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「イエスに見出された弟子たち」 ヨハネによる福音書1章35~42節

2013-01-20

 バプテスマのヨハネは、「あなたはメシアですか」と尋ねられても「私は、荒れ野で主の道をまっすぐにせよと叫ぶ声である」としか言いません。 「私の後にくる方は、私にまさる」と、イエスだけを語ります。 水のバプテスマを受けるために歩いて来られるイエスを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と信仰を言い表したのです。 「霊が降ってとどまるイエスを見た」と証ししたのです。 信仰は、イエスを仰ぎ見ることです。 イエスの姿が見えていると、自分の言葉で言い表すことです。 イエスを見るためにイエスに従ってついて行くことです。 その姿がここにあります。 そのバプテスマのヨハネの二人の弟子も同じでした。 ヨハネの「神の小羊だ」と告白した言葉を聞いて、イエスに従って行ったのです。 すると、その二人の弟子が従って来るのを見て、イエスの方が振り返り「何を求めているのか」と声をかけられたのです。 二人の弟子は、「先生、どこに泊っておられるのですか」とイエスに尋ねます。 イエスは、その問いにただ「来なさい、そうすれば分かる」とだけ言います。 二人の弟子はイエスの言う通り、イエスについて行ってイエスのもとに泊ったとあります。 実は、この「泊る」という言葉は、「ぶどうの木」の譬えに用いられている、実が木の幹に「つながる」「結びつく」「とどまる」と同じ言葉なのです。 「イエスのもとに泊った」とは、イエスのもとにとどまった、イエスにつながった、イエスのおられるところにとどまり続けたということなのです。 二人の弟子は、イエスの言う通りについて行って「何を求めているのか」探し求める決意をイエスに言い表しました。 その弟子にイエスは、自分のもとにとどまることをお赦しになったのです。 そして、二人は、イエスのもとにとどまり続け、ついにイエスの者となったのです。 私たちがイエスに従って行くと、イエスの方から歩んで来られて声をかけて下さるのです。 「来なさい、そうすれば分かる」、あなたがたが何を求めているのか分かるようになると言われるのです。 この二人の弟子の一人のアンデレは、さっそく自分の兄弟であるシモンに「私は、メシアに出会って見た」と証言します。 そして、シモンをイエスのもとに連れて行きます。 ところが、イエスは、シモンを見つめてイエスの方から呼びかけられます。 「あなたはヨハネの子シモンである」とすでにシモンの名前を、イエスは知っていた。 それどころか「ケファと呼ぶことにする」と、新しい名前を与え用意していたのです。 シモンは、イエスに仕える者へと、新しい名前を与えられて変えられるのです。 来て見なさいという呼びかけに従う所に、イエスの宣教が始まります。 イエスの呼びかける「来なさい、そうすれば分かる」という言葉が、私たちにイエスの姿に出会わせるのです。 そして今度は、私たちの言う「イエスのもとに来て見なさい」という言葉が、イエスの宣教の業を推し進めるのです。 私たちは、イエスが夜を徹して祈った、選ばれて用いられている存在です。 イエスによって見出されたその喜びのうちに、この地上の生涯を歩んでいる者です。



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