のために、すべての人に拒まれる。」と言うのです。 更に、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。」 イエスはこう列挙したうえで、「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。 最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 これらは産みの苦しみの始まりである。」と言われるのです。 それらのことは終わりの日そのものではない。 終わりの始まりである、新しい命の誕生であると言われるのです。 そのために、主ご自身がこの世に遣わされてきた。 受難を引き受けようとエルサレムにまで足を運んできた。 それらの出来事がどのようなものであれ、「まず福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。」 ご自身の中に秘められた奥義、これから担われる十字架の受難と復活の事実、神の揺るぎない約束が世界を覆わなければならない。 だから、忌まわしい現実に立ち向かうことができる。 この世の一切の出来事は、神の支配のもとにあるからこそ、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」という約束を信じることができる。 造られた者は造り主の前に立ち、主ご自身に結ばれた生き方に整えられ、主イエスとともに天の王座に着く時がくる。 だから、「気をつけなさい。 眼を覚ましていなさい。」と言われるのです。 終末に結び付けて、今与えられているその時、その場所を軽んじ、見えるものだけを見つめ、神を見つめようとしないことを戒めておられるのではないでしょうか。 このみ言葉こそ、今、語られねばならないみ言葉です。

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「強く、雄々しくあれ」 ヨシュア記1章1~9節

2023-03-05

 40年にも渡ってイスラエルの民を荒野で導いてきたモーセというリーダーが死んで、新しくヨシュアというリーダーへ交代した経緯が記されています。 この出来事を支えたのは、神ご自身の直接の召し、神ご自身の直接の約束のみ言葉でした。 「いつも共にいる」という神の愛の業、引き継ぐ者の祈り、受け継ぐ者の信仰があったと指し示しています。 
 主なる神は、新しいリーダーであるヨシュアに、「わたしの僕モーセは死んだ。」 だから、「今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。」と第一の命令を下されるのです。 約束の地カナンは、モーセやヨシュアの能力や才覚や指導力で勝ち取っていくものではない。 イスラエルの民の一致団結によって勝ち取っていくものでもない。 主なる神が「モーセに告げたとおり」、「モーセと共にいたように」、ヨシュアを用いてご自身のご計画、約束を果たしてくださる。 主ご自身が準備し、導いてくださると新しいリーダーとなるヨシュアに宣言するのです。 この宣言によって、ヨシュアに大きな変化がもたらされます。 今までは、モーセが告げる言葉に聴き従っていればよかった。 しかし、これからは受けるだけから、受け取ったものをイスラエルの民と分かち合う使命が与えられたのです。 「あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。」と、使命を直接賜ったのです。 第一の命令は、約束の地にイスラエルの民を率いて入りなさいというものでした。 この新しい展開が、モーセの「死」とともに始まった。 この命令のために、主なる神は、「あなたたちの足の裏が踏む所をすべて、あなたたちに与える。」と、もうすでに叶えられたかのようにヨシュアに約束されたのです。 主が準備し、導いてくださっている大きなご計画の中、この世の生と死を越えて、私たち一人一人が用いられて約束の賜物を受け取っていくということです。 第二の命令は、「強く、雄々しくあれ。」と三度まで繰り返されています。 イスラエルの共同体を指揮する人の新たな任命を願うモーセの切実な祈りに応えて主なる神は、「ヨシュアを選んで共同体全体の前に立たせて、見ている前で職に任じなさい。」と段取りまで指示されるのです。 この「強く、雄々しくあれ。 恐れてはならない。 うろたえてはならない。」という命令は、神ご自身の直接の約束に基づいたものである。 そのお方が共にいると宣言し、その使命を直接授けられたものである。 そのお方と共に歩み続けたモーセの祈りにも支えられたものである。 だから、主なる神に信頼し、委ねて、いくら恐ろしくとも、脅えているにしても、疑うことがあったとしても心配することはない。 これが、主なる神にあって、「強く、雄々しく」させていただきなさいという神の憐れみなのでしょう。 第三の命令です。 律法に留まらず、ヨシュア以降の主なる神の呼びかけすべてにおいて、「わたしのみ言葉を、あなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、書かれていることをすべて忠実に守りなさい。」と言います。 これから約束の地に入るに至っても、そこに住んで暮らすに至っても、私たちの口において、耳において、目において、心において、主なる神のみ言葉を離れ置いてはならない。 思い巡らしなさい。 そのような姿にさせていただきなさい。 「そうすれば、あなたはその行く先々で、神の祝福に与ることができる。」 これが、第三の命令のために語られた神の約束です。 神の与える祝福とは、私たちが喜ぶような一時的なものではなく、神が大切にし喜ばれる、神ご自身のご性質にかかわるものなのです。 本来、私たちが与ることのできなくなったもの、失っていたものを、神の憐れみにより、恵みにより味わせていただくものなのです。

