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「忘れているような小さな愛」 マタイによる福音書25章31~40節

2022-07-03

 衝撃的なイエスの言葉です。 「栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民がその前に集められると、右と左により分けられる。」と言うのです。 右側にいる人たちを「わたしの父に祝福された人たち」と呼び、「天地創造の時から用意されている神の国を受け継ぎなさい。 あなたたちは永遠の命にあずかる。」と言われる。 左側にいる人たちを「呪われた者ども」と呼び、「用意してある永遠の火に入れ。 あなたたちは永遠の罰を受ける。」と言うのです。 このイエスのみ言葉は、因果応報でも勧善懲悪でもありません。 右と左により分けられることだけを主眼としたみ言葉でもありません。 「終わりの日」があること、やがてひとりひとりの決算の時、精算の時がくる。 イエスが再び私たちのところに戻って来られて、最後の審判を行う座に着き私たちをより分けると語っています。 栄光の座に着いたイエスの裁きとは果たして、私たちを罪に定め、罰を与えることでしょうか。 イエスは何のために人間の体を背負って、父なる神に遣わされ、傷つけられ、痛めつけられ、殺されまでして地上の生涯を送られたのでしょうか。 何も見えていない私たちが、この「罪なきイエス」の姿を見つめて自分の罪深さを知らされ、ありのままの自分の姿を示され、神のもとへ戻されていく道を切り開く為でした。 父なる神の救いの招きを、その御心通りに果たす為でした。 天地創造の際には備わっていた神さまとの正しい関係を回復させる為でした。 イエス・キリストの最後の裁きこそ、罪と死に縛られ、がんじがらめになっている私たちを死んでいた世界から救い出し、神の国を取り戻させる希望の時です。 神の恵みだけが支配する世界に、再び立ち帰る希望の時なのです。 裁き主は、傷跡の残る復活された主イエス・キリストなのです。 世界は、この救いの完成に向けて突き進んでいるはずです。 すべてを知り尽くした「羊飼いが羊と山羊を分けるように」より分けるのです。 山羊にならないようにとか、左側に行かないようにとイエスは語っているのではありません。 両者をより分けるものさしはどこにあるのかということです。 イエスは、「飢えている人に食べさせ、のどが渇いている人に飲ませ、旅をしている人に宿を貸し、裸の人に着せ、病気の人に見舞い、牢にいる人に尋ねる」ということだと言われる。 どれもこれも、当時の社会ではありふれた日常生活の小さなことです。 日常生活の中にいる「わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことだ。」と、その理由を述べるのです。 「わたしの兄弟」とイエスがお呼びになっている最も小さな者とは、困っている人、虐げられている人、身近にいる人の目に留まらない小さな存在の人たちのことです。 イエスは、地上の生涯でこのような人たちと共におられたのです。 彼らを救い出すために、縛られているものから解放させるために父なる神に遣わされたのです。 日常生活の些細なことこそ、この「わたしにしてくれたことなのだ」と、「そのようなことをいつしたでしょうか」と尋ね返すぐらい忘れてしまっているような些細なことを、もうすでにその一つ一つを心に留め、数えてくださっているのです。 イエスは日常生活の中においても、神のご愛を注いで働いておられるのです。 私たちもまた、神のご愛を注がれて、その恵みに満たされて感謝して日常生活を送っていることに気づかされなければなりません。 決して、その相手からの報いを求めてもいないし、自分の為に行っていることでもないでしょう。 この与えられた恵みを分ち合うという小さな営みを、主イエスがひとつひとつを大事に見つめながら数えて天に記してくださっているのです。 もうすでにひとりひとりの決算を出して待っていてくださるのです。 



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