「何をしているか知らないわたし」 ルカによる福音書23章32~38節
十字架のもとには様々な人間模様があります。 イエスが背負う十字架を急きょ背負わされ、イエスの歩く後ろから運ばされるはめとなったキレネ人シモンがいます。 そのお陰で、目の当たりにイエスの十字架の姿を見ることができ、語られた数少ないイエスの祈りを聞く恵みが与えられたのです。 大勢の「立って見つめていた」ユダヤ人たちの傍観者の姿もあります。 わずかな間に手のひらを返すごとく、大歓迎から「十字架につけよ」という叫びに変わった彼らこそ、何も知らされず、祭司長や律法学者たちに操られていた人たちです。 その民衆を扇動していた議員は、「他人を救ったのだ。 もし、神からのメシアであるなら、自分を救うがよい。」とあざ笑ったと言います。 この議員たちの背後には、ヘロデ王、ローマ総督ピラトの姿が隠されています。 直接の刑の執行者であるローマ兵士たちも、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」と侮辱したと言います。 一方で、イエスに従ってついてきた「嘆き悲しむ婦人たち」の姿もあります。 忘れてはならないのは、イエスと同時に十字架に架けられている二人の犯罪人がいることです。 こうした十字架のもとで繰り広げられている有様の中、イエスのお姿はイザヤ書53章に預言されているとおり、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 軽蔑され、見捨てられ、多くの痛みを負い、軽蔑され、無視され、苦役を課せられ、かがみ込み、口を開かなかった。」のです。 そのような中で、イエスは「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。」と祈られたと言います。 「知らない」とは、「見えていない、分かっていない」ということでしょう。 神の際限のない知恵とみ心の前に私たちが立つなら、変わらなければならないのは自分自身であることに気づかされるのです。 自分の正しさをもって自分の身だけを守っているファリサイ派の人たちに、イエスは「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。 しかし、『今、見える』とあなたたちは言っている。 だから、あなたたちの罪は残る。」と言われている。 イエスはここで「罪」と言わないで、「知らないでいる」と言っておられるのです。 十字架のもとを取り巻くすべての人、「わたしに与えてくださった人を一人も残さないで、終わりの日に復活させることである」という父なる神の御心を果たす為に、すべての人を「彼ら」と言い、その赦しを願って祈られたのです。 「知らないでいる」すべての人の有様が、イエスを直接「十字架」に架けたのです。 神にして人となられて遣わされてきたイエスが、犯したことのない「人の罪」を背負わされ、地上の生涯を終えようとしているその時に、十字架のうえで「彼らをお赦しください」と父なる神に執り成しておられるのです。 イエスは御自分を救えなかったのではなく、すべての人々を救うために、父なる神の裁きの前に進み出られたのです。 父なる神のご愛を、「赦し、救い」そのものをご自身の十字架の死の姿によって表されたのではないでしょうか。 十字架を取り巻く人たちは自分が「裁き人」の立場に立って、イエスを「人を救ったが、自分を救えなかった情けない人」と見ていた。 イエスは沈黙のうちに、「裁き人」に扮したすべての人々のために、「赦しと救い」を求めてとりなしの祈りをささげておられたのです。 人を救うことによって自分を救うことになるという、「人としての生き方」を示されたのです。 すべての人々の「永遠の救いの源」となるためでした。 イエスだけが、罪深さの本当の苦しみを知りながら、それに耐えてみ心に服従してくださったのです。 知らないで犯している「罪」は、このイエスの痛みと沈黙ととりなしの祈りを通してしか解決され得ないものであると、十字架の恵みが立てられているのです。