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「造られたぶどう園」 マルコによる福音書12章1~12節

2023-02-26

 直前の段落では、イエスがエルサレムに入られて最初に行かれた場所がエルサレム神殿であったことが記されています。 イエスがそこで目の当たりにした光景は、「神を礼拝する場所、祈りの家」であるはずの神殿が、「強盗の巣」に成り下がってしまっているものでした。 この神殿から商人たちを追い出してしまうというイエスの振る舞いが物議を醸し出し、「祭司長、律法学者、長老たち」が「何の権威で、このようなことをしているのか。 だれが、そうする権威を与えたのか。」と迫ってきたと言います。 その際に、「ぶどう園のたとえ」をもってイエスが応じられたのがこの聖書箇所です。
 この主人である神が完備された至れり尽くせりの「ぶどう園」を任されたのが「農夫たち」でした。 神の大きな期待を受け、注がれた神のご愛と恵みに応える存在でした。 今、イエスに「何の権威で、だれからの権威で」と迫る「祭司長、律法学者、長老たち」のことでしょう。 収穫を迎える時、「ぶどう園」の決算を迎える時がきた。 主人は、収穫を受け取るために「農夫たち」のところに「僕たち」を送った。 ところが、「農夫たち」は「僕たち」を捕らえ、袋叩きにし、何も持たせず送り返したと言います。 それでも主人は「僕たち」を送り続けたが、侮辱され殺された。 それでも諦めない主人は、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と望みを失わず、最後に「愛する息子」を送り込んだ。 「農夫たち」は、「これは跡取りだ。 さあ、殺してしまおう。 そうすれば、相続財産は我々のものになる。」と言い、その息子を捕らえ、殺し、「ぶどう園」の外に放り出したと言います。 「ぶどう園」は、「農夫たち」に期待し、その収穫を共に喜ぶために完備された場所であったはずです。 自分たちを「ぶどう園」の主人にしようとする「農夫たち」のために、「僕たち」を送り続け、忍耐をもって主人は語り続けたのです。 最後まで、「ぶどう園」で収穫の実を結ぶように期待して待ったのです。 この「たとえ」は、神と私たち人間との関係を伝えています。 「ぶどう園」がだれによって造られたのか、だれの権威によって支えられているのかを、「何の権威で、だれからそうする権威を与えられたのか」と迫る「祭司長、律法学者、長老たち」に語りかけます。 神が準備し作り出したこの世界で、ついに、神が愛する独り子イエス・キリストを十字架に架けて殺し、神を拒み、神と徹底的に対立し最も深い罪を犯してしまう。 父なる神に遣わされたこの私自身が、父なる神の権威を授けられて、あなたがたに殺され、拒まれ、外に放り出されるために遣わされた「愛する息子」であると、「たとえ」を用いて彼らの問いに応えたのではないでしょうか。 「僕たち」の姿、「愛する息子」の姿を通して、備えられた「ぶどう園」をもう一度見つめ直して欲しい。 神ご自身の民として取り戻そうとされておられるのです。 問題は「さて、このぶどう園の主人はどうするだろうか。 戻って来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない。」という「裁きの言葉」と受け止められかねないイエスの発言です。 イエスはこの「たとえ」を、「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。 これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。」と締めくくるのです。 主人が、戻って来て、愛する息子を殺した「農夫たち」を裁いて、殺して、主人としての権威を回復させようとしたのではありません。 自身の息子を十字架に架けるということを通して示された神の愛によってです。 そのことに気づいて悔い改めたマルコが、このイエスが語られた「たとえ」の最後に差し込み、十字架に架けられ「捨てられた石」となったイエス・キリストを、神が「隅の親石」、あらゆる支配の力を足もとに置かれた「救いの礎」とされたと、「神の祝福の約束の言葉」として受け止めたのでしょう。

