「私たちの決算の日」 ルカによる福音書 16章9~13節
不正を積み重ねた管理人のたとえが語られています。 この管理人が行ったことは、主人から託された財産を無駄遣いしたことでした。 他の人から告げ口をされて、その主人から「会計の報告を出しなさい」と迫られた。 すると、彼は仕事をやめさせられる前に、いずれ自分を家に迎えてくれるような者たちをつくることを思いついた。 権限のあるうちに、次々にその主人に借金のある人たちの負債額を軽くしてあげて、自分の友達をつくったというのです。 イエスのたとえの驚きは、その不正による損害を直接受けている本人であるその主人が、彼の抜け目のないふるまいを褒めたところです。 だれが見ても、道義的に許されるものではありません。 自分の決算が間違いだらけで、まったく帳尻があっていない生活があぶり出されてしまうその時に、わずかな時間を自分が生きるために懸命に行動したのです。
イエスは、この不正に不正を積み重ねた管理人の姿を通して、「この世の子らは、光の子らよりも賢くふるまっている」と言います。 主人の前に立つ前に、残された時にできることを懸命にしているではないか。 あなたがた永遠の住まいが約束されたひかりの子らは、与えられたこの世を忠実に生きているのであろうかと問われたのです。 私たちの決算は、すべて膨大な赤字です。 今もなお、赤字を増やし続けています。 神の富であったものを、自分のためにとことん食いつぶして、それでもなお自分のために用いようとする。 まさに、この管理人の姿です。 神を傷つけ、損害を与え続けています。 イエスは、その赤字を埋めなさいと求めているでしょうか。 不正の中に埋もれている私たちを非難しているでしょうか。 自分のために用いてしまった私たちをお見捨てになったでしょうか。 イエスは、神の前に立てなくなってしまった私たちすべての者の赤字を携えて、これから十字架のもとに向ったのです。 イエスが語っておられることは、道徳ではありません。 理想の社会をつくろうと言っているのでもありません。 いくら正しい方法で得た富であっても、自分のために用いるなら「不正にまみれた富」に変わりありません。 泥まみれの中に、不正にまみれた中に、悲しみや苦しみの中にこそ神のご真実が顕れる。 泥まみれ、不完全な私たちを用いて、この神のご真実を顕してくださると言っておられるのです。 永遠の住まいを約束された私たち「ひかりの子ら」に、神の救いを語ってくださっているのです。 私たちを永遠の住まいに迎え入れてくださる「友達」とはだれでしょうか。 私たちの膨大な赤字を携えて十字架にかかってくださったイエス・キリスト以外にありません。 私たちの生涯は、この世の限られた時間の中で、委ねられた富を神の前に賢く用いることです。 永遠の住まいに迎え入れてくださる「友」であることを、この世に向って大胆に証しすることです。 本来、神のものであったものを取り戻す務めがあるのです。 この世の子ら以上に真剣に、自分の決算の日に備えなさいとイエスは言われたのです。