「十字架の言葉」 コリントの信徒への手紙一1章18~25節
イエスが十字架刑によって処刑されたゴルゴダの丘には、三本の十字架が立ちました。 遠くからその三本の十字架を眺めるだけの人々にとっては、その違いが分かりません。 イエスの十字架と、あともう二つの強盗の十字架がどう違うのか分かるはずもありません。 何も分からなければ、イエスという一人の人物が処刑されて十字架上で死んだ。 ただそれだけの事実です。 十字架の事実は、その意味が語られなければ、ひとりの犯罪者の死を知らせるだけの事実に留まります。 神は、そこに十字架の言葉を語る人を備えられたのです。 イエスの十字架を間近に見ていたローマの百人隊長です。 イエスが十字架上で息を引き取られたのを見て、「本当にこの人は神の子であった」と語り出したのです。 それだけではない。 イエスが復活した後に聖霊が弟子たちのうえに降り、次々と同じ十字架の信仰の告白が「生きた証しの体験」として語られ始めたのです。 ですから、パウロは「十字架の言葉は、十字架の意味を知ろうとしない滅んでいく者にとっては、愚かなものである」、しかし、「私のためと十字架の言葉を感謝して読み取っていく者にとっては、神の力である」と言うのです。
「この世の知恵ある人、学者、この世の論客はどこにいる。 自分の知恵で神を知ることも、神の救いを得ることもできなかったではないか。」と言います。 「そこで」、神は「宣教という愚かな手段によって、信じる者を救おうと決意された」と言うのです。 パウロは、神の業を「宣教という愚かな手段」と表現します。 神は、すべてを一気に解決しようとする方法ではなく、ひとりの人間が罪を悔い改めて、神のみこころに答える新しい人間を再び創造するという方法を取られるのです。 すべての人が、この招きに導かれている。 問題は、長きにわたって呼びかけられ招かれていることに気づき、それに信頼する決断をもつことができるかどうかです。
ここに、人間を代表するふたつの姿が記されています。 しるしを求めるユダヤ人と、知恵を探し求めるギリシャ人です。 この世の「しるし」を見て確かめることによって、納得して信じる人の姿です。 もうひとつの姿は、この世の知恵によって満足する答えを探して、信じる人の姿です。 どちらの人々にも、イエスの十字架が語る姿は敗北を証明している姿です。 説明のつかない、理解できない愚かなつまずきの姿です。 しかし、パウロは、ユダヤ人であろうが、ギリシャ人であろうが、「十字架につけられたイエス・キリスト」の姿は、神に「召された者には、神の力、神の知恵である」と言います。 この十字架につけられたキリストこそ、私たちを永遠の滅びから救う「神の力、神の知恵」であると言っているのです。 信じられなかった、ためらった、決断がつかなかった、最後まで信じることができなかった私たちでした。 その取るに足りない私たちを、神が呼んで招いてくださったから、この愚かなものとしか見えない「十字架につけられたイエス・キリストの姿が語る言葉」が、神の力、神の知恵であることが分かったのです。 私たちが別々に辿っているように見えるこの道も、神のみもとへ至る、十字架につけられたイエス・キリストの姿が語るただひとつの「救いの道」なのです。 私たちは、この神が決意された「宣教という愚かな手段によって」、一人一人の悔い改めによって新しくされた者です。 「十字架の言葉」が教会の塔を飾るだけのシンボルにならないで、生きて鳴り響かなければなりません。 私たちの生活の中で、息づいていなければなりません。 この感謝と喜びと希望のうちに歩んで参りたいと願います。