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「結びの言葉」 ガラテヤの信徒への手紙6章11~18節

2023-02-19

 パウロはガラテヤの教会の人たちに、この手紙の「結びの言葉」として、「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」と言います。 今までは口述筆記で人に記してもらっていたが、今やどうにも気持ちが伝わらないので「こんなに大きな直筆の字で書いている」と言うのです。 「わたしを神の使いであるかのように、またキリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました。」(4:14)と記しているように、パウロが語る「キリストの福音」を従順に受け入れてくれたガラテヤの人たちが今や、「エルサレム教会から派遣されてきた伝道者たち」に惑わされて心変わりをしてしまった。 「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしはもう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」(4:19)と言うまでになった。 異邦人であるあなたがたに「割礼」という儀式を、「ユダヤ主義キリスト者たち」が受けさせようとユダヤの律法を強要している。 パウロはこのことを、「ほかの福音に乗り換えようとしている。 わたしは、あきれ果てています。」(1:6)とまで言うのです。 できたばかりの当時のエルサレム教会は、まだユダヤ教ナザレ派、ユダヤ教イエス派と言ったところでしょうか。 ガラテヤの教会でも同じように、イエスを信じるユダヤ人信徒がユダヤの律法をないがしろにしているとの疑いや誹謗中傷を避けるため、その矛先をかわすために「割礼」を異邦人たちに強要し、十字架の福音を曲げていることをパウロは知り、「キリストの十字架の福音」の危機を感じ取ったのです。 14節にパウロは、「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものがあってはなりません。」と言います。 「キリストの十字架のゆえに迫害されたくない。 迫害を一身に受けているパウロのようになってしまう。」と思っている人たちが、見せかけの形だけのユダヤ化を受け入れるようにと惑わしている。 「しかし、わたしがユダヤ人から受けている迫害は、キリストの十字架のゆえである。 キリストの十字架は、ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが関係なく、すべての人を無条件に受け入れる神の恵みの出来事である。 行いによって律法を守ることは、もはやその救いの条件ではない。 神の恵みとして感謝して受け取ることが救いの条件である。」と堂々とパウロは言うのです。 この「ユダヤ主義キリスト者たち」を、「肉において人からよく思われたがっている人たち」とパウロは表現します。 パウロの言う「肉」とは、人間が自分の力で成し遂げようとするすべてのものを言うのでしょう。 「人からよく思われたい人たち」は、成し遂げようとしている自分を誇ります。 しかし、パウロは、「十字架だけを誇る」のです。 キリストのゆえに、キリストのために生かされている自分をパウロは肯定するのです。 自分のために「わたしに代わって」架かってくださった「キリストの十字架」だけを誇るのです。 「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされている。 わたしは十字架に、イエス・キリストとともにつけられている。」と告白するのです。 パウロの言う「十字架」とは、イエスの歴史的事実を指し示すだけでなく、自分自身が新しくつくり変えられた事実を語っているのです。 15節に、「大切なのは、割礼の有無は問題ではなく、新しく創造されることです。」と、結びの言葉として語るのです。 手紙の最後に、「新しく創造された神の民の上に平和と憐みがあるように。」と祝祷を祈り、「わたしは、イエスの焼き印を身に受けている。」とキリストの福音の僕であることを宣言し、ガラテヤの「兄弟たち」に向けて、イエス・キリストの恵みがあなたがたの霊と共にあることを、父なる神に執り成しの祈りをもって締めくくるのです。 

