「思い起こす神」 出エジプト記2章23節~3章12節
新約聖書は、クリスマスの出来事を旧約聖書が預言していた出来事であったと言います。 マタイによる福音書によりますと、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。 その名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」と旧約聖書を引用しています。 この「インマヌエル」という言葉が最初に記されているのが、苦しんでいるイスラエルの民のところへ神がモーセを遣わす時に語られた、「わたしは必ずあなたと共にいる」(3章12節)というみ言葉であったのです。 「イスラエルの人々はその過酷な労働のゆえにうめき、叫んだ。 神はその嘆きを聞いた。 そして、アブラハム、イサク、ヤコブとの祝福の約束を思い起こされた。 神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。 この神の思い起こし、顧みにより、イスラエルの人々の導き手としてモーセが召し出された。」と聖書は言います。 このイスラエルの人々の400年もの苦しみの間、神は自ら語られた大事な約束を忘れてしまっていたのでしょうか。 神の意識の中に、イスラエルの苦しみの姿はもはやなかったのでしょうか。
神の約束があったから直ちにその約束が果たされたとは、聖書は語っていません。 あくまでも人間の側の応答を待って、それに初めて約束が果たされていくことが示されています。 人間の側に確かな根拠のない中にも、神に信頼して生きていく。 そのところに、神の祝福の約束が果たされていく。 これが厳粛な神の世界の真実ではないでしょうか。 神の約束であるから信じてみようと歩み出した人々の小さな歩みの中に、神の約束がその人の世界に入り込んできて実現されていく。 その事実が旧約聖書に語られているのです。 「わたしは必ずあなたと共にいる。 このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」と励ます神に、モーセはこう尋ねています。 「エジプトの王によって虐げられてきたイスラエルの人々にとって、先祖の神との親しい関係などもはや消え失せ、疎遠になっています。 そこに、エジプトを追放され、荒れ野でミディアン人として暮らしているこのわたしの言葉に、イスラエルの人々は聞く耳をもつでしょうか。」と反論するのです。 しかし、そのようなところにこそ、突如として「神の約束を思い起こす」出来事が起こされるのです。 人間の側から見れば、この出来事は神が思い起こしたと見える。 神の側から見れば、人間が「変わらない神の約束」に再び気づき直す。 このことを、「神が思い起こされた」と聖書は表現しているのではないでしょうか。 神のみ心は、人間の状態によって移ろうものではないでしょう。 変わらないご真実の中に、私たちをずっと忍耐をもってご覧になっておられるのでしょう。 むしろ、選び出した者を慈しみ、熱い関心をもって途絶えることのないご愛によってうめき声、叫び声を聞いておられるのでしょう。 人間の側に起こされた出来事をきっかけとして、ついに神の側の自由なみ心が働いて、人間の歴史の中に神の出来事が突然引き起こされるとしか言いようがありません。 私たちのうめき声、叫び声は必ず神に届けられるのです。 「神は、自分が選び出した民の苦しみをご覧になった。 その叫び声を聞いて、その痛みを知った。」と言います。 私たちがこの神の約束を思い起こすには、準備が必要なのでしょう。 頼るべきものが皆目失われてしまったような時にこそ、変わることのない神の約束に私たちは気づき始めるのです。 この時を、神はご自分の時として待っておられるのです。 アドベントにクリスマスの主イエスの姿を憶えます。 つぶやきと背きと疑いを繰り返す私たちをずっとご覧になってくださった神が、ついに最後に憐れんでご自身の独り子を遣わす「思い起こし」によって、「神と共にいるなら、そこが神の国である」と約束してくださっているのです。