「イエスの後に従う者」マルコによる福音書 8章31~9章1節
群衆が思い描いていたメシア、ペトロが思い期待していたメシアとしてのイエスの姿は、これから辿って行こうとしておられるイエスの姿とは、余りにも違いがありました。 イエスは、弟子たちに、エルサレムを目指して十字架に向かって行こうとする時に、初めて真の姿を極めて具体的にはっきりとお話しになったのです。 イエスは「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに排斥されて、殺され、三日の後に復活することになる」と予告されたのです。 ペトロは、そんなことが起こる筈がないとイエスを諌め始めたのです。 ここに、わたしたちの罪の恐ろしさを見ることができます。 自分が期待するようなイエスになってもらわないと困ると、自分を守るのです。 イエスの前に立ちはだかって、イエスを遮ろうとするのです。 イエスは、愛する弟子であるペトロに「サタン、引き下がれ。 あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱責します。 引き下がれとは、わたしの前に出ないで、わたしの後について来なさいということです。 イエスは、荒野におけるサタンの誘惑を皮切りに、生涯がこの「神のことを思わず、人間のことを思う」誘惑との戦いでした。 一時、離れていたサタンが、なんと愛する弟子であるペトロの口から現れ出て来たのです。 この弟子たちの姿をご覧になって、イエスは、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて、そこにいるすべての人々に向けて、「わたしの後に従いたいと思う者は」と語り始めたのです。 特別に信仰の篤い人であるとか、特別に何か使命を与えられている人だけではなく、例外なく、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言います。 イエスは、無駄に殉教の死を遂げなさいと言っているわけではありません。 十字架という横木を担いで、屈辱的な姿をさらしながら神のみこころだけに従っていく。 イエスに従うということは、このへりくだった姿、イエスと同じ姿をもって、イエスの後に従って歩むということです。 自分勝手な思いを捨て、自分が独りよがりに生きることに死ぬということです。 この世に属する自分に別れを告げて、神の霊によって新しい命に生きるということです。 まったく新しく生まれ変わるということです。 わたしたちのはかない短い命も、イエスのために、福音のために用いられるならば、神の恵みによって命の根源である神から永遠の命が与えられるのです。 聖書には、人には永遠を思う心を与えられていると書いています。 はかない一瞬のために、この尊い永遠を思う心を犠牲にしてはならないのです。