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「注がれて示された神の愛」 ヨハネの手紙一4章7~16節

2023-02-12

 ヨハネの手紙一の4章のみ言葉の中から、五つのみ言葉を中心に語らせていただきます。 一つ目は、「愛は神から出るもの」というみ言葉です。 「愛」は、神にのみその起源をもつと言っていることです。 聖書の言う「愛」とは、私たちの中から湧いて出てくるようなものではなく、神ご自身のご性質の中にあるもの、神に特有のものであると言っている。 8節に「神は、愛だからです。」、16節に「神は愛です。」と言っていることです。 神のなさることはすべて、この「愛」から出てくるものであると言い切っていることです。 言いかえれば、神を知るためには、この「愛」以外に知るすべはないと言っているのかもしれません。 「愛」が、神にのみその起源をもつと言うなら、7節「愛する者は皆、神から生まれた者」、「神を知っている者」ということになるでしょう。 これが、二つ目のみ言葉です。 神を知ること、イエス・キリストを知ること、これが神の国に入ること、新しい命に生かされることだと聖書は明確に語っているのです。 8節には、「愛することのない者は、神を知りません。」と言うのです。 この神を知ること、神を知ろうとすること、これが「神の愛」を受け取ることができるようになるということです。 三つ目のみ言葉は、9節の「ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」というみ言葉です。 「神が独り子を世にお遣わしになった。 そのお方によって、わたしたちが生きるようになった。」 イエス・キリストが、私たちと同じ体を背負う人となって、私たちが生きるこの世に降って来てくださった。 そのイエス・キリストが、十字架という悲惨な極刑によって、私たちに代わってこの世に死んでくださった。 そのイエス・キリストの人間としての父なる神への全き従順によって、新しい命、神の国に生きる命が私たちのために授けられた。 私たちが、このイエス・キリストを信じて、倣い、父なる神のもとへ立ち帰ることができる道が切り開かれた。 「ここに、神の愛が示された。」と語っているのです。 「ここに、神の愛が示されました」と言うだけでなく、10節には、「ここに神の愛があります。」と言います。 四つ目のみ言葉です。 私たち人間が何かをしたとか、新しく変えられたとかではなく、すべて神の側で果たしてくださったことの中に、神の愛があると言っている。 私たちが求めて祈ったから、私たちが神を愛したからではなく、父なる神が私たちを愛してくださったから、イエス・キリストがこの世に遣わされて来た。 そのイエス・キリストが、私たちの罪と咎のために、「償ういけにえ」となってくださった。 私たちが、イエス・キリストのゆえに赦された、救い出された、解放されたから、ここに「神の愛がある」と言っているのです。 だから、もう神の愛を求め、捜し回る必要はない。 ここにある「神の愛」を受け取ることだけだ。 私たちがいつでも向きを変えて、感謝して受け取ることのできる十字架という出来事、事実の中に「神の愛」が示され、今、ここで生きて働いてくださっている。 そうであるのに、回り道をして、求めてやまず、探し続けて通り過ぎて行った人々の余りの多さに気づかされます。 第五のみ言葉は、11節の「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」というみ言葉です。 「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださる。 神の愛が、わたしたちの内に全うされる。」とまで言います。 愛の起源が神であるとするなら、神から私たちへ、私たちから互いの私たちへという「神の愛」の流れがあると語っているのです。 神がこの「神の愛」の流れを通して、働いておられることが分かるようになるのです。 私たちが見ることができるようになるのは、この「神の愛の働き」なのです。

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