「人を通して語られ、聞かれる良い知らせ」 ローマの信徒への手紙10章9~15節
14節に、「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。 聞いたことのない方を、どうして信じられよう。 宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」とあります。 私自身は、神がその都度用いてお遣わしになった方々の人格やお姿を通して、イエスご自身と出会うことができた、イエスご自身が語られた福音のみ言葉が送り届けられたと思わされています。 ここで言われる「呼び求める。 信じる。 聞く。 宣べ伝える。 遣わされる。」というこの順番は、伝えられた側からすれば、「遣わされてくる。 宣べ伝えられる。 聞かされる。 信じるようになる。 主を呼び求めるまでになる。」という逆の順番になるのではないでしょうか。 若き頃のイエスはナザレの会堂で、「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれた。 主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みを告げ知らせるためである。 この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」とイザヤ書を聖書朗読されたのでした。 イエスとの今日の出会いが、福音を私たちにもたらすのです。 もうすでに福音は、私たちのすぐ近くにもたらされているとイエスは言われているのです。
神のみ言葉を「戒め」と受け取って、その「戒め」を忠実に守ることによって、自分の行いによって救われるとすることを「律法による義」とパウロは言います。 神のみ言葉を「福音、恵み」と受け取って、そのみ言葉を受け入れることによって救われるとすることを「信仰による義」とパウロは言います。 神のみ言葉は、それを行うようにと与えられたものでしょうか。 それを信じるようにと与えられたものであるとパウロは言います。 9節で、「口でイエスを主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる。」と言います。 神のみ言葉は、鍛錬に鍛錬を重ねてやっと到達することのできる、はるか遠くにあるものではなく、「あなたの口、あなたの心にある」、すぐ近くにある「私たちの信仰の言葉」だと言うのです。 イエスの中心的な弟子であったペトロでさえも、イエスの十字架の死が自分のためであった、すべての人々の救いのためであったと信じることができなかったのです。 ペトロの目が開かれたのは、復活されたイエスとの出会いの体験があったからです。 ペトロのうえに聖霊が注がれたからです。 今まで隠されていた神の救いのご計画が明らかにされたペトロは、民衆に堂々と「イエスは、私たちの主である。 父なる神が、イエスを死者の中から復活させられた。」とまで叫ぶようになったのです。 私たちの行いの結果でもなく、信仰の高まりでもなく、遣わされる者がいて、福音を伝えられて、聞かされて、福音を信じるようにされて、受け取るように準備までされて、今度は私たちの方から呼び求めるまでにつくり変えられたところに、福音が実現するのです。 「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と語られています。 「喜びを伝える使者の姿」です。 荒野を走り続け、山々を越えて急いで走って行く「足」です。 汚れた「足」であるかもしれない。 回り道を歩く「足」、無駄足を踏む「足」、引きずるようになかなか進まない「足」、立ち止まる「足」であるかもしれない。 その「足」が美しいと言っているのです。 そのような「足」であったとしても、父なる神の「憐れみ深い、恵みに富む、忍耐強い、慈しみの大きい」(詩編103:8)ご愛が注がれるなら、託されている「福音」の輝きのゆえに「美しい」のです。 力も知恵もない私たちでさえも、このご愛に支えられて「福音」を持ち運び、伝えることができるのです。