「一緒に住んでくださる神」 ヨハネによる福音書14章23~31節
この世での死を前にしたイエスの、弟子たちへのお別れの言葉が綴られています。 十二弟子のひとりイスカリオテのユダが、イエスを裏切るためにすでに最後の晩餐の席を退席しています。 十二弟子のなかでも最もイエスに近いと言わわれたペトロさえも、これから起こる出来事によって、「イエスを三度知らない」と言うとイエスに予告されています。 イエスご自身からも、「エルサレムで多くの苦しみを受け、殺される」と打ち明けられています。 弟子たちは自分たちがどうなってしまうのか想像もつかなかったことでしょう。 しかし、もっとも彼らを動揺させたことは、自分たちの生涯をかけて従って来たイエスが、なぜ殺されなければならないのか、その理由が分からない。 自分たちが生きて来た根拠、これから生きる拠り所を失ってしまう。 今、そのような状態にある弟子たちに、イエスは「心騒がせるな。 神を信じなさい。」と言われました。 私は死んでなくなってしまうのではない。 死んで、父のもとへ行って、「あなたがたの住む場所を用意しに行く。 行って、あなたがたのための場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」と、イエスはご自分の死と復活を、そのように表現されたのでした。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。 あなたたちの住む場所をそこへ行って用意してくる。 用意ができたら戻ってくる。 あなたがたを迎える。 そうすれば、わたしのいるところに、あなたがたもいることになると約束してくださったのです。 イエスの語られたみことばや行いが思い起こされ、すべてが分かるように「弁護者」が、父なる神から与えられると約束されました。 その「弁護者」とは、「わたしの名によって父のもとから遣わされるものである。」 「弁護者」こそ、死んでよみがえられた姿を変えた主イエス・キリストです。 私たちは、これを「聖霊」と呼びます。 この目に見えない「聖霊」が、二千年もの間、私たちを導き、十字架につけられてよみがえられた主イエス・キリストの務めを担っているのです。 イエスが「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。」 「わたしを愛する人に、わたし自身を現わす」と語ってくださったイエスの約束を、弟子たちはこの「聖霊」によって思い起こしたのです。 イエスは、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。 わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」と言われたのです。 イエスを愛する人は、イエスの言葉を守る。 イエスと父なる神がその人とともに住んでくださると言うのです。 見るも無残な、弱々しい、今にも崩れそうな私たちのうえに、一緒に住んでくださると言うのです。 弟子たちは心騒がせていました。 脅えていました。 その弟子たちに、「心騒がせるな。 脅えるな。 神を信じなさい。」 「弁護者が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」 そうすれば、父なる神と子なるイエスが一緒に住むことになる。 そこに「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」 「このわたしが与える平和は、世が与える消えてなくなるようなものではない」と言われたのです。 私たちは、闘いがあるから心騒がせるのです。 この世の闘いに脅えるのです。 このような闘いにある、心騒がせる者、脅える者に、イエスは「さあ、立て、これから出かけようと」と、先頭切ってくださっているのです。 弟子たちは、このイエスの言葉を「聖霊」によって思い起こし、これから試練に立ち向うこの世にない「平安」と「勇気」が与えられたのです。 「聖霊」が宿るところ、「父なる神と子なるイエス」が一緒に住んでくださるところに、この世にない平和が与えられるのです。