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「神の言葉を食べ、語りなさい」 エゼキエル書2章8節~3章3節

2023-06-04

 私たちと同じからだを背負ってこの世の生涯を送られた主イエスは、この世の霊の誘惑に遭われた際に、挑みかかってきたこの世の霊に「人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と書いてあると答えられました。 イスラエルの40年もの間荒れ野をさまよった出来事を記した申命記のみ言葉(8:3)を引用し、私たち人間は苦難の中の歩みであるからこそ、神の口から出るみ言葉に生かされて生きる存在であることを答えられたのでした。 旧約聖書の時代に選ばれて召された預言者エゼキエルに主なる神が語られたみ言葉に触れて、主なる神のみ心に迫りたいと願います。 詩編119編では、「神のみ言葉」を、命を得させるもの、希望を与えるもの、歩む道を照らす光、あるがままに主なる神のみ心を悟り知らせるものと賛美しています。 ヨハネ福音書では、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 わたしたちはその栄光を見た。 それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(1:14)と、イエス・キリストそのものが神のみ言葉であると信仰告白しています。 「神のみ言葉」はその解釈が大切なのではない。 み言葉の命に触れ、そのみ言葉に立って生かされ、そのみ言葉に立ち続けること、み言葉そのものであるイエス・キリストを仰いで共に生きることが大切なのです。 エゼキエルは紀元前597年にユダの王とともに、イスラエルからバビロンの地へ敗戦国の囚人としてすべてを剥奪され、強制的に移住させられた人物です。 このバビロン捕囚が起こされた5年後です。 突然、エゼキエルは祭司の立場から今度は預言者として立ち上げさせられる直接の呼びかけを受けた箇所が、今朝の聖書箇所です。 主なる神が、「自分の足で立て。 わたしはあなたに命じる。」と語り始めたとき、「霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。 そして、語りかける者にわたしは耳を傾けさせられた。」と言います。 主なる神のご用のために立ち上がる者を、ご自身が霊とみ言葉を授け整えられたということです。 「わたしがあなたに語ることを聞きなさい。 あなたは反逆の家のように背いてはならない。」と、イスラエルの民の今の状態をエゼキエルに神は伝えるのです。 そして、「あなたは、口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。 あなたの目の前にあるものを食べなさい。」と言われる。 「あなたの目の前にあるもの」とは、差し伸べられている手にある巻物、表にも裏にも文字が示されていた巻物です。 イスラエルの民の哀しみと呻きと嘆きの詰まったものです。 巻物を食べるだけでなく、「行ってイスラエルの家に語りなさい。」と言われるのです。 エゼキエルは食べ始めるどころか、噛み砕いて、飲み込み、それを胃袋に入れる。 ありのままの現実をそのまま受け入れ、腹に落とすまでに食べ尽せと言われる。 「恥知らずで、強情な人々のもとに遣わされて」、主なる神への信頼と希望を失わないようにとエゼキエルに語らせるのです。 「神のみ言葉」こそ、呼びかけられた者に新しい創造をもたらすもの、神の強い意志と願いとご愛が込められたものです。 それを腹の底に落ちるまでに食べ尽し味わい知ることを、主なる神はエゼキエルに求められたのです。 呼びかけられた者は、聞く者が聞き入れようが拒もうが語らなければならない。 立ち上げられた者は、神のみ言葉の預言者であることを証ししなければならないのです。 一人一人の預言者を通して、「神のみ言葉」はこの秋田の地まで語り継がれてきたのです。 たとえ神を認めることができないような悲惨な状況にあったとしても、この世の人たちと一緒になって「神はどこにおられるのか」と共鳴するのではなく、父なる神のご愛と力が、主イエスによってこの世に覆われている、神の恵みのもとにあると語り続けるのです。 



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