「僕イエスの名によって」 使徒言行録4章23~31節
イエスの弟子であったペトロとヨハネは、神殿の祭司や守衛長たちによって取り調べのために捕らえられていました。 そのふたりが釈放されて仲間のいるところに戻って来たのが、この聖書箇所の場面です。 この二人にとって、捕らえられ、牢の中に閉じ込められても戻るところがあった。 いや、出かけて行って、働いて、戻ってくるところがあったのでした。 そこが「仲間のいるところ」でした。 自分たちの身に起きた出来事を包み隠さず、残らず話すことができるところ。 ふたりの話を聞いて、仲間たちが直ちに「心を一つにして、神に向って声をあげ、祈るところ」でした。 十字架の後、復活の主イエスに出会った弟子たちの姿は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と記されています。 これが最初の教会の姿です。 教会は、みことばが語られ、出かけて行って神の業を働いて、再び戻って来て、分かち合い、祈り合うところでした。 二か月前にイエスを十字架にかけた大勢の人々が取り巻いている状況は何ら変わっていません。 ペトロ自身も二か月前には、イエスという名の人は知らないと三度言って、大勢の人々を恐れて身を隠した人物です。 そのペトロがまったく別人のように、この二カ月の間に変わってしまった。 神殿に出かけて行って、説教を語り始めた。 「悔い改めなさい。 イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。 そうすれば賜物として聖霊を受けます。 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、主が招いてくださる者なら、『だれにでも』『めいめいに』約束されている」と語り始めたのです。 ですから、さっそく神殿を守る者たちによって捕らえられていたのです。 ペトロは、大胆に説教を語っただけではありません。 足の不自由な人を、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。 イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と語り、癒しの業もしています。 説教のなかでも、取り調べのなかでも、「わたしは、復活の主イエス・キリストの証人です」と証しもしています。 ペトロは、二か月前では考えられない大胆な説教と証しと癒しの業をなすまでになっていたのです。 このペトロたちが釈放されて、仲間たちのところに戻って来た時に、そこに祈りが起こされています。 イエスの身に起きた事も、自分たちの仲間であるペトロとヨハネの身に起きた事もすべて、「実現するようにとみ手とみ心によってあらかじめ定められていたこと」が行われたのだと確信して祈っています。 迫害さえも、脅しさえも、父なる神のご支配の中にあると信じ、告白しています。 自分たちの身に起きているこの迫害や脅しにどうしたらよいですか、自分たちを守ってくださいという祈りではありません。 「思い切って大胆に御言葉を語ることができるように」、「僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるように」と祈っています。 神がしてくださることはすべて神に委ね、自分たちがなすべきことを神に徹底的に求め、イエス・キリストの名を挙げて祈っています。 ペトロは後悔や反省をしたのではありません。 復活の主に出会い、聖霊を受けて、その古い自分を離れ、捨てて、まったく新しい自分に生き、歩み始めたのです。 ペトロの決断や勇気や努力がそうさせたのではありません。 聖霊がなせる業です。 ペトロは、「イエス・キリストの名を呼べば、賜物として聖霊を受けます。 皆、救われる。」と言います。 神は、ご自分を崇めなかった者、もうどうすることもできないと絶望した者を用いておられる。 絶望した者が、何も頼るものがなくなった者が、主イエス・キリストの名を呼び求める。 神は、私たちの無力さ、弱さ、貧しさの中にこそ働いてくださるのです。