「力をふるって声をあげよ」 イザヤ書40章1~11節
主によって、選びの民として約束の地を与えられたイスラエルの民は豊かになり、生活は安定し次第に傲慢になっていきます。 「あなたは自分の力と手の働きで、私はこの冨を築いたなどと考えてはならない。 むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。 冨を築く力をあなたに与えられたのは主である。 主が先祖に誓われた契約を果たしたのである。 今日のようにしてくださったのは主である。」と警告されていたのにです。 いつしか自分たちの力に過信し、神の存在を忘れ、神に従わないようになっていったのでした。 その結果訪れた出来事が、歴史上有名なバビロン補囚でした。 イスラエルはバビロニア帝国に滅ぼされました。 その首都エルサレムが火に焼かれ、エルサレム神殿も破壊され廃墟と化しました。 しかし神は、ご自身の民を捨てることはありません。 エレミヤやエゼキエルという預言者を立て、新しい契約を結ぶ時が来ると、赦しと解放を憐れみをもって語りかけてくださったのです。 約半世紀ほどの月日が流れたころに、このイザヤ書40章の預言は語られたと言われています。
私たちは順調な時、自分の力や自分の働きに過信します。 何でもできると錯覚します。 神を忘れていても何ら支障がなかったからです。 神を信じても、信じなくても変わりがないと私たちが勘違いしたからです。 神はこのような危機の時に、神がおられること、神が生きて働いておられることを私たちに気づかせてくださるのです。 自分自身も捕囚の身にあったイザヤを通して、「苦役の時は今や満ち、エルサレムの咎は償われた。 罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた。」という神の声がイスラエルの民に響いたのです。 もうバビロニアに服従する時は終り、そのもとから解放される時が来た。 もう十分すぎるほどの苦役を経験した。 主はご自身の力を現わすために、必ずみ言葉を成し遂げられる。 エルサレムに帰還する道が備えられるという希望のみ言葉が、イザヤを通して宣言されたのでした。 肉なるものは皆、草に等しい。 永らえても、すべては野の花のようにはかないものだ。 今、あなたがたの目に見えるところは、草は枯れ、花はしぼんでいるように見える。 しかし、その枯れた草、しぼむ花に主の風が吹きつける。 永遠に枯れない、しぼまない主のみ言葉が語りかけられる。 今までの苦難は、このお方がおられることをあなたがたが知るためだった。 このお方の力があなたがたのうえに現れるためだった。 このお方に守られ、導かれ、生かされていることをあなたがたが思い起こすためだった。 主なる神は、ここまで神に背き、神を忘れてしまっていたあなたがたを捨てることなく、憐れんでくださっている。 囚われと苦難の時代は終わる。 今まで通り、「わたしはあなたがたの神である。 あなたがたはわたしの民である。」という声を、苦難の嘆きと諦めのただ中で人々は聴き取ったのです。 主イエスによって「時が満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい。」と言われたようにです。 バビロンにイスラエルの人々を捕らえたバビロニアも、またそのバビロニアを倒して、イスラエルの人々を解放したペルシャもすべて、失われた者を再び呼び集める主なる神の業に用いられたのです。 「あなたがたはもはや赦された。 解放された。」という喜びの知らせが、イスラエルの人々の絶望の日常のなかにこだましたのです。 私たちはもうすでに祝福されているのです。 ただ受け取るだけなのです。 この知らせを、「よき知らせ、神の福音」と受け取る者が、神の国に入ることができたのです。 主が、「私を見よ。 力をもって現れる私を見よ。 羊飼いのように、み腕に小羊を抱きかかえるように、その乳を飲ませる母羊を導くように、そしてその群れを養うこの私を見よ。」と、困難な中にも希望をもって歩み出すようにと私たちを招いてくださっています。