「赦しを告げられて生きる」 サムエル記下12章1~14節
イスラエルの王として立てられたダビデ王が過ちを犯し、その過ちを指摘され悔い改める出来事が記されています。 アンモン人との戦いの最中、エルサレムの王宮の中で起きた出来事でした。 兵士ウリヤの妻バト・シェバを見染めると、夫ウリヤが戦場に赴いていることをいいことにしてバト・シェバを王宮に呼び入れ、こともあろうに子どもを宿してしまった。 問題はそこに止まらず、困惑したダビデがウリヤを戦場から呼び戻し、自宅に戻させ妻と一夜をともにさせようとした。 自分の犯してしまった過ちを隠ぺいするための小賢しい動きです。 王に対しても、軍律に対しても忠実なウリヤは自分一人だけ戦いの最中に家に戻るわけにはいかないと申し出を断る。 目論見が失敗したダビデは権力を濫用し、ウリヤを激戦の戦場に向かわせ、戦いの中で死なせるようにとダビデは命じたと言う。 思惑通りに事が運んだ後、夫が戦死しやもめとなったバト・シェバをダビデは何事もなかったかのように宮殿に迎え入れ、自分の妻とし宿した子を設けるのでした。 人として、一国の王として、過ちに過ちを重ねる姿、陰険な権力の行使者として悍ましい事実を聖書はわざわざ記すのです。 「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。」 「なぜ主のみ言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか」と主なる神から問われても仕方のない事実でした。 主なる神は見逃さず、「主はナタンをダビデのもとに遣わされた。」と言います。 「ナタン」は、主のみ言葉を伝えるダビデ王に仕える預言者です。 そのナタンを主はダビデのもとに遣わし、一つの物語を語らせるのです。 「豊かな男と貧しい男がいた。 豊かな男はたくさんの羊や牛を持っていた。 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかには何一つ持っていなかった。 ある日、豊かな男に一人の客が訪れた。 彼はその旅人をもてなすのに自分の羊や牛を惜しみ、貧しい男の小羊を取り上げて自分の客に振る舞った。」という内容でした。 ダビデは、この物語が自分に向けられていることに気づかず、「そんなことをした男は死罪だ。 小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。」と即座に語った直後、「そんなことをした男とは、あなただ。」とナタンはダビデに単刀直入に告げるのでした。 主なる神は、ダビデの家臣であるナタンを用いてわざわざ物語を語らせ、ダビデの心の奥底にあるものを呼び起こし、悔い改めに導いておられるのです。 私たちの悔い改めは、この神の憐れみに対する応答、神のもとに立ち帰る恵みを受け取るということです。 主が招いて呼びかけてくださらなければ、私たちの悔い改めは起こり得ないのです。 私たちはどうしても過ちを犯してしまう存在です。 その過ちの事実を過ちを犯した相手に対して告げる前に、先ず神に対する過ちとして赦していただかなければならないのです。 ナタンは、主なる神がダビデに注がれた恵みの数々を思い起こさせ、そのうえで当然の報いを宣告するのです。 「わたしは主に罪を犯しました」とだけ記されていますが、この時のダビデの苦闘の心境は詩編51編に延々と歌われています。 「バト・シェバが生むことになるあなたの子は死ぬことになる」と宣言されて、この罪の結果を背負いながら、その涙を越えるほどの罪の赦しの喜びをもって祈りのうちに変えられるのです。 罪赦された喜びが、自らの過ちを悔いて、嘆いて、現実から立ち上がらせる。 犯した過ちが帳消しになったのではない。 罪の結果は残っている。 その過ちが拭われてその結果に縛られることが取り除かれる。 罪の結果を背負って、神に赦されながら生かされる者とダビデは変えられたのです。 この死んだ子どもに替わって新しく授けられたソロモンの系図から、主なる神はイエス・キリストを起こすのです。 私たち人間が犯す過ちを背負うために、イエス・キリストはこの世に遣わされたのです。