「すべての人を憐れむために」 ローマの信徒への手紙 11章25~36節
キリスト教は、ユダヤ教の中から主イエスの復活において生まれ出てきたもともと少数のものでした。 苦しみを受け、排斥され、殺されてしまうナザレ人を救い主と信じる、人の理屈では信じることのできないものでした。 そのような信じることができないものを信じた少数の者のうちの一人にパウロという人物がいます。 厳格なユダヤ教徒の家庭に生まれ、ユダヤ教の信仰の訓練を受けていきます。 成長し、時の著名な律法学者のもとで律法を徹底的に学びます。 次第に、ユダヤ教の主要人物として頭角を表していきます。 パウロは、大切に学んできた律法をないがしろにし、信仰だけによって救われるというキリスト教徒をどうしても赦すことができません。 徹底的にキリスト教徒を捕らえ、その処刑にまで立ち会い、キリスト教徒からは恐れられていた人物です。 神はこのようなユダヤ人をわざわざ選んで、導き出して、キリスト教徒を迫害する者からそのキリスト教を世界に宣教する者として大転換させたのです。 そのパウロが、「木の根と接ぎ木」の譬えを用いて訴えています。 「ある枝が折り取られ、野生の枝がその代わりに接ぎ木された。 野生の枝は、木の根から豊かな養分を受けるようになった。 野生の枝であるあなたがたは、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたがたが根を支えているのではなく、根があなたがたを支えているのです。 枝が折り取られたのは、あなたがたが接ぎ木されるためだった。」 パウロの言うこの「木の根」とは、イスラエルに対する神の約束です。 行き先を知らずして、ただみ言葉だけに従って旅立ったあのアブラハムの信仰に与えられた神の約束です。 「折り取られた枝」とは、その祝福に与かるはずであったイスラエルの民です。 モーセを通して与えられた律法という垣根の中で養われ、手入れされ、神に与えられる豊かな実を結ぶことになっていた「元からの枝」であるイスラエルの民に代わって、神を知らず自分勝手に歩んできた「垣根の外に放置されていた野生の枝」である異邦の民が、ただ悔い改めて神のもとに立ち帰るという信仰だけによって豊かな祝福を受けることになったとパウロは言っているのです。 ですから、パウロは「思い上がってはなりません。 もし、神の慈しみにとどまらないなら、あなたも容赦なく切り取られるでしょう。 イスラエルの民もまた、不信仰にとどまらないで、再び神のもとに立ち帰るなら接ぎ木されるでしょう。 神は、たとえ切り取られた枝であっても、立ち帰り、恵みだけに依り頼む者には何度でも再び接ぎ木することがおできになるお方です。 すべては神の恵みのもとにある。」と言うのです。 パウロ自身がそうであったように、イスラエルの民の頑なこそ、異邦の民が救われるためであった。 パウロの頑なさもまた、「神の秘められた計画」を語るまでに変えられ、用いられた。 イスラエルの頑なさがなければ、イスラエルが折り取られなければ、異邦の地へこの福音は拡がっていなかった。 「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それはすべての人を憐れむためだった」と、この神の秘められた計画をぜひ知っておいてもらいたいとパウロは訴えているのです。 私たちもまた、救われようのないところから奇跡的に導き出され、「木の幹に接ぎ木された枝」、「木の根から豊かに養分を、ただ神の恵みによって受けるだけの枝」です。 今は信仰に立つことができないでいる人も、信仰に立っている人も、神の慈しみに留まるかぎり、「すべての人を憐れむ」神のもとにあるのです。 ただ神の恵みによって救われることを、すべての人が知るためです。 そのためにふさわしい道のり、神の定めたご計画とみ心があるのです。 パウロはこの神を、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。 だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」 「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向っている。」と賛美しています。