「復活の希望」 コリントの信徒への手紙一15章42~49節
パウロはこの手紙で、「死者の復活」を種まきと収穫という身近な生活体験から語ります。 「麦の種が蒔かれて、土の中で朽ちて死ななければ、その種の中に隠されている命は本来の姿を現すことができないではありませんか。 あなたたちが蒔いているものは、ただの『種粒』です。 その『種粒』が土の中で死んで、その中に込められている命にふさわしい体が与えられると、麦の本体である命が現れ出て実をつけるようになる。 ただの『種粒』に神さまがみ心のままに、そのひとつひとつの『種粒』にふさわしい体をお与えになる。」と言うのです。 この『種粒』の体が死んで、また別の体を神が創造される。 創造主である神が再び強い意志をもって、天地創造の初めの創造とは異なる別の体をお与えになる。 「死者の復活」を、神が終わりの日に再び新しい体を与える創造の業であるとパウロは言うのです。 地上を走る、空を飛ぶ、水の中を泳ぐ様々な動物にも、それぞれふさわしい体が与えられている。 地上の輝きにも、太陽の輝きがある、月の輝きがある、星の輝きがある。 しかし、それらの「地上に属する体」と「天に属する体」とは異なる。 「地上の体の輝き」と「天に属する体の輝き」とは異なる。 「死者の復活」もこれと同じであるとパウロは言います。
「自然の命の体が蒔かれて死んで、霊の命の体が復活する。」 「蒔かれた種粒が地中に落ちて朽ち果てた後に、全く別の体をもって再び起こされる。 『自然の命の体』も『霊の命の体』も、神が創造された人間の姿であることには変わりありません。 しかしそこには、『朽ちるもの』と『朽ちないもの』との違いがある。 『卑しいもの』と『輝かしいもの』との違いもある。 『弱いもの』と『力強いもの』との違いもある。 『自然の命の体』が蒔かれて、『霊の命の体』が復活するのです。」とパウロは断言しています。 残念ながら、この『霊』は生まれながらの私たちの体には備わっていないものです。 神から与えられる特別な賜物、神に属するものです。 私たちの理解や創造をはるかに超えるものです。 パウロは「最初の人アダム」と「最後のアダム」という言葉を用いて、この「霊」が初めて「最後のアダム」を通して人間に与えられたと言うのです。 「最初の人アダム」とは、罪と死に縛られて神のもとを離れてしまった「死」に向かって生きる人間です。 「最後のアダム」とは、神のもとから遣わされて土の塵からできた体を負わされ、その体を脱ぎ捨てて死んだ後、新しい霊なる体を着せられて、天に上げられたイエス・キリストのことです。 人間で最初に、「自然の命の体」に死んで、「霊の命の体」によみがえらされて、人間の初穂として神に収穫されるという体験をしてくださったイエスが、救い主メシアとされたのだとパウロは信仰告白するのです。 この最初に収穫された初穂としてのイエス・キリストの霊なる体に結ばれるなら、私たちもまた「イエスが復活されたように」復活するのです。 死に定められているこの私たちが、霊なる体に復活されたイエスと同じように、「霊の命の体」が与えられるという希望が約束されたのです。 しかし、そこには順番がある。 「最初に霊の命の体があったのではない。 自然の命の体があり、次いで霊の命の体があるのです。」とパウロは言います。 悩み多い、苦しみや悲しみの多い「自然の命の体」から、この主イエス・キリストの復活の希望に支えられて、「自然の命の体」に死んで、新しい「霊の命の体」につくり変えられるのです。 イエスが、「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者は、死んでも生きる。 このことを信じるか。」と呼びかけてくださっています。 この復活の主との結びつきは誰をもっても、何をもっても断ち切られることはないのです。