「母を動かす神の愛」 ガラテヤの信徒への手紙4章21~26節
パウロは、この箇所でふたりの子どもの母を語っています。 創世記を見ますと、アブラハムに「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と主は約束されました。 しかし、いつまで経ってもアブラハムとその妻サラには、子どもが与えられませんでした。 約束の地カナンに入って早や10年が経っています。 待ちくたびれて、ついにサラは主の約束があったにもかかわらず、ひとつの手立てを夫アブラハムに進言します。 サラの女奴隷であるハガルを用いて、子どもをもうけて欲しいと願ったのでした。 主の約束を信じない、早まったサラの思いでした。 そこまで妻が言うのならと、アブラハムはそれを受け容れてしまうのでした。 サラの思惑通り、ハガルはイシュマエルを産みます。 パウロは、この子を「肉によって生まれた子」と表現しています。 すると今度はそのハガルが、主人であったサラを軽んじるようになったと記されています。 人の浅知恵で早まったサラ、その誘いにのったアブラハム、立場が代わり高慢になったハガル、それぞれに人間の弱さが映し出されています。 事はそれだけでは終わりません。 主は、かねて言われた通り約束を果たそうとします。 「来年の今頃、あなたの妻サラに男の子が生まれる」と主が告げると、アブラハムは「百才の男に子供が生まれるだろうか、九十才のサラに子供が産めるだろうか」と疑います。 これを聞いていたサラも「ひそかに笑った」とあります。 信仰の人アブラハムも、それに従ったサラも主の約束は起こり得ないと疑った、信じていなかったのです。 しかし、主は約束された通り、アブラハムとサラにイサクを与えられたのでした。 その子を、パウロは「自由の女から神の約束によって生まれた子」と表現しています。 サラは、このままいけば、ハガルが産んだ子イシュマエルが我が子イサクの妨げになると予感したのでしょう。 再び、「あの女とあの子を追い出してください」とアブラハムに進言したのです。 人は身勝手なものです。 アブラハムは、どちらの子も自分の子であったから非常に苦しんだとあります。
しかし、主はそれぞれの弱い人間に応えておられるのです。 アブラハムには、「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。 すべてサラの言うことに聞き従いなさい。 あなたの子孫は、サラの子イサクによって伝えられる。」と約束を告げたのでした。 しかし、その一方で、「あの女奴隷の息子も一つの国民の父となる。 彼もあなたの子であるから。」と告げられたのでした。 アブラハムはやむを得ず、パンと水の入った革袋をハガルに与え、イシュマエルを連れ去らせたのでした。 ついに革袋の水がなくなり息子の死を覚悟したハガルに、主は「ハガルよ、どうしたのか。 恐れることはない。 神はあそこに、今にも死にそうになっている子供の泣き声を聞かれた。 立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい。 わたしは、必ずあの子を大きな国民にする。」と言われたのです。 捨てられた者、苦悩の中にいる者とともに私はいる。 新しい道を備えると主は語られたのです。 主は、イサクの神でもあるとともに、イシュマエルの神でもありました。 問題があったかもしれないそれぞれの母を動かして、主はその子を憐れんでくださっている。 それぞれに、主の約束を語り、苦悩を憐れみ、新しい道を備えてくださるのです。 「肉によって生まれた者」、「古い律法の契約で縛られてしまっている奴隷の子」でも、イエス・キリストの十字架という愛を私たちに与えて、主は「霊によって生まれた者」、「律法から解放された自由の子」、「新しい約束によって生まれた子」にされる。 ですから、もう二度と、奴隷のくびきに繋がれてはならないとパウロは強く主張しています。