「言をもって語りかける神」 ヨハネによる福音書1章9~18節
ヨハネによる福音書は、クリスマスの意味を端的に、「言(イエス・キリスト)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 わたしたちはその栄光を見た。 それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 言(イエス・キリスト)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と言います。 この信仰告白は、ユダヤ教会から追放される、ローマ帝国の庇護からも除外される厳しい迫害に見舞われていたヨハネの共同体の群れの間で歌われていた賛歌であると言われています。 キリストの福音が告げ知らされた新約聖書の時代に入って間もないキリスト者たちの信仰の告白を、このような表現でもって重なり合わせていたのでしょう。 ヘブライ人の手紙が語るように、「旧約聖書の時代の人々は信仰によって、神の選び、神の呼びかけ、神の招きに応えて、そのみ言葉に従って動き出した。 この地上での不安定な生活を迫られても、また本当にみ言葉どおりになるのかどうかも皆目分からない状態であっても、信仰によって耐えることができた。 考えもつかない様々な力を与えられて数え切れないほどの恵みが与えられ、神によって守られた存在であった。」と言うのです。 いったい彼らの目指した約束の地とは、地上のカナンという名の土地のことでしょうか。 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。 約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげた。」と言いますから、そうは思えないのです。 彼らの待ち望んでいた「約束の地」とは、神が設計し建設された堅固な土台をもつ都、彼らに備えられていた「神の都」のことでしょう。 この長い間の旧約聖書の時代に育まれてきた備えがあって、新約聖書の時代を迎えているのです。 「神はこの終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブライ1:3)と言っています。 このヨハネによる福音書は、イエス・キリストを「言」と表現し、「イエス・キリストは、初めから神と共にあった。 万物はイエス・キリストによって成った。 イエス・キリストの内にある命が、人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いているが、暗闇は光を理解しなかった。」と言います。 ここで、イエス・キリストは父なる神と同じ神のご性質をもつ者である。 同時に、私たちの歴史の事実として人間のご性質をも担ってくださったと宣言しているのです。 神が人となって私たちのところに遣わされたことが、クリスマスの本質です。 暗闇の中においても、光として神が共におられるという喜びが語られているのに、暗闇がその光を理解しなかったというヨハネの共同体の群れの悲痛な叫びです。 父なる神によって注がれた「光」を受け入れるのか拒むのかによって、二分されると言う。 このイエス・キリストという「光」を受け入れた者は神の子となる資格が与えられる、このことが神の創造の目的であり、イエス・キリストを遣わした目的であると語るのです。 最後に、ヨハネの共同体の群れは、「わたしたちは皆、イエス・キリストの満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 この恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 父のふところにいる独り子である神、イエス・キリストが父なる神を示されたのである。」と信仰告白しています。 最初のクリスマスから、12使徒から、ヨハネの共同体の群れから、キリストの福音は告げ知らされてきました。 神に選ばれ、招かれた者の人格を通して福音は宣教されていくのです。 私たちが見る、聞く、触れる、味わうことのできる存在、「言」が肉となって、「光」となってくださったことが神の恵みです。