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「御心が行われますように」 マタイによる福音書 6章9~10節

2015-09-13

 イエスは愛する弟子たちに、「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。 御国が来ますように。 御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」と祈るように、教えられました。 「祈り」は、与えられる神の賜物です。 主イエスを通して、祈ることが赦されたものです。 この恵みのなかに、私たちはあります。 「わたしたちの父よ」と呼びかける私たちとは、誰のことでしょうか。 正しい者も正しくない者も、イエスを信じる者も信じない者も、そして私たちを迫害する者をも含む「わたしたち」です。 イエスが祈っておられるそのそば近くに呼び寄せられて、一緒にその祈りに導かれて祈る「わたしたち」です。 
 イエスは、先ず、「御名が崇められるように」、「御国が来るように」、「御心が行われるように」と祈りなさいと言われました。 私たちの生活のなかで起きてくる願いや悩みや悲しみがあるからこそ、その前に神に向けて祈りなさいと言うのです。 「主の祈り」の最初の三つの祈りは、後の三つの祈りがあるからこそ、先ず、祈るのです。 「御名を崇める」とは、主なる神以外に何ものも神としないという「信仰」の告白です。 「御国が来るように」とは、すでに始まっている神の国が成し遂げられるようにと強く待ち望む「希望」です。 「御心が行われるように」とは、天において成し遂げられている神の御心でもある「愛」が、この地の上にも同じように満ちあふれますようにという願いです。 
 イエスは十字架を直前にして、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言われました。 そして、うつ伏せになって祈られたのです。 「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 これがイエスの地上での生涯の締めくくりの祈りとなりました。 イエスはご自分の意志を行うためではなく、ご自身をお遣わしになった方の御心を行うために天から降って来たと、自覚されておられました。 そのことを、イエスは見失われた一匹の羊を用いて語られました。 父なる神は、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回る。 そこに神の愛がある。 神の御心がある。 父なる神のもとに立ち帰る姿こそ、大きな神の喜びである。 神は喜んで迎え入れてくださると言われたのです。 「天におけるように、地の上にも」なのです。 御名が軽んじられている、踏みつぶされているからこそ、また自分を神とする者たちによって神などいないかのように支配されているからこそ、この地上を歩むキリスト者の姿を、主の祈りは求めているのです。 周囲の雑音に遮られることなく、御名を崇めて、父なる神の限りないご愛と真実に身をゆだねていくキリスト者の「信仰の姿」を祈り求めています。 天において実現している神の国が、今、この地上の世界にももたらされると待ち望むキリスト者の「希望の姿」を祈り求めています。 そして、自分を迫害する者のために祈ることができるようになる神の愛を果たそうとするキリスト者の「愛の姿」を祈り求めています。 神の霊が私たちにもたらす、この「信仰と希望と愛」がひとつの祈りとなって語られています。 イエスの大きなひとつの祈りが、三つの祈りの形となって祈られています。 この地上で、「御名が崇められる」、「御国が来る」、「御心が行われる」のは、このイエスの祈りに支えられた私たちの服従を通して成し遂げられます。 なぜなら、その願いを起こさせ、御心を果たされるのは、神ご自身だからです。 パウロは、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である。」(フィリピ2:13)と言っています。 私たちは、与えられた信仰によって、すでに「神の国」の喜びを持っています。 やがて完成した「神の国」を見ることを待っています。 ですから、私たちに与えられている務めは大きいのです。



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