「霊をもって、まことをもって」 ヨハネによる福音書 4章20~26節
イエスは、旅に疲れて井戸端に座っていたひとりのユダヤ人の姿をとって、「水を飲ませてください」とサマリアの女性に語りかけます。 彼女は、そっけなく答えます。 「ユダヤ人のあなたが、サマリアの女のわたしにどうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」 それもそのはずです。 ユダヤの人々はサマリアの人々を蔑んで、話をすることさえ避けていたのです。 そんな彼女にイエスはこう語ります。 「あなたが神の賜物をもっていたなら、あなたの方から生きた水を求めるだろう」、「あなたが今『水を飲ませてください』と言っているのがだれであるか分かっていたなら、あなたは生きた水を与えられたであろう。」 残念ながら、彼女はイエスの語る意味が分かりません。
このようにして始まった井戸端でのイエスとの出会いが、彼女を変えていきます。 彼女は、イエスから語りかけられる。 胸の奥深く隠していたものが次々と吐き出されていく。 素姓を隠して生きてきたすべてのことが、さらけ出されていく。 ついに彼女は、「この井戸に水をくみに来なくてもいいように、あなたの言う渇かない水をわたしにください」と語るまでになったのでした。 彼女は、自分のすべてを見抜くこのお方は預言者ではないかと感じながら、思いつくままにイエスに疑問を投げかけます。 私たちサマリア人は、この山できちんと礼拝をささげてきた。 そうであるのに、あなたがたユダヤ人は、礼拝すべきところはエルサレムであると言う。 彼女は、礼拝すべき場所を問題にしたのです。 しかし、イエスは、「この山でもエルサレムでもない所で、私を遣わされた父なる神を礼拝する時がやってくる。 霊と真理をもって礼拝する時が来る。 今がその時である。」 イエスは、礼拝をする場所ではなく、だれを、どのように礼拝をささげるのかを問題にしたのです。 だから、「婦人よ、わたしを信じなさい。」と言われたのでした。
振り返ってみれば、井戸に向って水を汲みに来た彼女の歩みは、すべてイエスの前に出て行く道のりでした。 イエスが、その前に進み出て来る彼女を待っていた。 そして、『水を飲ませてください』と語りかけられた。 サマリア人として、また女性として距離を置こうとした彼女を、二人だけの立場に引き出して、イエスの問いに応えざるを得ないところに彼女を立たせた。 イエスの前に自分のすべてをさらけ出した彼女の姿こそ、イエスに招かれた父なる神への礼拝の姿ではないでしょうか。 「ここにくみに来なくてもいいように、渇かない水をわたしにください」という彼女の本当の願いに、「あなたが一番ほしいと思っているものをわたしから今、得ることができるだろう。」 だから「婦人よ、わたしを信じなさい」とイエスは言われたのです。 「キリストと呼ばれるメシアが来られて、わたしたちに一切のことを知らせてくださる」と漠然と待ち望んでいる彼女の希望に、それが「あなたと話しているこのわたしである」とイエスは言われたのです。 イエスは、父なる神は「霊と真理をもって礼拝する」民を求めておられる。 それが神のみこころである。 そうであるのに、ないがしろにされているまことの礼拝が再び回復されるために、神は新しく「霊と真理をもって礼拝する」民を起こされる。 それが私たち、イエスに結ばれて新しく創造された民なのです。 イエスのもとからくる霊に与かって礼拝をささげる。 事実として現れたイエスのまことのみことばとお姿によって礼拝をささげる。 まことの礼拝をささげる新しい民を起こすために、父と子と霊の神がこの地上でともに働いておられるという神の真理の事実に支えられて、場所ではなく自分自身をささげて礼拝をささげる。 そのことをイエスは、彼女を通して語られたのです。