秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「主イエスの祈り」   マルコによる福音書 14章32~42節  

2013-11-03

 私たちの世界は、「分かっている」ということが土台となっています。 分からなければ、とことん原因を追及する。 目に見える解決がどうしても欲しいのです。 今覆われている「暗闇」が過ぎ去って欲しい。 私たちは、分からないままの「暗闇」からどうしても脱出したいのです。 しかし、私たちキリスト者は、この「暗闇」の中にあっても絶望しません。 諦めません。 この中に留まることも厭いません。 なぜなら、その「暗闇」を照らす光があるからです。 私たちを救う者こそ、この「暗闇」の中に立って輝いていると信じているからです。 暗闇の中に留まり続けることは苦しい現実です。 その「暗闇」を見続けることも苦痛です。 理由が分からないからです。 しかし、イエスは、終りの日まで決して終わらない。 惑わされてはならない。 目を覚まして祈っていなさいと言います。 私たちは、その言葉を信じます。 
イエスは、地上の生涯の最後のご自分の祈りの姿を、弟子たちに見せます。 一人の人間として、深い苦悩の表情と姿を隠しません。 ひどく恐れもだえる。 「死ぬばかりに悲しい」とまで言葉を吐きます。 地面にひれ伏して「できることなら、この苦しみの時を自分から過ぎ去るように」、「この杯をわたしから取りのけてください」とまで、父なる神に懇願します。 しかし、この苦悩のうちに祈る姿を見せるためにつれてきた弟子たちは、最後まで見続けることなく眠ってしまったのです。 
イエスの言う「この苦しみの時」、「この杯」とは、ご自身の前につきつけられている神の審判です。 神から離れ、神を神ともしないで歩み続ける人間に対する神の怒りです。 その神の前に立たされて泣かざるを得ない人間を代表して、イエスは「この時」が過ぎ去るように、「この杯」が取り去られるようにと祈ったのです。 イエスが味わった苦しみは、この私たちが味わうべき神の怒りの前の人間の苦しみです。 一片の曇りもないイエスが、まったく答えのないままに神に捨てられるという本当の苦しみと恐ろしさです。 しかし、イエスは、「御心に適うことが行われますように」と祈りを結びます。 父なる神の御心であるなら「もうこれでいい。 時が来た。 立て行こう。」と、最後の三度の祈りによって立ち上がったのです。 
 イエスは言われました。 「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」、「ここを離れず、目を覚ましていなさい」。 眠ってしまった弟子たちに「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と言われました。 恥ずかしげもなくもだえ苦しむイエスの姿に、目を閉じてはならないということです。 目を閉じていれば祈ることができないのです。 私たちの信仰は、解決を与えられることではありません。 「暗闇」の中でも、見えない、聞こえない、分からない中においても生き抜く力を与えるものであります。 そのために必要な祈りの姿を、イエスは最後のゲッセマネの祈りをもって私たちに示してくださったのです。



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