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「しかし今は、それでよい」 ルカによる福音書22章35~38節

2024-03-03

 イエスがガリラヤの町や村に宣教のため出向いて行かれる前に、72人の弟子たちを任命し、すべての町や村に弟子たちを二人ずつ先に遣わされた時です。 「行きなさい。 わたしはあなたがたを遣わす。 それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。 財布も袋も履物も持って行くな。」(12:3-4)と言われていたのです。 財布と袋と履物は、旅する者にとっては必需品です。 そうであるのに持って行くなとは、宣教のために遣わされていく者は神への信頼だけを置くように、心配することはないという恵みの派遣命令です。 必要なものはすべて備えられるという約束の宣言です。 そのことを覚えておられて、意気揚々と喜んで帰ってくる弟子たちの姿をご覧になって「何か不足したものがあるか」と尋ねられたのです。 弟子たちは、イエスに選ばれて力と権威を与えられて、この「世の終わり」は近いという緊迫感の中で自分たちは大事な使命を担わされているという高揚感に満たされていたのです。 「いいえ、何も不足するものはありませんでした」と弟子たちは胸を張ったのです。 そのような弟子たちが病気を癒し、悪霊を追い出し、神の国の恵みを語り、勇気づけられたガリラヤの人たちは泊まる部屋も食事も提供した。 弟子たちは何も持たないでも不自由することはなかったのです。 主イエスの御言葉に従った者だけが味わう、神の働きの実体験です。 主イエスから遣わされているという確信が、み言葉を聴くことを促すことにもなるし、どのような状態に晒されても心の平安を失うことはなかったのです。 その「派遣命令」を出されたイエスが、「しかし今は」と全く正反対の指示を出される。 その理由をイエスは、イザヤ書53章12節の「犯罪人の一人に数えられた」という預言は、この「わたしの身に必ず実現する」と説明するのです。 「今や」、イエスご自身に対する死罪判決が降ろうと迫っている。 殉教者としてではなく、この世の犯罪者として裁かれ処刑されることになっている。 イエスご自身に止まらず、イエスをメシアと仰ぐ人たちにも影響が及ぶ。 死罪判決が出れば、弟子たちの働きが一変する。 今まで喜んで家の戸口を開けて、弟子たちを迎え入れた住民は、家の戸口を閉ざしてしまう。 これまで喜んでもてなしてくれた住民が何もしてくれなくなる。 イエスは、「しかし今は、財布のある者は持って行きなさい。 袋も同じようにしなさい。 剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」とまで言われる。 ガリラヤの人たちからの支援が全く期待できなくなる「今」は、自分たちで備えるようにというイエスの指示でしょうか。 イエスは弟子たちの弱さを十分知っておられます。 イエスに遣わされていることを見失うなら、自分の手で自分を守る誘惑に陥るだろう。 「イエスの身に必ず実現することになる」と言われたその直後に、「わたしにかかわることはあなたがた弟子たちにも同じことが実現する」と繰り返しておられるのです。 財布も袋も剣も弟子たちの命や存在を保証するものではないことを分かったうえで、イエスは弟子たちの弱さに対し赦しと憐れみの言葉をかけられているのではないでしょうか。 全く理解できない弟子たちは、「剣なら、このとおり二振りあります」と答えてしまう。 イエスは「今はそれでよい」と、弟子たちとの対話を打ち切って十字架の処刑に向けオリーブ山での祈りに向かわれたのです。 いずれ分かる時がくる。 「しかし、今はそれでよい」 苦境に立たされれば立たされるほど自らの力と正しさで釈明しようとする弟子たちの弱さを、イエスはそのまま受け入れ憐れんで担われたのです。 誤解されたまま、誤解している弟子たちを赦して受け入れてくださったのです。 人の弱さを指摘するのではなく、担っていく強さ、人の誤解を神に委ねていく強さを、愛する弟子たちに示してくださったのです



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