秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「猶予の恵み」 ルカによる福音書13章1~9節

2020-02-23

 当時のイスラエルの社会的事件がイエスに報告されています。 「ロ-マ総督であったピラトが、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」と記されています。 ガリラヤ人たちが神殿で礼拝しささげものをささげている時に、ローマ総督によって殺害された。 神殿の中で、礼拝をささげている信徒たちを殺されるままに神が赦しておられる理由があるのかと、イエスに詰め寄ったのでしょうか。 イエスは、神の戒めを守らない人は不幸と災いに陥ってしまうという考え方に縛られている人々とはまったく別の次元から諭します。 「そのガリラヤの人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。」と語られたのです。
続けてイエスは、「シロアムの塔で倒れて死んだ18人の災害の出来事をも人々に語るのです。 水道工事をするための塔が崩れて、18人の人が死んだ出来事は、「犠牲となった人々は、何かが災いとなってその罰によってこの災難に遭ってしまったのだ」と思っている人々にイエスは、「決してそうではない。」ときっぱり語られて、その後に、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と二度繰り返して発言されたのです。 これは、いったいどういう意味なのでしょうか。 果たして人災なのか、自然災害なのか判然としない災害が、今もなお起こっています。 しかし、何が原因でその災難を起こされたのかを正しくその意味を答えることは、だれにもできないでしょう。 ましてや、その災難に出遭う人と、災難を免れる人が分かれる理由を明確に答えることができる人などいないでしょう。 イエスは、「災難に出遭った人も、災難を免れた人も、神の前には同じである。 災難を免れたから幸いであった。 災難に出遭ったから災いであったというものではない。 災難に出遭ったかどうかは問題ではない。   災難は、災難を免れた人にも同じように向けられたものである。 本来は私たちすべてが引き受けなければならない災難を、代表して災難に出遭った人が引き受けてくださったのかもしれない。 神の前に立つひとりの人として、神の無条件の赦しがなければ生きてゆくことのできない存在であることを、災難に出遭おうが、出遭うまいが見つめ直さなければならない。 もし見つめ直して、神の憐れみによる、無条件の赦しに委ねることができるなら、「滅びることはない。」と、見つめ直す機会をすべての者に語っておられるのではないでしょうか。 
 イエスはそう答えて、「実のならないいちじくの木」の譬えを語られたのです。 「ぶどう園」の主人は神さまです。 神さまがおつくりになった世界こそ、「ぶどう園」です。 そのそばに植えられた「いちじくの木」こそ、「ぶどう園」での特別な務めを与えられたイスラエルの人々の姿です。 その世話をする「園丁」は神さまのもとから遣わされた主イエスです。 「三年もの間、実がなっていないいちじくの木を切り倒せ」と命じる「ぶどう園」の主人に、「園丁」は、「今年もこのままにしておいてください」と猶予を願い、「木の周りを掘ります。 肥しもやってみます。」と主人に執り成すのです。 イエスは私たちのために、猶予をくださいと申し出てくださるとともに、神の前に立つにふさわしく整えてくださると言うのです。 この時間の猶予はそう長くはないのです。 「園丁」であるイエスに出会っているその恵みの時に、向きを変える。 新しく歩み出す。 もし、向き直して神の恵みに委ねて生きるのであれば、今まで味わった痛みも、流された涙も、決して無駄になることはない。 この与えられた時間の猶予、この機会を生かしなさいと、イエスは「いちじくの木の譬え」を用いて語っておられるのではないでしょうか。



バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元