「御言葉を食べる」 エレミヤ書 15章10~16節
紀元前600年頃、エレミヤという一人の預言者がイスラエルの民に与えられました。 自分たちの国が崩壊するという時代に直面した人物でした。 イスラエルにとって最悪の時代に、エレミヤは神の御言葉を語ることを託されたのでした。 「わたしは語る言葉を知りません。 わたしは若者に過ぎませんから」としり込みをするエレミヤに、神の御言葉が臨みます。 「わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、わたしが命じることをすべて語れ。 彼らを恐れるな。 わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す。」 この神の御言葉が語られた後、エレミヤはこの御言葉との格闘の連続でした。 エレミヤに託された神の御言葉とは、「背きを重ね、その背信がはなはだしい」イスラエルの民の犯した罪により、「剣と飢饉と疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす」とまで、神は告げられたのでした。 このエレミヤが生きた時代、そのような神の怒りに、また攻め込んでくる外国の恐怖に脅えて、様々な王たちが懸命に努力し、自分たちの国を守ろうとします。 しかし、エレミヤは、「むなしい言葉により頼んではならない」、エルサレム神殿が破壊され、イスラエルは滅びると真っ向から神の御言葉を語ったのでした。 ですから、エレミヤは、イスラエルの民から嘲られ、孤独を余儀なくされていたのです。 その時のエレミヤの心境が今日の聖書箇所です。 「私の生涯も、わたしの存在も災いだ」とつぶやきます。 「わが母よ、どうしてわたしを生んだのか」とまで嘆きます。 「イスラエルの国中で、わたしは争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男とされてしまっている。 だれもが、わたしを呪っている。」 「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す。」と言われた神に、わたしはイスラエルの人々のために「とりなしの祈りをささげたではありませんか。」 なぜ、応えてくださらないのです。 なぜ、黙っておられるのですか。 「わたしは、人々のあざ笑いにも耐えています。 孤独にも耐えています。 これは、あなたの御言葉を語ったからです。 わたしはあなたのために苦しめられているのです。」と叫んでいます。
しかし、エレミヤはなぜ、そこまでして神の御言葉を語り続けることができたのでしょうか。 いくらでも安全な場所に逃げ出すこともできたでしょう。 しかし、エレミヤはその孤独の悲しみ、嘲りに耐える苦しみの中にも、「あなたの御言葉が見いだされたとき わたしはそれをむさぼり食べました。 あなたの御言葉は、わたしのものとなり わたしの心は喜び踊りました。」と告白しています。 エレミヤは若い頃、「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す。」という神の御言葉を見出すことができた。 この神の御言葉を食べることができた。 このエレミヤと同じように私たちにも、どうしてか分からない神の呼びかけがありました。 その呼びかけに一歩踏み出したという、私たちの小さな生涯の体験があります。 エレミヤは、この主の語りかけの御言葉を「むさぼり食べました。 喜び踊りました。」と言います。 イエスは最後の晩餐の席で、「取って食べなさい。 これはわたしの体である。」 そうすれば、その神の御言葉があなたのものとなる。 その時、あなたはその神の御言葉に生きるようにされると言っています。 私たちには、エレミヤとは違った務めがそれぞれに与えられています。 しかし、神の呼びかけ、神の霊なる御言葉が響いた体験を与えられていることは同じです。 エレミヤが感じて、つぶやいて、破れたように空しく感じることもあるでしょう。 しかし、エレミヤはその生涯をかけて、この神の御言葉をむさぼり食べて生き抜きました。 この過ぎ去ることのない神の御言葉が存在していること。 私たちが霊の助けによって、これこそ神の語りかけであると分かること。 これがわたしたちの救い、本当の希望です。